「おい、時也」
ぶっきらぼうな声が
再び部屋の空気を震わせた。
「嬢ちゃんが
目を丸くして
今にもパンクしちまいそうだぜ?」
窓辺に立つウェイターの男が
顎をしゃくりながら
レイチェルの方を指した。
彼の言葉で
時也はハッとしたように
レイチェルへ視線を向けた。
「──あっ」
レイチェルは
まるで息をする事すら
忘れていたかのように
ただ呆然と座ったままだった。
混乱の中で
脳がまるで処理を放棄したように
固まっている。
「⋯⋯青龍」
時也は
ゆっくりと穏やかに口を開いた。
「アリアさんを
お連れして差し上げなさい。
くれぐれも!
野良犬の汚い手には
触れさせないように。
アリアさんに雑菌なんて付いたら
堪りませんからね」
「は!」
ウェイターの男が
鼻で笑った。
「掃除もできねぇ
ダメ野郎よりかは
俺の方が綺麗好きだと思うがね!」
言い終えると
彼は窓際にゆっくりと立ち
両手を後頭部で組むと
そのまま後ろへ倒れ込んだ。
「──きゃ⋯⋯っ」
レイチェルの声にならない悲鳴が
喉で引っ掛かる。
ふわり
重力を無視したかのように
男の身体は
夜の闇に溶けるように消えていった。
「⋯⋯え⋯っ!」
ー今のは、何だったのか?ー
窓の向こうは暗闇が広がるだけ。
そこには
床も──足場となるようなものも
何一つ存在しない。
(⋯⋯飛び降りた?いや、飛んだ⋯⋯?)
頭がついていかない。
現実と理解が
乖離していくのを感じる。
「⋯⋯相変わらず
品の無い方ですね」
時也が
溜め息混じりに苦々しく呟いた。
そんな二人の応酬を
ベッドの傍で黙って見上げていた
先程、時也に〝青龍〟と呼ばれた男の子は
ただ静かに
小さく肩を竦めるだけだった。
「⋯⋯仕方ありませんな」
青龍は大人顔負けの
大きな溜め息を吐くと
静かに立ち上がり
アリアの傍へと歩み寄った。
彼女は
まるで精巧な人形のように
微動だにせず
ずっと椅子に座っていた。
「アリア様」
青龍は
声の調子をさらに柔らかくしながら
彼女の指先にそっと触れた。
「さぁ、参りましょう」
アリアはゆっくりと顔を上げる。
深紅の瞳が
静かに青龍を見下ろした。
表情は無い。
怒りも
哀しみも
穏やかさすら感じられない。
ただ、そこに存在する──
それだけの空虚な瞳だった。
それでも青龍は動じる事無く
その手をしっかりと握り
彼女を立ち上がらせる。
長い金髪が静かに揺れ
光に反射して揺らめいた。
「レイチェル様」
青龍が振り返った。
山吹色の瞳が
何処か優しげに細められる。
「〝子供達〟が粗相をするようでしたら
どうか遠慮なく
私めをお呼びくださいませ」
幼い顔に似つかわしくない
落ち着いた物言いだった。
「⋯⋯あ⋯⋯」
返事をするつもりが
声が引っ掛かる。
「⋯⋯は、はい⋯⋯」
気が付けば
ただコクコクと頷いていた。
(⋯⋯こんな幼い子に
〝子供〟って言われるなんて⋯⋯)
頭の何処かで疑問が湧くが
何も言えなかった。
青龍に手を引かれ
静かに部屋を後にしようとするアリア。
無言のまま歩き出した
その瞬間──
彼女の深紅の瞳が
ふとレイチェルの
エメラルドグリーンの瞳を捉えた。
一瞬
身体が凍りついたような
感覚に襲われる。
まるで
炎を硝子玉に封じ込めたような瞳。
揺らぎもせず
燃え上がる事もない。
ただ静かに
深く
その双眸が真っ直ぐ
レイチェルを見下ろしていた。
無表情のまま
何も語る事無く
ただ数秒間──
二人は見つめ合った。
冷たい筈の視線が
何故か痛い程に熱かった。
レイチェルは口を開きかけて
言葉を飲み込んだ。
結局──
何も、言えなかった。
アリアは
次に時也へと視線を移す。
言葉は交わさない。
けれど
何かが確かに
伝わっているのだろう。
時也は
アリアに微笑みを返すと
静かに頷いた。
そのままアリアは
青龍に手を引かれ
静かに部屋を出ていった。
扉が閉まる音が
妙に重々しく感じられた。
「アリアさんは⋯⋯」
時也の声が
レイチェルの耳を引いた。
「貴女の事が、とても心配なのですよ」
「⋯⋯え?」
思わず顔を上げる。
あの無表情の瞳が
自分を〝心配〟していたというのか。
「でも──っ」
レイチェルの胸に残るのは
あの痛みのような
燃えるような視線。
レイチェルの瞳が
アリアが出て行ったドアを見つめる。
「⋯⋯アリアさんが⋯その⋯⋯
私に刺されたのに、無事なのは⋯⋯」
言葉が詰まり
途切れがちに声を繋いだ。
確かに〝殺した〟感覚はあるのに
彼女は──生きている。
そう〝何事も無かった〟かのように。
「さっき言ってた
不死鳥のせい⋯⋯なんですか?」
問いかけると
時也の表情が僅かに曇った。
笑みが困ったような
何処か痛みを滲ませたものに
変わっていく。
この質問が彼にとって
『一番辛いもの』なのだと
瞬時に理解した。
「⋯⋯はい」
時也の声は
先程よりも
さらに静かだった。
「アリアさんはその身体に⋯⋯
不死鳥を宿しています」
ー不死鳥ー
その言葉が落ちた瞬間
レイチェルは背筋に冷たいものが
駆け上がるのを感じた。
その言葉が
突き刺さるように脳裏に響く。
理解するより早く
全身が震えた。
それは──恐怖だった。
理由は分からない。
けれど
この恐怖は──
(⋯⋯前世の、魂⋯⋯?)
自分の中に眠る
知らぬはずの記憶が
冷たく息を吹きかけた。
「彼女は不死鳥が宿る限り⋯⋯
何があっても死ねません」
「⋯⋯何が、あっても?」
「ええ」
時也は目を伏せ
言葉を選ぶように
ゆっくりと続けた。
「しかし
不死鳥の産まれ直しの儀式が済み
その後女児が産まれると
不死鳥と不老不死の能力は相伝され
やっと⋯⋯
不老不死の呪縛から
解放されるのだそうです」
「⋯⋯⋯」
「⋯⋯アリアさんは
既に1000年もの永い時を
耐えていらっしゃいます」
「1000年──っ?」
レイチェルは思わず息を呑んだ。
1000年もの間
彼女は絶望の中で生き続けた。
「僕は⋯⋯」
時也の声が僅かに震えた。
「⋯⋯彼女を解放し
人間としての最期を
夫として
共に迎えたいのです」
「⋯⋯⋯⋯⋯」
その言葉の重みが
胸の奥に深く沈み込んだ。
死ねずに
ただ生き続けた──1000年。
失った同胞の声が
耳と心に焼き付いたまま
孤独と罪の意識に
堪え続けていたのだ。
(⋯⋯彼女は⋯どれほどの絶望を⋯⋯)
レイチェルは
アリアがひとり
耐え続ける光景を想像し
言葉にできぬ程の苦しみを覚えた。
気が付けば
レイチェルの肩は震えていた。
茶の湯気が
静かに立ち昇り──消えていく。
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交錯する過去と現在。 明かされる真実に、少女の心は静かに揺れる。 彼らの宿命を知った時、問いかけるのは己自身。 ──この出会いは、救いか、それとも新たな絶望か。