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障子は、半分ほど開いたままだった。
弦はもう、姿を隠そうともしなかった。
畳に手をつき、俯いたまま、呼吸が乱れている。
「……ッ、……」
声にならない音が、喉で引っかかる。
伊作が、そっと一歩近づいた。
あと数本で、止まる。
「弦」
名前を呼ばれただけで、弦の肩が大きく揺れた。
「……、……英二…郎……」
それは、初めて皆の前で出た名前だった。
一瞬、空気が止まる。
次の瞬間。
弦は堪えきれず、前に崩れ落ちた。
「……英二郎……!
……ごめん……っ、俺……俺が……!」
言葉は続かない。
ただ、名前だけを何度も呼ぶ。
留三郎が膝をつき、弦の背中に手を置いた。
強くも、優しくもない、逃げ場を塞ぐだけの手。
小平太が反対側に座り、弦の肩を支える。
「……っ、う……っ」
弦は、そのまま二人の胸元に顔を埋めた。
押し殺すことも、格好つけることもできず、
子どもみたいに、声を上げて泣いた。
「英二郎……っ、英二郎…ぉ……!」
名前を呼ぶたび、胸が詰まる。
それでも、呼ばずにはいられない。
文次郎は何も言わず、弦の背後に座る。
長次は、弦の手が震えないように、そっと押さえた。
仙蔵は、少し離れたところで、ただ見ている。
伊作は、弦の前にしゃがみ、逃げないように視線を合わせた。
弦の涙が止まらない。
嗚咽が続く。
息が乱れる。
何度も、同じ名前を呼ぶ。
「……っ、英二郎……
…おれ、を……置いて……っ、いかないで……」
誰も、「もういない」とは言わない。
誰も、「仕方なかった」とも言わない。
ただ、弦が泣き終わるまで、そこにいる。
胸に顔を埋め、
仲間に支えられ、
親友の名を呼び続ける夜。
月は、相変わらず空にある。
それを、誰も見上げなかった。
弦の泣き声だけが、
静かな長屋に、途切れ途切れに残っていた。
……弦が泣きじゃくる声を、
伊作たちは、ただ聞いていることしかできなかった。
怖かった。
弦が取り乱しているからじゃない。
その逆だ。
ここまで追い詰められるほどのものを、
弦は一人で抱えていたのだと、今になって突きつけられたから。
伊作は、弦の前にしゃがんだまま、拳を強く握りしめる。
——もし、これが自分だったら。
もし、任務から帰ってきて。
隣にいるはずの留三郎が、戻ってこなかったら。
理由も分からないまま、
血の匂いだけを残して、姿を失っていたら。
……立っていられるだろうか。
弦のように、
誰にも弱さを見せず、
任務を続けられるだろうか。
無理だ、と即座に思った。
留三郎も同じだった。
弦の背中に置いた手が、わずかに震える。
誰もが、頭の中で同じ想像をしていた。
もし、隣にいるはずの存在が、
突然、いなくなったら。
毎日当たり前のようにあった声が、
気配が、重さが、
一瞬で消えたら。
きっと、自分たちも同じになる。
弦のように、
笑えなくなる。
眠れなくなる。
いや——
弦より、もっと早く壊れるかもしれない。
「……」
文次郎は、弦の背後で唇を噛みしめる。
仙蔵は視線を伏せたまま、動かない。
長次は、弦の手を押さえながら、思った。
——弦は、まだ立っている。
泣いている。
崩れている。
それでも、ここにいる。
小平太は、弦の肩を支えながら、胸の奥が冷えていくのを感じていた。
「……」
誰も、言葉にしない。
弦の苦しみは、
想像できてしまうからこそ、
計り知れなかった。
同じ状況に立たされたら、
自分たちは、ここまで耐えられない。
だからこそ——
弦が、怖かった。
そして同時に、
何もしてやれなかった自分たちが、
ひどく、怖かった。
弦は、まだ泣いている。
英二郎の名を、何度も呼びながら。
六年生たちは、その中心で、
誰一人、動けずにいた。
慰める資格があるのか。
分かったふりをしていいのか。
分からないまま、
ただそこにいる。
それしか、できなかった。
……弦の泣き声は、しばらく途切れなかった。
呼吸が乱れ、言葉にならない音が混じり、
それでも、名前だけははっきりと落ちてくる。
「……英二………英、ッ…郎……」
胸に顔を押しつけたまま、
弦は何度も、何度も呼ぶ。
留三郎の胸元が、少しずつ湿っていく。
それでも、離さなかった。
——離したら、
弦がどこまで崩れるか、分からなかったから。
伊作は、弦の前で膝をついたまま、
視線を逸らせずにいた。
目の前にいるのは、
いつも最前線に立っていた弦だ。
誰よりも近くで敵と向き合い、
誰よりも先に仲間を守る弦。
その弦が、
こんなふうに壊れるほどのものを失った。
「……っ、俺……」
弦の声が、ひび割れる。
「俺、あいつが……
……隣にいないの、まだ……」
言葉が続かない。
代わりに、嗚咽が溢れる。
「分かんねぇ……
……なんで……」
理由を求めているわけじゃない。
答えがないことも、分かっている。
それでも、口にせずにはいられなかった。
文次郎は、弦の背後で目を閉じる。
胸の奥が、重く沈む。
——もし、仙蔵が戻ってこなかったら。
そう考えただけで、
喉が詰まり、息が浅くなる。
仙蔵も同じだった。
文次郎の背中を、ほんの一瞬だけ見て、
すぐに視線を落とす。
長次の手の中で、
弦の指が、強く握り返してくる。
縋るような力。
「……っ、いなく……なった……」
弦は、もう誰に向けて話しているのか分からない。
ただ、吐き出している。
小平太は、歯を食いしばった。
——もし、長次だったら。
笑えない。
動けない。
今の弦より、もっとひどいかもしれない。
「……」
誰も、答えを出さない。
出せるはずがない。
弦の苦しみは、
同じ状況を想像できてしまうからこそ、
簡単に言葉にできなかった。
慰めれば、軽くなるわけじゃない。
抱きしめても、消えるわけじゃない。
それでも。
弦が、独りで崩れるよりはいい。
弦は、泣き疲れても、
なお、英二郎の名を呼び続けた。
声が枯れても。
息が乱れても。
夜は、まだ終わらない。
月は、相変わらずそこにある。
月は、無慈悲に彼らを照らす。