南に面した掃き出し窓を覆っているブラインドの隙間から室内に入る空気は、朝が来ているのにまだまだ暗い冬の冷えた空気を纏った気配だった。
ナイトテーブルに置いた目覚まし時計に起床の時間を知らされなければいつまででも寝続けられそうな暗い外の様子に瞬きを何度か繰り返すと視界と共に脳内もクリアになっていく。
夏に比べれば太陽が顔を出す時間が遥かに遅い冬だが、今日も一日が始まるのだ。
一人で寝るには広すぎるダブルベッドで上体を起こし、大きく伸びをして意識もクリアになるように軽くストレッチを行えば、体内にいつまでも残っていたいと訴える夢の残滓が霧散していく。
室内履きに足を突っ込みベッドの足下に放り出しておいたガウンに手を通し、部屋の隅にあるバスルームのドアを開けると正面にある大きな鏡に己の姿が映し出されるが、その顔はまだまだ眠気を引きずったもので、脱いだガウンやパジャマなどを洗面台に無造作に置き、右手奥にあるガラスで仕切られたシャワーブースのドアを開ける。
少し熱めのシャワーを頭から浴びれば眠気も気怠さもすっかりと流れていき、背筋が伸びるような気持ちになる。
頭からシャワーに打たれることが気持ちよくて好きだったため、ついつい長くシャワーをしてしまうが、いつまでもこのままでは仕事に遅れると思い出し、手早く髪を洗ってお気に入りのボディソープで全身をくまなく泡立てて念入りに身体を洗った彼は、掃除や洗濯といったハウスキーピングに関することだけを頼んでいるー実際は忙しい息子の身を案じた両親の押し付けーメイドが取り替えておいてくれたバスローブに身を包み、タオルで髪を拭きながらシャワーブースを出る。
今日は朝から予約を入れている患者が多く、忙しくなるだろうと予測を立てながら髪を乾かし身支度を整える。
朝食はいつも彼が経営しているクリニック近くのカフェで食べ、ランチもディナーもほぼほぼ外食だった。
自分一人の食事の用意をする意味が分からず、レストラン並の広さと設備を誇るキッチンがこの家にはあるが、使うものと言えば冷蔵庫と電子レンジぐらいだった。
ベッドルームに戻りだだっ広いクローゼットの中から種類は豊富にあるシャツとネクタイ、ジャケットを無造作に選んで身につけ、出勤の準備が整った事を鏡張りのクローゼットのドアで確認する。
「良し」
今日も一日働くかとの気合いを込めて軽く頷きベッドルームから出て左手に伸びる長い廊下を静かに歩く。
住宅事情が厳しい街のアパートの最上階にこの部屋があるのだが、本来ならばこのフロアには3部屋が作られるはずだったが、今このフロアにあるのは彼が暮らすこの一部屋だけだった。
三軒分のスペースに一軒だけという常識で考えればなかなかありえない物件だったが、そもそもこの部屋は彼ではなく彼の歳の離れた兄の為にと両親が購入したものだった。
それが兄ではなく弟の彼の家になったのかと言えば、大学を卒業し研修医というある意味試練の期間を無事に終えて1人の医者として独立した祝いに両親が兄ではなく弟にこの家を贈ったからだった。
当初は親の脛齧りと思われることが嫌で、また自身と父と兄との確執から素直にこの家を受け取ることが出来ず、確執のために断絶した父と兄ではなく緩い繋がりを持っている母と姉を通して家賃と称した金を振り込んでいたが、ある日それを快く思っていない両親から今まで振り込んだ全額を返金された上にこの家が彼のものであることを示す書類などが、長年父を法律面などから支えている父の友人である弁護士から、諦めろの言葉と共に届けられたのだ。
その言葉にさすがに逆らえず、本人にとっては渋々だが世間からすれば羨ましい限りのその書類に半ば自棄気味にサインをしたのだ。
何も知らない他者からすればただただ羨ましい限りの環境だったが、マントルピースがついた広いリビングと同じく広いキッチンやダイニング、そしてメインで使っているベッドルームの他に、小さいながらもシャワーブースがついたゲストルームが5部屋、バスタブが着いたバスルームも廊下から入ることのできる場所にあり、一人暮では持て余しているほどの広大な家で、メインのベッドルームとリビングを主に使って暮らしている彼、ウーヴェ・フェリクス・バルツァーは、開院しているクリニックに通勤するために玄関横の壁のフックに吊しておいたコートを腕に掛け、これにだけは金を掛けている愛車であるスパイダーのキーを手に家を出るのだった。
隣の部屋の住人まで叩き起こすつもりかと文句を言われても仕方がない程の巨大なベルの音が足の踏み場もない程散らかった室内に響き渡る。
「……ぅーっ」
まるで獣が唸るような、それとも地獄のフタが開いたことを喜ぶ悪魔達が歓喜に湧き踊っているかのような低い低い声が聞こえたかと思うと、いつまでもしつこく鳴り響く目覚まし時計に大きな掌が叩き付けられる。
目覚まし時計が口を利いたとすれば間違いなく、痛いだろうがバカタレ、傷害罪で訴えるぞと言うだろうが、今のところ目覚まし時計が己の意思でもって喋るだけのテクノロジーを現代の人間は持ち合わせていなかった。
眠気に負けきっている腕がずるりと重力に従ってベッド脇に垂らされると同時に、手の下にあった目覚まし時計も床の上に転がり落ちる。
人間ならば重体かもしくは打ち所が悪くて死亡という事態だったが、この目覚まし時計はこうした酷い仕打ちは毎朝のことなのかただ沈黙しながらも正確に時を刻むだけだった。
だがそれでは面白くないと考えたのかどうなのか、床の上に転がって天井を睨み付けていた目覚ましの文字盤の上、長針が一つ動いた瞬間にさっきとは比べ物にならない程の大音量でベルが鳴り響く。
「!!」
さすがにその音には眠っていられなかったのか、ギシギシとうるさいベッドに両腕をついて腕立て伏せの要領で起き上がった青年は辺りをきょろきょろと見回し、断末魔のように鳴り響いた目覚ましを半目で睨み付けた後、がりがりと頭を掻いてベッドに座り込む。
寝起きの悪さは天下一品で、育ての親や姉とも思っているシスターらに呆れられていたが、その癖は未だに健在で、しばらくの間腿に肘をついてただぼうっと、薄汚れた染みの浮いた壁を見つめている。
こんな事をしていては遅刻するとくすんだ金髪の中身が警告を発した為のろのろとベッドから立ち上がり、トイレの横に申し訳程度に付いてあるシャワーブースへと向かうと、シャワーのコックを捻っても湯がなかなか出てこない為しばらくの間裸でぼうっとしていたが、突如シャワーヘッドが外れるような勢いで湯が流れ出してその衝撃で目を覚ます。
ぼろぼろのシャワーカーテンを吊してあるがそれの意味を失わせる程勢いよくシャワーを浴びて髪を洗い、安物の固形石けんで身体を洗った後、便器の上のタオルでがしがしと身体と髪を拭いていく。
漸く目覚めた脳味噌だったが腹も目覚めたのか、地を這うような音で腹の虫が空腹を教えてきて、何か食い物があっただろうかと冷蔵庫の中身を思い浮かべながら簡易キッチンのようなそこに置いた冷蔵庫を開けて絶句する。
冷蔵庫というのは基本的に飲食物を保管する為のものだが、どうして原形を留めないほどに萎びた野菜や熟成を通り越して腐敗していると一目で判断できる肉が悲しげに鎮座しているのだろうか。
朝から見たくない光景を目の当たりにして深々と溜息を吐いた青年は、これだけは昨日買い求めたために安全である事が証明されているミルクが入ったボトルに直接口を付ける。
すべてを飲み干してその辺に放り出してあったゴミ袋を大きく開け、冷蔵庫の中の食べられないものへと変貌を果たしたそれらをすべて袋に詰めていく。
こんな所をマザーやシスターが見れば絶句するどころか涙を流して神に許しを請いかねないと気付き、芽生えた罪悪感から一瞬だけ目を閉じて黙祷を捧げ、気分を切り替えてそれらを処分する。
贅沢を言えば朝食を食べたかったが、今片付けてい庫内の光景が日常茶飯事と化している為にロクに食うものなど当然無く、出勤する途中に大手のファーストフードやインビスで買って食べるしかなかった。
今日もまたいつものようにMの字がでかでかと書かれた看板のお店にお世話になるかと何となく寂しい思いを感じつつ出勤するためにシャツに着替えネクタイをぞんざいに結んでジャケットの袖に腕を通せば、気分はすっかりと青年の天職である刑事に切り替わる。
散らかり放題の部屋は次の休暇に片付けると苦笑した青年は、自転車通勤の邪魔にならない丈の短いブルゾンを着込み革の手袋に両手を包み、年季が入っているがそれでも目が覚めるような鮮やかなブルーの車体のクロスバイクを肩に担いで溜息一つで気分を切り替える。
「今日も元気に働くか」
誰に告げるでもなく呟きベッドサイドの、ナイトテーブルにもダイニングテーブルにもなるローボードの上に飾られている写真立てに視線を向けた後に自転車を担いで部屋を出れば、隣の部屋の住人が同じく出勤の支度をして部屋から出てくる。
「おはよう、じいさん。今から出勤か?」
「誰がじいさんだ。おはようさん、リオン。お前こそ今からか」
「今日は寒くなるらしいぜ。道端で寝転がってくたばるんじゃないぜ」
「言ってろ」
口が悪くてもそれなりに相手を心配している口調でお互いに行って来いの挨拶を交わし、肩に担いだ自転車を揺らしてアパートの狭い階段を下りていく。
「おーい、リオン」
「どうしたー?」
階段の踊り場から呼ばれて振り仰いだ青年、リオン・フーベルト・ケーニヒは、先程のじいさんと呼んだ男が紙袋に入った何かを投げて寄越した為、自転車を下ろしてそれを受け取る。
中に入っていたのは薄切りの黒パンと同じく向こうが透けるような薄さのチーズで、どういうことだと見上げると苦労の皴が浮かぶ顔に自慢げな色が浮かぶ。
「食え」
「ダンケ、じいさん」
「気をつけてな」
人からすれば朝食とも呼べないそれを、皮肉でも何でもなく心の底から感謝の言葉を告げると、ブルゾンの前を開けて無造作に突っ込んで自転車に跨る。
「行くかー」
朝なのにまだまだ暗い冬の空に白い息を吐きかけたあと、今日も一日頑張るかと声を上げたリオンは、所々に雪が積もっていて滑る道を器用に愛車のクロスバイクで走っていくのだった。
大きな田舎と称されるこの街の中心である市庁舎とそれを取り囲むように古くて大きな教会がいくつもある一等地のアパートにウーヴェが開業したクリニックがあったが、そこは心を病んでしまったり生き辛さから日常生活を送ることが難しくなった人たちが救いを求めるように訪れる精神科のクリニックだった。
ウーヴェはドクターたちの世界では若くして開業に漕ぎ着けたのだが、開業当初は駆け出しの精神医の元を訪れる患者がそうそういるはずもなく、祖母から受け継いだ財産を食いつぶす事になるだろうと思っていたが、歴史の教科書にも載る先祖を持つ女性を母の紹介で内密に診察し、彼女が回復したのを切っ掛けに資産家や実業家と言われる時間や金銭的にゆとりのある人達を診察するようになった結果、祖母の財産を食いつぶすこともなく、独り身の医者が日々暮らす為の収入を得ることができていた。
飛び込みの患者などは殆どおらず、ウーヴェのクリニックのドアを叩く患者たちはほぼ誰かしらの紹介でやってくる為、いわゆる町医者のような忙しさとは無縁だった。
今日もそんな患者達の診察の予定が入っていたが、特に今診察に来る患者で注意を払うべき人はいなかった為に患者の数は多いが気分的には楽だった。
愛車のキャレラホワイトのスパイダーを走らせてクリニックのあるアパートの地下駐車場に滑り込み、所定の位置にスパイダーを納めて車から降り立つ。
「おはようございます、ドクター」
「おはよう」
複数人いる顔馴染みの警備員の挨拶に笑顔で返し、駐車場からも直接行けるエレベーターで3階のクリニックまで上っていく。
いくつかオフィスの事務所がある3階で降り、廊下の突き当たりの木で出来た見た目は重厚でセキュリティは万全のドアのセイフティロックを解除しようとするが、何気なく見たドアが僅かに隙間を作っていた。
このクリニックに勤務するのは自分と秘書兼受付をしてくれている、カミラ・リーベントと言う名の女性だけで、後は定期的に来る清掃業者だけだった。
一足先にカミラが出勤しているのかも知れないとドアを開けたウーヴェは、予想に反して室内には誰もいない事に気付き、メガネの奥の双眸を見開く。
「フラウ・リーベント?」
呼びかけながらドアを後ろ手で閉め、一体どこに行ったのだろうと待合室に視線を巡らせるが、小柄でいつも明るい笑顔で患者にも評判の良かったカミラの姿は見あたらなかった。
待合室の毛足の長い絨毯の上を歩き診察室のプレートが掲げられているドアの横に置かれたデスクに手袋とマフラー、コートを置いた彼は、彼女が出勤している気配が無い事に首を傾げる。
昨夜いつも通りに診察を終えてここを出る時にはいつも通りの手順でセキュリティのロックを掛けたため、万が一異常な方法でロックが解除されれば一報が入るはずだが、その連絡は昨夜から今までの間に届くことはなかった。
受付のデスクに手を付き、どういう事だと眉を寄せつつ診察室のプレートが掲げられているドアの違和感に気付く。
診察室のドアノブやプレートは真鍮製で、いつも受付や事務全般を引き受けてくれているリーベントがピカピカに磨いてくれていたはずなのだが、そのドアノブに何やら汚れが付着していたのだ。
掃除に入ってくれる業者が来るのはまだ先だった為、違和感の元である汚れを指先で拭えば、ぬるりとした感触が伝わってくる。
「フラウ・リーベント?」
問いかけつつドアを押し開き室内を見回しても女性の姿がない事に溜息を吐き、ドアに手を掛けたまま真正面に置いたデスクを何気なく見遣り、そこに見慣れないものを発見する。
「?」
その見慣れないものはデスクの足下から顔を覗かせていた為、メガネの奥の双眸を細めて近寄り、飛び込んできた光景に絶句する。
「……っ!!」
デスクと座り心地の良い椅子の間、淡いピンクのスーツを赤黒く変色させたカミラ・リーベントが、恐怖を顔に貼り付けたまま変わり果てた姿で仰向けに倒れているのだった。
警察署に市庁舎前の広場に面したアパートにあるクリニックで変死体が発見されたとの一報が入った時、リオンは己のデスクに尻を載せて同僚と先週の地元サッカークラブの試合について盛り上がっている時だった。
「リオン、行くぞ」
「ヤー」
ボスの一声に元気よく返事をし手を振る自他ともに認める男前の同僚に帰ってきたらビールを奢れと指で命じるが、早く行けと急かされた為に舌を出して部屋を飛び出していく。
「ボス、現場はどこですか?」
「市庁舎広場に面したアパートだ」
「へー。一等地にあるアパートに入ってるクリニックってどんな診察をしてくれるんでしょうね。俺、一度行ってみたいなぁ」
「仕事でだが今から行けるぞ」
「確かにそうだ」
警察車両に乗り込み、リオンの運転で現場のアパート-実は車を使えば少しだけ遠回りになる-に向かった二人は、初動捜査の為に応援で来ている制服警官からの報告を受け、駐車場入口横の詰め所に顔をだす。
「すっげ、金持ちばかりだ」
「リオン?」
「スパイダーにAMGにアルファロメオ…」
駐車場ゲートの向こうで整然と並ぶ車種を呼び上げたリオンに、この辺りは所謂セレブを相手に商売をしている店が多いからなとリオンがボスと呼んだマルティン・ヒンケルが素っ気なく返し、リオンの襟首を掴んで引きずっていく。
「ボス?」
「ここは任せて現場に行くぞ」
小さな子供や犬猫じゃあるまいし襟首を掴んだまま引きずるなと己よりも遙かに背の低いヒンケルに控え目に苦情を述べるが小気味よいほど無視されてしまい、ちゃんと歩きますと宣言して上司の手の内から逃れる。
駐車場から現場になったフロアまでは直通でいけるエレベーターがあり、二人で乗り込んで先に乗っていた警官から事件の概要を聞き始めた時、エレベーターが目的のフロアに到着する。
アパートの外観は随分と重厚だったが、このフロアに限って言えば廊下の大きめの窓から入る日差しが床を照らし、まるでどこかの城の廊下を思わせる雰囲気が漂っていた。
居心地は悪くない、いや、どちらかと言えば居心地は良いだろう。
そんな第一印象を抱いたリオンは、突き当たりのドアを開けて中に入る。
まず驚いたのは、その室内の調度品の良さだった。
刑事の安月給で暮らしているワンルームの部屋もそれなりに居心地は良かったが、ここと比べれば雲泥の差どころか比べることすら失礼ではないかと思える居心地の良さが部屋中に広がっていた。
メンタルクリニックだと聞いていたが、その待合室と言うよりは図書室の様な雰囲気があり、その雰囲気の元を探ろうと視線を巡らせれば窓から最も遠い壁一面が本棚になってあり、所々の棚には毎朝取り替えられているとしか思えない花がひっそりと、だが見るものの心を和ませるように飾られていた。
本棚の前にはアンティークかと目を疑うようなカウチやソファが幾つか置かれ、その一つ一つが背の高い衝立で他者の視線を遮るように半分だけ囲われている。
場所柄他者の視線が気になる人も多いのだろうか、そんな配慮がされた待合室だったが、壁に二つ並んだドアの左側が開け放たれ、鑑識の人間が忙しそうに出入りしている事から、現場がその部屋であることを知る。
「ボス、被害者は?」
「ここの事務員というか先生の秘書をしていたカミラ・リーベント、25才だ」
警官の礼を受け流しながら部屋に向かうヒンケルの後に従って進むリオンだがその視線は周囲に注がれていて、診察室と流暢な文字で書かれたプレートが掲げられたドアの前に向かうまでには待合室の様子を記憶していた。
診察室の中は待合室と似たような雰囲気だったが、部屋の中央にゆったりと座ることの出来る一人掛けのソファとデスクが向かい合って置いてあり、デスクの足下に白いチョークで描かれた線の端が見えていた。
そのデスクを回り込んでこれまた座り心地の良さそうな椅子に目をやり、そのまま視線を足下に落としたリオンは、ヒンケルの背後で中腰になって上司の肩越しにピンク色のスカートを見下ろす。
彼らの前、生前はさぞかし美人だったと思わせる顔に恐怖の色を貼り付け、カミラ・リーベントが死んでいた。
「直接の死因は……絞殺?」
「どうだろうな。出血によるショック死という可能性もあるな」
仰向けで倒れている為か顎の下に紫色になった筋状のものがくっきりと残されているが、淡いピンクのスーツもどす黒く染まっていた。
「凶器はなんだと思います、ボス?」
「どっちのだ?」
スーツを染めた原因となった傷かそれとも首に残された痣の元かどちらだと顔を振り仰いでくる上司に目を細め、直接の死因ですとだけ再度呟けば、ヒンケルが何か言いたげに口を開くが何も言わなかった。
死体の左右に二人でしゃがみ込み一見しただけで掴める特徴を頭に叩き込んでいた時、制服警官が足早にやって来たかと思うとヒンケルに耳打ちする。
「ああ、ご苦労。こちらに来て貰え」
その言葉に顔を上げたリオンは誰かを呼んだ事に気付いたが、傍にいた鑑識の者に声を掛けて後で詳細な報告を頼むと告げれば、誰が見ても完璧だと思う資料を揃えてやると返されて場違いな笑みを浮かべて大きく頷く。
「ボス、誰ですか?」
「ああ、ここのボスだ」
「へ? ああ、精神科医ですか」
「そうだ」
間もなくやってくる彼は死んだカミラのボスであり、聞くところによれば先月までは彼氏だったそうだ。
その言葉に思わず口笛を吹いてしまったリオンの頭上に拳を落としたヒンケルは、天井まである本棚の横にある小さなドアが静かに開いたことに気付き、頭を押さえる部下に目配せをする。
小さなドアから出て来たのは、事件の衝撃から血色を失っているが元々色白だと思われる顔をした痩身の若く見える男だった。
「ヘル・バルツァーですな」
「はい」
この度はとんでもない事になったと口先だけの悔やみを述べつつ手を差し出したヒンケルのうしろ、頭髪の色を顔中に広げたように蒼白な面持ちで姿を見せた精神科医の顔を凝視するリオンがいた。
グレーと言うよりはシルバーや白に近い髪は清潔感を与えるように手入れがされていて、緑より深いターコイズ色の瞳は上半分だけの細いフレームで縁取った眼鏡の奥で意志の強さを表すように光っている。
己の様なダークブロンドなどはその辺を歩けば山ほどいるが、こんなにも色素の薄い髪を見たのは高齢者以外では初めてだった。
色素の薄い人たちが多くいるスカンジナビアやいわゆる北欧と呼ばれる地域に身内でもいるのだろうかと思わず見とれてしまうリオンだったが、ヒンケルの声に我に返る。
「バルツァー先生、うちの刑事を紹介します」
「……刑事?」
オウム返しに呟かれてあ、驚いてらと素直に声に出した瞬間、ヒンケルにじろりと睨まれて肩を竦める。
「初めまして、先生。リオン・H・ケーニヒです。捜査にご協力ありがとうございます」
びしっと、だが何処か戯けた風に手を差し出して礼儀正しく名乗れば、眼鏡の奥の双眸が最大限に見開かれて見つめられてしまう。
「どうかしましたか?」
「……最近は見習い中の刑事も駆り出されるのか」
口元に拳を宛って皮肉気に笑った顔に瞬きをしたリオンは、放置されたままの手をぶらぶらと振りながらこの場には相応しくないと思われる満面の笑みを浮かべる。
「良く言われるんですよね、それ。あ、あれですか? もしかして先生もずいぶん若いのに腕は確かなんですかーって良く言われたりしますか?」
皮肉には皮肉で返すことを教えるように、顔には笑みを浮かべながらもロイヤルブルーの双眸には一切の笑みを浮かべずに言い切ったリオンの前、バルツァーと呼ばれた男が目を瞠って絶句する。
「……失礼」
「人は誰しも外見で判断しがちですよね。お気になさらずに。俺も気にしませんし」
眼鏡を指先で押し上げて腕を組む医師に刑事がにこりと場違いな笑みを浮かべ、その姿をヒンケルが見守っていたが、先程のように結局は何も言わないままだった。
「この度はご愁傷様でした。もう何度も聞かれているかと思いますが発見時の様子をもう一度聞かせて貰えますか?」
先程の皮肉気な口調など感じさせない陽気さすら感じる声で問いかけられ、腕を組み替えたウーヴェがちらりと刑事の身体越しに床を見やり、きつく眉を寄せて顔を背ける。
「隣の部屋で話を聞いても良いですか?」
その様子から何かを察したらしいリオンが上司に囁きかけ、鷹揚に頷かれて微苦笑を浮かべる。
「先生」
「……バルツァーで結構だ」
「あ、そうですか? や、良かったー。昔先生って名前のろくでなしがいて、出来れば呼びたく無かったんですよー」
ああ良かったと心底安堵した顔で呟かれ、思わず寄せていた眉を開いたウーヴェは、背後のドアに向かって踵を返す。
「リオン、お前に任せる」
「ヤー」
ヒンケルの言葉に嬉しそうに一礼したリオンは、一足早く元いた部屋に戻ったウーヴェの背中を追いかけていくのだった。
これが、リオン・フーベルト・ケーニヒとウーヴェ・フェリクス・バルツァーの初めての出逢いだった。
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