テラーノベル
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それから数日、私は妙に落ち着かなかった。
部室に入る前、 ギターケースを持つ手が少しだけ強張る。
(普通でいればいいだけなのに)
そう思うほど、
「普通」が分からなくなっていく。
「奈央さん、お疲れ様です」
広瀬くんの声がする。
いつもと同じ、軽い調子。
「うん、お疲れ」
返事はした。
したはずなのに、どこか素っ気なかった気がして、
すぐに後悔する。
(今の、変じゃない?)
広瀬は特に気にした様子もなく、
自分のギターを手に取っている。
その様子を見て、
なぜか胸の奥がざわついた。
練習が始まる。
今日は私がマイクを持ち、
広瀬くんが隣でギターを構える。
距離は、いつも通り。
なのに、遠い。
歌い出しで、音程を少し外した。
「あ」
小さく声が漏れる。
「もう一回いきましょ」
広瀬はそう言って、
何もなかったようにカウントを取り直す。
その“何もなさ”が、
今は少しだけ、寂しい。
(私、気にしすぎなんだ)
分かっているのに、
意識が全部、隣に向いてしまう。
ギターのカッティング。
弦を押さえる指。
視線の先。
前なら、ただの練習風景だった。
今は、全部が目に入る。
休憩中、
広瀬くんが近づいてくる。
「ここ、もうちょいテンポ早い方が歌いやすいかもです」
いつもなら、素直に頷いていた。
「……うん、わかった」
でも今日は、少しだけ距離を取って答えてしまう。
「なんとかするね」
言ってから、しまったと思った。
広瀬くんが一瞬だけ瞬きをする。
「……そうすか」
それだけ。
声のトーンは変わらない。
不機嫌そうでもない。
なのに、胸がちくりと痛む。
(なんで、そんな言い方したんだろ)
(別に、突き放したかったわけじゃないのに)
練習の後半、
歌が思うように乗らない。
声が硬い。
息が浅い。
「今日、調子悪いっすか?」
広瀬くんが、ぽつりと聞いてくる。
「……ううん」
反射的に否定する。
「大丈夫」
本当は、大丈夫じゃない。
でも、その理由を説明できない。
「なら、無理しないで」
それだけ言って、
広瀬くんはそれ以上踏み込まない。
その距離感が、
今はやけに正しくて、
やけに苦しい。
練習が終わり、
部室を出るとき。
「奈央さん」
呼び止められて、
心臓が跳ねる。
「今日の歌、別に悪くなかったっすよ」
軽く、いつも通りの声。
「……ありがとう」
笑おうとして、うまくいかなかった。
広瀬くんは気づいた様子もなく、
先に廊下を歩いていく。
その背中を見ながら、
私はやっと認めてしまう。
(あ、私)
(広瀬くんに、どう思われるか、気にしてる)
昨日までは、考えもしなかったことだ。
ちょうどいい距離は、
いつの間にか、手の届かない場所に行ってしまった。
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