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春。
まだ肌寒さの残る朝。
校門の前では新しいクラス表に群がる生徒たちの声が響いていた。
「うわ最悪!」
「え、同じクラスじゃん!」
「担任誰!?」
賑やかな声を横目に、伊波ライは職員用玄関へ入っていく。
黒いスーツ。
整えられた髪。
無駄のない足取り。
生徒からは「ちょっと怖い」「でも顔がいい」と評判の教師。
実際、授業は分かりやすいし面倒見も悪くない。
ただ——距離がある。
必要以上に踏み込まない。
だからこそ、生徒たちは彼を少しだけ特別視していた。
「おはようございます」
静かな声で職員室へ入る。
数人の教師が挨拶を返す中、ライは自席へ座った。
パソコンを立ち上げる。
今日の授業確認。
提出物。
学年会議。
淡々と仕事を始めて数分後。
職員室の扉が勢いよく開いた。
「おはよございまーーす!」
一気に空気が明るくなる。
緋八マナだった。
「朝から元気だなぁ」
「緋八先生、テンション高」
同僚たちが笑う。
「えへへ、今日パン当たりだったんで!」
「何それ」
そんな会話をしながら歩いてきたマナは、自然な流れでライの机の横に立った。
「ライ、おはよ」
ぴたり。
一瞬だけ、ライの指が止まる。
だが次の瞬間には何事もなかったように視線を画面へ戻した。
「おはようございます、緋八先生」
「かた〜」
「職場なんで」
「家出る時あんなだったのに?」
「…………」
ライが無言になる。
マナはにやにや笑った。
——今朝。
玄関で靴を履こうとしたマナを後ろから抱き締めて、
『今日休めば?』
なんて真顔で言っていた男と同一人物とは思えない。
学校モードの切り替えが早すぎる。
「ライ、冷た」
「仕事してください」
「ねえ聞いた? この人さっきまで——」
「緋八先生」
低い声。
ぴたりと止まるマナ。
ライは視線を上げずに続けた。
「それ以上喋るなら今日の昼抜きます」
「えっ」
「あとソファ使用禁止」
「横暴!」
小声での攻防。
だが、その距離感が妙に自然すぎて。
近くにいた教師がくすっと笑った。
「二人ってほんと仲良いですよね」
「そう?」
マナが笑う。
「伊波先生、緋八先生にはちょっとだけ柔らかい気がする」
その言葉に、ライのタイピングが止まった。
マナも一瞬固まる。
——やば。
けれどライは平然としていた。
「気のせいです」
「え〜?」
「むしろ緋八先生が距離近いだけでは」
「ひど」
いつもの調子。
いつもの空気。
それで終わるはずだった。
「そういえば緋八先生」
「ん?」
「ネクタイ曲がってます」
「え、マジ?」
マナが慌てて直そうとする。
だがその前に。
ライの手が伸びた。
す、と自然な動作。
慣れた手つきでネクタイを整える。
近い。
近すぎる。
職員室が静まった。
「あ」
マナが固まる。
ライも数秒遅れて気付いた。
完全に家の感覚で動いた。
「…………」
沈黙。
ライは静かに手を離した。
「……社会人として身だしなみくらい整えてください」
「いや今の彼氏だったじゃん!?」
「違います」
「否定弱っ」
周囲から笑いが起きる。
助かった。
ギリギリ誤魔化せた。
そう思った時。
「失礼しまーす」
職員室の扉が開く。
生徒だった。
提出物を持ってきたらしい男子生徒が、微妙な顔で二人を見る。
「……え、今なんか見ちゃいけないやつでした?」
「違います」
ライが即答する。
「見間違いです」
「何を?」
「全部」
「圧強」
生徒が笑う。
その横で、マナは肩を震わせていた。
笑いを堪えてる。
ライはその脇腹を軽く肘で小突いた。
「痛っ」
「笑わないでください」
「だってライがさ〜」
「緋八先生」
「はいはい」
だが。
そのやり取りを見ていた女子生徒たちは、廊下でざわついていた。
「ねえ今の見た?」
「伊波先生めっちゃ自然だった」
「絶対なんかあるって」
「え、でもあの二人なら普通に仲良いだけじゃない?」
——まだ。
この時は誰も知らない。
その“仲良いだけ”が、職員室では隠し切れないくらい長い時間を積み重ねた関係だなんて。
◇
夜。
マンションの一室。
「つかれた〜〜〜」
ソファへ倒れ込んだマナの上に、影が落ちる。
「おつかれ」
ライだった。
学校では絶対見せない柔らかい顔。
ネクタイを緩めた姿のまま、マナの頭を撫でる。
「今日危なかったね」
「マナが煽るからでしょ」
タメ語。
低くて甘い声。
学校とはまるで違う。
「だってライ、学校だと塩なんだもん」
「当たり前」
「もっと優しくしてよ〜」
「してる」
「してない」
「してるって」
ライはため息をつきながら、マナの頬を軽くつまんだ。
「学校でベタベタしたら終わるだろ」
「でもたまに漏れてるよ?」
「……」
「今日ネクタイ直してくれたし」
「あれは反射」
「ふは、絶対嘘」
マナが笑う。
その顔を見て、ライの表情が少し緩んだ。
「……かわいかったから」
「え?」
「朝からぼーっとしてる顔」
「なにそれ」
「だから触った」
さらっと言う。
マナは数秒固まったあと、顔を覆った。
「うわ急にそういうこと言う!」
「お前が聞いたんだろ」
「むり、心臓もたない」
ライは笑った。
学校では絶対見せない笑い方。
「……でも」
ふいにライがソファへ腰掛ける。
そのままマナを引き寄せた。
「学校で他のやつと楽しそうにしてると、ちょっと嫌」
ぽつり。
マナが目を瞬く。
「え、嫉妬?」
「悪い?」
「やば、かわい〜」
「うるさい」
ライはマナの肩へ顔を埋めた。
疲れた時だけ見せる甘え方。
学校では完璧に隠している姿。
マナは優しく髪を撫でた。
「大丈夫だよ」
「ん」
「俺、ライのことしか見てないし」
その瞬間。
ライが顔を上げる。
少し細められた目。
「……それ、学校でも言えればいいのに」
「言ったら終わるってば」
「だよな」
そう言いながら。
ライはマナの手を引いた。
「風呂入るぞ」
「一緒?」
「当たり前」
「ライ今日甘くない?」
「……朝我慢した分」
マナが吹き出す。
その笑い声を聞きながら、ライは小さく笑った。
——学校では隠す。
でも。
家では隠さない。
その境界線は、きっと思っているよりずっと危うかった。