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ユカリが自分の宿泊している部屋に戻ろうとするとマーニルに呼び止められた。
「ちょっと、ユカリちゃん。もっと何か注文していってよ。もっと食べられるでしょう?」
「ええ! 私、ちょっと部屋で用事があるんですけど」
マーニルは猫撫で声でユカリを拝む。「少しくらい良いじゃない。お客さん減っちゃったんだからさ。この宿に貢献すると思って、ね? ね? お願い!」
騒ぎも原因かもしれないが、そもそも昼時を過ぎて客入りが減っているのは仕方がないことのように思える。
ユカリは渋々、李の菓子を注文する。何故かマーニルも同じ菓子を持ってきて、ユカリの対面に座った。
ユカリは呆れて尋ねる。「お仕事は良いんですか?」
マーニルは幸せそうに李の菓子を頬張り、答えて言った。
「良いのよ。少しくらいはね。お客さんも少ないことだし。私の料理は美味しいことだし」
「まあ、私からは何も言えないですけど。それより、マーニルさん。生命の喜び会について何かご存知です?」
ユカリも菓子を一口食べる。舌を撫でるような甘味と弾くような酸味が同時に現れる。味が喉に染み込んで、頭の後ろの方へと広がっていく。これに限ったことではないが、マーニルの菓子は手が込んでいる。
「生命の喜び会って、あのうさん臭いの? 知ってることなんてほとんどないわね。偶像も見たことなければ祈りの言葉を聞いたこともない。知る限りではお客さんだったことすらない。それに、ここ一、二か月でしょう? 彼らがこの街に来たのって」
ユカリはむせる。飲み込んだ後だったので惨事を逃れた。
「ええ! 新興も新興じゃないですか。随分と沢山の信徒を見かけるんですけど、そんなにも最近設立されたんですか?」
「いや、分からないわよ」マーニルは次々に菓子を口に放り込みながらも巧みに話す。「あくまでこの街にきたのが一、二か月ってことだから。他の土地で布教活動していたのかもしれないし。そうじゃないと不自然だもの。彼らその短期間でリトルバルム都市政府から旧天文台を買い取ったのよ? まあ、元々解体するかどうか議論されてはいたけど。それなりに歴史あるあの塔を買い取るだなんて、どれだけの儲けがあるの?」
ユカリは菓子を食べる手を止めて、皿の上の喜びの塊をじっと見つめて考え込む。
「それは、不自然ですね。それだけ政財界に影響力を持っているということですよね」
力といえば、セビシャスも何らかの不思議な力を持っていると言っていた。その力は信仰と関係があるのだろうか、とユカリは考える。
「救済機構のお坊さん方もぴりぴりしてるって、目の敵にしてるって旦那さんが言ってたわね」
救済機構の僧侶はどこにでもいるが、ユカリはこの街の寺院をまだ見たことがなかった。
ユカリはマーニルに確認する。「リトルバルムに国教は無いんでしたっけ?」
「ええ、一応国自体は何も定めていないってことになってる。月影に舞う娘の信徒以外の議員定数は抑えられているんだけどね。個人の信仰の自由は認められてるよ。だから昔から様々な新興宗教が何度も勃興しては衰退して消えていったらしいんだけど。ハニアンは嫉妬深いって言うし。私もまさかあの天文台が知らない宗教の神殿になる日が来るだなんて。子供の頃は思いもしなかったわ」
ユカリは旧天文台の姿を思い浮かべる。蔦に覆われた石積みの塔で、数段おきに鼠返しのようになっていた。その為に、いつ見ても止まり木の代わりにして鳩が寛いでいる。必然、白い汚れが目立っている。
「そもそも天文台なんて、私、この街で初めて見ました」
もしかしたらかの迷宮都市、ワーズメーズ辺りにはあったのかもしれないが、そもそもあの街は星が本物かどうかすら信用できない街だった。
リトルバルムの街の中心のあの塔の上で複雑な機械を駆使して星々を観察するだなんて、とても夢想的ではないか、とユカリは夢を馳せる。
星々はその神秘を人の野原から遠く離れた夜空の庭に繋ぎ止めているというのに、人の叡智でもってユカリは畏ろしい秘密を覗き見てしまうのだ。季節の移り行きを観測し、全ての人の頭上を等しく飛び行く《時》を計測する。星々は恥じ入るだろうか。怒ってしまうのだろうか。いずれにせよ、星の秘密を知ってしまえば、ただの人間ではいられないだろう。壮大な不思議と驚異を頭の中に詰め込めば、否が応にもその者から溢れ、自分を閉じていた自分が啓かれてしまうに相違ない。変わってしまったユカリは夢見るような心持で人の野原を歩き、草の葉の裏に幻想を、星影を写す水面に不思議を、鶏小屋の騒ぎに驚異を見てしまう。
マーニルもまたどこか遠くを見て、夢を紡ぐように言葉を話す。
「流星群の日の前夜はあの塔に沢山の松明を立てて飾り付けたんだけど、今年は新天文台の方を飾り付けたみたいね」
ユカリは想像の中の旧天文台を火で飾るが、あまり美しい想像にはならなかった。代わりに夜の祭日に浮かれるリトルバルムに気づき、その華やかな光景から目を離せない自分を予想した。
「ん? 前夜って今夜じゃないですか?」とユカリが尋ねる。「今夜だったんですか? 流星群が見れるのって」
「そうだよ。前夜祭はこの街で一番盛大なお祭りだからね。年によって違うけれど、予言者たちによると今年は例年以上に沢山の流れ星を見られるかもしれないってさ」
「私、流星群って呼べるほど沢山の流れ星を見たことないです」
「それは幸運ね。建国の日、つまり旧リトルバルム王国が共和制に移行した日はまるで祝福するように、夜空を覆い尽くすほどの流星が降ったそうよ」
「だから流星群の日」
「そういうこと。幼い頃、流星群の日に友達と一緒に天文台に忍び込んで、天文台の予言者たちの目を掻い潜って頂上まで上って。流星群を見たものよ。結局、その年は大して降らなくて、代わりに観測機材で勝手に遊んだんだっけな。巨大な望遠鏡とか色褪せない天宮図。それに輝くような真鍮の複雑な星把機械。今もあそこにあるのかしら」
マーニルの回想にユカリも心惹かれた。幼い頃のユカリよりもずっと壮大な冒険のように思える。
「予言者相手に目を掻い潜れるものなんですか?」
「彼らが視るのは国の行く末みたいな大局だからね。子鼠一匹忍び込んでも分かりっこないのよ。そうそう、こういうことも最近急に思い出したのよね」
丁度菓子を食べ終えたユカリは、過去に思いを馳せるマーニルを叩き起こすように言葉をぶつける。
「マーニルさん! それって記憶の回復現象じゃないですか?」
マーニルはユカリが大げさに冗談を言っていると思ったらしく、のんびりとした様子で答える。
「あの噂の? どうかしら。大した記憶じゃないし、特別なことは何もしてないわよ、私。単にあの旧天文台のことをよく考えるようになったからじゃないかな」
「そうかもしれないですけど、それっていつ頃思い出したんですか?」
「うーん。どうだったかな。少なくとも生命の喜び会が旧天文台を買い取ってからよね。よく考えるようになったのは」
記憶の回復現象とセビシャス、生命の喜び会には何かまだ見えない繋がりがあるように、ユカリには思えた。現状で魔導書の手がかりと言えるのは前世のユカリの記憶を思い出すことくらいだ。か細い希望だが掴んで離さないとユカリは決めた。