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#BL
七瀬🍏
4,036
静まり返った庭に出ると、ぬるい夏の夜風が肌にまとわりついてきた。
居間のクーラーで冷やされた身体に、その湿った暑さがじっとりと重くのしかかる。背後でパタンと閉まった網戸の無機質な音が、やけに遠く感じられた。
前を歩く若井の背中は、恐ろしいほど静かだった。怒りで肩を震わせるわけでもなく、ただ一定の足取りで歩いていく。その「静けさ」こそが、彼の胸の奥にある底知れない怒りと、涼ちゃんを一人で守ってきた覚悟の重さを物語っているようだった。
僕はその後ろを、罪人に引き立てられるような心地でついていくことしかできない。
僕のせい…きっと、全部僕のせいだ。
こちらの姿を捉えないうつろな目と、ひどく怯えた顔が、何度も何度も脳内で再生される。
僕が焦りに耐えかねて投げかけた不躾な一言が、涼ちゃんの記憶の平穏を土足で踏みにじり、激しい発作を引き起こしてしまった。
「忘れないでほしい」「僕を特別だと思ってほしい」という甘い欲望を、触れてはいけなかった話題にして押し付けてしまったのだ。涼ちゃんを傷つけたのは、病気なんかじゃない。僕の浅はかで身勝手なエゴだった。
自分の手を見つめる。情けないほどに震えが止まらない。
こんな薄汚い手で、さっきまで「忘れないで」と涼ちゃんの手を握っていたのかと思うと、激しい吐き気と自己嫌悪が胃の底からこみ上げてきた。
若井が庭の隅にある大きな木の陰で足を止め、ゆっくりと振り向いた。
月明かりに照らされた彼の顔には、憎しみとも、悲しみとも、絶望ともつかない複雑な影が落ちている。
その瞳と視線がぶつかった瞬間、僕は声もなく息を呑んだ。心臓が嫌な音を立てて跳ね上がる。
「元貴、…お前昨日涼ちゃんに何した?」
昨日のことがありありと目に浮かんで喉がきゅっとしまった。つまらない意地と醜さが、このことだけはどうしても、どうしても言えないと警鐘を鳴らしていた。
「…何も…。」
ぽつりと低く呟くのが精いっぱいだった。そんな見え透いた嘘が通じるはずもないのに。
「…何のために戻ってきたんだよ。」
低く、押し殺した声だった。若井の拳が音を立てそうなほどに握りしめられている。短く切りそろえられた爪が、手のひらに白く食い込んでいるのが見えた。
「お前が昔の思い出に浸って、親気取りみたいな質問をして…満足か? 涼ちゃんがどう思うか、どう病気と向き合ってるか、分かっててやったのか?」
若井の問いかけは、鋭利な刃となって僕の胸を正確に抉った。
反論なんて、できるはずもない。全部、若井の言う通りなのだから。
「わかって、いなかった…僕の…僕のせいだ…、ごめん…。」
絞り出すように謝罪の言葉を口にしても、若井の瞳の温度は上がらない。むしろ、僕のその情けない、簡単に許しを請うような諦めが、若井の中にくすぶっていた導火線に一気に火をつけたようだった。
「『僕のせい』で済むと思ってんのか!?」
ついに若井の感情が決壊した。
胸ぐらを掴まれ、視界が激しく揺れる。そのまま力任せに、背後の木に押し付けられた。背中に走るゴツゴツとした樹皮の鈍い衝撃と衣服が引きちぎれんばかりに擦れる音よりも、目の前にある若井の顔に浮かんだ激しい歪みの方が、僕の心を強く打ちのめした。
彼は、僕が勝手に作り上げていたような、完璧な救世主でもなければ、冷徹なライバルでもなかった。
僕が東京で過ごしていた七年間、毎日記憶がリセットされる恐怖と向き合い、一人で彼のすべてを受け止めて、崩れそうな手を握り続けてきた、ただの一人の傷だらけの14歳だった。
自分と大して変わらない、細い手首。それなのに、胸ぐらを掴む若井の手は、激しく、怒りと限界で震えていた。
「涼ちゃんはさ、ちょっとでもストレスがかかっちゃったら駄目なんだよ…!なあ俺が、俺が今までどんな気持ちで、お前が東京で優雅に過ごしてた7年間、あいつの隣にいたか分かってんのかよ!」
若井の顔が目の前にあった。整った彼の顔が、激しい怒りと、見たこともないほどの歪んだ苦痛に満ちている。
若井の目から、溢れ出た涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。
怒りだけじゃない。そこにあったのは、彼が一人で背負うにはあまりにも重すぎる、7年分の血の滲むような孤独と絶望だった。
「お前は…自分の『特別』を守りたいだけだろ!? 現実の涼ちゃんの苦しみも見ないで、勝手な哀愁に酔ってんじゃねえよ!」
若井の叫びが、静寂を切り裂き僕の胸をしとどに刺し穿つ。
分かっている。若井の言っていることが正論だ。
僕は途中で逃げ出した卑怯者で、若井はずっと涼ちゃんの傍にい続けた救世主だ。僕に若井を責める資格なんて、最初から微塵もない。
奥歯を噛み締め、唇を噛んでうつむき、ただ沈黙する僕を見て、胸元の力が少しだけ緩んだ。若井の、浅く荒くなった息遣いだけが、生々しく耳に届く。
「…お前はいいよな。夏が終わればお別れの、お客さんなんだから。」
低く、ほとんど独り言に近いくらいに、ふと投げ出されたような言葉だった。
だが喉の奥から、熱いものがせり上がってきた。罪悪感に押し潰されそうになりながらも、僕の胸の底で燻っていたドロドロとした感情が、一気に喉を逆流して溢れだしたようだった。
「ふざけんな…!東京にいた7年間、俺がどれだけ…どれだけ涼ちゃんのことを思ってたか、お前にわかられて、踏みにじられてたまるか!」
振り絞るように叫び、若井の手を両手で力任せに振り払った。
体制を崩した若井が数歩後退する。僕は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、若井を睨みつけた。
胸の奥に溜め込んでいた泥のような感情が、言葉となって溢れ出していく。
「俺がどれだけ長野の空を見上げてたか…涼ちゃんに会いたくて、声を聴きたくて、でも連絡しても覚えてないかもしれないのが怖くて、僕だって…僕だって、涼架の隣にいたかったよ!!」
「お前が羨ましかった!涼架の隣で笑えて、髪に触れられて、毎日『はじめまして』を言えるお前が、死ぬほど羨ましかった! 悔しかったよ!
…俺がバカだった。焦って酷いこと聞いて、涼ちゃんを苦しめた…それについては、お前になんと言われようと反省するし、一生自分を許すつもりはない。でも…俺が涼ちゃんを想ってきた時間まで、ただの思い出づくりみたいに言われる筋合いはない!俺にとって涼ちゃんは、人生の全部なんだよ!」
若井は拳を握りしめたまま、息を荒くして僕を見つめていた。
その瞳からは先ほどの激しい激昂は消え去り、代わりに深く、痛々しい眼差しが注がれていた。
「…分かってるよ」
しばらくの沈黙の後、若井が、掠れた声で呟いた。
「お前が涼ちゃんを想ってることくらい…分かってる、つもり。涼ちゃんがずっと大事にしてたあの絵日記を見て、お前がどんな奴か、俺だってずっと前から知ってたよ。」
若井はゆっくりと空を見上げ、深く息を吐き出した。
「でもさ、元貴。涼ちゃんが本当に怖がってるのは…思い出せないことじゃなくって、自分が忘れていくことで、大好きな人が傷つくことなんだよ。」
その言葉に、息が止まった。若井は心底苦しそうに、口角を薄く震わせながら微笑んでいた。
「涼ちゃん、お前から思い出を聞くたびに、思い出せない自分に絶望して、お前を傷つけてる罪悪感で潰れそうになってたんだ。…分かってあげてよ。涼ちゃんが一番守りたがってるのは、お前の笑顔なんだからさ。」
夜風が吹き抜けていく。いつの間にか、濡れた草の匂いが、ツンと鼻を突いた。
僕は地面に視線を落とし、ただボロボロと足元に涙がこぼれていくのを、止めることもできずに見つめていた。
若井の言葉が、僕の愚かな焦りを、独善的な愛を、どこまでも優しく解体していくようだった。
「…ごめん、若井…。
僕…自分のことしか考えてなかった。涼ちゃんがどれだけ苦しかったか、何一つ見えてなかった…。」
取り返しのつかない傷を涼ちゃんにつけてしまった。もう消すことはできないのだけれど、心からの、謝罪だった。
僕の俯いた先に若井のスニーカーが映った。見上げると、若井が僕に向かって、不器用そうに右手を差し出していた。
「…ほら、涼ちゃんのとこ行こうぜ。起きて一人だったら、またどっか行っちゃうかもしんないから。」
その手は、泥や草で少しだけ汚れていた。
けれどそれは、7年間という途方もない時間、たった一人で涼ちゃんの隣に立ち、彼を守り続けてきた、力強くて温かい手だった。
僕は自分の袖で乱暴に涙を拭い、その手をぎゅっと握り返した。
コメント
3件
ずっと一人で💛ちゃんの隣にいた💙くんの重みや孤独感がすごく伝わってきました😭 それに対して、7年間ずっと💛ちゃんを想い続けてきた❤️くん。その気持ちを伝え合って、傷つけ合って、弱いところまで見せ合って……。 ❤️くんの「思い出づくりのように言われる筋合いはない」っていうセリフに胸がジーンとしました🥲 私たちは❤️くん目線でずっと見守ってきたからこそ、💛ちゃんへの想いがたくさん伝わってきて、余計に泣けちゃいます😭 「💛ちゃんが一番守りたがってるのは、お前の笑顔」っていう💙くんの言葉も、優しさと切なさが詰まっていて大好きです🥲 最後に手を取り合うシーン、お互いを理解し合って、傷つきながらも💛ちゃんの元へ向かうところが素敵すぎて涙が出ました😭 大喧嘩にならず、お互いの気持ちを理解し合えて本当に良かったです😭 更新ありがとうございます✨
若井くんの「涼ちゃんが一番守りたがってるのは、お前の笑顔」って台詞、刺さりました…。ずっと一人で涼ちゃんの隣に立ち続けてきた若井の重みと、元貴の7年分の想いがぶつかって、ようやくお互いを理解し合えた夜だったんだなって。最後、泥だらけの手を差し出したシーン、泣けました。お互い傷だらけでも、涼ちゃんのためなら歩いていける。そんな強さが眩しかったです。素敵な更新をありがとうございました🥀