テラーノベル
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立ち上がり、僕らは服についた草を払ってから、足音を殺して静かに家の中へ戻った。
居間に入ると、クーラーの機械音が規則正しく響いている。冷やされていく皮膚が、妙にざわざわとうずいた。
暗く落とされた薄暗い部屋の奥で、涼ちゃんはベッドの上で穏やかな寝息を立てていた。さっきまでの激しい発作や怯えた表情が嘘のように、その寝顔はどこまでも幼く、儚かった。
若井は傍にあった椅子を引き寄せ、涼ちゃんの枕元に腰掛ける。僕はその少し後ろ、壁に背をもたせかけるようにして床に直接腰を下ろした。
二人の間に、重くも柔らかい沈黙が流れる。
さっきまでの激しくぶつけ合っていた熱が、クーラーの冷気の中に少しずつ溶けていくようだった。
「…若井。」
まっすぐな目がすっとこちらを向く。若井の視線を受け止めた瞬間、少しだけ、膝を抱える手に力がこもった。
「聞きたいことあるんだけどさ、」
「なに?」
「…絵日記のこと。」
「……うん。」
「あれ、…って、…。」
思わず声が震えて、止まってしまった。この事実を確認してしまえば、もう僕らのあの夏が綺麗に、優しく、上書きされてしまう。それが、決定してしまうのだ。
さっきの言い合いで、若井がどれ程涼ちゃんを大切に思ってる優しいやつかはよく分かった。それでも、例えこいつであっても、大切なあの夏を、僕のただ一つの、輝かしい心の堤防を崩されるのは許せなくて、同時に底知れず怯えていた。喉の奥が、からからに乾いていく。
黙ってしまった僕を見てか、若井がゆっくりと口を開いた。
「…心配しなくても、俺はあれ触ってないよ。」
言いたかったことを見破られた驚きと、なにより今の言葉が信じられなくて、ばっと顔を上げる。
少しだけ、悲しそうに微笑む若井と目が合った。
「でも、…僕の続きがあったから…。」
「…涼ちゃんが、自分で描いてたんだ。」
「え…?」
思いもよらない言葉に、僕は思わず身を起こした。床に吸い付いていた身体が、弾かれたように跳ねる。
「…自分で? だって、絵も字も、昔と全然違ってたし…。」
「病気のせいで手の細かい動きが難しくなってさ、毎日違う人の字みたいになっちゃうんだよ。一生懸命、ぎゅっとペン握ってさ…。涼ちゃんがもともとどんな字を書いて、どんな絵を描いてたのか俺だって知らない。」
若井の言葉が、冷たい水のように僕の心に染み込んでいく。堤防を守ろうとしていた頑なな心が、内側からじわじわと冷えていくようだった。
若井は静かに目を伏せ、遠い記憶を眺めるかのように薄く笑った。
「朝起きて、記憶がリセットされちゃうでしょ。でも毎朝涼ちゃんは忘れずに必ず机に向かうんだ。あの絵日記を開いて、一番最初のページから、ーー元貴と川で遊んだ日とか、ひまわり畑に行った日の日記を、何度も、何度も読み返すんだよ。」
若井はそこで一度言葉を切り、愛おしそうに、けれどどこか痛々しそうに涼ちゃんの寝顔を見つめた。
「忘れてしまわないように、大事なこの人のことを決して手放してしまわないように、自分の頭に言い聞かせるみたいにさ。それから、その日起こったすべての出来事を必死にペンを握って書き足していくんだ。手が上手く動かなくても、泣きながら、必死に描いてた。
それが2冊、3冊と増えて、いつしか文字だけの日記帳になって、涼ちゃんの部屋には今までの日記が全部置いてあるんだよ。もちろん、お前との一番最初の絵日記も。」
言葉が胸の中で渦巻いて、上手く形にならない。頭の中に、僕の知らない7年間の涼ちゃんの姿が鮮明に浮かび上がる。
記憶が消えていく恐怖と戦いながら、僕があげた一冊の絵日記を命綱のように抱きしめ、必死にペンを走らせていた小さな背中。視界が急激に歪んでいく。
「上書きなんかじゃないよ。」
若井の声が、かすかに震えていた。
「涼ちゃんにとって、あの絵日記の最初のページは…どれだけ記憶が消えても絶対に手放したくない、たった一つの光だったんだ。俺がどれだけ毎日一緒にいて、ケアして、笑わせても…あの夏の元貴には、どうしたって勝てなかったよ。悔しいけどさ。」
「若井…」
胸が締め付けられるように痛かった。上書きされたんじゃない。涼ちゃんは、僕との思い出を忘れないために、僕が渡した絵日記の中で必死に生き続けていたのだ。
そして若井は、そんな涼ちゃんの姿をずっと一番近くで見守り、支え続けてきたのだ。
僕は自分の膝に顔をうずめ、声を出さずに肩を揺らした。ボタボタと 溢れ落ちた涙が、ズボンの生地を黒く染めていく。
なんて愚かだったのだろう。自分の小さなプライドと勝手な被害妄想で、涼ちゃんの健気な思いも、若井の血の滲むような優しさも、全部全部見落としていた。
「…ごめん、ほんとにごめん、若井…。僕…何も分かってなかった。」
「…もういいよ。」
若井は小さく息を吐くと、自分の頭を乱暴に掻いた。それは、照れ隠しというよりも、溢れそうになる自分の感情を必死に抑え込もうとする仕草に見えた。
「とにかく、これからは余計な思い出話で追い詰めるな。今の涼ちゃんと、ちゃんと向き合え。…まだ夏は、終わんないんだから。」
「…うん。」
顔を上げると、枕元の若井が、どこかすっきりとした顔で僕を見ていた。
そこにいたのは、ライバルでも救世主でもなく、涼ちゃんを心から大切に想う、僕と同じ少年だった。
若井はふう、と深く息を吐き出すと、ベッドの涼ちゃんに視線を戻した。その横顔に、先ほどよりも一段と重い影が落ちる。
「…それから、もう一個、言っとかなきゃいけないんだけど…。」
心臓がドクン、と嫌な跳ね方をした。その話題の持つ深刻さを、若井の目と、この沈黙が物語っていた。
「…涼ちゃんの母さん、もう帰ってこないんだ。」
「え…?」
若井は静かに、でも、はっきりとした声で言った。
「三年前の夏に、事故で亡くなってるんだ。葬式もしたし、今はあそこの墓地に入ってる。」
頭を強く殴られたような衝撃だった。部屋の空気が一瞬で凍りついたように錯覚する。
「じゃあ、なんで…。」
なんで涼ちゃんは、お母さんの帰りを待つような顔をしていたのか。声にならない僕の疑問を察したように、若井がベッドの上の小さな手をそっと包み込んだ。
「涼ちゃんの記憶は、あの楽しかった七年前の夏で止まったり、何にも覚えてなかったり、急に一部を覚えてるままでいたりするでしょ?今日は裏の畑に行った、今日は仕事に行った、今日は旅行にいった、涼ちゃんにとっての母さんの記憶も入れ替わっちゃうんだよ。毎日、毎日ね。」
「あ…。」
言葉を失った。
涼ちゃんは、毎朝目覚めるたびに、お母さんがもういないという地獄を知らない。ただ、今日も遅いなと待ち続け、何かの拍子にその現実に触れてしまった瞬間、脳がパニックを起こして激しい発作に襲われるのだ。
僕がさっき引いたのは、その最悪のトリガーだった。
「さっきは感情的になったけど、元貴を責めるつもりはない。知らなかったんだからさ。でも、」
若井が僕をまっすぐに見据えた。その瞳には、逃れられない現実をすべて引き受けてきた、凄絶なまでの強さがあった。
「目覚めた涼ちゃんに『お母さんはもういないんだよ』って、あいつが泣き叫ぶのを止めながら教えなきゃいけない日もある。…なかなかしんどいんだよな、これが。」
若井は自嘲気味に、少しだけ笑った。唇を噛み締め、爪が皮膚にくい込んだ。若井が一人で戦ってきた日々の壮絶さが、痛いほど胸に突き刺さる。
「…これからは、僕も、」
震える声で、必死に言葉を絞り出した。
「僕も、一緒に背負う、背負いたい。」
若井は驚いたように一瞬目を見張り、それから、今度こそ本当に嬉しそうに、小さく吹き出した。
「うん、頼んだ。…お前が、涼ちゃんの初めての光なんだから。」
差し出された若井の手を、僕は壊れそうなほど強く握り返した。
何度記憶を失くしても、何度絶望が襲いかかっても、もう逃げたりしない。
止まってしまった僕らの夏を、今度こそ三人で動かすために。
「…ありがとう、若井。」
「明日からも、涼ちゃん笑顔にしてよね。」
クーラーの風が静かに吹き抜ける部屋で、僕らは二人、眠る涼ちゃんを見守りながら、静かに小さく笑い合った。
#fjsw
かめちょん
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コメント
3件
泣きました😭更新ありがとうございます😭 3人ともそれぞれ辛くて切なくて、毎日忘れてしまう恐怖の中泣きながらも❤️くんとの絵日記を読んで続きを書く💛ちゃんが切なくて大好きです😭 ❤️くんその言葉で少しは救われたんじゃないかな。 そして💙くん、ずっとひとりでそばにいて支えてたんだね😭 誰も悪くないからこそ切なく苦しく、儚く尊いなと思いました。 お母さん、そうだったんだ😭😭💛ちゃんを想うと苦しくてたまりません😭 3人で支え合って幸せになれますように😭✨
ああ、第16話めっちゃ良かった……。 若井と元貴が涼ちゃんの寝顔の前で、お互いの本音をぶつけて分かり合うシーン、心に沁みたわ。 特に、涼ちゃんが毎日必死に絵日記を書き継いでいたっていう真実にはやられた。元貴にとっての“夏の思い出”が、実は涼ちゃんにとっても絶対に手放したくない光だったんだなって思うと、涙止まらなかった。 若井の「勝てなかったよ」って一言に、彼の7年間の苦悩と愛情が詰まってた。 これから三人で動き出すラスト、続きが待ち遠しいよ。かめちょんさん、ありがとう。