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「一万番! どこ行ったあ?」
放牧された家畜たちが小屋へと戻り始める頃、温かな木漏れ日によって斑に塗り染められた森の中、少年エルが木々の向こうに呼びかけながら歩いてゆく。
春の訪れを寿ぐ小鳥の囀り、清浄な朝露に濡れた土と僅かな陽光に喜ぶ草の香り、慣れた光と音と匂いを感じつつも、エルは慣れない焦りに歩を早める。
十にも満たないあどけない少年は、しかし生の営みと実直に向き合っている者の精悍な顔立ちで、鋭い眼光を木陰に向けて、敏い耳で平常との違いを聞き分け、優れた鼻で獲物を探る。身に着けているのは素朴な麻の衣に革の草履で、袖をひっ詰めた動きやすい格好で下草を踏み分けて進んでいく。
その時、どこかから聞こえてくる高く震える不安定な鳴き声は幼い山羊のそれだと分かる。まるで下手な喇叭のような響きを聞いて、エルは探し求めていた迷子の幼子の無事に安堵した。
「ヤック! そっちか?」
仔山羊の気配を探るように少年は森の中を突き進み、低い枝を掻き分け、飛び出した根を踏み越え、白い毛むくじゃらの気配の直ぐそばまでやって来ると藪も構わず飛び込んだ。
するとそこで暢気な仔山羊が草を食んでおり、直ぐそばには乾いた血に塗れた男が倒れていた。エルは飛び上がって小さな悲鳴を漏らすが、仔山羊のヤックが男に興味を示して近づこうとするので、すぐさま引き留めるべく必死に首を掴んで引っ張る。無理に引っ張ったためにヤックが抵抗するように騒いだせいか、さっきまで眠っていたらしい男がぱちぱちと瞬きをし、錆びついた体を慣らすように身じろぎする。エルは今度は悲鳴をあげず、じっと男の様子を見守る。
「誰だ? 誰かいるのか?」
重い体を何とか起こした男は仔山羊の首に縋る少年に、土に汚れた顔を向けて目を細める。
エルは体も口も強張って何も言えず、ヤックは抵抗を止めつつも圧政者に抗議するように鳴き続ける。
「やあ、こんにちは」と男が皮肉っぽい笑みを浮かべて挨拶をする。「俺は猛き人。君は? 近くに村でもあるのか?」
男はぼろぼろになった鎧をまとっている。傷つき、凹み、血に汚れ、留め具が外れて、一部がぶら下がっている。
「僕は、エルって呼ばれてる。おじさん。どこから来たの?」
「うん? 君は聞いたこともないと思うが、遠い北方の土地だよ。戦のためにこの辺りまで来て、しかし負け戦に敗走している道中ってわけさ。情けないことにね」
「怪我、大丈夫?」
少年エルは黒い円らな瞳で赤に塗れた男を恐る恐る眺めている。
「ああ、俺は大した怪我はしていない。これは返り血ってやつさ。相手を斬った時に、こう……」イグスは誤りに気づいた様子で口を噤み、開く。「まあ、こんな話はいいか」
それでもエルは尋ね続ける。心配と好奇心が半々だ。
「外は怖いところだって聞いていたけど。本当に大丈夫?」
「ああ、まあ戦争はどこでも誰かが酷い目に遭うものだな。だが私は大丈夫だよ。ご心配なく」
「飼う者を呼んでこようか?」と少年は心配そうに尋ねる。
「ペタ……? 村の偉い人か何かかい?」
「うん」エルは真摯な面持ちで頷く。「沢山家畜を飼ってる人だよ。牛とか、鶏とか、豚とか。あと蜂。ヤックもそう。僕も面倒の見方を教わってる」
そう言ってエルは短い角の生えたヤックの頭を撫でる。
「地主か何かか。いや、無闇に怯えさせるだけだろう。君の集落にお世話になるつもりはないし、すぐにここを立ち去るから黙っておいてくれ」
「お腹が空いてたりしない? ヤックは食いしん坊だからすぐに沢山草の生えてる場所に逃げちゃうんだ」
「いや、大丈夫だよ。疲れが酷くて何も口に入りそうにない。それに明日の朝にはもう発つからね。心配はご無用だ」突然イグスが咳き込み、しかしエルが何か声をかける前に先回りする。「この咳も大丈夫だ。風邪でもひいたかな。さあ、俺は君に頼みごとをするんだから何かやれるものはないかな?」イグスは寝ころんだまま腰に下げた革袋を開く。「どうだ? 何か欲しいものはないか?」
イグスが無造作に取り出した羊皮紙を広げる。そこには色鮮やかな絵が描かれている。
「それは何?」
「これは地図だな。大体この辺りが君たちの里の位置だ」イグスが指し示した場所には山や森らしきものが描かれている。「そして俺はこの辺りから来た。雪と氷の辺鄙なところさ」
イグスの指し示した場所はほぼ白一色だったが、皿や枝を組み合わせたような複雑な何かが描かれている。
「貰ってもいいの?」
「ああ、どうぞ。俺と君の正当な取引だ」イグスがひらひらと揺らす地図を、エルは恐る恐る手を伸ばして引っ掴み、目の前に広げて食い入るように見つめる。その地図の後ろからイグスに呼びかけられる。「それより君、もう日が傾いている。帰らなくていいのかい?」
まだ赤みを帯びるほどではないが、夕暮れ時に一人で子供がうろついて、良い顔をする大人はいない。エルは葉叢に隠れた空を見上げて、小さく頷く。
「うん。僕もう戻らなくっちゃ。それじゃあね、おじさん」
「ああ、さようなら」
地図を折りたたんで懐に仕舞うと仔山羊のヤックを引っ張りつつ、追い立てつつ、エルはイグスのもとを去る。一度だけ振り返るが、イグスは再び眠りに就こうと、木の根を枕に横たわっていた。何度か咳き込むのが聞こえたような気がしたが、逸る思いが立ち止まらせなかった。
エルは心臓が胸を衝いていることに気づく。見たことのない人間と話すのは初めてだからか、あるいは懐に秘められた外の世界に惹かれてのことか。
働き蜂たちも採蜜の遠征から戻り、巣箱でがさごそと慌ただしく働き始める頃、夕食の時間になり、里の皆が一所に集まってくる。ペタルーゾアの屋敷であり、里の集会所でもある食堂だ。男も女も老いも若きも一同がいつも通りの決まった椅子に座り、その時を待っているとペタルーゾアが料理を運んでくる。
ペタルーゾアはとても大きな女性で、少し背が曲がっているが、それでも他の大人の倍の背丈だ。だから屋敷の天井も特別に大きい。肌は白樺の木のように白く、ざらついていて、八つの腕が脇腹から生えており、背中には蝶のような翅が生えているが、いつもは裾のように垂らしている。常に柔和に微笑んでいて、優しい穏やかな声で語り掛ける。誰隔てることなく平等に接する立派な人物だ。皆と違う姿なのは魔法使いだからだ、とエルは理解している。
この里には欠かせない魔法使いで、あらゆる家畜を使役し、屠殺も料理も得意だ。この里が外のどんな集落よりも平和で牧歌的なのはペタルーゾアのお陰だということをエルはよく知っている。
料理を運んでくるのはペタルーゾアとペタルーゾアに飼い慣らされた山羊たちだ。山羊の背中に固定された台には山盛りの料理が乗っていて、各机に運ばれる。ペタルーゾアがそれを平等に取り分けてくれる。
温かで香ばしい料理が皆の前に並べられていく。それらはもちろんペタルーゾアが飼っていた家畜の肉が主な料理だ。幾らかの野菜や茸、乳製品も含め、複雑で豊富な香りと味が皆の心と体を満たすのだ。
しかし今宵のエルだけは気も漫ろで、懐に秘められた好奇心に疼いている。
「さあ、皆さん。今宵も楽しい夕餉としましょう」ペタルーゾアがよく通るが甲高いわけでもない声で皆に呼びかけた。「ただし、その前に一つ確認しておかなくてはなりません。エル君。ヤックが柵から逃げたというのは本当ですか?」
呼びかけられたエルは立ち上がる。
「はい、本当です。森の方へ逃げたので僕が連れ戻しました」
「それは良かった。ありがとうございます」ペタルーゾアは心底安心した様子で穏やかな息をつく。「家畜は宝。皆さんの生きる糧です。大事にしてくださいね。だけどエル。逃げた場合、追いかける前に逃げたことを報告するようにしてください。あなたが姿を消して、私はとても心配したのですよ?」
ペタルーゾアの潤んだ眼差しと僅かに震える声を受けて、エルもまた悲しい気持ちになり、心底自身の不手際を反省する。
「ごめんなさい。忘れていました。次からは気を付けます」
「そして事後報告すら無かった」ペタルーゾアはより一層悲し気に表情を歪ませる。「皆さんを心配させまいというエルなりの心遣いでしょうが、隠し事はよくありません」
「はい、すみません」
「他には何も、隠し事はありませんか?」
ペタルーゾアが尋ね、エルの脳裏にイグスのことが、そして地図のことがよぎる。外から人がやって来たことは仔山羊が一匹逃げることよりもずっと皆を恐れさせるだろうことをエルはよく知っていた。地図を貰うこと自体は何も悪いことではないはずだが、イグスのことを黙っておきたければ、地図のことを隠し通さなくてはならない。エルは胸が痛んだが、これは正当な取引だ、と心の中で繰り返す。
「いいえ、何も。ヤックが逃げて、連れ戻したことだけです」
ペタルーゾアは柔らかに微笑んで頷く。「そう、それなら良いのです。では皆さん。お待たせしました。お食事を始めましょうね」
糧をもたらした神々の業とペタルーゾアに感謝しつつ、食事を始める。
誰もが塩気と甘みに満ちた豊かな料理に喉を震えさせ、大人たちは蜂蜜酒で魂を震わせる。今日一日の間に起こった様々なことを正直に語り合い、冗談を言い合い、笑いさんざめく。
その間、ペタルーゾアは少し離れた所で椅子に座り、ただにこやかに笑みを浮かべて皆の幸せそうな様を、幸せそうに眺めている。それがいつもの夕餉であり、朝も昼も変わらない。
その時、一匹の蜂がどこからか飛び込んできた。食事する皆の間を飛んできて、ペタルーゾアの肩に当たり前のようにとまる。蜂はぶんぶんと翅を鳴らし、ペタルーゾアは応えるように何事かを囁く。
その視線が自分に向いているような気がして、エルは食事の手が止まってしまった。いつもと変わらない優しい眼差しのはずだが、エルの頭の中か、懐の中を刺し貫いているように感じた。冷たい汗が背中を伝うとペタルーゾアの視線から逃れるように皿に目を落とす。しかし食べかけの肉やかけ汁、野菜の描く混沌が罪深い地図のように見えて目を瞑る。
ペタルーゾアは一部の家畜に芸を仕込んで、皆を楽しませることもする。中にはとても賢い家畜もおり、ペタルーゾアの仕事を手伝いもする。
「皆さん」ペタルーゾアが立ち上がり、皆に呼びかける。「少し用事が出来ましたので今宵の片づけはお任せします。お休みなさい」
ペタルーゾアはそう言い残すと食堂から早歩きで出て行ってしまった。隠し事を皆の前で暴かれることはなかったが、エルの胸の内に立ち込める黒煙のような不安はさらに募る。
イグスのことがばれたに違いない。イグスはどうなってしまうのだろう。ペタルーゾアが、隠し事をしたエル自身を叱るのではなく、イグスの元へ赴いたことで、まだ具体的に何が起こるのか分からない内から罪悪感が鎌首をもたげたのだ。
ペタルーゾアが何か悪感情を示したり、暴力をふるったりしたことは一度だってない。だがそれは同じ里の仲間だから、かもしれない。恐ろしい外から来た人間に、同じように振舞うとは限らない。
エルはたまらず席を立ち、便所に行ってくると言い訳してペタルーゾアを追う。追っていることがばれないように静かに、しかし追い付けるように素早く、ヤックとイグスを見つけた森の方へと急ぐ。
星影も僅かな暗い森の奥から張り詰めた様子の話し声が聞こえた。ペタルーゾアとイグスの声だとすぐに分かる。間に合わなかったのだ。エルは親を見失った仔のように息を潜めて、会話の聞こえる距離まで近づく。
「何を恐れているのですか? 私たちは敗残兵の身ぐるみを剥いだりしませんよ?」
「姿を見せない者を警戒するのがおかしいか?」
ペタルーゾアの声はいつも通りに落ち着いているが、イグスの方は警戒心を露わにした刺々しい声だ。
エルは気づかれないように二人の姿が見える場所へと移る。どうやらペタルーゾアは木の裏に身を隠して話しかけたらしい。当然何も知らない者にペタルーゾアのあの姿を見せたなら警戒されるだろう。イグスの方は木を背にして剣を構えている。既に、ペタルーゾアの声がかなり上の方から聞こえてくること自体に恐れを成している様子だ。
「丁度今、里の皆で食事をしています。あなたも私たちの一員となってご一緒しませんか? 私が姿を見せるのはその後でなくてはなりません」
「そんな怪しい条件で『はい、そうですか』となると思うのか? こちらは何か手出しするつもりはない。放っておいてくれ」
「私もそうです。ただこの里で共に暮らしましょうと言っているのです」
重い沈黙を経てイグスが答える。
「分からない。どういうつもりなのか、まるで分からない。分かるように説明する気もないらしい。ともかく私は故郷に許嫁を残している。この地に留まるつもりはないんだ。恐れているというのなら、そちらこそ何を恐れているんだ? ここのことを黙って欲しい、そういうことか? それなら神と父母と許嫁に誓って決して口外しないと誓おう」
「その通りですが、あなたの誓いなど信用なりません」
イグスが苦笑する。
「ならば私がここに留まると言ったところで信用してはくれないというわけだ」
ペタルーゾアは溜息をつく。「そういうことになりますね。結局のところ信用というのは積み重ねでしょう。ここで日々を暮らしてくだされば、いずれお互いに信用し、信頼できるはずです」
「言うことは一々尤もだがな――」イグスが咳き込み、染みついた礼儀が漏れる。「ああ、失礼」
重苦しい沈黙が垂れこめ、ペタルーゾアがその暗雲を切り開く。
「あなた、病気なんですか?」
「ん? ああ、風邪だとは思うが」
「そうですか」ペタルーゾアは大きな溜息をついた。「では話は変わりますね。来ることも去ることも許されません。さようなら」
と同時に地響きのような震えが空から降ってくる。大量の蜂の翅の音だ。まるで空から飛来した怪物の唸り声のように森をざわつかせる。
イグスの野太い悲鳴が一瞬聞こえるが、すぐに喉が詰まったかのように声が枯れる。エルは涙と悲鳴を堪え、食堂へと静かに、急いで戻る。
翌日はエルが当番する仕事の何もない休日だった。蜂の羽音とイグスの悲鳴が耳の奥にこびり付き、誰かと遊ぶ気にもなれず、里をぶらぶらと歩いていた。家畜たちの朗らかな鳴き声や温かな南風の梢を揺らす音、皆が働く当たり前の光景がどこか遠くの出来事のように感じられた。そして気が付くと森のそばまでやって来ていた。
どうしてペタルーゾアはこの里のことを外に知られたくないのだろう。一体何を隠しているのか、内にいるエルにも思い当たらなかった。少なくともイグスがこの里で暮らすとして、身の危険があるはずはないとエルは確信していた。何故なら外から来た人間など既に何人もいるからだ。そして誰もが出て行くことはなく、平穏に暮らしている。里の外と同様に誰もが天に定められた死すべき定めの日に死ぬ。その間、外と違って少なくとも飢えることはない。
エルはそう教わって生きていた。しかし、もしかしたらペタルーゾアには隠し事があるのかもしれない。
「……エル? そこで何をしているのですか?」ペタルーゾアの呼びかけに気づかず、森の奥の闇に魅入られたようにエルはじっと見つめて、心の奥深くに潜って思索していた。「エル? ……エル? 九千五百七十八番!?」
正式な名前を呼ばれてエル・メ・リッサはびくりと体を震えさせ、振り返る。
「あ、ペタルーゾア」とだけ呟く。
心の片隅に気配を感じる恐怖のことはおくびにも出さない。
ペタルーゾアは先ほどまでのエル・メ・リッサの視線の先をつぶさに観察しているが、もちろん何も見つからない。
「森に何かあるのですか? 今日は当番ではありませんよね?」
「いいえ、何も。暇でぶらついていただけです」
「そうですか。それではお茶でもどうですか?」
「はい。ご相伴に与ります」
蝶の翅を引きずる大きな背中の後をついていきながら、懐の中の羊皮紙の僅かな重みを感じ、エル・メ・リッサは確信する。自身がいずれこの里を出て行くことを。