コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
夜遅く帰ってくる夫に愕然とした。明日は、会社の方々とキャンプに行く予定。そう前々から伝えてあったのになんで――飲んで帰ってくるのか。
馬鹿なのか。
普段なら詠史を寝かせ、同じ部屋で自分も眠るわたしだが、今回は起きていた。日付が変わる頃に夫は帰ってきて。待っていたわたしにただいまも言わずさっさと風呂に入りスマホをいじって。頭に来たので、洗面所に行き、風呂場の扉越しに声をかけてやる。
「あなた明日キャンプなのよ? 覚えている?」洗面所の時計を見た。正確には今日だが。……ため息が出る。
「はぁー」気の抜けた様子で夫が、迷惑そうな声音で、「……ってか風呂くらいゆっくり入らせてくんない? 邪魔なんだよ」
そこまではっきり言わなくても。
すごすごと引き下がり、むかついたので、筋トレをして汗だくになって、でも、夫が長風呂をするから、汗拭きシートでごまかして熱を冷やして布団に入った。
畜生。
別に、会社のみなさんに夫を自慢したいわけではない。自慢する要素なんてない。
けども。社会人として――。
交流の場があるのなら、参加するのがルールではないのか。
あの様子だと寝るのが一時を過ぎるだろうしどうせ無理だろうな――と思っていたら、案の定。
広岡さんが車で我々親子をピックアップしてくださるのが朝の八時前。買い出しも途中で行く、とのこと――なのに。
このひとは。ひとり、キングサイズのベッドに寝たままうだうだ肌着姿のままスマホをいじり、「だりー。おれ行けないから適当に言っておいて」
前々からの約束だったよね? なんで破るの? 会社のみんなの前でわたしに恥をかかせたいわけ??
頭にきたが、そんなことでいちいち怒っていてはとても、このひとの妻などやっていられないので……そして一生やっていくつもりもないので、支度をして、詠史に声をかけ、グレープ味の酔い止めを飲ませ、準備を整える。
エレベーターを降りる時間も沸々と湧く自分の怒りと向き合っていたのだが。――その姿を見た瞬間、霧散した。
広岡さんは、スタイリッシュなグレーの車に。黒のポロシャツに、淡いグレーのチノパン姿で現れた。足元は珍しくもビルケンシュトックのサンダルで。キムタクの車のCMばりに気絶しそうなくらいに格好がよかった。
かつ。……仕事のときはタイトにアップしたヘアスタイルが……違う。さらさらな前髪を下ろした少年のようなスタイルで胸がきゅん……とした。
うわぁ。広岡さん、プライベートと職場とで、『変える』スタイルなんだ……エッモ……。
しかも、後部座席にふたり座るのもアレなのでと、わたしは、広岡さんの隣の助手席に座る羽目となってしまった……うわわ……。
車内はある種の密閉空間。しかも、まるで彼女のごとく、こんな素敵な広岡さんの隣に座っているだなんて。
目的地までわたしの心臓、持つのでしょうか??
どぎまぎしながらも、逸る鼓動を押さえ、広岡さんが流してくれたVaundyに聞き入った。くだらない、とか、断崖絶壁とか好きなんだよねバウ君って。MVも好きだしクオリティが高い。いつか、生ライブに行ってみたいなぁなんて思うけれど。どうだろうなぁ、詠史は聴かないから無理だろうなぁ。親子でライブ観戦って永遠に憧れなんだけれど。
ちら、と広岡さんを盗み見る。うわぁ……格好いい……前を向いたその理知的な横顔。全体に華奢な印象なのに、男らしく太い首。ぼこっと出た喉仏がセクシャルで。半袖から伸びた男らしい筋肉質でのびやかな腕がその先がハンドルを握っている……わたしのこころのハンドルを握っているのはあなたなんですよ広岡さん……。
男の人を素敵だな、と思ったのは、広岡さんが初めてかもしれない。久々に味わうこんな感情。ママだけれど。日常に戻ったらちゃんとママに戻るからいまだけは……許して?
一度トイレ休憩でパーキングエリアで降りて、詠史に、ソフトクリームを買ってくれていた広岡さんに感激した。……しかも。
わたしのぶんまで……。
隣を通り過ぎた女の子たちが露骨に振り返った。「……ヤバ。いまのひと、格好よくない?」
「えー超美男美女じゃん」
「こらこらあなたたち。……でも、素敵ね……」
なんて言っている女の子たちをいさめるおばあさんらしきひとがいて、目が合って会釈した。……わたしたち……。
そんなふうに見えているんだ……。
見れば、広岡さんは、耳まで赤くしている。「えっとごめんおれ……なんか」
「いえそんな」とソフトクリームを受け取り、わたしは、「わたしのほうこそ、変な誤解させて……迷惑ですよね……ごめんなさい」
「め、迷惑だなんてそんな……」ぶんぶんと首を振る広岡さんは。会社では鉄壁の、隙のない完璧な上司なのに……そんなところがあるんだ……。「ぼくはむしろ嬉しいよ。寂しい独り者だからね」
といっても、広岡さんほどのビジュアルの男子であれば、相手には困らないはず。
パーキングエリアに寄っても、目をハートにさせる女の子たちを何人も見かけた。芸能人張りのルックスでなにを言っているのよ。
「相手が誰でもそんなふうに言うんですか?」……軽口を叩いてみた。いまなら許されるかなと思って。「広岡さんほどのイケメンでしたら相手に不自由しないでしょうに」
垂れて来たらしく、詠史は、ぺろぺろとソフトクリームを舐める。わたしが自分のぶんにかぶりつく――と。
「きみが相手だからぼくは嬉しい」
聞き違いだったのだろうか。顔をあげた。すると……まっすぐに見てくる広岡さんの目に、射抜かれる。
胸がどきん、と音を立てる……こんな感情……ずぅっとずぅっと味わってこなかった……夫に対してでさえも……。
ある、熱っぽい感情を宿して見えるのは気のせい……だろうか?
「ぼくがきみの旦那さんだったら……よかったのにな」さ、と詠史の背に手を添えた広岡さんは、「食べながら行こうか。……詠史くん。今日は、おじさんのことを、パパだと思ってくれて構わないよ?」
「えっほんと?」
「こら詠史」
「いいじゃない。……おれは、甥っ子姪っ子がいるから、こういう子どもがいるのが夢だったんだ……今日くらい、家族ごっこさせて?」
迷惑なはずなんかない。むしろ――。
「そっか。MODはやっぱりやりたくなるもんだよねえ」
マイクラ談義に花を咲かせつつ車へと戻るふたりを見守るわたしのこころのなかには、芽生えかけた恋の嵐が吹き荒れていた。
*