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「俺、凪誠士郎。よろしくね」
入院している私の病室に突然入ってきた彼はそう言った。
「……………はじめ、まして?」
その日から、凪くんは私の話し相手になった。
・ ・ ・
元々私は昔から忘れっぽかった。
買い物に行っても、買う物を書いたメモを忘れたり。
普段はわかっている漢字を、突然忘れて書けなかったり。
物を取りに戻っても、何を取りに戻ったのか忘れたり。
今日だと思っていた約束が、明日だったり。
流石に家の鍵を開けっぱなしで出掛けたときは親に怒られたけど。
それでも忘れっぽいなぁ、と今までは笑い話で済んでいた。
でも流石に忘れっぷりの度が過ぎてきた頃、病院に行ったら私は健忘症とかいう病気と診断されてしまった。
最近覚えたことだったり昔のことだったりを唐突に忘れてしまうらしい。
やがて身体の動かし方も忘れて、喋り方も忘れてしまうこともあるかもしれないらしい。
自分ではあまり自覚がないんだけど、とりあえず入院しないとやばいということで毎日入院していると、当然親も毎日はお見舞いに来なくなるわけで。
暇を持て余していたある日、突然私の病室にやって来たのが凪くんだったのだ。
「凪くんはどうして私の病室に来たの?」
と聞いてみても、
「なんとなく」
というなんとも要領の得ない返事しか返ってこないため、深く聞くのを諦めた。
もしかしたら私が忘れているだけで凪くんは知り合いだったのかもしれない。
わからないけど。
聞いてみたい気もするけど、忘れていたら失礼だからなんとなく聞くことが出来ないでいる。
凪くんは病室にほぼ毎日夕方に来てくれるけど、特に何をするでもなく携帯でゲームをしていたりぼーっとしていたりで、面会時間が終わるまでいてくれるけど、そのまま帰ってしまう。
また明日、と言って。
「凪くんは退屈じゃないの?毎日来てくれるけど」
凪くんが来てくれた日に聞いてみたことがある。
「んー、別に」
「凪くんはどうして……ほとんど毎日会いに来てくれるの?」
「友達になったから」
「……私と?」
「うん」
友達。
病気になってからはじめての友達。
その日、私は日記を書いた。
新しいノートの1ページ目に。
『私の友達第一号、凪誠士郎くん』
・ ・ ・
ふわふわの髪、くりくりした瞳、大きな身長。
凪くんの特徴を日記にたくさんまとめて書いておく。
「何してるの?」
私の日記帳を覗き込んだ凪くんがそう問いかけてきた。
「凪くんも毎日病室に来れるわけじゃないし、凪くん観察日記でもつけようかなって」
「へー、めんどくさいことしてるね」
「『凪くんの口癖はめんどくさい』……って、今書いといたから」
「それは余計な情報じゃない?」
「いいの。凪くん観察日記だから」
私が笑ってみせると、凪くんもいつも通りのぼんやりした顔で私のことを見ていた。
「『凪くんはいつも眠そうな顔をしています』って書いておくね」
「それも余計な情報じゃない?」
「いいの」
たくさん凪くんのことを書いておかなくちゃ
凪くんのことを忘れてしまわないように。
・ ・ ・
「私って彼氏とかいたのかなぁ」
ある日ふと凪くんが来てくれたときにそう言ってみると、
「なんで急に?」
って言われた。
「うーん、私って今二十歳らしいのね、でも高校生からの記憶がすぱーん、って抜けてて、今一人暮らししてたのか実家暮らししてたのかすら覚えてないの。幼稚園の頃の記憶ならあるんだけど」
凪くんは特に何を言うでもなく私のベッドの傍の椅子に座った。
そこはすっかり凪くんの定位置になっている。
「どう思う?私に彼氏いたかな。……あーでも、私元々忘れっぽかったから、鈍臭くてモテないかも」
「いると思う」
凪くんが心なしか力強く頷いた。
「君可愛いし」
「……えっと」
「なんで自分から聞いてきたくせに照れてるの」
「いや、だってそんなストレートに言われると思ってなくて」
凪くんって多分モテるんだろうな、と思う。
普段凪くんが何をしている人なのか知らないけど、もし普通に出会えていたらきっと私は凪くんのこと好きになってたんじゃないかなって思う。
「凪くん、次から簡単に可愛いね、とか色んな人に言っちゃダメだよ」
凪くんのことを好きになってしまう人が続出してしまう気がする。
「……元々君にしか言わないけど」
「そういうところがダメだと思います」
今日の日記に書くことは決まりだ。
『凪くんは天然タラシ』。
・ ・ ・
凪くんが病室に来ない日も当然ある。
それはそうだ、凪くんはいつも夕方に私の病室来るし、ちゃんと仕事をしている人なのだろう。
患者さんは携帯の持ち込みは禁止だから、凪くんと連絡も取れない。
凪くんと会えない日は寂しいなぁ……そんなこと、凪くんに直接言ったら迷惑だろうけど……と思っていると、看護師さんに言われた。
「今日はいつものお見舞いに来てくれる凪さんはいないのね」
「はい」
「いつも夕方に来るし、忙しいのかしら?」
「きっと、サッカーの練習が長引いてるとかそういう感じだと思います」
「え?凪さんってサッカーやってる人なの?」
「……………えっ?」
不意に口を突いて出た言葉。
私は凪くんが普段何をしているのか、なんの仕事をしているのかすら聞いたことなんてないのに、なんで今サッカーと言ったんだろう。
どこかで聞いたことがあるのだろうか。
でも、どこで?
「あ、えっと……私の勘違いかもしれないです」
看護師さんにはそう言ったけど、私には確信めいた何かがある。
きっと、話したのだ。
……私が忘れていただけで。
突然病室に来てくれた凪くんと出会ったあの日は、きっと初対面なんかじゃない。
だって、偶然だったらほぼ毎日私に会いに来てくれる訳がない。
なのにあの日はじめて出会ったってことにしたいのは私だ。
凪くんを忘れてしまったなんて信じたくなかった。
『凪くんとはじめて出会ったのは、いつ?』
日記に、そう書き込んだ。
・ ・ ・
「凪くん、久しぶり」
久しぶり、といっても3日ぐらいだけど、退屈な入院生活をしていると3日がとても長く感じる。
「うん、久しぶり。会いたかった。充電させて」
「充電って何?……いいけど」
と言いながら、はい、と私は凪くんに手を差し出す。
「握手って充電の代わりになるかな?」
「んー、こっちがいい」
ぎゅ、と一瞬抱きしめられて、何が起こったのか理解出来なかった。
「はい、ありがと」
本当に一瞬であっさり凪くんは離れだけど、私はパクパクと口を動かすことしかできない。
「何?充電していいんじゃなかったの?」
「……こういうのだと思ってなかったの!」
私、絶対今顔が赤い。
「もう一回しとく?」
「しません!!」
そうやって凪くんはすぐ人をからかって……と言いかけながら、そういえば凪くんはいつも家に帰って来たとき、充電と言っていつも私を……。
いつも、私、を…………?
「え……?」
今の、なんだろう。
まるで凪くんが私の家に帰ってきて、ただいま、と言って私を抱きしめていたのは。
私の記憶なのだろうか。
「どうしたの?」
気が付けば、目の前で凪くんが心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫?顔色が悪いけど」
「……うん、大丈夫」
ばくばくと心臓がうるさい。
ねぇ、凪くん、あなたは何者?
「ねぇ、凪くん。私と凪くんが出会ったのは、つい最近、私の病室に凪くんが来てくれたときだよね……?」
「………………そうだよ」
ほら、凪くんもそうだって。
そうじゃなきゃだめだ。
だって、だってだって。
そうじゃなかったら私、凪くんのこと、何も思い出せない。
私、思い出せないのに、どんどん凪くんを好きになっていく。
『凪くん、今日私ね』
……あれ、今日の日記は何を書けばいいんだっけ?
・ ・ ・
夕方、私は『 』が来るのを待っていた。
今日も『 』は来てくれるだろうか。
…………あれ、『 』って、誰だっけ。
ガタン、と音を立てて慌てて私はベッドの横に備え付けられている小さな机の上に置いてある日記帳を開く。
『私の友達第一号、凪誠士郎くん』。
そう書かれたページを見て安心する。
凪くん、凪くん、凪くん。
そうだ。
今なんで名前が思い出せなかったんだろう、こんなに毎日会うのを楽しみにしていたのに。
「ただいま〜」
凪くんのいつもののんびりした声が聞こえた。
今日も来てくれたらしい。
病院に来たのにただいまって言うのは変だけど、今はいつも通りの凪くんにとても安心する。
「……凪くん」
「ん、何?」
「……」
私は凪くんに駆け寄って、ぎゅう、と凪くんのことを思い切り抱きしめる。
「……どうしたの」
「……凪くんを充電してるの」
こうでもしてくっついていないと、また凪くんのことを忘れてしまいそうで怖かった。
凪くんは急に抱きついた私を抱きしめ返してくれる。
「何かあった?」
「……ううん、何も。何もないの」
そう、何もない。
私は凪くんを忘れてしまったら、何もなくなってしまう。
「……」
多分……ううん、絶対凪くんは私の様子がおかしいことに気付いている。
でも凪くんは深く理由を聞かずに私が離れるまで私のことをずっと抱きしめてくれていた。
それだけでとても安心できる。
私は、凪くんのことを絶対に忘れたくない。
私は……凪くんのことを好きになりかけていた。
ううん、好きなんて言葉じゃきっと足りない。
でも私の気持ちを伝えることはできない、だってこの気持ちもいつか忘れてしまうから。
だからどうか、今だけは私だけの凪くんでいて。
そう願いながら私は凪くんにずっと抱きついてしまった。
『きょうはなぎくんとじゅうでんしあった。なぎくんはずっとわたしをだきしめてくれた。あたたかくて、とてもやさしいひとだとおもった』
いつしか日記に書く文字は漢字すら思い出せなくなっていた。
・ ・ ・
白い、ふわふわした髪の男の子が病室にやって来た。
「ただいま〜」
ただいま、なんて変な人。
この病室に来たことがあるみたいな。
もしかして誰かと病室間違えてるとか?
「……………あ、花瓶のお花枯れそう。新しいの買おうか?あー、でもお世話がめんどくさいか」
なんて言いながら、当たり前のように私のベッドの横に座る。
まるでそこが定位置かのように。
あぁ、じゃあやっぱり知り合いなのかも。
お花のお世話がめんどくさいなんて、めんどくさがり屋すぎるでしょう、変な人。
もしかして、あなたは私の知り合いですか?
そう口を開きかけたとき、
「あら、今日も来てくれたんですね凪さん」
看護師さんが目の前の彼を見て言った。
凪さん、へぇ、凪さんって言うんだ。
下の名前かな、それとも……。
「……な、なぎ、凪くん」
「ん?」
急に名前を呼んだ私を不思議そうに凪くんが見る。
そう、凪くん、この人は凪くんだ。
なんで今の今まで忘れていたんだろう?
昨日だって、会いに来てくれていたというのに。
「………はぁ、……はぁ、………は、っ、ひ、ぅあ……」
息が苦しい。
息が出来ない。
「大丈夫ですか!?」
看護師さんの声が遠くに聞こえる。
凪くんの驚いた顔が見えた。
そこで、私の意識は途絶える。
・ ・ ・
次に目が覚めたとき、病室は真っ暗だった。
患者さんが発作を起こしたとき、精神を安定させる注射を打つって前に先生が言っていたことを思い出した。
凪くんはもういない。
面会時間が過ぎて帰ったのだろう。
せっかくお見舞いに来てくれたのに話せなくて、悪いことしちゃったな。
明日凪くんに謝ろう。
……明日も、私は凪くんを覚えていられるのだろうか。
私は眠れなくて、眠くなるまで日記を読もうと思い日記帳に手を伸ばす。
凪くんと出会ってからの日々を振り返るために。
これ以上忘れないために。
だけど手に力が入らなくて、掴みかけた日記帳を床に落としてしまう。
「……もう」
しょうがない、とベッドから起き上がって、ベッドの下に滑り込んでしまった日記帳を手に取る。
日記帳を拾い上げると、ベッドの下にもう一つ日記帳があることに気がついた。
どうやら今使っているものより古い日記のようだ。
なんとなく、ぱら、と日記をめくってみる。
最初のページに写真が挟まっている。
サッカーチームのユニフォームを着た凪くんと、多分試合を見に行ったらしい私が笑顔で、隣同士でくっついている写真。
写真の裏に『大好きな凪くんと私、凪くん優勝おめでとう』と書いてある。
そして日記の1ページ目にはこう書かれていた。
『凪くんと同棲を始めたので、日記を書こうと思います』
次のページをめくる。
『凪くんと同棲のルールを決めました。ただいま、おかえりって言ったら毎日充電という名のぎゅーをすること』
……何ページか飛ばして日記帳をめくる。
『今日、健忘症ってお医者さんに言われてしまいました。今すぐ入院しないといけないそうです。私は凪くんのことをいつか忘れてしまうので、別れようと言いました』
……次のページをめくる。
『さようなら、凪くん。入院することは伝えたけど、何処へ行くかは教えません。もしいつかまた凪くんに会えたときに私が凪くんのことを忘れてしまっていたら嫌だから。
追伸 この日記を読んだ人へ。凪くんに伝えておいてください。 私が生まれ変わったら今度は私と友達になってくださいって。前に海に行こうって約束したのに行けなくなっちゃってごめんね。あと、この日記を読んだ人は私が読まないように、しまっておいてねって、伝えてくれると嬉しいです。きっと私が凪くんに直接伝えたら泣いちゃって凪くんを困らせてしまうから、私の代わりに伝えてくれると助かります』
そこで日記は終わっていた。
私が読まないように、って1ページ目に書いておかないと意味ないじゃん私の馬鹿。
全部読んじゃったよ。
だけど笑ってしまうぐらい日記に書かれている出来事は思い出せない。
まるで小説の出来事のようにどこか他人事だ。
凪くんと私はとっくに恋人同士だった。
だけど、凪くんは無理やり私に記憶を取り戻させることはしないで私と友達でいてくれた。
誰かが日記の内容を凪くんに教えたのだろうか、だから凪くんは私と友達でいてくれようとしたのだろうか。
その考えはすぐに違うとわかった。
日記の裏に、油性ペンで文字が書かれていたから。
それは私の好きな凪くんの字で。
『日記読んだよ。俺のこと忘れててもいいから何度でも君を探して会いに行くよ。君が俺のことを忘れていたとき、何度でも名乗るよ。俺は凪誠士郎だよ、よろしくねって』
最後の一行は、こう書かれていた。
『あと、友達になるのは嫌だ』
・ ・ ・
「おはよう」
凪くんが朝から病室に来てくれたのは、はじめてかもしれない。
もちろん私が覚えてないだけかもしれないけど。
「おはよう」
私も挨拶してからベッドから起き上がると、凪くんが目を丸くした。
それは私が病衣ではなく、外行きのワンピースに着替えていたから。
「どうしたの、その格好」
「変?」
「ううん、めっちゃ可愛い」
「やった」
私は小さくガッツポーズしてから、凪くんの手を取った。
「今日、一緒に病院抜け出さない?」
「……………だめ。昨日倒れたばっかりでしょ」
凪くんに反対されるのはなんとなくわかっていたけど、私も強めにお願いする。
「お願い。……一生のお願いだから」
「……ずるいね」
「うん」
凪くんが私のお願いを断らないとわかっていて、私はお願いしてしまった。
ごめんね、迷惑をかけるのは今日で最後にするから。
今日の私は不思議と絶好調だった。
少しだけだけど恋人だったときのことまで不思議と思い出せているのだ。
記憶が一時的に戻るときもあるらしい。
そしてきっとそれは今日が最後な気がしていた。
だから、最後に凪くんとの思い出が欲しい。
「凪くん、私とデートしてください」
最後の最後、一生に一度の、お願い。
・ ・ ・
病院を抜け出してから電車に乗って、まずは映画館に行くことにした。
「ねぇ、どうして今日なの?」
凪くんはさっきから何度もその質問をしてくる。
「今日はすごく元気だからなの」
映画館は、私達がよくデートしていた場所だというのも思い出せている。
かなり前に見ようと約束していた恋愛映画はとっくに終わってしまっているから、今流行りの恋愛映画を見ようと誘ってみる。
凪くんは正直興味無さそうだけど。
「終わったらゲームセンター行こ、ね」
と言うとちょっと瞳を輝かせる凪くんが可愛い。
「じゃー、はい」
凪くんが手を差し出してくる。
「手繋ご」
「……無理」
恥ずかしい。
「無理じゃない。今日デートなんでしょ。今日一日恋人」
いいって言ってないのに強引に私の手を引いた凪くんと映画館に行って、座席に座ってからも手を繋ぎ続ける。
「映画に集中できないよ……」
「じゃあ俺に集中して」
「映画を見たいの、私は」
なんて会話をしていたらすぐに映画は始まって、今流行りの俳優と女優が学校で出会って恋愛する、至って普通の物語だった。
私と凪くんが出会ったのも高校だったなぁ……って、急に思い出しちゃったから、ちょっとだけ涙が出てきた。
「……なんで泣きそうなの」
横にいた凪くんが言った。
私じゃなくて映画を見てよ、と文句を言いたくもなる。
「……えっと……映画の内容に感動してた」
適当な嘘をつく。
「この俳優演技下手だけど」
「……あはは!」
あまりに凪くんが正直なことを言うから、映画を見ている他のお客さんの迷惑になるのに思いきり笑ってしまった。
・ ・ ・
「凪くん映画面白かった?」
「うん、一周回って」
「一周回っちゃうんだ……」
次の目的地に向かう間も凪くんと手を繋いでいる。
「あの……ちょっと手汗が気になるかも」
「俺は気にならない」
「私が気になる……」
文句を言っても素知らぬ顔。
こうやって二人で歩いていると、凪くんと恋人同士になったみたいだ。
いや、元々恋人だったわけだけど、今のこの関係はなんというんだろう。
ゲームセンターに着いてからの凪くんは、それはそれは元気になって何をやろうか悩んでいた。
「UFOキャッチャーで何か取ろうか?」
「いらない」
自分でも思った以上に冷たい言い方になってしまって、慌てて取り繕う。
「えっと、あの。凪くんがいつも携帯でやってるような、バトル?みたいなゲームがやってみたい気分」
「……わかった」
凪くんは納得していなさそうながらも渋々頷いた。
でも、本当に何もいらない。
だってもしUFOキャッチャーで何か取れてしまったら形に残ってしまう。
どうせ忘れてしまうなら、もう何もいらない。
・ ・ ・
「そういえばさっきの映画、他にも泣いてる人いてびっくりした」
ゲームセンターで一通り遊んでから昼食をとっている間、凪くんが思い出したように言った。
「うん、そうだね」
「あれのどこに感動するの?」
「……全体的に?」
「曖昧だね。やっぱり恋愛映画って難しい」
凪くんはそう言ってからまたもぐもぐと口を動かし始めたけど、私は食事の手が止まってしまう。
ごめんね凪くん。
実はさっき観た映画の内容を思い出せないんだ。
新しく観たばかりのものがもう思い出せない。
もしかしたら今すぐ凪くんのことを忘れてしまう可能性だって絶対にないとは言い切れない。
怖い………忘れてしまうことがこんなにも怖い。
「……?食べないの?」
食事に手をつけなくなった私に凪くんが不思議そうな顔を向ける。
食欲がなくなってきたから、どうしようかな。
残すのも勿体無いし。
「あー……えっと。……凪くん、いる?」
「そろそろ咀嚼がめんどくさくなってきたからいらない」
「……あーんしようか?」
「はい、あーん」
早っ。
大きく口を開けてあーんしてもらうのを待っている姿は可愛らしい。
凪くんといると、どんな状況でも自然と私は笑顔になれる。
楽しくて楽しくて、今日が終わらなければいいと思う。
・ ・ ・
展望台に登ってみたり、もう一回ゲームセンターに戻って凪くんとバトルしてみたり。
楽しい時間があっという間に過ぎて、どんどん夜が近付いていく。
時折凪くんの携帯が鳴っているのは病院からなのかもしれない。
凪くんは一回も電話に出ることはなかったけど、凪くんは時刻が22時を回った頃に私に言う。
「そろそろ帰ろ」
凪くんが帰りの駅に向かって歩き出す。
「……やだって言ったら?」
「また今度遊びに来ればいいし」
「……やだ」
「子供みたい」
繋いでいた手をぎゅう、と私から強く握り返すと、凪くんが立ち止まって私を見た。
「……何?」
「やだ!」
私が大きな声を出すと、周りの人が何事かとチラチラこちらを見てくる。
私はそんな人目も気にせず、もう一度言う。
「帰らない。絶対帰らない」
「終電なくなるし」
「じゃあカラオケとか、ネットカフェとか。どこでもいいから行こう」
今日が終わる、それが怖い。
なぜか今日が終わったら凪くんのことを忘れてしまう、と確信めいた予感がある。
「とりあえず、場所変えよ。ここじゃ他の人の邪魔になるし」
凪くんがやっぱり駅に向かって歩き出す。
「やだ。歩かない、行かない!」
ぐい、と思いきり凪くんの手を強く引く。
「………わがまま」
なんと言われようとも私も引く気はない。
「お願い、お願い凪くん。今日だけでいいの。そうだ、海に行こう?前に約束したんだよね?」
必死に、祈るように凪くんに問いかけた。
そんな私を見て、凪くんの瞳が驚きで見開かれる。
そのあとゆっくりと、悲しそうに目が細められた。
「そっか。…………今日ずっと変だったのはそういうことなんだ」
とても小さな声で凪くんは呟く。
「日記、読んだ?」
あぁ、ついにバレてしまった。
やっぱり楽しい時間は終わりを告げる。
「…………うん、読んだ。読んだよ、凪くん」
・ ・ ・
お互い何も話さないまま電車に乗った。
病院とは反対方向へ。
海へ。
「……………凪くん」
私達以外誰もいない車両に、私の声が響く。
「はじめて凪くんと出会った日のことを、思い出したの」
「うん」
「私の病室じゃなくて、高校で、凪くんはサッカーしてた」
「うん」
「今もサッカー選手で、そろそろ海外に戻らなくちゃいけないんだよね。試合とかもあるし」
「次海外に戻るとき、君のこと連れて行ってもいい?」
「……海が見える家に住んで、毎日凪くんにおはようって言って。好きだよ……って、言って……」
そんなことは無理だ。
それは一生叶わない夢だ。
「あのさ」
不意に凪くんが繋いでいた私の薬指に唇を落とした。
一本一本、私の指の感触を確かめるように手を握り込まれる。
「結婚しよ」
「………」
「………」
「………」
「…………あれ、聞こえなかった?」
何も言わない私に凪くんが首を傾げた。
「俺と結婚して」
もう一度凪くんが言い直す。
「…………冗談?」
「本気」
「……無理だよ、凪くんの邪魔になるもん」
「邪魔じゃないし、むしろ君がいてくれたらこれから毎日頑張れそう」
「……そんなの嘘だよ。……だって私、忘れちゃうよ、いつか結婚したことも」
「うん、だから」
凪くんの両手が私の手を包み込む。
「『凪』、貰ってくれない?君も名字が凪になっちゃえば、流石に名前忘れないでしょ」
「………っ、ぁ、………ぅ、」
なんて返事をすればいいんだろう。
喉が痛い。
涙が自分の意志とは関係なく零れる。
「君が俺のこと忘れたらさ、好きって言うよ。毎日言うよ」
「…………」
「好きだよ、ずっと」
「友達でいてよ……」
「嫌だ、って日記で返事した。あと生まれ変わったら友達になってって意味がわからない」
私の目を真っ直ぐに見て、凪くんが言った。
「生まれ変わらなくてもいいから、今。結婚しよ」
「無理だよ、だって私は……」
「病める時も健やかなる時も、って言うじゃん。健やかな時だけ一緒にいられるわけないし」
確かに、そうなんだけど。
「はい、返事」
俯く私の顔を覗き込んだ凪くんは、いつも通り、涼しげな顔をしている。
「返事。『はい』しか受け付けないけど」
自分勝手だ。
凪くんに結婚しようなんて言われて私が断れるわけないのをわかってて聞いてくるなんて、意地悪だ。
無理だ、って言わなくちゃ。
好きじゃないって言ったら、諦めてくれるかな?
結婚しない、しないって言おう。
「…………はい」
私の意志とは裏腹に、口は正直だ。
だって本当は、凪くんの傍にいたいから。
「………結婚、したい……です」
「うん」
「サッカーの試合も……全部、海外でも応援に行きたい」
「うん」
「家事とかなんにも出来ないけど、傍に……いさせて、ください」
「うん。俺に君のお願い全部叶えさせて」
凪くんが優しく誓いの言葉のように言った。
「これから一生よろしく。『凪さん』」
「うん。一生、よろしく。『凪くん』」
「……二人とも凪って変」
「変だね」
二人で目を見合わせて笑い合う。
「凪くんのこと忘れても、好きでいてくれますか」
「うん。好きだよ」
「死ぬまで?」
「死んでも好きだよ」
そして二人きりの電車で、見届けてくれる人は誰もいないけど、口付けを交わす。
お願い神様。
凪くんとの思い出を奪わないでください。
ずっとずっと一緒にいたいんです。
いつか私は歩き方すら忘れてしまうのかもしれない。
いつか私は喋り方すら忘れてしまうのかもしれない。
でも、どうか。
凪くんとずっと一緒いさせてください。
・ ・ ・
「ただいま」
車椅子に乗って喋ることもない私に、目の前の『彼』がぎゅーっ、と私を抱きしめた。
名前も知らない、ふわふわした髪の優しい瞳をした人。
「充電中」
温かくて、もっともっとくっついていたいけど、どうやって手を動かすのかを忘れてしまった。
「じゃあお散歩行こ」
車椅子を引いて、『彼』と家の外へ出る。
窓から海が見える私の暮らす家は、いつもキラキラ輝いている。
「君はもう忘れちゃったと思うけど、だいぶ前に『記憶を無くす前の私と今の私どっちが好きなの』って聞かれたことがあるんだ」
『彼』の話してくれる話は全然知らない話だけど、心地が良い声をしているから話に耳を傾ける。
「不思議なことに出会った頃も好きだけど、今も毎日大好きが最高記録更新中。すごいよね」
何も出来ない私のことを好きだと言ってくれる、変な人。
「あ、そうだ。今日はまだ言ってなかった」
『彼』が私を真っ直ぐに見て言う。
「俺は凪誠士郎。君の旦那様で、君のことが大好きなんだ」
………………。
……………………。
いつどこで出会ったのかも思い出せない。
なんで『彼』は私のこと好きなんだろうとか、全然覚えていない。
………でも、どうして私はこんなにも『彼』のことが好きなんだろう。
そうか。
昨日も、その前も、ずっと前も私に声を掛けてくれていたのは、『君』だったんだね。
「…………な、ぎ………くん」
久しぶりに出した声は、酷く掠れていた。
目の前の彼……『凪くん』は、驚きと、喜びと、なんだか色々混ぜたような表情をして私を見ている。
「…………届いた、よ」
何度も、何年も、毎日毎日凪くんが繰り返し大好きだって言うから、何度も何度も忘れてしまったけど、もう覚えてしまったよ。
聞き飽きるぐらい聞いたんだよ。
凪くんのこと忘れるたび、また何回も凪くんに恋をしたんだよ。
「………しつこかっ……たよ」
「…………最初に言う感想それ?」
あ、凪くんの泣きそうな顔は、はじめて見た。
たまらなく愛おしくて、今すぐ抱きしめたいけど身体が動かないから、言葉で伝えてもいいかな。
「………私は、凪、です。……凪くんのお嫁さん、で………あなたのことが、大好きです………」
最後のほうはちゃんと言えていたかわからない。
もう自分で涙を拭うことも出来ないくせに止められなくて、嗚咽も止まらなくて。
「これから、毎日君からも好きって言って。しつこいぐらい。俺が聞き飽きるぐらい」
凪くんが私にだけ聞こえるような小さな声で囁いた。
うん、何度でも言うよ。
声の出し方を忘れるまで。
私、もう凪くんのこと絶対忘れないって誓うから。
「世界で一番好きだよ、凪くん」
「……………もう君も『凪』なんだけど」
あ、意地悪。