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その日、仁人は仕事の話のついでに、何気ない世間話のつもりで、担当作家の一人について触れた。
「今度、担当してる作家さんに飯に誘われてて。打ち合わせ兼ねて、って言われたんですけど。勇斗さん、いいお店知りません?」
「へえ。どんな人?」
「結構、付き合いやすい人ですよ。作家って偏屈な人も多いですけど……見た目も整ってるし、女性読者からの人気も高くて」
何気ない世間話のつもりだった。
だが、グラスを磨く勇斗の手が、ほんの一瞬だけ止まったのを、仁人は見逃さなかった。
「──ふうん。二人きりで?」
「そうですね、一応。仕事の話がメインなんで」
「あーね、そう」
いつもと変わらない相槌のはずだった。だが、その声のトーンには、これまで聞いたことのない硬さが混じっている。なんとなくそれに気づきながらも、あえて指摘せず、話を続けた。
「その人、結構強引なところあって。前も、打ち合わせのはずが、なんか変に距離詰められた記憶あるんですよね」
「それ、大丈夫だった?」
「大丈夫っていうか。いい大人ですし。まぁ、いつものことなんで」
「いつものことって、よくないでしょ、それ」
勇斗の声が、思いのほか鋭くなった。仁人は驚いて顔を上げる。いつもの飄々とした調子はどこにもなく、そこにあったのは、明らかに不機嫌さを隠しきれていない表情だった。
「──勇斗さん?」
「あ、ごめん。なんか、俺らしくないこと言った」
慌てて取り繕うように笑ってみせたが、その笑顔はいつもよりぎこちなかった。
その夜、勇斗はやけに仁人の周りをうろつくようになった。グラスを何度も確認しに来たり、必要以上に世間話を振ってきたり。普段なら他の常連客とも均等に絡んでいるはずなのに、今夜はほとんど仁人の方にばかり意識を向けている。
「今日、なんか変じゃないですか、勇斗さん」
「変って、何が」
「さっきから、こっちばっかり見てくるし。ちゃんと、仕事してます?」
「……気のせいじゃない?」
「柔太朗さんの真似ですか、その台詞」
思わず突っ込んだ仁人に、勇斗は決まり悪そうに視線を逸らした。
「もしかして、妬いてます? さっきの作家の話で」
「──は? そんなわけ」
「だって、不機嫌そうでしたもん、ずっと」
指摘されて、勇斗はますます分かりやすく狼狽えた。いつもは余裕たっぷりに人をからかう側のはずなのに、今夜に限っては、完全に立場が逆転している。
「別に、妬いてるとかじゃなくて。ただ、心配してるだけで」
「その心配の仕方、完全に妬いてる人のそれですけど」
「うるさいな……」
図星だったのか拗ねたように黙り込む勇斗を見て、仁人は思わず小さく笑ってしまった。これまで一方的に構われて振り回されるばかりだった関係に、初めて自分の方が優位に立てた気がした。
「──わかって、それやってる?」
「何が」
「そうやって、素直に妬いてるとこ見せちゃうの。──俺、結構嬉しいんですけど」
その言葉に、勇斗は目を丸くした。仁人自身、口にしてから、自分の言葉の率直さに驚いている。だが、一度出てしまった本音は、もう取り消しようがなかった。
「仁人くんが、そういうこと言うの、珍しいね」
「別に、いつも通りですけど」
「いつも通りだったら、もっと、ばさっと塩対応でしょ」
「うるさい」
急に恥ずかしくなって、仁人はグラスに視線を落とした。だが、その口元には、隠しきれない笑みが浮かんでいる。勇斗はそれを見て、先ほどまでの不機嫌さをすっかり忘れたように、破顔した。
「じゃあ、その作家さんとのご飯、俺も一緒に行っちゃ駄目?」
「駄目に決まってるでしょう、仕事の場に」
「えー、なんでよ、心配なんだってば」
「なんでよ、じゃないです。──そういうとこですよ、勇斗さんの、ちょっと過保護で面倒なとこ」
呆れたように言いながらも、仁人の声には、これまでにない親密さが滲んでいた。
窓の外では、いつものように静かな夜が更けていく。