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その夜、舜太は閉店間際まで店に居座っていた。いつものことだが、やけに口数が少なかった。
最後の客が帰り、柔太朗が看板の灯りを落とすのを待って、ようやく口を開く。
「柔太朗さん、ちょっと聞きたいことあるんですけど」
「なに、改まって」
グラスを片付ける手を止めずに、柔太朗は軽い調子で応じた。
だが舜太は、それ以上世間話に流されるつもりはなかった。
「この前、会社の同僚から聞いたんですけど。──都内のどっかに、深夜しか店を開けない、昼間は絶対姿見せへんバーテンダーがおるらしいんです。人間離れした美貌で、何年も見た目が変わらないって、なんか、都市伝説みたいに語られてるみたいで」
柔太朗の手が、一瞬だけ止まった。だが、すぐにまたグラスを磨く動きを再開する。
「よくある噂話でしょ」
「そうやろか。──正直、最初は笑い話やと思ったんです。だけど、聞けば聞くほど、思い当たる節が多すぎて」
舜太はカウンターに肘をつき、逃さないと言わんばかりに、まっすぐに柔太朗を見据えた。
「日中は絶対出歩かん。肌が異常なほど白い。何年も変わらへん見た目。それに、この前見た、あの顔」
「舜太くん」
「もう一つ言わせてください。あの夜、俺の首筋見て、明らかに様子おかしかったですよね。あれ、ただの疲れとかじゃなかったでしょ」
沈黙が落ちた。柔太朗はしばらくグラスを見つめたまま、動かなかった。
視線が彷徨い、逃げ場を探しているようにも、覚悟を決めようとしているようにも見える。
「──もし、それが本当だったら、舜太くんはどうするの」
その問い返しは、事実上の肯定だった。
舜太は一瞬、息を呑んだ。頭のどこかでは、まさか、と思っていた自分がいる。だが同時に、これで全ての違和感が繋がったという、奇妙な安堵にも似た感覚があった。
「──柔太朗さん、本当に?」
柔太朗は答えなかった。代わりに、静かにカウンターの向こうから出てきて、舜太のすぐ側に立つ。
そして、自分の口元にそっと指を添え、軽く引き上げる。唇の隙間から覗いたのは、普通の人間にはあり得ない、鋭く尖った犬歯だった。今まで何度も間近で見てきたはずなのに、なにも気づかなかった。先入観とは、なんと都合の良いものか。
「これで、信じてくれる?」
舜太は、しばらく声も出せなかった。目の前の光景は、これまでの人生で積み重ねてきた常識をあっさりと覆すものだった。恐怖がないと言えば嘘になる。だが、それ以上に舜太の胸を占めていたのは、別の感情だった。
「……マジもんか」
呟くように言って、舜太は思わず笑ってしまった。乾いた、それでいてどこか嬉しそうな笑いだった。
「柔太朗さん、それ隠す気なかったんですか。今、あっさり見せてきましたけど」
「もう、隠しきれないと思ったから。それに」
柔太朗は言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「舜太くんになら、いつか知られても構わないって、どこかで思ってた気がする」
その言葉に、舜太の胸の奥が、じんと熱くなった。
これまでの駆け引きの中で、柔太朗が本音らしい本音を口にしたのは、これが初めてかもしれない。
「怖くないの?」
柔太朗が不安げに尋ねる。声が少し震えた気がした。人間離れした存在だと知られた瞬間、大抵の相手は距離を置く。それが、これまでのあたりまえだった。
だが舜太は、しばらく考えた後、ゆっくりと首を振った。
「怖いっちゃ怖いですけど。──それより、なんか、めちゃくちゃ面白い話やなって思ってます、今」
「面白い、って」
「だって、そういうことなんでしょ。あの夜、俺の首筋見て、あんな顔してたんも。──ずっと、我慢してくれてたんですよね、俺に対して」
柔太朗は否定しなかった。舜太はその沈黙を肯定と受け取り、さらに一歩、距離を詰めた。
「柔太朗さん。それ聞いて、俺、逃げるどころか、余計に離れられへんくなったんですけど」
「それ、正気で言ってる?」
「大真面目です。人間離れした美貌に、実は牙もあって、俺の血に理性飛ばしかけるくらい惹かれてくれてる。──こんな面白い相手、そうそうおらんでしょ」
「──舜太くんって、たまに、俺よりよっぽど大胆だよね」
「柔太朗さんが、隙だらけやっただけです」
軽口を叩きながらも、舜太は柔太朗の手を取り、そっと自分の指を絡めた。柔太朗はそれを拒まなかった。
正体を知ってなお、舜太はそこに留まることを選んだ。その選択が、これから先の関係を、どこまでも深く、後戻りのできない場所へと導いていくことを、この夜の二人はまだ知らない。