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昼下がりの喧騒が
落ち着き始めた頃
喫茶 桜の空気が
ふっと変わった。
肌を刺すような
ぴりりと張り詰めた空気。
レイチェルは
瞬時にそれを感じ取った。
(え⋯⋯何⋯っ?)
レイチェルが動きを止め
周囲に目を走らせる。
客達は楽しげに談笑を続けているが
店のスタッフ達である
時也、ソーレン、アリア、青龍は
確かにその気配を
察しているようだった。
まるで全員の意識が
一箇所に集中しているような
(⋯⋯外だ)
不意に
レイチェルの視線は
窓の外へと向いた。
其処に⋯⋯男が立っていた。
痩せ細った体。
黒ずんだ目の下の隈
鋭く尖った目。
何よりも
その顔に貼り付いた
怨恨に満ちた表情が
異様な程に禍々しい。
男は窓の向こうから
アリアを見つめていた。
その視線は鋭く
蛇が獲物を狙うかのような執拗さで
硝子越しの彼女を睨みつけている。
「特別ゲストです。
皆様、丁寧な接客をお願いいたします」
時也の声が
インカムを通じて響く。
穏やかな声音に聴こえるが
その響きには
冷たく張り詰めたものが混じっていた。
「⋯⋯特別ゲスト」
転生者の隠語だと
直ぐに理解した。
レイチェルは
思わず唾を飲み込む。
ー転生者ー
それは昨日聞いたばかりの存在。
そして、自分と同じ
アリアへの憎悪に支配された存在。
(⋯⋯こんなにも早く
他の転生者に逢うなんて)
思わず
レイチェルの表情が強張った。
「レイチェルさん!笑顔ですよ?」
インカム越しの時也の声が
ぴしゃりと響く。
はっとして
レイチェルは強張った顔を
無理やりに和らげた。
その時⋯
「うわあああああん!」
突然
店外から微かに泣き声が聞こえた。
「え⋯⋯青龍?」
音は防音設備のせいで微かだったが
確かにあれは青龍の声だ。
レイチェルが再び窓に目をやると
青龍は例の男の足元で
子供らしく地面に座り込んで
大泣きしていた。
「お、おい、泣くなって⋯⋯!」
男は明らかに動揺し
周囲の通行人から注がれる視線を
嫌がるように青龍をあやし始めた。
困り果てた様子の男は
次第に焦り始め
ついに青龍を抱き上げた。
その瞬間
レイチェルの目は見開かれた。
スパァンッ!
小さな手が
恐ろしく鋭い手刀となって
男の首筋に正確に叩き込まれたのだ。
「⋯⋯っ!」
男の身体が一瞬仰け反り
そのまま力が抜けたように
がくりと前のめりになる。
「⋯⋯やっぱ、青龍は容赦ねぇな」
ソーレンが
ぼそりと呟きながら立ち上がった。
レイチェルが目を見張る間に
ソーレンは無造作に手を上げる。
その瞬間
男の身体がふわりと浮いた。
いや、浮いたのではない。
まるで自らの足で歩いているかのように
ソーレンが重力を操り
気絶した男の身体を
巧妙に操っていたのだ。
その男は青龍を抱いたまま
ふらふらと店内に導かれ
気絶している事に気付かない客達は
ただの〝子供を助けた親切な来店客〟
だとでも思ったのか
何の疑いも持たずに視線を逸らした。
「いらっしゃいませ」
時也の声が響く。
「あそこのお席のお子さんです。
ご協力いただきまして
ありがとうございます」
まるで本当に
男が自ら来店したかのように
時也は自然に笑みを浮かべながら
声を掛ける。
もちろん
男は既に意識が無い。
(青龍も、時也さんも⋯⋯
凄い演技派ね)
レイチェルは感心したように
男にしがみついたままの青龍と
それを笑顔で迎える時也を見つめた。
ソーレンに導かれるまま
男は静かにアリアの席に座らされる。
そして
ーシャッ!
時也が特設席のカーテンを引き
アリアの席を完全に遮断した。
その一連の手際は
あまりに見事で
まるで店の一部として
溶け込むかのようだった。
(⋯⋯めっちゃ自然だったわ)
レイチェルは息を呑んだ。
その間レイチェルは
自分の手が止まっていた事に気付き
慌ててカウンターの上の皿を持ち直した。
(普通に⋯⋯普通に、振る舞わないと!)
大丈夫。
時也も、ソーレンも、
青龍も、そしてアリアも
ここにいる人達は
異能を持ちながらも
その力を確かに使いこなしている。
(なら、私もきっと⋯⋯!)
レイチェルは
精一杯の笑顔を浮かべ
他のスタッフを真似て動き始めた。
「レイチェルさん
少しの間⋯⋯
お店を一人でまわせますか?」
直ぐ後ろから響いた
突然の時也の声に
レイチェルは振り向いた。
時也の表情は穏やかだが
その鳶色の瞳には
張り詰めた緊張が滲んでいる。
「青龍の情報ですと
例の彼は睡眠薬を
常用しているらしく……
おそらく
直ぐに目が覚めてしまうと思うのです」
(だから、飴じゃなくて
気絶させたのね⋯⋯)
身体が薬に慣れている事を
見越しての判断。
なるほど
だからあの威厳たっぷりで話す青龍が
幼い外見を活かして
あの泣き真似をしていたのかと
納得した。
「大丈夫!
任せてください、時也さん!」
レイチェルは力強く返事をした。
「ありがとうございます。
助かります⋯⋯」
その言葉に
時也は僅かに微笑み
ソーレンと共に
居住スペースの方へ消えていった。
その背中を見送りながら
レイチェルはふと思い出した。
(⋯⋯そういえば
青龍の声がインカムに入ってなかったな)
時也と青龍には
機械なんかいらない
特別な情報交換の手段が
あるのかもしれない。
(テレパシーとか⋯⋯?なんてね)
そんな事を考えつつ
レイチェルは改めて
ホールの様子を確認した。
客達は
何も知らずに笑顔で過ごしている。
(⋯⋯私も、私にやれる事をしなきゃ)
席を管理し
食器を片付け
さりげなく客の様子に気を配る。
すると⋯⋯
時也が
バイオリンを抱えて戻ってきた。
その隣には
サックスを抱えたソーレンの姿もある。
(え⋯⋯っ?)
「うわぁ!今日はラッキーだな!」
「いいね、いいね!待ってたよー!」
店内にいた一部の客達が
驚きと喜びの声を上げ
直ぐさま拍手が巻き起こった。
どうやら
時也とソーレンが
こうして稀に
演奏を披露する事を知る常連客が
率先してそのサプライズに
喜んでいるようだった。
「ご来店、ありがとうございます」
時也がバイオリンの弓を掲げ
優雅に一礼する。
「今から短い時間ですが
僕達の演奏を楽しんでいただければと
思います」
そして
軽快な音色が店内に響き渡った。
ーバイオリンと、サックスのセッションー
意外な組み合わせだったが
これが驚く程、心地好い。
時也の指先が弓を踊らせ
流れるような旋律が
空気に溶け込んでいく。
それに絡むように
ソーレンのサックスがリズムを刻み
音楽に深みを加えていった。
店内の客達は
思わず手拍子を始める。
レイチェルは
その場の空気に飲まれながらも
ふと視線を横にずらした。
ーアリアの特設席ー
その隣の席を
通り過ぎた瞬間だった。
「⋯⋯っ!」
ー怒声。
濁った
押し殺したような怒鳴り声が
硝子の奥から漏れた。
(⋯⋯もう、目が覚めたの!?)
しかし特設席からの音に
意識を向けると
バキッ⋯⋯ゴキッ⋯⋯
ズグ⋯⋯
肉が裂け
骨が折れるような
気味の悪い鈍い音が
微かに聞こえた。
(⋯⋯っ!)
レイチェルは
血の気が引くのを感じた。
今
あの硝子の奥で何が起きているのか
想像は容易だった。
(あ⋯⋯演奏は
カモフラージュ⋯⋯っ!?)
軽やかな音色とは裏腹に
時也とソーレンの顔は
何処か悲壮な色を帯びていた。
(⋯⋯アリアさんは⋯今⋯⋯)
あの美しい彼女が
硝子の奥でどんな状況にあるのか
それを知る客は⋯誰もいない。
楽しそうに手拍子を打つ人々の笑顔が
関係ないのに残酷に思えてしまう。
演奏は
思いのほか長く続いた。
途中、何度も鈍い音が微かに響き
その度に
時也のバイオリンは一際強く鳴き
ソーレンのサックスは深く響いた。
やがて⋯演奏が終わった。
「ブラボー!」
「素敵だったわ!」
店内には拍手が沸き起こり
歓声が飛び交った。
時也とソーレンは
深々とお辞儀をし
再び普段通りの喫茶の業務へと
戻っていった。
それからレイチェルは
最後の客が店を後にするまで
気を張り詰めていた。
そして
漸く静寂が戻った店内に
長く押し殺していた息を
大きく吐き出した。
「⋯⋯⋯⋯はぁ⋯っ」
店内に漂うコーヒーと
甘い香りだけが
彼女の頭の奥に残っていた。