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ペタ⋯⋯ペタリ⋯⋯
店内に
静かに響く湿った足音。
片付けをしていたレイチェルは
その音が背後から近付いて来るのを感じた。
(⋯⋯何の音?)
恐る恐る振り返ると
血塗れの青龍が
特設席の区切りカーテンから姿を現した。
「⋯⋯⋯っ!?」
レイチェルの喉が引き攣り
声にならない息が漏れた。
幼い子供の姿の青龍は
頭のてっぺんから小さな足先まで
どす黒い返り血に塗れていた。
銀色の髪は赤黒く染まり
頬には乾きかけた血がこびりつき
小さな手は
爪の隙間にまで肉片が詰まっている。
レイチェルの全身が
恐怖と嫌悪で総毛立った。
「おい!
てめぇ、そんな格好で
出てくんじゃねぇよ!」
突然
ソーレンの怒鳴り声が響いた。
レイチェルが驚く間もなく
ソーレンがサッと彼女の背後に立ち
視界を覆うように手を広げた。
「店まで汚れるだろうが!
着替え持って、血も流してやるから
まだ引っ込んでろ!」
「何より先に、アリア様だ!
馬鹿者っ!!」
青龍が
ソーレンの言葉に食い下がるように
幼い身体を震わせて怒鳴り返した。
「不死とはいえ、痛みはあるのだ!
早くお運びして差し上げろ!!」
レイチェルは視界を塞がれても
青龍の姿が脳裏に焼き付き
身体が震えてしまっていた。
「⋯⋯レイチェル」
青龍とソーレンの言い合いの最中
ソーレンが視線だけを此方に向ける。
「お前は⋯⋯見るんじゃねぇぞ」
その言葉には
珍しく優しさが滲んでいた。
「⋯⋯は、い⋯」
レイチェルが小さく頷くと
ソーレンは
カーテンの奥へと進んでいった。
「⋯⋯うげ⋯⋯っ!」
カーテンの向こうから
ソーレンの声が漏れ聞こえる。
「バラバラじゃねぇか⋯⋯ったく!」
その言葉に
レイチェルの胃が
キリキリと痛み始める。
ーバラバラ⋯ー
想像したくないのに
頭の中には
四肢が不自然に折れ曲がり
血に塗れたアリアの姿が
浮かんでしまう。
「レイチェルさん」
耳元で時也の声が、優しく響いた。
「彼の言う通り
貴女は見ない方がいい⋯⋯
仕込みを手伝っていただけますか?」
その声は
普段の柔らかさは残しつつも
どこか張り詰めたものがあった。
「⋯⋯はい」
時也の言葉に頷くと
レイチェルは厨房へと足を向けた。
ちらりと、時也の横顔が目に入る。
普段、微笑を絶やさない彼の顔は
今は酷く疲れ切っていた。
眉間には深い皺が刻まれ
鳶色の瞳の奥には
沈痛の色が濃く滲んでいる。
(⋯⋯時也さん)
愛する人が直ぐ其処で
人の形すら保っていない状態
なのかもしれない。
レイチェルはそっと唇を噛み締め
震えそうになる手を押さえつけた。
今は何も⋯⋯聞かない方がいい。
きっと
彼もまた
痛みに耐えているのだ。
レイチェルと時也は
黙々と仕込みの作業を続けていた。
包丁の刃が
まな板を叩く乾いた音と
湯が沸き立つくぐもった音が
静かな厨房に響いている。
レイチェルは
トマトを湯剥きしながら
そっと横目で時也の顔を見た。
(⋯⋯やっぱり、辛そう)
いつもは穏やかに微笑み
周囲を和ませる時也の顔は
今は憔悴しきっていた。
目の下にはくっきりと隈が刻まれ
唇は血の気が引いて白くなっている。
何より、あの鳶色の瞳は
まるで奥底に
暗闇が沈んでいるかのように
鈍く光っていた。
(⋯⋯時也さん⋯大丈夫なのかな)
気を遣わない方が
良いかもしれない。
それでも⋯⋯
沈黙が、どうしようもなく重かった。
「⋯⋯時也さん」
自分でも驚く程の掠れ声が出た。
「⋯⋯大丈夫⋯ですか?」
ー大丈夫な筈がないー
そう思いつつも
他に掛ける言葉が
見つからなかった。
時也は手元の包丁を止めて
レイチェルの方を向いた。
「⋯⋯⋯」
鳶色の瞳が僅かに揺らぐ。
「⋯⋯気を遣わせて⋯しまいましたね」
小さく笑おうとしたのか
彼の口元がわずかに歪んだ。
だが、それは
笑顔と呼べるものではなかった。
「⋯⋯すみません」
レイチェルは、視線を落とした。
「⋯⋯いえ」
時也は、ふっと息をついた。
「⋯⋯心を、読まないようにする事が
できなくて⋯⋯」
「え?」
「彼の怨みの心の声に⋯⋯
少し、あてられてしまったようです」
時也の声は
静かに、掠れながら続いた。
「僕の読心術は
聞こうとせずとも
勝手に聞こえてしまうのです。
だから、時々⋯⋯
どうしようもなく
心が折れてしまいそうになり⋯⋯」
レイチェルは
固く拳を握った。
(⋯⋯そんな残酷な
能力があるなんて⋯⋯っ)
聞きたくない時まで
嫌でも耳に入ってしまう心の声。
その声が
どれ程の苦痛を
時也に与えてきたのか⋯⋯
想像するだけで
胸が苦しくなった。
(きっと⋯⋯)
あの時
自分がアリアを刺した時も
時也はこんな顔を
していたのかもしれない。
傷付けるつもりのなかった相手に
無意識に刃を向けてしまった。
あの時、 時也は
私の知らない〝心の声〟まで
聞いてしまったのだろうか。
「⋯⋯すみません」
再びレイチェルの口から
絞り出すような謝罪が漏れた。
「⋯⋯貴女が謝る事では⋯ありません」
時也は、柔らかく微笑んだ。
その微笑みは
苦痛を隠そうとする
あまりにも脆く
儚い笑顔だった。