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まなこ〜友
117
#ますしき
T
5,800
その日の夜、二週間ぶりに自宅の前に立った。
いつもより少し早めに会社を出て、それでもまだ雅はいないだろうという時間帯を狙って帰ってきたつもりだった。
話すべきことは決まっている。だけど、心の準備は一向に整わない。こんな状態で雅と向き合って、上手く伝えなくてはならない言葉を伝えられるか、不安で押し潰されそうだった。
深く息を吐き出し、鍵を回して扉を開ける。
その瞬間、玄関に並んだ見慣れた靴を見て、私は息を呑んだ。
いないはずの、雅がいる。それだけで、今すぐこの場から逃げ出したい衝動に駆られた。
リビングへと続くドアが開く。
その向こう側に、雅の姿があった。
「……おかえり」
あの日の夜とは逆で、私はただいまの一言すら返せなかった。
辛うじて「うん」とだけ頷き、家の中へ入る。習慣で無意識に洗面所で手を洗い、リビングへと足を進めた。
「仕事は……?」
まずい。短い問いかけをするだけで、喉の奥が震えて声が掠れる。
「休んだ。今日は玲も居る日だったし、忙しい日でもないだろうから」
雅は淡々と答え、キッチンから「何か飲む?」と声をかけてきたけれど、私は小さく首を横に振る。
「いい。もう早く終わらせたい」
その言葉を口にした瞬間、雅の顔色が変わったのが分かった。
私が何を告げようとしているのか、雅は最悪の想像をしたのかもしれない。
早く言わなきゃ。引き延ばせば引き延ばすほど、堪えてきた涙が決壊してしまいそうになる。
もうこれ以上、この男の前で惨めな姿をさらしたくはなかった。
「……何の話をしようとしてんの」
問いかける雅の声が、微かに震えている。
私がいつもより早く退勤したのは、ある場所に寄り、この書類を手に入れるためだった。
私はダイニングテーブルの上に、用意してきた書類と、左手の薬指から外した指輪を置いた。
雅を、早く解放してあげたい。自由にしてあげたい。
それが私にできる唯一の償いであり、この二週間で必死にひねり出した答えだった。
できるだけ暗い雰囲気にならないよう、笑顔を浮かべ明るく取り繕った。
「……私達、やっぱり合わなかったわよね。そもそも一回目上手くいってないのに、二回目は上手くいくとか幻想だったし、私には恋愛とか無理だったなって思い出した。それなのに結婚とか、本当に、ただの気の迷いだったかも」
あえて、雅が最も傷つくであろう言葉を選んで並べる。
もう、私に愛なんて向けなくていい。
私のわがままに振り回される日々も終わりにしていい。
やっぱり人生で一番好きになれた相手と交際して、結婚だなんて面倒なだけだった。
思ってもいないことを、必死に吐き出す。
「私が話しに来たのはこれからの事。明日、明後日で有給取ってきたから日曜日までに荷物はまとめるなり処分するね。それと、この家は住んでも良いし引っ越しても良いし、処分費がかかる様なら言って。それと、共有財産とかだけど……」
雅の表情を見ることが怖くて、私は視線を泳がせながら、事務的な必要事項だけを矢継ぎ早に捲し立てた。少しでも言葉を止めれば、本音が漏れ出してしまいそうだったから。
重い雅の溜息によって、私の言葉は遮られた。
「気、済んだ?」
「え?」
「好き勝手話して、気は済んだかって聞いてんだよ」
顔を上げると、そこにはかつてないほど露骨な怒りを見せている雅がいた。追い詰めるような足取りで、私との距離を縮めていく。
逃げる間もなく腕を強く掴まれ、その強引な力に思わず顔を歪めた。
「いっ……!」
「何? 本気で離婚したいの? 家出て行くって?」
「……嫌、離して」
「俺が甘やかしすぎたんかな。何でも言う事聞いてきてやったもんな。散々」
そう言って口元に浮かべた笑みは、息を飲むほど綺麗で、同時に身の毛もよだつほど不気味だった。
何を考えているのか、今の私には、もう何も分からない。
「離婚? してもいいよ。こんな安っぽい紙一枚で本当に俺らの縁が切れるかどうかは知らないけど。別に俺は関係なんてこだわらないし」
「な、何言ってんの」
「こっちのセリフだよ。そもそも本気で俺から離れたいとか思ってんの? そんな俺の事好きって顔して、俺の為に離れます~っていい子ぶってんの?」
剥き出しの言葉が、私の胸を容赦なく貫く。
「ち、がう。私が仕事に集中したいから。仕事がやっぱり一番だからそうするだけ」
震える声で嘘を重ね、視線を逸らすけれど、雅はそれを許さなかった。逸らすなと言わんばかりの力で顎を掴まれ、強引に彼の瞳へと視線を固定させられた。
「何を言っても別れてなんかやらない。てか、簡単に逃げれるとか思ってんなよ。甘やかしても駄目なら俺はお前の意思関係無く勝手に捕まえるだけだから。もう、七年前の二の舞になんかするわけないんだよ」
どうして、この男はこれほどまでに私に執着するのか。
あんたなら、もっと素直で、もっといい女性を選べたでしょう。
𓂃꙳⋆⭐︎
「……っ、……あっ……」
「まだ逃げようとしてんの? 諦めろって」
私の両手首を強引に抑え込み、雅はかつてないほど身勝手で荒々しく私を抱いた。
全身に、すぐには消えないほどの痕を刻みつけられる。自分の所有物だと見せつけるように、隅から隅まで執拗に口付けられた。
身悶えて逃げようとしても、圧倒的な力の差の前にすべての抵抗は無に帰す。離してなんて、もらえない。
「こんなんじゃ、もし他の男に目付けられても引かれるかもな。他の男の元なんて行かせる気もないけど」
「いや……っ、離して!」
「逃げたいと思ってんならぶん殴ってでも止めれば? 得意じゃんそういうの」
手首を動かそうとしても、どんなに抗おうとしても、雅の拘束が緩む気配は微塵もなかった。
私はただ、雅を睨みつけることしかできない。そんな無様な私を、雅は冷酷な瞳で、けれど口元に笑みを浮かべて見下ろしていた。
「また、交際前みたいにこうやって身体から思い出させるしかねぇのかな。てか、今更俺無しで生きられないのは夏帆の方なんじゃないの?」
「そんなこと……」
「素直じゃん。可愛い」
さっきまで突き刺すような言葉を吐いていたくせに、不意に落とされた甘い囁きに、心臓が跳ねる。
私の反応を楽しむように雅は少しだけ口角を上げ「表情も、身体も反応しててかわい。俺にしかそんな反応させらんないよな」と、唇で何度も甘く、深くキスを落としてきた。
そんな甘さに、頭の中がふわふわとしていく。
毎回、こうやって強引に何も考えられなくさせられる。術中にはまっているようで気分は最悪なのに、拒絶しきれない自分がもっと嫌だった。
「絶対、離さない。別れてなんかやらない。もう決まってんの。お前は一生俺のだって」
「も、どうしたらいいか、わかんない……っ……」
涙と汗でボロボロになった顔を隠したいのに、封じられた手首はびくともしない。
雅のために身を引くことが正解だと信じていたのに、当の彼はそれを許さないと言い放つ。
「何も考えないで良いから、離れようとすんな。それだけは絶対許さないし、次言ったら、仕事もやめさせて一歩も家から出れなくするから」
耳元に顔を寄せられ、低い声が鼓膜を揺らす。
普段は絶対に言わないくせに。
こういう時にだけ、逃げ場を塞ぐような愛を囁く。
卑怯で、残酷で……。だけど、その独占欲から逃れたくないと思ってしまう私は、もう手遅れなのかもしれない。
─────────愛してるよ、夏帆。
コメント
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第62話、読み終わりました……。 もう、心臓ぎゅうぎゅうで息苦しいです。 夏帆が全部背負って離れようとするのに、雅が「絶対離さない」って言い切るところ、すごく怖かったけど、同時にその執着が痛いほど伝わってきて。 「逃げ場を塞ぐような愛」って表現が、本当にそのままだなって思いました。 重くて苦しいのに、目が離せない……続きが気になります🥀