テラーノベル
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目を覚ますと、窓の外はまだ薄明るい午前六時だった。
いつもなら七時に起きて仕事の準備をするけれど、今日は有給休暇を取ったことを思い出す。休みを取ったことさえ記憶から抜け落ちるほど、昨夜はあまりにも多くのことがありすぎた。
ふと隣に視線を向けると、雅が眠っている。ここ最近、彼もしっかり眠れていなかったのだろう。泥のような眠りに落ちているその寝顔を、私はしばらくの間じっと見つめていた。
床に散らばった服を拾い集め、シャワーを浴びに行こうとベッドを抜け出した、その時、不意に手首を強く掴まれ、私は息を呑んだ。
驚いて雅を見やると、そこには今まで見たこともないような、ひどく焦っている様な表情の彼がいた。
「……どこ、行くんだよ」
縋るようなその声に、罪悪感が込み上げる。
きっと、この人をこんな風に変えてしまったのは私だ。
雅の話も聞かず、勝手にそれが彼のためだと思い込んで、強引にその傍を離れようとした。私の独りよがりな思いやりが、彼をここまで追い詰めた。
「……シャワー浴びに行くだけよ」
「あ、そ……」
雅は気まずそうに顔を背け、身を起こすと落ちていたシャツを羽織った。
私達は、もっと早くにこうして向き合うべきだった。
もう逃げるような真似はしない。
どうせ、あいつが逃がしてくれないことも分かっているから。
「……どこにも、行かないから」
小さく呟くと、雅は僅かにこちらへ視線を戻した。
「信用なんねぇから。人の話聞かずに勝手に出て行こうとした女の話なんて」
「ごめんってば……、悪いと思ってるわよ」
私だって、雅が帰ってこなかった期間は死ぬほど辛かった。
話し合えない時間は苦しくて、本当に愛想を尽かされたのかもしれないと、毎晩不安に震えていた。
だからといって同じことをやり返していい理由にはならない。お互いに余裕がなかったとはいえ、私達はあまりにも長く、子供のように意地を張り続けてしまった。
「……俺、もう少し寝てるからシャワー終わったら起こして。俺もその後入る」
「わかった」
それだけの会話を交わして、寝室を出る。
ここ最近の雅は、まるで別人みたいだった。
嫉妬で機嫌を損ねることはあっても、あんな風に激昂して家を出ていくことなんてなかったし、帰ってこないなんてこともなかった。
いつも、喧嘩をしても先に歩み寄って仲直りのきっかけをくれたのは、雅の方で…、とそこまで考えて、常に受け身だった自分に今さらながら呆れた。
この先が見えない不安を、雅はずっと一人で抱えてきたのかもしれない。
シャワーを浴びて髪を乾かし終え、雅を起こすために寝室へ顔を出した。
雅はすでに起きていて、ヘッドボードに背を預け、スマートフォンに視線を落としていた。
私の気配に気付くと、彼は画面を消して立ち上がり、無言でこちらへ近づいてきた。それから、乾かし終えたばかりの私の髪を掬い上げ、慈しむように唇を落とす。
あまりに久しぶりの甘い仕草が、昨夜までの温度差を感じ、私は少しだけ戸惑った。
「な、何?」
「……やっとちょっと安心した。昨日まで匂い違ったから」
ここ最近はホテルを転々としていたし、洗濯も家とは違う洗剤を使っていた。
いつの間にかこの家の匂いが自分から消えてしまうほど、私はここから離れてしまっていた。
「……今までどこ泊ってた? 仕事行ってたんだし実家では無いだろ」
「……ホテルに泊まってた」
「典型的な家出少女だな」
「もうそんなこと言われる年齢じゃないわよ」
私の反論に、雅が微かに笑った。そのまま額に柔らかなキスを落とすと、私の手を引いてリビングのダイニングテーブルへと導く。
座れと言われたわけではないけれど手でそう促され、私は大人しく椅子に腰を下ろした。
雅が手際よくコーヒーの準備を始める。香ばしい匂いがリビングに広がる。
こんな風に二人で過ごす朝も、一時は二度と来ないのではないかとさえ思っていた。
当たり前だと思っていた時間が、今はひどく愛おしかった。
「雅は、どこに行ってたの?」
「朝まで開いてるバー入ったり、玲の家に転がったり」
それを聞いて、玲くんをも巻き込む大騒動だったのだと知り、私は強烈な羞恥心に襲われた。
「本当何から何まで申し訳ない、玲くんには」
「うざいから仲直りしてこいって言われた」
雅は笑いコーヒーをいつものマグカップに注いで私の前に置いた。「ありがとう」と受け取り、立ち上る湯気に軽く息を吹きかけてから口を付ける。
「……本当に、仕事の方が大事だって思ってた?俺、そんなに邪魔してた?」
不意に投げかけられた問いに、一瞬時が止まったようだった。
普段はあんなに自信に満ちた男が、消え入りそうな切ない声でそんなことを言うから、胸が酷く痛んだ。
「違う、違うの。雅は、もう私なんてどうでもいいって思っちゃったかもと思って……、そしたらもうとことん嫌いになってもらって別れられたらって思っただけで、……あんなの、本心じゃないの」
「どうでもいいって……、そんなの思ってたらあんなに怒らないし、あんなに必死になって連絡取ろうとしないだろ」
「そんなのわからないわよ。私が話したい時に雅はこの家に帰ってこなかったから」
「そんなん、あんな言い方した後で、帰りにくかっただけ。」
「だったら、言い過ぎた、ごめん。で終わりじゃないの?」
「そもそも、酒弱い癖に何後輩の肩代わりなんてしてんだよ。案の定男に肩借りてバカじゃねぇの」
「そんなこと言われたって覚えてないんだから怒らないでよ!」
もはや何について言い争っているのかも分からない。だけど、ふと、これこそが私達”らしい”のだと再認識した。言いたいことをぶつけ合って、そうして泥臭くお互いの存在を確認し合う。
雅も同じことを思ったのか、ふっと表情を緩めて「あほらし」と零した。
「でも、約束守れなかったのも私が悪いと思ってる。ごめんなさい」
「……まるで親に怒られた子供みてぇだな。俺との約束なんて碌に守った事もねぇくせに」
「言いすぎでしょ」
「事実だろ。甘やかされて育った箱入り娘の夏帆ちゃんは」
人を馬鹿にしたような言い草に言い返したいけれど、ぐうの音も出ない。
私は悔し紛れに、雅を精一杯睨みつけた。
「てか、もう別れる気無いのは本当。お前は、俺が居なくても仕事に生きてまともにいれたかもしれねぇけど、俺は夏帆と離れた五年間生きてる気しなかったよ」
「生きてる気しなかったって……」
「いつ死んだっていいってずっと思いながらくだらない毎日過ごして、ずっと夏帆の事考えて忘れられないのに忘れようとして、また考えて、そんな地獄みたいな毎日で、縒りを戻せたあの日は、二度と離れたくないって思った」
雅がこれほどまでに後ろ向きで、切実な言葉を吐く瞬間を初めて見たかもしれない。
私だってあの五年間、雅のことを忘れた日なんて一日もなかった。
別れたくなんてなかった。誰と付き合っても長続きしなかったのは、いつだって雅と比べてしまっていたから。
大学時代から再会するまで、頭の中で何度も雅なら、雅は、と繰り返して。身勝手な理由で自分から別れを切り出した最低な女だと自覚していたから連絡もできなかった。
いざ再会したら、私のことなんて微塵も気にしていないような雅の態度に、勝手にがっかりして、もう終わった恋だと自分に言い聞かせ続けてきた。
それなのに、関われば関わるほど、もう手放せなくなった。
「……ずっと終わるのも二人のためなのかもって、終わってたの。数日前は。別れてからずっと、私は身勝手だったし、雅を傷付けてきたから」
「だったら、俺の話を一番にまずは聞いて。勝手に行動しようとすんな。そろそろわかれよ。自分の考えだけで動いたら裏目に出るって」
「そうね、何も言い返す言葉もない。ごめん」
今回の喧嘩だって、私が素直に雅を頼って、もっと早く周囲に紹介していれば、彼をあんなに不安にさせることもなかった。
騒がれるのが嫌なんて自分の小さなこだわりを優先させている間に、雅はどんどんと悩みを募らせていた。
「二度と離れようとすんな。次別れたいみたいな事言い出したら、外にも二度と出さないで、ずっと閉じ込める。脅しじゃないから、これ」
いつから、この男はこれほどまでに重い男になったのか。
かつては、面倒になれば誰であっても簡単に切り捨てるのが雅だった。大学時代だって、私と付き合う前に誰かと付き合うのは時間の無駄だから彼女なんて作らないと言い切っていた。
そんな男が、私一人に対してここまで変わってしまうなんて。
「……約束する。もう言わない」
私が頷くと、雅はふっと気を抜いて、背もたれに体を預けた。
「……本当、腹減った。無駄なエネルギー使い過ぎた。どっか食いに行かね?」
「あんた、今日は仕事でしょ?寝なくて良いの?」
「寝れるわけないだろ、あほ。お前のせいだから。お前の奢りでな」
「あほって……。あんたに言われるのが一番嫌」
「嫌がる権利なんて今日のお前に無いっつーの」
そう言い残し、雅は身支度のために洗面所へと向かっていく。
ロマンス映画や恋愛漫画みたいな甘い仲直りなんて、私達には似合わない。この不器用な距離感こそが、私達の仲直りの仕方なのだ。
もう離れるなんて、二度と言わない。
これ以上、雅を傷つけたりはしない。
それから、土曜日のバー。
開店直後の静かな店内に、玲くんにお詫びを兼ねた近況報告をしていた。雅が他の客の対応をしている隙を狙って、私は一通りの経緯を打ち明けた。
「何か、子供みたい」
「子供?」
「子供。お互いに素直になれないで、雅だって素直に嫌だったって言えば終わりだったし、夏帆ちゃんだって離れたくないのに離れたいなんて言わなきゃよかったのに。というか、離婚してそもそも仕事にも逃げれないでしょ。別問題なんだし」
玲くんの言葉が、ぐさぐさと胸に刺さる。
無駄な遠回りをしなくてもよかったのは分かっている。最初から話し合えていれば……。もっと言えば、そもそも五年前のあの別れの日だって、私が「寂しい、もっと会いたい」と我儘を言えていたら、あの頃の雅は、なんと言ったのだろう。
仕事だから仕方ないだろ、今が頑張り時なんだからとか?
だめだ、私の頭じゃ雅の考えなんてわかる訳が無い。
「もう、いつも後悔ばかりしてる気がする。恋愛ってやっぱ面倒臭い」
「嫌だなんて思ってないでしょ。夏帆ちゃん」
「……うん。でも、雅以外なら別れてたと思う。既に、面倒だって。きっと結婚なんてせずにいたと思う」
「本当、まじで面倒そうなのに雅と夏帆ちゃん見てたら恋愛も良いなってちょっと思っちゃうの悔しい」
「憧れても良いわよ」
「憧れないよ、こんな面倒臭い人たち」
そう言って肩をすくめて笑う玲くんにつられて、私も少しだけ笑った。
それからフロアを忙しなく動き回る雅の方へ、自然と視線がいく。
いつも通りの完璧な営業スマイルが、今は男性客に向けられているのを見て、私は密かに安堵した。
雅は男女問わず誰にでも分け隔てなく接しているし、彼自身に特別な下心がないことも知っているけれど、いざ他の女性客と距離が近いのを目の当たりにすると、どうしても胸の奥が痛む。
以前なら仕事だからと割り切れていたのに、結婚してからは、たとえ仕事であっても嫌なものは嫌だった。
そんな私の視線に気づいたのか、雅がふとこちらを向いて怪訝な顔をした。そのまま客と二、三言交わすと、足早にカウンターへ戻ってくる。
「玲、チェンジ」
「……夏帆ちゃんと話してたの羨ましかったの? そう言いな?」
「バカじゃねぇの、さっさと行って。俺は今から休憩すんの」
「人を休憩扱いだなんて良い身分ね」
玲くんを追い出すようにフロアへ送り出すと、雅は煙草を取り出して火を点けた。
今なら、聞いてもいいかもしれない。きっと家の中だと、気恥ずかしくてまともに話せないだろうから。
「ねぇ」
「あ?」
「もし、大学時代の遠距離中、もっと会いたいとか寂しいとか言ってたら、あんたどうしてた?」
雅はまた面倒なこと考えてんなとでも言いたげな顔を隠そうともしなかった。
仕方ないじゃない。どうしても気になってしまったんだから。
私は開き直って、雅の答えを黙って待った。
「仕事辞めて地元で就職してたんじゃね?」
「……え?」
「ガキだったし、入社して一年未満の会社でも俺なら嘘吐いてでも辞めて、それでもなんとかなると思ってやめてそ~」
当時の事を思い出して話す雅が色々と話しては面倒そうな顔でありえないことを話していて誰の話をしているのかと思った。私を本当に優先なんてこの男にできたのか疑わしい。
「当時の俺に夏帆より優先しなきゃいけない物なんて無かったよ」
いつもははぐらかして何も答えてくれないくせに、今日の雅はずるい。
私がまだどこかで不安を抱えているのを察して、最近の彼は惜しみなく言葉をくれる。
「最近、素直なの怖い」
「もうお前が勝手に俺の気持ち汲み取った気になるの面倒だからな。変なプライド捨てて分かってもらえるなら伝えるのも悪くねぇかって思っただけ」
「……ごめんってば」
「お前しばらく俺に頭上がんねぇな。ばーか」
このクソガキ…!と言いたいけどこの男2つ上なんだった。
忘れてしまう程、ばーかの言い方がクソガキで忘れてた。
「俺も馬鹿だと思うけどね。こんな可愛げない女なのに、それでも夏帆が可愛くて仕方ない」
ふっと、慈しむように目を細めて微笑む。その顔が最高に良くて、目の前がチカチカした。
これほどまで顔が良い男に、これほど愛されている私は、一体前世でどんな徳を積んだというのだ。
まあ、性格を考えたらプラマイゼロ…、なんならプラマイマイだけど…。
「……一生その顔でいてくんない?」
「お前のそう言うぶれないところ本当何なの。ときめき方特殊なんだよ」
いつだって、私は土壇場で素直になれない。それなのに、私を置いて雅ばかりが素直になっていくから、なんだか負けたような気分になる。
こんな可愛げのない私を可愛いなんて言い切る馬鹿は、世界中にあんたしかいない。
まなこ〜友
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#ますしき
T
5,800
コメント
1件
ああ、もう……やっと、やっと二人が素直に向き合った回ですね……! 朝のあの「どこにも行かないから」からの、シャワー上がりの髪にキスするところ、めちゃくちゃ刺さりました。雅が夏帆ちゃんの匂いが違うって気づいてたの、切なすぎる…… 「生きてる気しなかった」ってあの五年間を一言で表す雅の言葉、重かったです。でも最後のバーでの「可愛くて仕方ない」はずるい、ずるすぎる。編集者としても、ここまで不器用な二人を丁寧に描ける陽瀬さんの筆力、本当に好きです。またゆっくり語らせてくださいね🌷