執務室の扉がノックされた。「失礼します、陛下」
その声は、いつも通りに響いてくる。
「……ああ、王室教師殿。何か用かな?」
扉が開き、ハイネが入ってくる。
姿勢は正しく、目線もブレない。
表情も、声も、語調も――
何もかもが、いつもの彼だ。
けれど、ヴィクトールは知っている。
その穏やかな仮面の下に、
昨夜、自分の胸元で震えていたあの体温があることを。
「王子たちのレポートを、お持ちしました」
「……うむ。ご苦労だった」
「レオンハルト王子は、とてもお勉強を頑張っていて…」
事務的な会話が交わされるたび、心が冷えていく。
まるであの夜など存在しなかったような、完璧な距離感。
――君は、強いな。
「……何か?」
ふと、ハイネがこちらを見つめた。
一瞬だけ目が合って、その奥に、確かに何かが揺れた気がした。
でも、次の瞬間にはまた、何もなかったかのように背筋を正す。
「いや……何でもないよ」
言えなかった。
「もう少し、君の声が聞きたい」とも。
「夢の続きに戻ってほしい」とも。
その代わりに、心の中でだけ名前を呼ぶ。
昨日の夜のように。
――ハイネ。
どうして君は、
何もなかったような顔をして、そこに立てるんだ。
どうして私は、
こんなにも苦しくなってしまうんだ。
扉が閉じる。
ハイネが去ったあと、ヴィクトールは椅子に深く身を沈めた。
「……夢に、閉じ込めておけばよかった」
それは、王の言葉ではなかった。
ひとりの男の、取り返しのつかない、後悔の声だった。
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