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◇◇◇◇
フェンが目を覚ましたのは、朝と夜の境目だった。
天井の木目をぼんやりと眺め、ようやく自分の呼吸が重いことに気づく。身体は、鉛を詰め込まれたように動かない。
起き上がろうとして、違和感が走った。
「……ない」
視線を落とし、そこで初めて現実を突きつけられる。
左腕の前腕が、そこにはなかった。
包帯の下は、空だ。
あるはずの重さはなく、代わりに鈍い痛みと、焼けるような感覚だけが残っている。
「あれは……夢じゃなかったようだな」
呟いた声は、やけに遠く聞こえた。
フェンは、しばらく動けなかった。
落胆という言葉では足りない。
怒りでも、悲しみでもない。ただ、胸の奥が、静かに、音を立てずに崩れていく。
庇った若い衛兵の顔が浮かぶ。
「アイツは、助かったのか?」
フェンの問いに答えを返す者はいない。今さら意味もない。
一度眠った程度で、疲労が消えるはずもない。
前腕を失ったことで、身体のバランスも狂っている。
この身体で魔物と戦えば、仲間の足を引っ張るだけだ。
その事実は、嫌というほど分かっていた。
息をするたび、傷がジクジクと主張する。
左腕の噛み切られた断面から、胸元へと、紫色の毒々しい根が這っている。
「呪い、か」
乾いた笑いが漏れた。
「終わったな」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
それでも、横になっているわけにはいかなかった。
今の自分にできることは、限られている。
魔物は倒せない。それでも、目はある。声もある。
フェンは身体を引きずるように起こし、鎧に手を伸ばす。
呪いの痛みに身体が慣れるまで、情けないほどの時間がかかった。
門の横。
詰所の前。
そこが、今のフェンの立ち位置だった。
戦場の最前線には立てない。だが、街の入口を見張ることはできる。
それが今のフェンに許された、衛兵としての唯一の務めだった。
人の出入りを確かめ、異変があれば声を上げる。それだけでも、何もしないよりはましだった。
フェンは門の影に立ち、遠くの森を睨む。
魔物が来ないことを願いながら。
来てしまった時、自分が役に立てるかどうかを、考える。いくら考えても、オトリが精一杯だという結論に至った。
◇◇◇◇
白い外套をまとい、セレナはノクスグラートの道を歩いていた。
隠す気はなかった。
むしろ、隠す必要がなかった。
白は、夜の街であまりにも目立つ。
人々は足を止め、息を呑む。驚きがその場を支配していた。ささやきが、さざ波のように広がっていく。
「白の魔女だ」
「あれが噂の……」
「本当に、いたのか」
誰も捕まえようとはしない。けれど、誰もが距離を取っていた。
セレナは何も言わず、ただ前を見て歩く。
目指す先は一つ、衛兵の詰所。
門の横、薄暗い詰所の前で、彼女は足を止めた。
「助けに来ました」
その声は静かで、消え入りそうだった。
フェンは眉間を寄せて、セレナを睨んだ。
一瞬の沈黙のあと、低く擦れた声が返る。
「セレナ……お前さんが、噂の白の魔女様だったのか」
左腕の前腕は失われ、鎧の下にはまだ包帯が覗いている。
その目は鋭く、しかし疲労の色を隠せていない。
「何の用だ」
「助けに来ました」
セレナはもう一度、声に出した。その声には圧があった。
「助けに来ただと? 俺たちは白の魔女の力など借りない」
フェンは一歩、前に出た。
「俺たちをヴァルディウス王国の王妃と同じように化け物にする気か? ネクロマンサー」
周囲の衛兵たちが、息を詰める。
剣に手を掛ける者はいないが、空気は張り詰めていた。
セレナは、視線を逸らさない。
「このままでは、この街は魔物に滅ぼされます」
ざわり、と衛兵たちの間に動揺が走る。それはもう確定している。防衛戦がすでにジリ貧であることは、衛兵たちが一番理解していた。
「それでも、何もしないという選択をしますか?」
フェンはセレナの意志のこもった目に気圧される。
「領民を助けたいなら」
一拍、置いて。
「化け物になる覚悟をしてください!」
フェンも、衛兵たちも目を見開いた。そして重い沈黙が落ちる。
誰も、すぐには答えられない。
フェンは歯を食いしばり、視線を地面に落とした。
拳を握りしめ、苦虫を噛み潰したような顔で、低く言う。
「俺は、化け物になりたいわけじゃねぇ」
そして、顔を上げる。
「だが、領民を助けたい」
その言葉は、絞り出すようだった。
「……頼む」
自尊心を踏み潰し、誇りを飲み込み、それでも言った。
「さすがだな、噂の白の魔女様だ」
フェンは自嘲気味に笑う。
「足元を見るのが、上手い」
刺すような言葉だった。
だが、セレナは表情を崩さなかった。
凛として、背筋を伸ばし、悲しみを表には出さずに、ただ頷く。
「分かりました。その頼みを引き受けましょう」
それだけ言って、彼女はフェンの左腕に手を置いた。
白い外套が揺れる。風が吹き荒れ。
緑色の暖かな光が街を淡く照らした。