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その夜、ドラコは最初から嫌な予感がしていた。
理由はうまく説明できない。
ただ、部屋へ入った瞬間に空気が違った。
重い。
冷たいというより、湿っている。
窓は閉まっているのに、どこか暗い水辺の底みたいな匂いがする。
ドラコは扉を閉め、その場でしばらく動かなかった。
机の上には、読みかけの本がある。
昨日の夜、自分で閉じたはずなのに、今は少し開いている。
カーテンの端も、朝と違う角度で揺れていた。
たったそれだけのことなのに、背筋の奥がじわりと冷える。
「……やめろ」
思わず、誰もいない部屋へ向かってそう言っていた。
声は自分で思ったより低く、乾いている。
返事はない。
当然だ。
返事があったら、その時点でもう終わりだ。
ドラコはゆっくり机へ近づき、本を閉じた。
その動作だけでも、心臓が速い。
自分が何かへ怯えていることを、部屋の中の“何か”へ悟られたくないという、妙に馬鹿げた緊張がある。
禁忌を使ってから、こういう夜が増えた。
何も起きていないのに、起きる気がする。
一人なのに、一人ではない感じがする。
鏡の中の自分が、自分より少しだけ遅れて瞬きをする気がする。
扉の向こうに、立ってはいけないものが立っていると感じる。
それでも今までは、どうにかやり過ごせていた。
だから今夜も、そうなるはずだった。
ドラコは机の引き出しを開け、禁忌の本を取り出した。
読む必要はもうほとんどない。
文言も手順も頭に入っている。
それでも手元に置かずにはいられないのは、そこに答えがある気がするからだ。
ページを捲る。
魂の欠けたところへ、影は寄る。
寄ったものは、術者の痛みを食む。
だが、空腹はやがて術者の外へも向く。
そこまで読んだところで、ドラコの指先が止まった。
以前も読んだ一節だ。
その時は、“外へも向く”の意味を深く考えなかった。
自分がもう少し傷むだけだと、どこかで高を括っていた。
自分なら境目が分かる。
自分なら暴走させない。
そう思っていた。
その驕りが、今になってひどく恐ろしい。
外へ向く。
それは、つまり。
「……馬鹿だな」
自分へ向かって吐き捨てるように言う。
今さら気づいたところで遅い。
気づいたなら、今すぐ止めなければ。
ドラコは本を閉じ、杖を取った。
もう一度だけ、確かめる必要があった。
寄生しているものが本当にあるのなら、今夜ここで切る。
少なくとも外へ出す前に。
そうしなければ。
けれど、杖を握った瞬間、またあの嫌な感覚が来た。
冷たい声。
見下ろす目。
命令。
膝をつけという圧。
ドラコの呼吸が止まる。
「違う」
言い聞かせるように呟く。
「お前は、もう死んでる」
それでも、喉の奥が塞がる。
杖の先が震える。
魔力を通そうとするたび、背中へ冷たいものが這う。
駄目だ。
ここで呪文を失敗したら。
このまま自分の部屋で何かが起きたら。
ドラコは唇を噛み、無理やり詠唱した。
簡単な封じの呪文。
本来なら苦もなくできるはずのもの。
だが、放たれた光は中途半端に揺れ、部屋の中央でふっと消えた。
その瞬間、背後で何かが笑った気がした。
低く。
湿った笑い。
ドラコは勢いよく振り返る。
誰もいない。
それでも、気配はある。
さっきより近い。
自分の肩越しで息をしているみたいな、ひどく近い気配。
恐怖が一気にせり上がる。
今までで一番はっきりと、ドラコは理解した。
これはもう、ただの幻覚じゃない。
自分の中だけで済む話じゃない。
「……出ていけ」
声が震える。
「僕の部屋から」
「僕の」
「僕の中から」
返事はない。
だが、その沈黙のほうがよほど悪質だった。
嘲笑みたいに、部屋の隅々へ満ちる。
ドラコはもう一度杖を構えた。
今度こそ本気で封じる。
震えていても、何でもいい。
とにかく出してはいけない。
その時、扉の外で物音がした。
「坊ちゃま?」
年配の使用人の声だった。
ドラコの全身から血の気が引く。
「入るな!」
反射的に叫ぶ。
でも遅い。
「坊ちゃま、先ほどからお声が」
使用人の声が近づく。
「お体の具合が——」
「入るなと言ってるだろ!」
今度は怒鳴った。
怒鳴ったのに、声のほうが先に怯えている。
それが余計にまずかった。
外の気配がざわつく。
もう一人、足音が増える。
たぶん若い使用人だ。
心配して集まってきたのだろう。
この家の人間は、ドラコが弱っていると知れば逆に気を遣って近づいてくる。
それが善意でも、今夜だけは最悪だった。
「開けます、坊ちゃま」
「開けるな!」
ドラコは扉へ走ろうとした。
でも、その一瞬、視界の端に黒い影が揺れた。
ほんの一瞬だった。
なのに身体が止まる。
止まってしまった、その遅れが致命的だった。
扉が開く。
使用人が二人、顔を出す。
その向こうに、もう一人。
次の瞬間、部屋の空気がひっくり返った。
ドラコは、それをうまく言葉にできなかった。
何かが、いた。
形は曖昧だ。
黒い。
煙にも影にも見える。
でも確かに、そこに“飢え”だけを持ったものがいる。
部屋の隅から、いや、ドラコの背後から、それは一気に膨らんだ。
冷たいのに粘ついていて、壁の影を飲み込むみたいに広がる。
使用人の一人が悲鳴を上げた。
その悲鳴が引き金になったのかもしれない。
影は、ドラコを素通りして、人間のほうへ向かった。
「駄目だ!」
ドラコは叫んだ。
でも身体が追いつかない。
杖を上げる。
呪文を出そうとする。
喉が詰まる。
視界が揺れる。
影はもう、使用人の首元へまとわりついていた。
声にならない音。
息を呑む気配。
黒いものが衣服の内側へ入り込む。
生命そのものを啜るみたいに、相手の輪郭がみるみる崩れる。
「やめろ!」
ドラコはようやく呪文を放った。
でも遅い。
弾けた光は影の端を掠めただけで、完全には止められない。
別の使用人が逃げようとする。
影がそちらへ跳ぶ。
悲鳴。
倒れる音。
何か重いものが床へぶつかる気配。
ドラコはその場で凍りつきかけた。
違う。
こんなはずじゃない。
これは自分を静かにするためのものだった。
苦しみを薄くするだけのはずだった。
どうして。
どうしてこんな。
頭では分かっている。
愚かだったからだ。
自分なら制御できると、過信したからだ。
でも、そう納得したところで、目の前の惨劇は止まらない。
ドラコは震える手で、もう一度杖を構えた。
今度は自分の恐怖ごと押し込める。
ヴォルデモートの影も、服従の記憶も、何もかも踏み潰して、とにかくこの“飢え”を止めなければ。
「ステューピファイ!」
叫ぶ。
声が割れる。
放たれた光が影を直撃する。
黒い塊が一瞬だけよろめく。
その隙に、残っていた使用人が床を這うように逃げた。
ドラコはその背へ向かって怒鳴る。
「行け!」
「誰も近づくな!」
使用人は泣きながら部屋を飛び出した。
扉が開いたままになる。
廊下の向こうで叫び声が広がっていく。
終わった。
隠しきれない。
その現実が、影より先に胸を抉った。
影は、今度はゆっくりとドラコへ向き直る。
まるで笑っているみたいだった。
お前のせいだと。
お前が呼んだのだと。
そう言っているみたいに。
ドラコは後ずさる。
杖はまだ握っている。
でも腕が重い。
呼吸が乱れて、足元が揺れる。
「……戻れ」
かすれた声で言う。
「僕の中へ」
「戻れ」
「出てくるな」
影は答えない。
ただ、部屋の中を満たす飢えだけが強くなる。
ドラコはそこで、初めて本気で悟った。
もう、自分ではどうにもならない。
その直後、屋敷中に魔法の警戒音が鳴り響いた。
父の結界が動いたのだろう。
遅すぎた。
何もかも。
ドラコの膝がそこでようやく折れた。
気力が尽きたのではない。
身体が、もう限界だった。
恐怖と禁忌の反動と、目の前で人が死ぬのを止められなかった現実と、全部が一気にのしかかった。
そのまま床へ手をつく。
冷たい石の感触。
目の前には倒れた使用人。
動かない。
「……僕が」
声が出る。
でも、続きにならない。
僕がやった。
僕のせいだ。
そこまで口にするだけの力もなかった。
その後のことは、ひどく曖昧だった。
父の怒声。
結界の光。
増える足音。
誰かがドラコの杖を蹴り飛ばす。
ナルシッサの悲鳴。
影がどこへ消えたのかすら、はっきり覚えていない。
ただ、気づけば屋敷は大混乱になっていて、使用人が何人も床へ倒れていて、その中心に自分がいる。
それだけは、はっきりしていた。
⸻
魔法省が来るまで、そう時間はかからなかった。
戦後の今、闇の気配に対する反応は異常なほど速い。
しかも発生したのはマルフォイ家の屋敷。
最悪の場所だった。
ドラコは応接間に座らされていた。
両手は震えている。
濡れた髪が頬へ張りついている。
いつ着替えたのか、誰がそうしたのかも曖昧だ。
目の前では父と魔法省の人間が話している。
低い声。
押し殺した怒気。
「闇の存在」「死者」「禁忌」「責任」という単語だけが、とぎれとぎれに耳へ入る。
ドラコは何も言わなかった。
弁解しようと思えばできたかもしれない。
自分は苦痛を止めたかっただけだとか。
制御できると思っていたとか。
呼び出したつもりではなかったとか。
でも、そんなことは意味を持たなかった。
実際に人が死んだ。
しかも、自分の部屋で。
自分の選択の結果として。
それだけで十分だった。
「ドラコ」
名前を呼ばれて、ようやく顔を上げる。
ハリーだった。
いつ来たのか分からない。
でもそこにいた。
血の気のない顔で、ひどく強ばったまま、こちらを見ている。
その顔を見た瞬間、ドラコの胸がひどく痛んだ。
来るなと思った。
来てほしくなかった。
でも同時に、来てくれたことへどうしようもなく縋りたかった。
最悪だった。
ハリーは数歩近づこうとした。
でもその前に、魔法省の人間が腕を伸ばして制した。
「関係者以外は」
「僕は」
ハリーが何か言いかける。
でも、その続きが詰まる。
何と言うつもりだったのか、ドラコには分かった。
自分は関係者だと。
そう言いたいのだろう。
でも今、それをここで言わせるわけにはいかなかった。
「来るな」
ドラコは低く言った。
ハリーが息を止める。
「ドラコ」
「来るな」
今度はもう少しはっきり言う。
「今だけは」
その“今だけは”に、どれほどの意味がこもっていたか、ドラコ自身にも分からなかった。
今だけは、見ないでくれ。
今だけは、助けようとしないでくれ。
今だけは、僕を庇うな。
今だけは、僕を必要とするな。
そういうものが全部混ざっていた。
ハリーはそこで足を止めた。
止めたが、目は離さない。
その視線が痛い。
それでも、今はその痛みのほうがありがたかった。
ありがたい、と思ってしまった時点で、ドラコはもう終わっていた。
⸻
その夜の終わりには、屋敷の外へ記者まで集まり始めていた。
噂は広がる。
闇の存在。
死者。
マルフォイ家。
戦後の魔法界がもっとも嫌う言葉が、一晩で最悪の組み合わせを作る。
ドラコはその騒ぎを、半ば他人事みたいに聞いていた。
本当に怖いのは、もう世間ではなかった。
自分のせいで死んだ人間の顔と、ハリーが何も分からないままこちらを見ていたあの目のほうだった。
どちらも、しばらく消えそうになかった。
⸻