伊藤との関係は二年に及んだ。周囲には関係を隠し、人前ではあくまで雇用者と従業員という関係を貫いた。――目が合えば微笑んで想いを確かめ合う。秘匿のこそばゆい関係が心地よかった。
兄は、小説の賞を取ったはいいものの、その後スランプに陥り、――エゴサなんかするからだ、と彼女は思った。兄の作品は賛否両論であり、権威ある群青賞を汚した――などとバッシングする者も珍しくはなかった。
やがて、兄は、書くのを辞めた。あんなにも生き生きしていた兄が。彼女にはそのことが悲しかった。その一方で、兄のことを弱い人間だと決めつける自分も存在するのだった。美冬とて、高校生の頃から仕事をしており、顧客から嫌な声やニーズを受け付けることはある。そのたびに、動揺するこころを押し隠し、笑顔で対応したのだ。――何故、それが、出来ないのか。
群青賞を受賞した他の作品も読んでみた。確かに――兄の作品はどちらかといえばご都合主義のラノベとも言えなくはないが、瑞々しい筆致で描かれ、描写力に優れており、受賞も納得の出来だった。兄の告白を受けてから、文芸ジャンルの本を読むようになったが、決して兄の作品が劣るとは思えない。言いがかりだ――とは思うものの、いくら兄にその話をしようとも、彼のこころには届かなかった。
虚しかった。兄の影響で本を貪り読むようになったのに――報われない。悲しかった。
兄を賞賛する自分がいる一方で、すこしずつ、兄に対する諦めの気持ちも強くなっていった。諦念。そもそも血が繋がっていないとはいえ、荒木英雄とは兄妹なのだから、恋なんかしちゃいけない。いけない――と思えば思うほどに惹かれるもので。
やがて、美冬は家を出た。勤務地の花見町から二駅の近辺にマンションを借りた。追従するように兄も家を出た。両親は――仲睦まじく暮らしており、二人でも問題なくやっていけそうだ。それに、毎日兄と顔を合わせると気持ちがあふれそうになる。だから、彼女は、離れることを選んだ。それでも同じ駅の近くに住むのが皮肉であり――また、兄が、彼女の経営するカフェに時々顔を出すのが切なかった。
――いらっしゃいませお兄ちゃん。
本来、経営者である以上は、自身が経営する店舗で、家族に対する情愛を剥き出しにしてはならないはずが――されど、彼女は他の仕事もしており、店に立つ時間も限られている。その時間を狙って来てくれる兄の善意が――嬉しかった。
バイトを始めた当初、大学一年生であった伊藤は大学の三年生になり、就職を意識する時期となった。自分も起業したい――と熱っぽく語る伊藤に、美冬は、アドバイスを送った。カフェ運営とシッターの二足の草鞋で奮闘する美冬の姿を間近で見ていた伊藤は、大学の仲間と会社を作りたい――そのために貯金もしてきたと語った。
ところがだ。ある日、友人がいなくなったと聞かされた。伊藤の貯金全額を持ち出して――連絡もつかない。どこに行ったかもまったく分からない。警察に相談したが――相談には乗ってくれるが、捜査はしてくれないという。美冬は絶望した。
それがきっかけで、伊藤とは別れた。――美冬さんを信じたぼくが馬鹿だった。とにかく、就職先を探すよ。と捨て台詞を残して。勿論アルバイトも辞めた。
夜、公園で――そう、この公園で、伊藤と肉まんを食べた。はふはふ言いながら――寒いね、あったかいね――そう言いながら。美冬のマンションで何度抱き合ったろう。寒いね――わざと暖房を入れぬ部屋で互いの肌を貪りあった。もう、遠い日々……。
ブランコに座る美冬は夜空を見上げた。涙があふれた。自分は、なにを見ていたのだろう。伊藤のことを、なにも分かっちゃいなかった。兄にも――兄が好きなくせに。本当は。でも、わたしは――。
「――あの。よかったらどうぞ」
顔を覆い、号泣していた美冬は、自分が話しかけられているのだということにすぐには気づかなかった。涙を拭き、顔をあげた。すると――。
美形というわけではない。平凡な、会社帰りだと思われるサラリーマンが、袋に入った植木鉢を差し出している。花は――ポインセチア。真っ赤な色合いが印象的な花だ。戸惑いながらも美冬は、
「これ、わたしに……?」
すると男は照れたように笑った。「……元気が出ますように」
男は、自分のために買ったのか? いや――すぐ傍に花屋がある。彼女を見て――一人夜の公園で泣きむせぶ女を見て、同情したのかもしれない。ありがとうございます、と礼を言い、彼女は花を受け取った。見た目よりもずっしりと、重かった。
「じゃあ、ぼくはこれで……」
「あっ。あの……!」彼女は植木鉢を手に立ち上がった。「せめてお名前を……!」
振り返った男は、再び微笑し、
「新谷涼介と言います」
――それが、のちに夫となる新谷との出会いだった。
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