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翌日、改札前で待ち、新谷涼介の姿を探した。――午後八時を回った頃に彼の姿を見つけた。


新谷は気づいたようだ。「ああ……昨日は。あれから大丈夫?」


「どうしてもお礼が言いたくて」と彼女は微笑んだ。「よかったら、一緒にご飯でもどうです? 昨日のお礼に、奢らせてください……」


仕事柄多くの人間を目にしている。彼女の目から見て新谷は、信頼に値する男だった。


美冬の提案を受けて、新谷は頷いた。「じゃあ……喜んで」


* * *


新谷との関係は、淡々と進んでいった。当時新谷は三十歳で、そろそろ結婚を意識していい年頃だった。美冬も然りだ。


三回デートをして、思い切って美冬のほうからプロポーズをした。新谷は驚いたようだったが、喜んで花束を受け取った。そして翌日には一緒に指輪を買いに行った。


新谷の実家は千葉にあり、彼は次男坊である。ほどよく離れているのがまたありがたい。結婚式は行わず、一度両家の親族を交えて会食会を行うことで、挨拶は終了した。――兄に。「おめでとう」と言われたときは流石に切なかったが。けども、美冬は自分が飛び込む新たな結婚生活に――集中しようと思った。

カフェとシッターの仕事は続けた。新谷は美冬のマンションの近所に住んでおり、そこが1LDKだったので美冬はひとまずそこに住むこととなった。二人暮らしにはやや狭いが、もう少し貯金をしてから引っ越そうと考えていた。


新谷は、相手に多くを求めない。喧嘩になれば美冬のひとり相撲で、言いたいことは言わせて、それから部屋にこもってしまう。なにを言っても無駄だと感じた。

新谷は、競馬が趣味であり、毎週ひとりで競馬場に行く。妻をつき合わせる趣味はないようだった。新谷は――結婚してもひとりの時間を大切にしているようで、ひとつだけある部屋にいつも籠ってしまう。土日も平日も美冬は忙しいゆえに、夫と顔を合わせるのは朝と晩。それも――新谷は先に食事を済ませており、酷いときは朝数秒だけ顔を合わせて終わることもある。――なんのための結婚生活なのか、美冬には段々分からなくなっていた。友達の男を奪ったこともあるゆえ、美冬は同性の友達は少ない。そもそもこんな相談をしてみたところで『贅沢よ』の一言で一蹴されるのだろう。美冬は、夫の新谷よりも稼いでいるのだから。好きなことをやらせて貰えることにありがたいと思いなさい――母に電話で相談してみるとそのように言われる始末だった。


一方、兄は――兄には詳しくは言えなかったが、ある日、カフェに来た兄は、


「……辛いの?」


一瞬で見抜いたらしい。流石は、賞を獲った作家なだけのことはある。美冬は動揺を押し隠し、「どうして?」と尋ねた。


「……顔は笑っているけれどこころが泣いているように見えたから」

――兄が兄でなかったら、兄は果たして自分を選んでくれるだろうか。兄の思いやりはいまの美冬には残酷だった。やさしさがひとを傷つけるということを、このとき彼女は初めて知った。


「かもね」と美冬は笑った。「じゃあお兄ちゃん。わたし、仕事行くから。じゃあね」


そして美冬は決めた。――死のうと。


いま、自分が死ねば困る人間はどれほどいるだろう。従業員。家事代行のクライエント。シッターを頼むクライエント。それから……。


悲しむ人間はどのくらいだろう。兄。母。血の繋がらない父。実父のほうはどうしているかなんて知らない。興味もない。


改札を入り、電車の滑り込むホームに立ったのは気まぐれだった。この次は……快速のはず。快速なら、容赦なく、美冬のからだを骨と肉だけにしてくれるだろう。そのときが楽しみだった。


笑みを浮かべ、ホームをふらつき、やがて、飛び降りようとしたそのとき。


「――止めるんだ」


背後から腕を掴まれていた。「離して」と美冬はあがいた。しかし――相手は男なのか、力が強く、あっさりと、ホームの椅子へと座らされる。男は美冬を座らせると、前に回り込み、


「――早まったことをするな」

なかなか綺麗な顔立ちの男だった。兄には負けるが。それに、ややウエストの辺りがふっくらしている中年男性。運動不足なのだろう。


仕事帰りのサラリーマン。男女のやり取りに、見向きする者など誰もいない。皆――携帯に夢中だ。


「あなたに……なにが分かるんです」美冬は、男に反論していた。「他人の抱える苦しみを知らないくせに。分かったようなことを言わないでください」


すると、男は顔を歪め、


「おれだって苦しい。……でも、生きなければならないから生きている。きみも……同じなんじゃないか」


彼女は気がついた。男の指には結婚指輪が嵌められている。美冬は――男にしがみついた。知らない男の匂いがする――スーツに重ねられたコートの感触。


そうして美冬は――乙女篤子の夫である、乙女紘一と出会ったのだった。


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