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#フライギ
にもあえ
229
葉菜
26
そんな当たり前の感情が胸の奥へ静かに根付き始めていることを、俺自身まだ完全には理解していなかった。
人間軍が攻めてくるという事実は街全体へ瞬く間に広がり、翌日から空気そのものが変わった。
誰かが命令を出した訳ではない。
それでも採石場では今まで以上に大きな石材が切り出され、鍛冶場では朝日が昇る前から槌の音が響き始め、見張り達は交代の間隔を見直しながら監視範囲を広げている。
北方森林群から避難してきた半魔達も、自分達の故郷を失った経験があるからだろう。休憩時間になると自然と集まり、防壁をどう補強するか、敵がどこから来れば最も危険か、自分達が知る森の地形を囲んで真剣に話し合う姿が目立つようになっていた。
悲観する者はいない。
代わりに焦りがあった。
時間だけが決定的に足りない。
俺も例外ではなく、朝から会議所へ籠もっては地図と設計図を広げ、計算式を書き直しては消し、街全体の構造を何度も頭の中で組み替えていた。
防壁を厚くするだけでは足りない。
高さを増すだけでも意味は薄い。
迷い霧が弱められる可能性を考えれば、敵は真正面から来るだけではなく、森を切り開きながら複数方向から侵入してくることも十分考えられる。
ならば守る場所を一つに絞るのは危険だ。
街全体を一つの砦として考えるのではなく、街そのものを幾つもの要塞へ分け、一つ突破されても次で止める構造にした方が生存率は高い。
そんな考えを図面へ落とし込んでいると、不意に机へ湯気の立つ湯飲みが置かれた。
顔を上げる。
しゆらだった。
「少し休んでください」
穏やかな声だった。
最近はこういうことが増えた。
俺が資料へ没頭していると、しゆらが食事や飲み物を持ってくる。
逆に、しゆらが図面を書き続けている時は俺が声を掛ける。
どちらから始めたのかも覚えていない。
気付けば当たり前になっていた。
「ありがとう」
湯飲みを受け取る。
温かい。
一口飲むと、張り詰めていた頭の中が少しだけほぐれるような気がした。
「何か思い付いたんですか」
しゆらが俺の隣へ立つ。
図面を覗き込む横顔は真剣そのものだった。
以前なら設計図を見ても遠慮がちに質問するだけだった彼女が、今では自分から意見を口にするようになっている。
「街を区切る」
そう言いながら図面へ線を引く。
「外壁だけじゃなく、内側にも石壁を作る。住宅区、鍛冶場、倉庫、会議所、それぞれを独立した防衛区画にしてしまえば、一つ突破されても全部は落ちない」
しゆらは黙って図面を眺めていたが、やがて小さく頷くと俺から炭筆を受け取り、別の場所へ新しい線を書き足した。
「ここに細い通路を残しませんか」
「理由は」
「敵が大人数で入れないようにしたいんです。それと屋根の上を繋げれば、半魔の皆さんなら上から移動できます」
思わず手を止める。
面白い。
人間の発想ではない。
半魔達の身体能力を前提にした設計だった。
「なるほど」
思わず笑みが漏れる。
「その考えはなかった」
素直にそう言うと、しゆらは少し照れたように笑った。
「皆さんを見てたら思い付いただけです」
その一言で気付かされる。
俺は人間として考えていた。
しゆらはこの街で暮らす者として考えていた。
同じ図面を見ているようで、見えている景色は少し違う。
だからこそ互いに補える。
その時、会議所の扉が静かに開いた。
振り返ると、大和と千代、それにミズキが並んで立っている。
「邪魔だったか」
大和がそう尋ねる。
「いや」
図面を片付けながら首を振る。
「ちょうど一つ形になったところだ」
大和は机へ広げられた設計図を見渡し、小さく息を吐いた。
「前より街らしくなったな」
その言葉には感心よりも実感が滲んでいた。
夜哭きの森を失ってから、ここまで立て直せるとは誰も思っていなかったのだろう。
完成には程遠い。
それでも確かに街は成長している。
ミズキも図面を覗き込みながら感心したように頷いていたが、不意に赤い瞳が窓の外へ向けられる。
その表情が僅かに引き締まる。
さっきまでの穏やかな空気が少しだけ変わった。
「どうした」
大和が尋ねる。
ミズキはすぐには答えず、窓から見える見張り台をしばらく眺めてから静かに口を開いた。
「少し早いかもしれぬ」
その一言だけで会議室の空気が張り詰める。
「何がじゃ」
千代の問いに、ミズキは視線を外さないまま続けた。
「人間軍の先遣隊じゃ。儂の眷属から連絡が入った」
部屋の中から音が消える。
まだ本隊ではない。
それでも敵はもう動き始めている。
予定より早く、この街は最初の試練を迎えようとしていた。
部屋を包んでいた穏やかな空気は完全に消え、代わりに誰もが思考を巡らせる静けさだけが残る。大和は窓の外へ視線を向けたまま腕を組み、千代も腰へ差した刀の柄へ無意識に手を添えていたが、その表情に焦りは見えなかった。
恐らく全員が同じことを考えている。
ここで戦うべきか。
それとも隠れるべきか。
夜哭きの森なら迷わず後者だった。
迷い霧へ敵を誘い込み、森そのものを利用して追い返す。
何百年もそうして生き延びてきた。
だが今は違う。
ここは隠れ家ではない。
守るために築き始めた街だった。
「先遣隊の規模は」
大和が問い掛けると、ミズキは机へ新しい紙を広げながら静かに答えた。
「およそ百五十から二百。全員が戦闘員という訳ではなく、測量役や地図作成役、それに例の兵器を扱う技術者も含まれておる」
「偵察か」
榊が呟く。
「恐らくの」
ミズキは頷く。
「本隊を動かす前に地形を確認し、この辺りの魔力濃度や補給路を調べるつもりじゃろう。街の存在まで把握しておるかは分からぬが、この山岳地帯を重点的に調査する命令は既に出ておる」
そこまで聞いて、ようやく俺の中で一つの考えが形になった。
「なら本隊はまだ動けない」
全員の視線が集まる。
「この先遣隊は戦うためじゃない。情報を持ち帰るために派遣されているなら、本隊はその報告を前提に作戦を組んでいるはずだ。ここで報告が途切れれば、人間軍は計画そのものを見直さざるを得なくなる」
榊が顎へ手を当てる。
「つまり潰すか」
「違う」
首を横へ振る。
「消す」
会議室が静まり返る。
「一人でも逃がせば意味がない。街の存在も、防壁も、兵力も全部知られる。それなら戦うんじゃなく、誰一人帰さないことを前提に動いた方がいい」
千代が小さく笑う。
「ようやく半魔らしい考えになってきたの」
「研究所じゃ褒め言葉にはならないな」
「ここは研究所ではない」
その一言に思わず苦笑する。
確かにそうだった。
研究者としてなら敵を観察する。
だが今の俺は、この街で暮らす一人でもある。
守るためなら発想も変わる。
大和は地図を見つめながら静かに考え込んでいたが、やがて一本の川を指先でなぞり、そのまま北側の山岳地帯へ視線を移した。
「迎え撃つ場所は選べる」
短い言葉だったが、その意味は重い。
「街まで来させない」
その結論に異論を唱える者はいなかった。
戦場を決める権利はこちらにある。
敵を防壁で待つのではなく、山と森を利用して迎え撃つ方が圧倒的に有利だ。
「この辺りなら谷が狭いですね」
しゆらが地図へ身を乗り出し、一か所を指差す。
「左右を岩壁に挟まれているので、大人数では展開できません。それに川も近いので、橋を落とせば退路まで制限できます」
俺も図面を覗き込み、小さく頷いた。
「悪くない。ここなら兵力差を消せる」
「魔獣も多い場所じゃ」
千代が付け加える。
「刺激すれば人間だけを襲う可能性もある」
「半魔は」
「森の魔力へ慣れておる。人間ほど狙われぬ」
地形。
魔獣。
霧。
川。
今まで人間から逃げるために利用してきたものを、今度は敵を止めるために使う。
それは夜哭きの森とも研究所とも違う、新しい戦い方だった。
大和はゆっくりと周囲を見渡す。
鍛冶師達がいる。
狩猟班がいる。
見張り役達がいる。
避難してきた半魔達がいる。
誰一人として目を逸らさなかった。
「先遣隊は俺達で止める」
その言葉は命令というより確認に近かった。
「街は守る。ここから先は逃げるためじゃなく、生き残るために戦う」
静かな声だった。
それでも不思議と誰の胸にも真っ直ぐ届く。
会議室の中で一人、ミズキだけが腕を組んだまま目を閉じ、小さく息を吐いていた。
その表情には僅かな安堵が浮かんでいる。
恐らく彼女は見たかったのだ。
夜哭きの森を失ってなお逃げ続ける集団ではなく、一つの街として、一つの国として、自分達の意思で最初の戦いを選ぶ瞬間を。
その日、大会議室で交わされた決定は、後に建国史を記す者達から「最初の軍議」と呼ばれることになる。
まだ誰も国など名乗ってはいない。
それでもこの日を境に、この街は避難民の集落ではなく、自らの土地を守るために立ち上がった共同体へと、その姿を少しずつ変え始めていた。
コメント
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いやー、この話数めっちゃ熱かった!しゅらが設計図に屋根伝いの通路を書き足すシーン、めちゃくちゃグッときたわ。半魔の身体能力を前提にした発想ってのが主人公と補い合えてて、二人の距離感が自然に縮まってるのも良い。あと「ようやく半魔らしい考えになってきたの」って千代の一言、しびれるぜ。街を逃げ場から戦う場所へ変える決断、彼らが歴史を動かし始めた瞬間だったんだな…!