テラーノベル
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翌朝、街がまだ朝霧に包まれている頃には遠征の準備は既に終わっていた。
見送りに集まった住人達の数は思っていたより多い。
子供達は事情を詳しく理解していないらしく、「行ってらっしゃい」と無邪気に手を振り、北方森林群から避難してきた半魔達は無言のまま拳を胸へ当てて頭を下げる。その姿には、自分達が守れなかった故郷を今度こそ守り抜いてほしいという願いが滲んでいた。
大和は一人ひとりへ短く頷き返すだけで余計な言葉は口にしない。
演説もない。
士気を高めるような言葉もない。
それでも住人達が不安そうな顔を見せないのは、この短い時間の中で築かれた信頼が、言葉よりも強く根付いているからなのだろう。
街の門を抜け、振り返る。
石造りの防壁はまだ完成には遠く、見張り台も増設途中のままだったが、朝日に照らされたその姿は、ほんの数か月前には存在しなかった景色だった。
岩しかなかった土地へ家が建ち、人が暮らし、子供達が笑い、防壁の上では見張り役が手を振っている。
研究所で生まれ育った俺には、その当たり前が妙に眩しく映った。
「戻ってくる場所があるというのは、不思議なものじゃな」
隣を歩く千代がぽつりと呟く。
独り言のようでもあり、自分へ言い聞かせているようでもあった。
夜哭きの森を失った彼女だからこそ、その言葉の重みは誰よりも大きい。
大和も何も答えなかったが、歩幅だけは僅かに緩めていた。
きっと同じことを考えているのだろう。
街を離れて半日ほど進むと、森の様子が少しずつ変わり始めた。
木々の密度は変わらない。
魔力の流れも大きな乱れはない。
それでも違和感がある。
鳥の声が少ない。
小型の魔獣が姿を見せない。
風の流れまでどこか淀んで感じる。
俺は足を止め、近くの倒木へ手を置いた。
樹皮の感触はいつもと変わらない。
土も湿っている。
だが地面の奥を流れる魔力だけが、妙に薄い。
「予紬さん?」
しゆらが心配そうに覗き込む。
「何かありましたか」
「……少し気になる」
土を掴み、指先で崩す。
魔力そのものが失われている訳ではない。
吸い上げられたような痕跡が残っている。
しかも自然現象とは思えないほど均一だった。
「魔力撹乱杭とは違う」
思わず口をついて出る。
あれは魔力の流れを乱す兵器だ。
今感じているのは乱れではなく、流れそのものがどこかへ導かれたような不自然さだった。
研究所でも似た現象は見たことがない。
だから余計に気味が悪い。
「人間の仕業かの」
ミズキが和傘を肩へ担ぎながら尋ねる。
俺は首を横へ振った。
「断定はできない。ただ……」
言葉が止まる。
説明できない。
理由はない。
それでも感覚だけが警鐘を鳴らしている。
この森は、人間軍が通っただけではこうならない。
もっと前から何かが行われていたような痕跡だった。
「後で調べる」
それ以上は考えを切り替え、再び歩き始める。
今は先遣隊を探す方が先だ。
山道を越え、小さな沢を渡り、昼を過ぎる頃には北側の谷へ差しかかっていた。
この辺りはしゆらが地図へ印を付けていた場所でもある。
左右を切り立った岩壁が挟み込み、人が並んで進める幅はせいぜい五人ほどしかない。
伏兵を置くには理想的な地形だった。
「待ってください」
先頭を歩いていたしゆらが急にしゃがみ込む。
視線を向けると、柔らかい土の上へ無数の足跡が残されていた。
人間の靴底。
荷車の車輪。
金属製の杭を引きずったような細い跡。
それらはまだ雨で流されていない。
新しい。
俺も膝をつき、土へ指を触れる。
乾き具合。
踏み固められた深さ。
草の倒れ方。
どれを見ても半日ほどしか経っていなかった。
「近いな」
大和が静かに言う。
誰も返事をしない。
必要なかった。
先遣隊はもう、この山のどこかにいる。
初めてこちらから探しに来た戦場は、想像よりもずっと近くまで迫っていた。
初めてこちらから探しに来た戦場は、想像よりもずっと近くまで迫っていた。
大和が片手を軽く上げる。
その合図だけで全員の足が止まり、谷へ流れていた僅かな足音さえ消えた。
風が岩肌を撫でる音だけが耳へ届く。
誰も言葉を発しない。
この場で最も信用できるのは耳でも目でもなく、森そのものだった。
魔獣が騒げば敵がいる。
鳥が飛び立てば何かが近付いている。
そうやって半魔達は長い年月を生き延びてきた。
だが今日は違う。
静か過ぎる。
谷へ入ってから一度も鳥の羽音を聞いていない。
木々の上を駆け回る小型の魔獣も姿を消し、普段なら川辺で見掛ける角兎の足跡さえ途中から途切れていた。
森が息を潜めている。
そんな感覚だった。
千代も同じ違和感を覚えたらしく、腰を落として地面へ手を触れる。
しばらく目を閉じていたが、小さく眉をひそめた。
「妙じゃな」
「何がだ」
榊が声を潜める。
「匂いが薄い」
短い返答だった。
だが半魔達には十分伝わったらしい。
何人かが顔を見合わせる。
「魔獣のか」
「全部じゃ」
千代は首を横へ振る。
「獣も、人間も、この森そのものもじゃ」
その言葉を聞きながら、俺は谷の奥へ視線を向けていた。
確かにおかしい。
普通なら人間が二百近く通れば、木は傷付き、枝は折れ、泥も大きく抉れる。
ところが目の前へ続く痕跡は異様なほど整っていた。
一定の間隔。
一定の深さ。
荷車の轍までほとんどぶれていない。
まるで訓練場で歩幅を揃えて行進したようだった。
「あり得ないな」
思わず口にする。
人間の軍隊を知らない訳ではない。
研究所にいた頃、護衛部隊の行軍も何度も見た。
疲労すれば歩幅は乱れる。
重い荷物を運べば列は崩れる。
それが自然だった。
ここまで均一になることはない。
俺はしゃがみ込み、轍へ指を這わせる。
深さを測る。
車輪の幅を確認する。
乾き具合を見る。
その時だった。
「……これは」
轍の端へ、小さな金属片が埋まっていた。
爪ほどしかない。
銀色とも黒色ともつかない鈍い光沢。
拾い上げる。
軽い。
金属にしては軽過ぎる。
指先で軽く叩くと澄んだ音が返ってきた。
見覚えがない。
少なくとも、この世界で見てきた鉱石ではなかった。
「予紬さん」
隣へしゃがみ込んだしゆらが覗き込む。
「何ですか、それ」
「分からない」
正直に答える。
研究所で扱っていた合金とも違う。
煌魔学で精製される魔鉱石とも違う。
それなのに、不思議と嫌な記憶だけが刺激される。
どこかで見た。
いや。
見たことがあるというより、考えたことがある。
もっと軽く。
もっと強く。
魔力伝導率を落とさず強度だけを上げる素材。
研究途中で机上計算だけ残し、実物を見ることはなかった理論。
「……まさかな」
無意識に呟く。
そんなものが存在するはずはない。
少なくとも俺は完成させていない。
「知っておるのか」
ミズキが静かに尋ねる。
俺は金属片を掌へ握り込み、小さく首を振った。
「違う」
違う。
そう言い聞かせるように。
「似ているだけだ」
その返答に誰もそれ以上は聞かなかった。
皆、俺の表情を見ていたからだろう。
自分でも分かる。
顔色が良くない。
説明できない違和感が胸の奥で膨らみ続けている。
そんな空気を断ち切るように、大和が前方へ視線を向けた。
その瞬間だった。
谷の奥から風が吹き抜ける。
乾いた血の匂いが混じっていた。
誰一人声を上げないまま武器へ手を掛け、音を殺して谷を進んでいく。
やがて岩陰を回り込んだ先で、全員の足が止まった。
そこには野営地があった。
人間軍のものだ。
しかし兵士の姿は一人もいない。
焚き火はまだ燻っている。
食器も散乱している。
荷車もそのまま残されている。
まるで数分前まで誰かが生活していた痕跡だけを残、人だけが忽然と消え失せたような光景だった。
その異様な静けさの中で、俺の視線は一つの場所へ釘付けになる。
野営地の中央。
地面へ幾何学模様のような巨大な紋様が刻まれていた。
それは魔法陣とも違う。
煌魔学の術式とも違う。
見たことがないはずなのに、胸の奥がざわつく。
この模様を描いた者は、人間でも半魔でもない。
そんな確信にも似た感覚だけが、理由もなく俺の中で静かに形を取り始めていた。
#フライギ
にもあえ
229
葉菜
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コメント
1件
第43話、読み終えました。予紬の「見たことがあるはずなのに」という感覚がすごく生々しくて、胸がざわつきました。金属片や地面の幾何学模様——これまで積み上げてきた世界観に、まだ見えていない何かが静かに重なっていく感じ、大好きです。半魔たちの無言の信頼や、千代の「戻ってくる場所」の呟きも沁みました。続きが本当に気になります。