社長室で動画上映会を開催した直後、光留は管理課長の慎司も呼び出した。いじめというものはやられた方はずっと覚えているものだが、やった方は時間が経てばさっさと忘れるものだ。慎司も名前を聞いただけでは思い出せず、結局、呼び出されて光留と十五年ぶりに対面してやっと思い出すことができた。
「あの原が社長……?」
「あなたにはさんざん無能だなんだと馬鹿にされましたね。無能な僕が社長では不満ですか?」
「いや、無能と言ったのはただの言葉の綾で……」
思わず光留は苦笑したが、さっさと本題に入った。
「麻生課長、過去にいろいろありましたが、あなたのような優秀な人材を僕は失いたくない。多少の不正があっても、あなたについては処分なしとすることも前向きに検討すると約束します」
「本当ですか!」
「僕を信じてください。ただ、不正として身に覚えのあることをこの紙に全部書いてもらっていいですか。最後に押印もお願いします」
「分かりました」
処分なしと言われたのがうれしくて、慎司は愛人の稲村沙紀をコネ入社させたことも含めて書けるだけ全部書いた。
「ありがとうございました。じゃあこれはお預かりしますね」
光留がそう言ったとき、慎司のスマホに着信があった。それは息子の竜也からだった。
さすがに社長の前で私用電話に出るわけにはいかない。社長室から出てすぐ折り返して、慎司は母の危篤と父の逮捕を知った。
面の皮が厚いと、内臓の皮も厚いのだろうか。内臓に皮があるかどうかは知らないが。
姑は心臓の辺りにナイフを突き立てられたはずだが、致命傷を免れたばかりか、その年齢の女性としては驚異的な回復力を見せ、たった三週間で退院できることになった。舅が逮捕されたのをいいことに、追い出されることが決まっていた舅の家に戻ってくる。
舅は姑を刺して逮捕された以上、新世界運輸の非常勤取締役を解職されるのは間違いない。舅が土地建物を担保に一千万を借りた銀行が残金の一括返済を求めてくるのも時間の問題であることを、姑はもちろん知らない。一括返済できなければ、土地建物は銀行に取られて、結局この家から追い出されることになる。差し押さえを免れる唯一の方法は息子の慎司の預金で舅の借金を返済すること。だから私はその逃げ道を塞ぐことにした。
慎司の預金通帳は慎司と姑の管理。私は一度も見たことがない。でも預金残高がいくらなのか私は知っている。慎司の銀行口座は前妻の香菜さんが手続きして作ったもの。香菜さんからネットバンキング用のIDとパスワードを教わって、一千万円近くあった残高から八百万円を私の銀行口座に送金した。口座に二百万ほど残したのはかつて愛した男への私の最後の情けだ。
領収書をリビングのテーブルに二枚並べて置いておいた。一枚は前妻の香菜さんへの慰謝料を払うために私から借りた五百万円の返済に対する領収書。もう一枚は慎司の不貞行為により婚姻関係が破綻したことに対する慰謝料三百万円の領収書。
領収書がなくても民事不介入により家族間の金銭問題に警察が介入することはないが、念には念を入れたのである。
それは弁護士のアドバイスを参考にした。弁護士も自分に火の粉が飛んでくるのは避けたいので、こうした方がいいですよというアドバイスではなく、こんな方法もあるかもしれませんねというアドバイスだった。
舅が逮捕された翌日、慎司は社長の光留にまた社長室に呼び出された。
「お父さんもお母さんも大変なことになりましたね」
「ほんとにもう、何がなんだか……」
慎司は昨日の事件後に、自分が舅の血を引いてないことを、そして舅に借金がありこの家も担保になっていることを知った。
「こんなときで申し訳ないが、あなたの処分が決定しました。懲戒免職、会社に与えた損害金一千万円の請求、及び横領や収賄の罪状に対する刑事告訴です」
「処分なしにすると言ったじゃないか!」
「処分なしにすることを前向きに検討すると申し上げたんです。前向きに検討した結果、後ろ向きの決定をすることにしました」
「きたねえぞ! だまし討ちみたいな真似をしやがって!」
「だまし討ち? あなたの後妻の七海さんが前妻の香菜さんに打ち明けたことを聞きましたよ。あなたは十五年前、酔っ払って昏睡状態の七海さんをレイプしたそうじゃないですか。だまし討ちとはそういうことを言うんです。麻生課長、どうやら報いを受けるときが来たようですよ」
「おれへの処分はその仕返しってわけか? ふざけんな! あんなつまらない女のせいで人生棒に振ってたまるか! そうか、おまえらグルだったんだな。それなら二人ともぶっ殺してやる!」
慎司が光留めがけて突進し、首を絞めようとまっすぐに両手を伸ばしてきたが、光留は顔面への右ストレート一発でノックアウトした。慎司は軽い脳しんとうを起こしたらしく、あーだのうーだの言いながら床に転がされたまま。
「一見ヒョロっとした僕はひ弱に見えたようですね。これでも大学時代はボクシング部で、少しは名の知れたボクサーだったんですよ。あなたを一発殴りたいと十五年間ずっと思っていました。一発だけにしときますよ。僕が本気でもう一発殴ればあなたは死んでしまうだろうし、何より正当防衛だと認められなくなる可能性がありますからね」
不正追及チームの面々が社長室に入ってきたのと入れ替わりに光留が社長室から出ていった。こんな捨てゼリフを残して。
「七海さんはつまらない女なんかじゃないですよ。あなたにはもったいなさすぎるくらいにね」
私との行為を撮影したすべてのデータの没収を約束する書面に署名されられた後、不正追及チームの社員たちによって社長室からつまみ出された慎司のスマホの着信音が鳴った。Eメールの着信を知らせるものだったが、内容を見て驚いた。インターネットバンキングを使って自身の銀行口座から八百万円が送金されたことを知らせる通知。送金先口座の名義は〈アソウナナミ〉。慎司は車を全速力で走らせて、殺気みなぎる表情で自宅へと急いだ。
姑が入院しているあいだに一気にかたをつけるつもりだった。慎司の出勤後、ネットバンキングを操作して八百万円を私の口座に送金した。八百万円分の領収書も目につく場所に残してきた。
十五年暮らしたこの修羅の家とも今日でお別れ。荷物はスーツケース一つに収まった。それとケージに入った猫のミケ。私の新しい人生が始まろうとしていた。
二階にいる竜也に気づかれないように静かに玄関ドアを開ける。外の世界に一歩を踏み出した瞬間、慎司の乗るセダンが玄関前の駐車スペースに滑り込んできた。
怒った顔で運転席から出て、悠々と近づいてくる慎司を見て恐怖した。何か光るものを指に引っかけて振り回してると思ったら、この十五年間さんざん私を好き勝手に拘束してきた手錠だった。とにかくスーツケースとケージを地面に置いて慎司を迎え撃つしかない。
「七海、おれを裏切ろうとしたこと、死んだ方がマシだと思えるくらい後悔させてやる。覚悟はいいな!」
近づいてくる慎司を見て、ミケが全身の毛を逆立たせ、低いうなり声を上げて威嚇している。いつだってミケだけは私の味方だった。ありがとう。でもこれは私の問題だから、私一人でこのピンチを切り抜けてみせる!
変な時間に戻ってきた慎司の車に気づいて、竜也が階段を降りてくる音も聞こえる。挟み撃ち。怖い。でも私はもう逃げない、絶対に!
背後の玄関ドアが開けられたのと慎司の手が私に届いたのは同時だった。手錠が宙に舞い、慎司が弾け飛んで尻もちをつく。駆け寄ろうとする竜也に警告した。
「来なさい。あなたも父親と同じ目に遭うだけだけどね」
私の手にある物体がスタンガンであると理解したらしく、竜也は動きを止めた。十五年前、香菜さんからお守りだと言って渡されたプレゼント。いつかこういう日が来ることを彼女は知っていたのだろう。
「竜也、どんな手を使ってでも七海を止めろ! そうしないとおれたちは破滅だ。このうちにも住めなくなるんだぞ」
「無理。おれ、痛いの嫌だもん」
自分たちは十五年間さんざん私を痛めつけてきたくせに! その痛みをなかったことにできるなら、私はスタンガンの電流なんて何度流されてもかまわない。
スタンガンの電流によって無力化されたままの慎司はまだ立ち上がることもできない。
「七海、おれを見捨てないでくれ。分かってるだろう? おまえがいないと、おれは……」
「あなたは大丈夫」
私は満面の笑顔でにっこりと微笑む。
「あなたには沙紀さんがいるじゃない。彼女といつまでもお幸せに!」
そのとき一台のスポーツカータイプのしゃれた外車が家の前に停まった。
「七海さん、遅くなりましたが、迎えに来ました」
「私こそ十五年も待たせてしまって本当にごめんなさい」
私は十五年ぶりに再会した光留の車の助手席に乗り込んだ。そういえば今日はクリスマスイブ。十五年前の私の夢は、今日ようやく叶えられることになりそうだ。
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