結婚を夢見るなんて馬鹿げてる。結婚なんてただの現実にすぎないから。夢なら現実の外で見るしかない。いつも顔を合わせるよどんだ空気みたいな奥さんより十歳も若く、生活に疲れてない独り身の若い女だから、男は気前よく沙紀に貢いでくれた。
沙紀が結婚した場合も同じ。夫となる男に求めるものは物欲を満たすお金と承認欲求を満たすステイタス。退屈な毎日に潤いを与える刺激的な経験や性的な快楽は夫以外の男に求めればいい。
人はそれを不倫と呼ぶけど、不倫の反対語は道徳? 道徳的な生き方なんて堅苦しいだけで、どこがいいかさっぱり分からない。私は別に悟りを開いたお坊さんになりたいわけじゃない。スイーツは甘い方がおいしいし、お金はたくさんある方が楽しいし、セックスは気持ちいい方がいいし、叶えたい夢だってたくさんある。
去年の暮れに別れた――というか相手が会社をクビになって逮捕されちゃったから強制終了――男にも奥さんと子どもがいたけど、そんなこと全然気にならないくらい本当に気前がよかった。五十万円の毛皮のコートや二十万円のペアリングも買ってもらえた。(リングはもう売っちゃったけどね)
男の名前は麻生慎司、ちゃんとした会社の課長さんだった。沙紀とのデート代はたいてい会社の経費で落としていた。沙紀はそれまでアルバイトかパパ活でしかお金を稼いだことがなくて、会社勤めなんてしたことなかったから、会社勤めっておいしすぎると思えて、男に甘えまくって沙紀もその会社の社員にしてもらった。入社試験は本当なら高校レベルの問題が出題されるそうだけど、沙紀のときは小学校レベルだった。面接官も不倫相手一人だけ。
「好きなセックスの体位は?」
なんてふざけた質問されて、沙紀も騎乗位とふざけた回答で返した。それでも採用通知が届いて、沙紀は不倫相手の男の部下としてその会社で働き始めた。
もともとおいしい思いがしたかっただけだから、勤務態度は最低だったと思う。勤務中していたことといえば、化粧とスマホと居眠り、それに髪とネイルの手入れくらい。同じ課の人ばかりでなく、違う課の人にまで怒られたこともあったけど、そのたびに不倫相手に言いつけたら誰も何も言ってこないようになった。
不倫相手は沙紀にはお金を湯水のように使ったけど、釣った魚に餌はやらないと言って奥さんには全然お金を渡さなかった。奥さんに渡さない分こっちに多く回ってくるのだから、沙紀としては不満はない。
もちろん、結婚して夫になる男に沙紀がそんな扱いされるのは耐えられないから、ずっと前から念には念を入れて釘を刺してきた。沙紀ももう二十五歳。高く売れるうちにと条件のいい男と婚約済み。
「沙紀は草平さんのものだけど、だからといって釣った魚に餌はやらないなんて思ったらダメなんだからね」
「もちろんだよ。沙紀さんは何歳になったって僕にとってお姫様だよ」
おととし沙紀と婚約した青木草平はお父さんの上司の息子さん。沙紀は生まれ育った田舎を出て都会で一人暮らし。両親も婚約者も田舎にいる。故郷は飛行機を使っても行くのに何時間もかかる遠方。離れてるのをいいことに、沙紀はパパ活したり不倫相手に貢がせたり好き放題やってるわけ。沙紀は田舎を出るまでは真面目だったし、たまに田舎に帰ったときは猫をかぶってるから、誰も沙紀の生活態度の変化に気づかない。
高校生の頃声優になりたくて、卒業と同時に都会にある声優養成所に所属した。声優になるのは子どもの頃からの夢というわけじゃないけれど、友達がみんな絶対向いてるよと言うからその気になった。でも、オーディションで最終選考まで残っても結局落選ということが続いて、二十歳のとき心が折れて養成所は辞めた。
声優になる夢はあきらめたけど、親と婚約者にはまだあきらめてないと嘘をついて都会にとどまった。田舎にはない刺激的なものがたくさんあって、都会暮らしは楽しい。声優になる夢はあきらめたけど、都会にはほしいものがたくさんある。お金で手に入る夢に今は夢中。
「僕は声優になるという沙紀さんの夢を全力で応援するよ」
と草平も電話で話すたびに言ってくれる。沙紀が声優になる夢をあきらめて田舎が恋しくなるまで結婚も待つと約束してくれた。
婚約者の草平は私より七歳年上の三十二歳。県庁に勤める公務員。激務の部署だから残業手当だけで毎月十万ももらえるそうだ。毎月彼の給料日に、服やアクセサリーなど私がほしいと言ったものをネット通販で買って、私の住む都会のマンションに送ってくれる。
そこまでしてもらってるから、毎晩十分電話で話す程度の手間は必要経費みたいなものだろう。ただし、ときには不倫相手に抱かれてるときに電話がかかってきて、
「息が荒いけど風邪を引いてるの?」
と心配されることもあった。不倫相手は性格が悪くて、草平との電話中に私と行為することを好んだ。しまいには私も慣れて不倫相手と行為中でも、ふだんと変わらず電話で話せるようになった。そんなスキル何の役にも立たないけどね。
婚約者の魅力はなんといっても実家が裕福であること。田舎だから広い家が多いけど、青木家はその中でも一番広くて立派なお屋敷だ。結婚したら夫婦の新居としてお屋敷に住んでもいいし、広い敷地にもう一軒夫婦の新居を建ててもいいし、まったく別の場所に新築してもいいとも言われている。費用は全部青木家が負担してくれるそうだ。
沙紀のうちは貧乏だったから沙紀が生まれたときからずっとアパート住まい。小さなときからいつか絶対セレブになるんだってずっと願ってきた。沙紀の夢は沙紀がその気になればいつだって叶えられるところまで近づいてきた。
草平は話はつまらないし、人としても仕事しか能のないつまらない男だ。帰省したときホテルに誘われたこともあるが、実はまだ一度も彼に沙紀の体を抱かせてやったことがない。というかキスさえ許していない。
男はすぐやらせる女なんて雑に扱って当然くらいに思ってるからだ。養成所時代、バイト先で意気投合した男とすぐにそういう関係になったけど、何度目かに会ったとき足の指で沙紀の下着を脱がされた。セックスは好きだけど軽い女だと思われるのは嫌だ!
ましてこれから結婚して何十年と一緒にいる相手に舐められるわけにはいかない。沙紀は結婚式を挙げるまで彼の誘いを拒絶して、極限まで自分の商品価値を高めることにした。草平はいい年してまだ一度も女を抱いたことがないそうだ。ATMとしては優秀だけど、男としては産廃レベル。そんな欠陥品を引き取ってやるんだから、もっともっと感謝してもらわないとね!
田舎に帰って草平と結婚するにしても、あと三年くらい都会で遊んでからと思っていた。今すぐ結婚しようと考えを変えたのは、不倫相手が会社をクビになり、しかも逮捕されて刑務所に行ってしまったから。本当に突然だった。社長が変わったと思ったら、不倫相手は今までの不正の責任を取らされて、あっという間にすべてを失った。
社内で威張り散らして誰も逆らえなかった麻生課長をあっさり会社から追放できるなんて、新しい社長ってすごいって思えた。そのときひらめいた。課長でさえ沙紀にあんなに贅沢させてくれた。沙紀が乗り換えて社長の愛人になったら、もっともっと貢いでもらえるんじゃないか?
そう思ったらいても立ってもいられない気持ちになって、適当な理由をでっちあげてアポを取り、沙紀は社長に会いに社長室を訪ねた。
「稲村沙紀さん、ようこそいらっしゃいました。僕もあなたと話したいと思っていたので、あなたの方から来てくれてちょうどよかったです」
こういうのを以心伝心というのだろう。麻生課長は分かりやすいスケベ顔だったけど、原社長はそういうのとは真逆の雰囲気をまとっている。でも男は男。社内に私以上にいい女なんていない。沙紀が社長にも気に入られるのは当然の話だ。
「沙紀は今まで麻生課長とおつきあいしていました。でも男なら誰でもいいというわけじゃないんですよ。社長なら沙紀のど真ん中です」
「おつきあいって、麻生課長は既婚者でしたよね?」
「知ってますよ。既婚者相手なので体だけの割り切ったおつきあいをしてました。沙紀は社長にも結婚をせがんだりしないので安心してください。沙紀には別に婚約者がいるので、何年かしたらその人と結婚することになっています」
「変わった人だとは聞いてましたが、これほどとは……」
「沙紀が変わった人?」
「稲村さんは事務職員でありながらコピー機さえまだ満足に使えないそうですね」
「いけませんか?」
「はい。給料もらってはいけないレベルです」
それから沙紀は不倫相手のコネで入社した採用自体が無効だったからとその場で退職願を書かされた。貢いでくれる愛人と正社員の身分、いっぺんに収入源を二つも失って、仕方なく沙紀は田舎に戻り草平と結婚することを決意した。
数ヶ月後――
今日は八月大安吉日。草平との結婚式の日。結婚式場は田舎の街の中で一番ゴージャスなホテルを選んだ。
沙紀はもう純白のドレスに身を包んでいる。天気もいいし、気分もいい。結婚式前夜は眠れないと聞くけど沙紀はよく眠れた。続々と招待客もやってくる。そのうち少し困った顔した両親がやってきて、お母さんに話しかけられた。
「式が始まる一時間前だけどまだ新郎さんが見えないのよ。やってくるお客さんもうちが呼んだ人ばかりで、向こう側の親戚関係、職場関係の人はまだ一人も来てないみたいなの」
「心配ないよ。きっとギリギリにみんなで現れて沙紀たちを喜ばせる演出なんだよ」
なんて言った瞬間に新婦控室のドアが開けられて草平が入ってきた。彼の両親も一緒。
「ほらね」
ホッとした直後、沙紀は猛然と腹が立った。だって、もうすぐ式が始まるというのに、草平はまだタキシードに着替えてもいない。男性だから化粧や着替えにたいして時間がかからないとはいえ、いくらなんでものんびりすぎるんじゃないの?
「遅くて心配したんですよ」
と声をかけたお母さんに草平が言い放った。
「結婚式は中止です。いえ結婚そのものをキャンセルします」
「あなた何言って……」
お母さんの言葉を遮るように、目の前にある白いテーブルの上に何かをぶちまけた。たくさんの写真だった。何十枚とありそうだ。いったいなんなの? と思いながら一枚手に取ってみて凍りついた。
それは沙紀が麻生課長とカーセックスにふける姿を車の外から隠し撮りした写真だった。ラブホテルの前で麻生課長とディープキスする姿、麻生課長以外の男とベッドの上で裸でふざけ合っている姿を捉えた写真まであった。
お父さんとお母さんが手に持った写真を見つめたままフリーズしている。
「沙紀、これは本当なの?」
「違うの!」
「何がどう違うの?」
「隠し撮りされてるなんて知らなかった。沙紀は被害者だよ!」
泣き出した沙紀の顔をお父さんがお構いなしに殴りつけて、ウエディングドレス姿の沙紀の体を床に叩きつけた。
「馬鹿! 泣きたいのは草平君の方だ!」
「やっぱり都会になんて行かさなければよかった」
沙紀に続いて両親も泣き崩れたけど、青木家の面々は冷然と眺めているだけ。いつも優しい草平ママが何か見ながら仏頂面で沙紀に呼びかける。
「沙紀さん、あなた、浮気相手の男とのLINEで、子作りはあなたとして、子育ては〈童貞君ママ〉に任せるって書いてるけど、この〈童貞君〉とか〈童貞君ママ〉って誰のことかしら?」
沙紀がしどろもどろになると、またお父さんの拳が飛んできた。
最後に口を開いたのは草平パパ。沙紀のお父さんの上司でもある。
「昨日、うちに内容証明が届いた。差出人は小倉七海さん、沙紀さんの浮気相手の元奥さんだ。沙紀さんと夫婦になるなら沙紀さんの慰謝料を連帯して払えと草平に要求する内容だった。浮気の証拠も全部同封してあった。僕らは慌てて手分けして夜中まで電話しまくって、こちら側の招待客全員に結婚式の中止を伝えた。稲村さん、僕があなたの上司だからといって、あなたの退職を求めたりはしない。ただ次の異動ではどこに飛ばされても文句はありませんね」
その後、草平パパは七百万円を沙紀のお父さんに請求した。内訳は、中止した結婚式や新婚旅行にかかった費用五百万円、結納金の返金百万円、慰謝料百万円。翌日、沙紀の実家にも小倉七海さんから慰謝料三百万円の支払いを求める内容証明が届いた。請求額は全部で一千万円。
毛皮のコートやブランドのバッグなど、不倫相手やパパ活の相手からもらって換金できるものは全部売ったけど、焼け石に水。両親の貯金全部と足りない分は沙紀とお父さんが借金して、なんとか全額支払った。セレブな生活を夢見ていたのに、一家で借金漬けの底辺生活に転落した。
浮気がバレて結婚式をドタキャンされたことが知れ渡り、もう生まれ故郷にはいられない。沙紀は都会に戻り、借金返済のためにいやらしい男たちに愛想笑いを振りまきながら夜のお店で働く日々。
どうしてこんなことになってしまったんだろう? 夜が明けて外が明るくなる頃、沙紀は今日も古くてカビた匂いのする六畳間一つの部屋で、ため息をつきながら浅い眠りに落ちていく――
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