テラーノベル
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ねこむすび
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最初に聞こえたのは、風がマイクを擦る音だった。遠くでフェンスが鳴っている。
『ただ、ちょいと気になったところがありましてね。よかったら、聞きます?』
大輝達よりも年上に聞こえる、男の声だった。わずかに上擦っていて、語尾だけが妙に柔らかい。
陽斗はノートPCを脇へ寄せ、大輝の斜め後ろにあるソファーへ移って腰を下ろした。
大輝はアクセルを踏んだ。4G63の音がスピーカーから立ち上がり、赤いエボIXがスタートラインを越えていく。T13の右を立ち上がって、ザビーネ・シュミッツ・クルフェへ向けて最初のブレーキを手前で強めに踏んだ。ブレーキを残したままクラッチを切り、右足の外側でアクセルを煽って3速へ落とす。
『四段つづらの3つ目の右、あそこでブレーキ残して、後ろを軽くして向きを作ってましたよね。あれは上手い。ただ、GRヤリスみたいにホイールベースの短い四駆であれをやると、リアが軽くなるぶんフロントの荷重が抜けて、外肩を使うんですよ』
「逆じゃね?」
大輝は首を傾げながら、フロントに荷重を乗せたまま、左へステアリングを一気に入れる。ノーズは鋭くインへ向いた。そこから路面が落ちていき、下りのハッツェンバッハ・ボーゲンの右が来る。
『今、そこ見てましたよね。ショルダー、外側だけ荒れてませんでした?』
右の後半で、前輪の外側に負荷が集まっていくのが、ステアリングの重さで伝わってきた。
『ホイールベースが短いから、リアが軽くなると勝手にヨーが出る。それで曲がってるのを、足が仕事してると勘違いしやすいんですよ。実際は内輪が浮いてロール剛性が抜けてるだけで、だから偏摩耗が出る』
「何言ってんの」
大輝はそう呟きながら、ハッツェンバッハの切り返しに入った。左、右、右、左と、短い間隔で向きが変わり続ける。赤城の乗り方をなぞって、進入のたびにフロントへ荷重を集めてから舵を入れた。
『僕のはWRブルーのSTIなんですけどね、その辺は全部潰してあるんです。DCCDはダイヤルで、進入でセンターを締め過ぎないとこに合わせて、STIのエアロでダウンフォース出して、HKSの車高調でロール角をミリ単位で管理してる。だからクリッピングポイントを、線じゃなくて点で捉えられるんですよ』
「ロール角だからミリ使わんでしょ」
ソファーから陽斗の声がした。
大輝は頷いた。
「そだね。てか今だとエイペックスじゃね?」
大輝がもう一度首を傾げているうちに、ホッホアイヒェンの右が来て、続けて左。抜けたところからクヴィッデルバッハー・ヘーエへの登りが始まる。
『乗ってみると分かりますよ。全然違いますから。あ、いや、助手席って意味じゃなくて。いや、助手席でもいいんですけど、変な意味じゃなくて』
「俺が女なら乗りたくない」
陽斗がソファーで呟いた。
『あ、いや、無理にとは言わないですけど。もし興味があれば』
「俺もパスかな」
大輝はクラッチを踏み、シフトレバーを4速へ押し込みながら言った。
橋の上の右を、舵をほとんど動かさずに越える。まだ登る。
『あと、これは余計なお世話かもしれないんですけど』
「まだ続くのかよ」
大輝はステアリングを握ったまま言った。
録音の声が、少しだけ低くなった。
頂点が近づく。フロントが軽くなり、赤いエボIXの車体がふわりと浮いた。
『その車のエンジン、あんまり回し続けない方がいいですよ』
「わーお」
陽斗の声が後ろから聞こえた。
「そんな事、口が裂けても言えない」
大輝は相槌を打ちながら、着地したエボIXをフルークプラッツへ向けた。右が二つ続く。それを一つの大きな右として繋いだ。
『G16E-GTSって、1.6リッターの直列3気筒じゃないですか。3気筒って一発ごとの爆発が大きいぶん、4気筒より熱が一点に集まりやすいんですよ。そこへ高ブーストかけて、300馬力以上、トルク400ニュートンメートル出してる。数字は立派ですけど、熱の逃げ場がないんです』
路面が下りに変わり、速度がどんどん乗っていく。
『知り合いの店でも、3気筒で高負荷続けて、一発だけ熱持ってコンロッドやったの見てますからね』
「真希さんてトヨタの整備士よな」
陽斗が鼻で笑った。
「さすがHOTY候補。感心するね」
シュヴェーデンクロイツの高速左で、大輝はアクセルを緩めずに舵を小さく当てた。
『別に、クルマが悪いって言ってるんじゃないですよ。ただ、そういう素性のユニットだって知った上で乗るのと、知らないで全開にするのじゃ、話が違うってだけで』
アレムベルクの右へ向けて、長く踏んでいたアクセルから足を離す。手前で強めに減速し、回転を合わせながら3速まで落として、荷重を前へ乗せたまま入れる。コーナーの後半で、ノーズがわずかに外へ逃げた。
『その点、僕のEJ20は違うんですよ』
フクスレーレの下りへ飛び込む。木々の隙間から射す光が、画面の上を縞になって流れていく。
『ニュルの24時間で何度もクラス優勝してる、スバルの2リッター水平対向ターボです。WRCで鍛えられてきたエンジンで、等長等爆のエキマニにツインスクロールターボまで入ってる。縦置きだから熱も左右へ逃がせるし、熱容量もブロック剛性もマージンが桁違いなんですよ。六連星は伊達じゃねえんで』
『あ、ハッチバックになったGRBというゴミとは一緒にしないでくださいね。WRXは4ドアセダンが正解なんで』
「GDBからだっけ? 等長になったの」
後ろで陽斗が言った。
「どうだっけかな。啓司にこれ聴かせてやりたいわ。GRB乗ってるし」
大輝は画面から目を離さずに言った。
谷底で車体が沈み、登り返してアデナウアー・フォルストの左右へ切り返す。
切り返しのたびにリアが細かく跳ね、ステアリングが手の中で小刻みに暴れた。
「バタつくんだよなあ」
大輝はぼやき、舵を当て直した。
録音の中で、少し間が空いた。風の音だけが入っている。
『地元のスバルは、最近やっと出禁になりましてね。これで一端の走り屋ですよ』
「それ自慢になんの?」
陽斗が言った。
「苦笑いっしょ。むしろディーラー出禁てどうやんの」
大輝は首も向けずに言った。
『排気量に余裕があるから、過給圧に頼らなくても全域でトルクがフラットに出る。3気筒で軽量ハイパワーなんてのは、カタログの上じゃ格好いいですけど、実際に走らせる側からすると、そういう話じゃないんですよね』
「長いな」
ソファーが軋んで、陽斗が背もたれに沈み込む気配がした。
「俺も聞いてて飽きた」
メッツゲスフェルトの中速コーナーを、赤城の乗り方のまま抜ける。立ち上がりで、エボIXは素直に前へ出た。
『あと、北斜面の下り。あそこ、けっこう詰めてましたよね』
「まだ続けるの?」
陽斗がライターを擦った。ピースライトの甘い香りが、大輝のところまでふわりと漂ってきた。
『あそこ、路面のμの変化が激しいでしょう。アンジュレーションで一瞬タイヤの接地荷重がゼロ近くまで抜けるポイントが何箇所かあるんですよ。そこでリアを軽くして頭を入れるのは、見た目は格好いいですけど、正直かなり危ないですよ』
「はちゃめちゃだな」
陽斗が背もたれに沈んだまま言った。
「手口が鮮やかすぎる」
『いや、危ないっていうか、心配なんだよね。1人で走ってると、誰も教えてくれないじゃん』
カレンハルトの下りの右で、大輝はブレーキを残したまま舵を入れた。前輪が一瞬滑って、また路面を掴む。
『それに僕、シミュレーターも七北田ダムも負けなしなんで。教えてやれると思うんですよ』
「お、言うねえ」
陽斗が身体を起こした。
「凄腕なんだろうな」
『もしよかったら、今度走る時に、僕が後ろから見てやりましょうか。ラインとかブレーキングポイントとか、たぶん外から見た方が分かりやすいので』
ヴェーアザイフェンのタイトな左へ向けて、ペダルの上で右足をひねり、空吹かしを挟んで2速まで落とす。
『あ、連絡先とか、交換します? いや、走行枠が合いそうな日、共有できたらってだけで。へへ』
「すげえ」
陽斗が笑い出した。
「『へへ』にスタイル出てるなあ」
大輝も陽斗につられて笑いながら答えた。
風が一度強く吹いたらしく、マイクがザッと鳴った。遠くのフェンスが、カタカタと続けて音を立てる。
しばらく、何も聞こえなかった。
『……はあ』
真希の声だった。抑揚がない。
『彼氏、いるんで』
『は? い、いや、そういう話してないでしょう。僕はクルマの話しかしてねえんですけど』
「それが一番正解」
陽斗が言った。
「これ、真希さんよく録ってたよな。マジですごいわ」
大輝はステアリングを切りながら続けた。
「俺も真希さんの立場なら『彼氏いるんで』とシャットアウト一択だわ」
足音が遠ざかる。ドアの閉まる重い音がして、それからセルが回り、エンジンが軽いアイドリングを始めたところで、録音は途切れた。
画面の中では、赤いエボIXがブライトシャイトの橋を渡り、エクス・ミューレへ向かっていくところだった。
大輝はアクセルを戻さず、そのままベルクヴェルクへ向けて走り続けた。
ピットへ戻り、セッティングデータを複製して【モデルB】を作成する。
「もしあの乗り方、全部動画用の見せ方だったらどうなるか」
大輝は独り言ちながら、サスペンションの減衰バランスとアライメントの数値を変更した。
フロントの入りを助けるために過度なノーズダイブを強いるのではなく、前後の接地圧を均等に保ちやすいバランスへ振る。進入での減速をより直線的に終わらせ、横荷重が立ち上がる瞬間にはタイヤの面圧を4輪へ分散させる。
再びコースへ出る。同じコーナーを今度は大輝自身の走法で抜けてみる。手前で減速を完結させ、最小限の舵角でアプローチする。モデルAよりもコーナーボトムの速度が落ちず、立ち上がりで無理なアクセルワークをしなくても車体が前へ出た。
「やっぱり、IXそのものは曲がるし前に出るよな」
今度はPCにてForza Motorsportを起動し、同じようにエボIXの挙動を確認する。タイヤの過渡特性や荷重移動に対するゲームエンジンの味付けはGT7と異なるが、前後の減衰バランスを変更した際に車体がどちらへ傾くかという方向性は共通していた。数値をそのまま実車のクリック数へ持っていく気はない。傾向の差だけを拾う。
ストリートスケートで新しいハンドレールやステアへ入る時と同じだった。助走のスピード、アプローチのアングル、板を弾くタイミング、そして失敗した時に足をどこへ逃がすか。力任せに飛び込むのではなく、起こり得るパターンの輪郭を先になぞっておく。
続いて大輝は、自身のランサーエボリューションXに近い仮想モデルを呼び出した。エボIXの2つの仮想モデルに対して、重量とホイールベースの長さで分が悪いエボXがどこで優位に立ち、どこで苦しくなるのかを走らせながら比較する。
高速セクションでの車体のスタビリティはエボXが勝るが、タイトな切り返しや下りの急制動では、どうしても車重の差が前輪へ跳ね返ってくる。相手が動画通りの走法をしてきた場合と、エボIXの性能を無駄なく使ってきた場合。2つの挙動が頭の中で分岐していく。
大輝はシミュレーターのシートから立ち上がり、リビングのローテーブルへ戻った。テレビ画面には、一時停止されたままの赤城のエボIXのオンボードが映っている。
テーブルの上のスマートフォンを手に取ると、真希とのトーク画面の一番下に、さっきのボイスメモが残っていた。
大輝は画面を閉じ、マウスをクリックして赤城の走行動画を最初から再生し直した。
スピーカーから4G63のエキゾーストノートが再び低く響き始める。陽斗もソファーからローテーブルの前へ戻り、ノートPCへ目を戻していた。
コメント
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うわ、これめっちゃ面白かった……! クルマ詳しくない私でも、大輝の集中してる空気とか、陽斗の軽いツッコミのタイミングがすごく自然で、ずっと画面に引き込まれてた。特に「彼氏いるんで」の真希さんの一言は神だった。あそこで録音が切れる演出、最高すぎる。あと後半の大輝の解析シーン、地味めだけどめっちゃ熱かった。自分で考えて再現する姿勢がかっこよかったです。続きも気になるし、深掘り楽しみにしてます!