テラーノベル
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ねこむすび
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16時40分に授業が終わった。
大輝は配られたプリントをファイルへ挟み、デイパックへ押し込んだ。私服のまま階段を下りて学生駐車場へ向かう。木曜日は夕方からムラサキスポーツのシフトが入っていた。
ライトニングブルーマイカのエボXの運転席へ乗り込み、バッグを助手席へ置いたところで、センターコンソールに置いたスマートフォンが震えた。画面の表示は「母ちゃん」。
大輝は通話ボタンを押し、スピーカーに切り替えた。
「はい」
『黒森から電話きたけど。アンタ、走る気なの?』
「やるからにはやるよ」
『向こうとは、ZOOMで勝ち負け決める競技じゃなくて、黒森のエキシビションとしてやるならって決めといたから。こっちで手入れた文面、明日出るやつ送っとくね』
「マジか、ありがと。ホント助かる」
大輝は画面の上端をスワイプして届いた通知を開いた。母ちゃんから転送されてきたメッセージに、黒森ステージの公式告知のドラフトが貼り付けられている。
『同日、ゲスト赤城夏帆選手のデモンストレーション走行に加え、当施設を利用されている参加者1名のご協力を得て、エキシビションとして先行後追い形式の走行を実施することといたしました』
『本走行は、レギュレーション第17条および第18条の要件を満たすことを確認のうえ、オフィシャルの承認を経て実施するものです』
『なお、本走行は勝敗を決するものではなく、走行技術の展示および安全な走行環境の周知を目的とするものです。順位、勝者その他の競技結果は決定いたしません』
大輝は文面を一通り目で追った。
『羽のない青いエボXって聞いた時点で、どうせウチのだろうなとは思ったけど』
「親父だったらこういう企画、ノリで受けて後悔するパターンっしょ」
『あー、やるね。あとで絶対面倒くさがって私に丸投げしてたと思う。で、タイヤ大丈夫なの?』
「溝は5分山。最悪のコンディションかも想定してるんだけど油断出来ないかな」
『7/4だよね? 2週間天気だと曇りとかにはなってる』
「今のシバだとちょっとヤバそうだからADVANに組み替えたいんよな」
『いくらするの?』
「20万」
『……はぁ?』
「サイズがサイズだからね。母ちゃんのクルマよりも安いもんだよ。てか、マジで働いて返すから!」
『ったく。貸すだけだからね』
「マジ助かる」
『一応アンタ、お父さんの車で走るからにはしっかり結果出してね。勝敗ないって書いてるけど』
「もちろん、それはね」
『結果見合わなかったらトイチで返して』
「ウシジマくんかよ」
『ん? そういうならトゴとかトハチにするけど』
「トハチはマジで勘弁して」
『じゃ、バイト遅れないようにね』
通話が切れた。ホーム画面に戻った時計は16時53分を示していた。
大輝はステアリングコラム横のイグニッションスイッチを捻ってエンジンを始動した。助手席側の3連メーターが作動し、アイドリングが落ち着く。シフトレバーをDレンジへ入れ、車体を学生駐車場から構内の道路へ滑り出させた。
ザ・モール青雲長町の平面駐車場にエボXを止め、大輝は従業員通用口からバックヤードへ入った。タイムカードを通し、スタッフ用のポロシャツに袖を通して売り場へ出る。木曜の夕方は週末ほどの混雑はなく、フロアを歩く客の足音とBGMが低く流れていた。
シューズのコーナーでサイズ違いを探す客に声をかけられ、ストックから在庫を出してフィッティングに立ち会った。美帆がカウンター側でギフト用の包装紙を折っている横を抜け、戻された試着品をたたみ直す。
21時過ぎに退勤し、エボXへ戻ったところで大輝は運転席に座ったままスマートフォンを取り出した。
ブラウザのタブを開き、通販サイトの検索窓に銘柄とサイズを打ち込んだ。
ADVAN Sport V107。255/40R18。
タイヤ幅はどの車も純正から10ミリまで。黒森の規定で決まっている。
4本1セットの表示を見る。送料を含めて19万円台。借りる20万の枠には収まる。納期も7月4日には十分間に合う。大輝はカートへ進めて注文を確定させ、注文完了の画面をスクリーンショットで保存して、母ちゃんとのトーク画面へ送った。
館腰線を抜けて男子寮へ戻ると、南棟の自室のリビングにはすでに陽斗がいた。ローテーブルの上にノートPCを開き、画面に視線を落としている。
「おかえり。タイヤの手配できた?」
陽斗が顔を上げずに言った。
「19万ちょいでいけた。来週頭には届くから、学校のチェンジャーで組む」
「マジか。20万近いのだと、ブリヂストンのREなんとかってやつ?」
「あれは無理。てか35万すんぞ、RE-71RSなんて。黒森、履けるタイヤ決まってんのよ」
「銘柄で?」
「銘柄っていうかトレッドウェア201以上ないと門前払いだよ。前、雑誌の企画で黒森走るって話があったんだけど、RE-71RSもRZも、ディレッツァのZ3もネオバもTW200で、あの辺履いてきたから全員門前払いでポシャったんよ」
「シバは?」
「R23のTW240だから入ってる。だから今履いてる」
大輝はデイパックを床に下ろし、座椅子に腰を下ろした。
「黒森、明日発表出るって」
「どんな?」
陽斗が画面から顔を上げる。
「エキシビションとして走らせる形に、母ちゃんが黒森とZOOM会議した」
「やり手だなあ、大輝の母ちゃん」
「親父がノリで受けたツケを今まで払ってきたからな。熟練だよ」
「弁護士だっけ。口喧嘩じゃかなわないだろ」
「無理だね。今回タイヤ代もトイチだぜ?」
「これ、お前が減らず口叩いたらトハチになるんだろ」
陽斗が笑いながら口にした。
「わかってんじゃん。トハチって言われたよ」
陽斗は笑って、キーボードから手を離した。
「でさ、ちょっと考えてたんだけど」
「なにが?」
「あの掲示板の件。ボイスメモのナンパしたヤツと、掲示板に書き込んだヤツ、たぶん別人だと思うんだよね」
「なんで?」
「ボイスメモのアイツ、あんだけ喋るじゃん。なのに掲示板の方は、自信ありすぎとか走りの姿勢とか、ふわっとした話しかしてない。あと、フラれた腹いせならGRヤリスだけ叩けば済むのに、わざわざ大輝のエボXまで並べてる」
「それな。俺、そいつと話したことすらないし」
「だから大輝に恨みがあるってより、赤城のアンチじゃねえかなって」
「アンチ?」
「エボXキラーって看板の人にさ、ちょうどいいエボXがいますよって投げたら、赤城は乗ってくるじゃん。実際乗ってきたし」
大輝は背もたれに体を預け、スマートフォンを充電ケーブルに繋いだ。
「まずはタイヤ届いてからだな。皮むきもしなきゃならんし」
注文確認メールを開き、表示された到着予定日を確かめてから、スマートフォンをテーブルへ置いた。
リビングの隅のシートへ腰を下ろし、PS5とステアリングコントローラーの電源を入れる。ガレージから赤いエボIX MRを呼び出した。
コースはニュルブルクリンク北コース。時刻を15時、天候を雨に合わせてタイムアタックを開始する。
視点をコックピットへ落とす。エボIXの室内が画面いっぱいに広がった。雨が落ちている。ワイパーが往復するたび、正面の景色が一瞬だけくっきりして、すぐに細かな水滴で曇った。
T13を立ち上がった時点で、ステアリングが軽かった。路面は空と同じ鈍い灰色で、乾いたところはどこにもない。4本のタイヤが路面を掴むというより、水の膜を押し退けながら表面を撫でている。その感触だけがT300のステアリングから指先へ返ってきた。
「で、赤城に走らせたらさ」
陽斗がノートPCから顔を上げた。
「赤城が勝ったら『10年落ちのエボX相手に勝って当たり前。弱いものいじめ』。負けたら『エボXキラー(笑)』。走らなかったら『逃げた』」
「どれ選んでも叩かれんの? 赤城さん」
ザビーネ・シュミッツ・クルフェの手前で、乾いた日より早めにブレーキを踏む。クラッチを切り、右足の外側でアクセルを煽って3速へ落とした。濡れた路面で前輪が回転を失わないよう、クラッチを戻す左足は普段よりゆっくり上げた。
ザビーネ・シュミッツ・クルフェの左。ここから路面はハッツェンバッハへ向かって落ちていく。大輝は左の縁石から少し離したラインを選んだ。黒く磨かれた普段のラインは、今日は一番滑る場所に見えた。
「そう。ゴールポスト動かし放題の無敵論争」
「うわ、めんどくさ」
ハッツェンバッハへ入る。
最初の右は、切ったらそのまま次の左へ繋がっていく。右へ入れて、車体を左へ出しながら次の頂点を作る。そこから短い間隔で向きが変わり続けた。大輝は指を掛けたまま、軽く送っていく。切り返すたびに手首へ小さな反力が来て、それが戻り切る前に次が来る。
「こういうのやるヤツって、たいてい自分は頭いいと思ってんのよ。自分は安全なとこから、どっち転んでも正解って顔で解説したいタイプ」
「で、俺は巻き込まれ事故?」
「そう。完全に流れ弾」
まだハッツェンバッハの中だった。乾いていれば縁石を使って一つ一つの半径を広げられる。だが赤白の縁石も白線も濡れていた。舗装の中だけでラインを繋いでいく。そのぶん舵角が増えて、腕の内側に張りが溜まっていった。
「まあ、決めつけはしないけどな。全部俺の推測だし」
「推測でも、それっぽいのが嫌なんよな」
最後の左を抜けて、ようやく切り返しがほどけた。
ホッホアイヒェンの大きな右。その出口から間を置かず左が来る。左は内側へ傾いていて、さっきまでより一瞬だけフロントへ重さが戻った。大輝はその感触を確かめてからアクセルを足した。
「だから明日の発表の後、したり顔で解説始めるアカウントいたら、たぶんそういうヤツ」
「俺のこと書いてくるパターンもあるか」
「あるね。名前は出せないだろうけど、青いエボXの人はこうですよ、みたいな形でさ」
クラッチを踏み、シフトレバーを4速へ送る。つなぐ瞬間にリアがわずかに揺れないか、シートの座面で確かめてからアクセルを戻した。クヴィッデルバッハー・ヘーエへ向かって登っていく。速度が上がるにつれて、フロントガラスの水滴が上へ逃げていった。正面に見えていた路面が、登るにつれて短くなる。最初の頂点は橋の上だった。舵をほとんど動かさずに越え、その先の路面が見えてから緩く右へ沿わせ、さらに登っていく。
「明日それ来たら?」
「笑うしかないっしょ」
上側の頂点が近づく。ブレーキからは足を離したまま、ハンドルもそのまま。登りながら押し付けられていたフロントが、頂点へ近づくにつれて軽くなり、そのまま反力が抜けた。掌の中から路面が消える。
フロントガラスの向こうには、雨に濁った灰色の空しかなかった。
頂点を越えて、4輪へ荷重が戻った。
そこで初めてブレーキを入れる。
「だな。ゲラゲラ笑ってやろうぜ」
フルークプラッツの右が二つ。一本目だけを見て切らず、二つを一つの大きな右として繋いだ。濡れたアスファルトの上で、ステアリングの重さがじわりと戻ってきた。
コメント
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第15話読了!母ちゃんとの電話のテンポよすぎて思わずニヤニヤしちゃった😂「トハチ」の応酬、そこからの陽斗とのバトル会話の流れでスクリーンから雨のニュルの描写に切り替わる構成がめちゃくちゃ好みなんだけど…!? 濡れた路面の手応えとか、頂点越えの浮遊感とか、文章からタイヤのグリップ感がじわっと伝わってきて鳥肌立った。 あと掲示板の犯人推理パートも気になる。陽斗の読みが当たってるのかな…!? 次話も楽しみにしてるよ〜🌸