足取りが、軽い。どうしてもスキップをしてしまう。しかも鼻歌を歌いながら。
傍から見たら『何この危ない人』などと思うだろうけれど、今の僕はそんな些細で些末なことは気にしない。
「早く白雪さんに知らせてあげたいなー」
僕は駅を降りてアパートに向かう。もう学校も終わって、僕の家に来てくれている時間だ。たぶん今頃、晩ご飯を作ってくれているか、原稿を描いているか、どちらかだろう。
そんな彼女に、早く面接の結果知らせてあげたかった。 喜びを、共有したかった。
「またお互い抱き合っちゃったりして。それで二人で恥ずかしがっちゃったりして。んふふー。あー、白雪さんの喜ぶ顔が早く見たい!」
家路につく途中、僕はコンビニでビールを一缶だけ買った。お酒を飲むのだなんて何年振りだろう。でも実は元々、僕はアルコール、特にビールが大好きなのだ。単に酔っている間は思考力が落ちるので避けているだけ。だけれど、今日は別だ。やっぱり祝い事にアルコールは欠かせない。
ちなみに、白雪さんにはオレンジジュースを買ってきた。ちょっとお高い生ジュース。これで彼女と一緒に祝杯を上げるんだ。乾杯するんだ。そして漫画業界に復帰できたことを喜び合うんだ。
「喜んでくれるだろうな、白雪さん」
そしてアパートに到着。玄関の前でふと、白雪さんに何かサプライズ的な発表はできないかと考えたけど、やめた。そんな洒落たことをしようとしても、僕は絶対に失敗する。というか滑る。ダダ滑る。スキーで崖まで一直線くらいの勢いで滑り倒すだろう。やはり普通に伝えるのが一番だ。
そんなことを考えながら、僕はカチャリと玄関のドアを開けた。ニヤニヤしながら。ウキウキが加速するまま。
でも、僕の視界に入ってきた光景を見て、そのウキウキした気分は吹っ飛んだ。
「ただいまー、白雪さん! 僕さ、面接受かった! ……よ」
「ひっ……ひっ……う……ううぅ……」
僕の目に飛び込んできたのは、嗚咽を漏らしながら原稿に向かっている 白雪さんの姿だった。彼女は涙をボロボロこぼしながら、右手にペンを握っている。
その光景を見て、僕の時間は一瞬止まった。玄関に立ち尽くした。
「白雪さん、なんで泣いて……」
「あ! ひ、響さん!」
帰ってきたことに気が付いて、白雪さんは慌てて涙をぐじぐじと拭った。そして泣き腫らした目のままで、いつも通りとたとたとコチラにやって来る。
「お、お帰りなさい、響さん。思ったより帰り早かったんですね」
「白雪さん、どうして今……」
「えへへ。今ですね、私と響さんが初めてデートした時のシーンを描いてたんです。そしたら、そのときのことを色々思い出しちゃいまして。感情が昂って、涙が止まらくなっちゃって」
「そう、なのか……」
僕は疑問を抱いた。
あの時の取材という名目のデート。あまりに不自然だ。どうして泣く必要がある。僕と白雪さんの二人にとって、あの時はとても幸せな時間だったじゃないか。
それにやっぱり気になる。僕はそのシーンのラフを見ていない。恐らく、白雪さんが悩んでいるからまだ見せられないと言っていた。だけど、それは絶対に嘘だ。本当は描き終えているに違いない。
「そ、それよりも響さん。面接どうでした? 手応えありましたか?」
あまりに普通に接してくる白雪さんに、僕はより違和感を覚えた。だけれど、それは言わないでおく。まだ事情は分からないが、それでも白雪さんは頭の中を切り替えたんだ。だったら僕も、気持ちと頭を切り替える。
それが漫画家と編集者の関係というものだと僕は思っている。
僕達は、繋がっているんだ。心も、気持ちも、感情も。
「そ、それがさ、受かったんだよ」
「……え?」
いきなりの報告に、白雪さんは完全にポーカンとしてしまった。僕の言葉の意味を理解できずに困惑しているようだった。僕自身、まだ現実感が薄いのだから、彼女にしたら余計にそう感じるだろう。
「う、受かったって、今日の面接のことですよね? それって採用ってことですか? え? 面接の結果って、そんなすぐに出るものなんですか? 普通、数日経ってから連絡が来るものじゃ……」
「それがさ、即決採用。社長さんが僕が編集してた漫画のファンだったんだよ。それで僕の能力を高く買ってくれて。その場で採用が決まったんだ」
白雪さんは、僕の言葉の一語一句を咀嚼し、ゆっくりと頭の中で整理する。そして少しずつ理解に向かった。僕の言葉の意味を。
「うそ……」
「本当だよ、これは現実なんだ」
そう、これは『現実』だ。
僕と白雪さんが共有した夢。それが現実になるかもしれないのだ。
「漫画編集の仕事に戻れるんだよ、僕」
きっと白雪さんは飛び跳ねて喜んでくれると思っていた。そんなリアクションが返ってくると思っていた。だって、彼女はいつもストレートに感情に出す子だから。
だけど、違った。
白雪さんは大きな目に涙を溜めた。そしてそれは、あっという間に崩壊する。ポロポロと涙を流し、頬を濡らした。
でもその涙は、先程見た涙とは全く違っていた。嬉し涙だ。白雪さんは涙を拭うこともせずに、このままずっと泣き続けてしまうのではないかと思う程、僕のためにいっぱい、いっぱい泣いてくれた。
「本当に? 本当に漫画編集に戻れるの? 夢じゃない? ねえ、響さん?」
涙声で、そう確認する。
「ああ、本当だよ。戻れるんだ。夢なんかじゃない、これは現実なんだ」
やっと見ることができたよ、白雪さんの笑顔を。嬉し涙を流しながら、『嬉しい』がいっぱいに詰まった、最高の笑顔。それを僕にプレゼントしてくれた。泣きながら笑うだなんて、白雪さんは本当に器用な子だな。 そんな君の笑顔が、僕は大好きだ。
そして一言。本当に一言。
白雪さんのありったけの気持ちを詰め込んだ言葉を。祝福の言葉を。
彼女は僕に、リボンをつけて贈ってくれた。
「おめでとうございます、響さん」
* * *
その日の夜は、まさに夢のような時間だった。
採用のお祝いとして、白雪さんが料理の腕を振るいに振るってくれた。その数々がテーブルの上に並んだ。唐揚げ、特製パスタ、サンドイッチ、ミートボール、サラダ。まるで子供の頃、学校の友達を集めてお誕生日会を開いた時に、母親が作ってくれたパーティー料理のようなラインナップだった。
極めつけは、ウインナー。白雪さんは僕の大好物のウインナーをたくさん焼いてくれた。まさに山盛り。白雪さんは「ちょっと作りすぎちゃった」と言ったが、そのあまりの量の多さに「ちょっとどこじゃないよね」と、二人でくすくす笑い合った。
僕は缶ビール。白雪さんはオレンジジュース。それぞれを手に持ち、元気に声を張り上げて乾杯した。僕の漫画業界復帰を祝って。そして、白雪さんがプロになり、僕が彼女を担当するという、二人の夢がまた一歩近付いたことを祝って。
白雪さんの手料理は全部美味しかった。ここまで美味しい料理を作れる白雪さんは将来いいお嫁さんになるよと言ったら、彼女は顔を真っ赤にして照れに照れまくっていた。僕はそれを見てからかい、白雪さんはむーっとして頬を膨らませた。
その夜の白雪さんは、本当によく笑った。
僕のつまらない冗談にも、お腹を抱えていっぱい笑ってくれた。あまりに笑いすぎて、笑い涙まで出る程に。そして僕の肩を何度も叩きながら、「私を笑い死にさせるつもりですか」と言って、また笑う。こういう幸せな涙なら、いくらでも彼女を泣かせてあげたいなと、僕は思った。
あの日、ファミリーレストランで僕達が出会わなかったら、今のこの幸せな時間はなかった。白雪さんが勇気を振り絞って僕に話しかけてくれたから、今がある。
もしも時間が戻るなら、僕はあの時の彼女にお礼を言いたい。
ありがとう、と。
* * *
「――あれ、白雪さん?」
ぼんやりとした視界が次第にハッキリとしてくる。いつの間にか、僕は壁に寄りかかったまま寝てしまっていたようだった。
「マジか。缶ビール一本で酔って寝ちゃうなんて、我ながら情けないな」
時計を見ると、時刻はもう深夜二時を回っていた。白雪さんの姿はない。
「僕に気を遣って、起こさないでそのまま帰っちゃったのかな。まあ、終電もあるし。それにしても、本当に楽しかったな。いやいや、よく笑ったよ」
コタツの上を見ると、食べ終わった料理のお皿などは全て片付けられていた。白雪さんは本当に気の利くしっかりした子だ。僕なんて、翌日片付ければいいやと食べたらそのまま放置しておくというのに。
「白雪さん、すごく喜んでくれてたな」
そう。彼女は本当に喜び、本当に嬉しがってくれた。まるで、自分の夢が叶ったかのように。人の幸せを素直に喜べるというのは、やはり素敵だ。
「今度会った時に、ちゃんと今日のお礼を言わないとな。とりあえず、水を飲もう。アルコールのせいで喉が乾いた」
そしてコップを取りにキッチンに向かい、パチンと電気のスイッチを押す。すると、ダイニングテーブルの上に見慣れないものが目に入った。
「なんだ、これ? 手紙みたいだけど」
ピンク色の、一枚の便箋。それがテーブルの上にそっと置かれていた。
まるで、一人ぼっちで誰かを待っているような、そんな寂しさで。
「白雪さんが書いてくれたのかな。僕が寝てるから置き手紙をしていってくれたのか。あの子、本当に優しいよ。僕のお嫁さんになってほしいくらいだ」
僕はウキウキしながらその手紙を手に取った。出だしは『響さんへ』から始まっていた。白雪さんの字はとても綺麗で、とても美しかった。幸せがいっぱいに詰まった、白雪さんからの手紙。そう思っていた。当たり前の思考だ。それ以外あり得ない。
だって、さっきまであんなに楽しそうに笑っていた彼女が書いたものなんだから。
だけど、それは違った。
「……合鍵?」
手紙の裏に、セロハンテープで合鍵が張り付けられているのに気が付いた。白雪さんがいつでもこの家に出入りできるように手渡した、あの合鍵だ。
「どういうことだ」
感じる、嫌な予感。正直に言うと、読みたくなかった。読んでしまったら、僕と白雪さんの『物語』が終わってしまう。そんな気がしてならなかった。
だけれど、読み始める。彼女の書いた手紙だ。怖がってどうする。これから僕達は明るい未来を願いながら、共に歩き続けながら、一緒に進んでいくのだから。
そして、僕は読み終えた。心の中にある蝋燭の火が消えていくのを感じた。
「……なんでだよ」
地の底に突き落とされた。目の前が真っ暗になる。絶望。後悔。自棄。様々な感情が、僕を支配する。
気付いてあげることができなかった。白雪さんが抱いていた苦悩に。そして、彼女の気持ちに。
手が、震える。足の力が抜けていく。そして、涙が込み上げてくる。
僕は、本当にクソッタレだ。
「――こんなラスト、僕は絶対に認めない」
力いっぱい、読み終えた手紙を握りつぶす。そして怒りに打ち震えた。その怒りは、彼女に対してではない。僕自身に対してのもの。自分の鈍感さに対してのも。そして、僕の浅はかで単純な思考に対してのもの。
自分で、自分に失望した。
「絶対に認めない!! 認めないぞ!! 誰がこんなラストを望む!! 僕はハッピーエンドの方が良いと言ったじゃないか!! こんな物語、僕は絶対に認めない。ボツだ!! 全ボツだ!!! 担当として絶対に認めない!! 今すぐに描き直せ!! 描き直すんだ白雪さん!! 僕も手伝うから!!」
足の力が完全に抜け、床に崩れ落ちる。
「頼む、お願いだから、お願いだから描き直してくれよ……。ねえ、白雪さん。僕の一生に一度のお願いを聞いてくれよ。お願いします、描き直してください……」
誰もいない、一人きりのキッチン。床が冷たく感じる。僕は叫び、嗚咽を漏らした。白雪さんに届くはずのない声が、深夜の冷たい空気の中で、虚しく響き渡った。
彼女が書いた手紙。その所々、涙で滲んでいた。
* * *
『響さんへ
何をどう書けばいいのか気持ちの整理がつかないまま、筆を取ります。
読みづらいと思いますが、許してください。 私は自分の気持ちを抑えることが、もうできません。本当に未熟ですよ。響さんの言う通り、やっぱり私はまだお子ちゃまです。
私が描いてる漫画のラスト。まだネームをお見せしていませんでしたよね。幸せな結末か、悲しい結末か、どちらを選ぶべきかずっと悩んでいました。だけど、響さんが漫画業界への復帰が決まったことで、私の中で決心がつきました。
私は、悲しい結末を選びます。
これから前に進んでいく響さんに、私は迷惑をかけたくありません。困らせたくありません。私のような子供が、いつまでも響さんの側にいるべきではないです。もっともっと、想いが深まってしまうから。絶対に気持ちを伝えてしまうから。
だから私は、響さんから離れます。
辛いですけどね。すっごく悲しいですけどね。耐えられないですけどね。また響さんに会いたくて会いたくて、我慢できなくて泣いちゃうでしょうけどね。
でも、仕方がないんです。私はまだ女子高生です。最初は年の差なんて関係ないと思っていました。だけど、それは私だけで、響さんは違うかもしれない。
あーあ、私がもっと早く生まれてればなあ。そしたら響さんと、ずっと一緒にいられたかもしれないのに。運命って残酷ですよね。
響さんと過ごした時間は、本当に、本当に楽しいものでした。私の宝物です。一緒に過ごした時間、共有した景色、一緒に買い物に行った思い出。それと、今日のお祝いパーティー。一生、絶対に忘れません。
だから響さんも忘れないでくださいね。
わがまま姫からのお願いです。
そんなわがまま姫からの、最後のお願いを叶えてください。もし私がプロの漫画家になれたら、その時は絶対に、私と一緒にお仕事してください。私の担当になってください。
その夢だけでも、見させてください。
残させてください。
じゃないと私、これからどう生きていけばいいのか分からなくなっちゃうから。
短い間でしたが、私は幸せでした。
響さん。今まで本当に、本当に、ありがとうございました。
さようなら、響さん。
響政宗に恋をしてしまった、白雪麗より』
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