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次の授業が始まる前に友人との野暮用があり、やや急いでいる。これが僕の今の設定。
だから僕は足早に先を急いでいる。
何の話か?
講義室の空調が利き過ぎていてお腹が冷えたのか、学食のカレーのスパイスが胃を刺激したのか分からないが、僕は今、猛烈にお腹ピーピーであり、すみやかに空いたトイレを探さなければいけないという話だ。
だけど、トイレに急いでいるって雰囲気は出したくないわけで、待ち合わせに急ぐ設定の雰囲気を醸し出して、周囲に悟られないようにしているということだ。
そもそもこの階のトイレの個室、全て塞がっている上に、手洗いの鏡の前で前髪の調子を直しているって設定で、明らかに個室が開くのを待っている男子生徒が2,3人いるというのが不運だった。
僕は涼しい顔で淀みなく廊下を進み、エレベーターのある場所へ。僕を待ってたかのように丁度ドアを開けていたエレベーターが一基。ナイスタイミング!先客が一人いるそこが、さも目的地だったかのように乗り込む。
トイレの神様は非情だったが、エレベーターの神様には愛されているのかも知れない。
(後はトイレの空いていそうなフロアへ移動し、トイレへ向かうだけ。イージーなミッションだな)
僕はホッとして、フロア選択のために並んだボタンを見た。すでに4Fが光り輝いている。4Fと言えば教授達のいるフロア。あそこは普段生徒が少ないためにトイレが比較的空いている。
誰だろう、このようなセンスの良いフロアチョイスをするのは……。
僕はエレベーターの隅にいた先客の人影を横目で一瞥した。
校舎内の風景に馴染んだ様子はおそらく上級生。マイクを握りしめて泣きそうにシャウトする女性と「BLUES!!」の大フォントが印字されたTシャツを着ている。
何そのセンス。ブルースッ!て。
かわいそうに、センスを全てフロアチョイスに吸い取られてんじゃないのか?
まぁ、そんなブルース先輩のことはどうだっていい。重要なのはトイレのみ。
僕はドア上部の階数表示のランプを見上げた。
ランプがパッ、パッ、と点滅して4の表示に近づいていく。
(あと少し……あと少し……あと)
ガタンッ!
「えっ……?」
唐突にエレベーターが大きく揺れて上昇が止まった。咄嗟にバランスを取る。大丈夫、今の衝撃は腹に影響はない……。
見上げると、階数表示ランプは3Fと4Fの間で光ったまま止まっていた。しばらく眺めていても全く動きがない。
(あれ……えーと、これって……)
僕の額にじわりと冷たい汗が浮かんだ。もしかして、もしかしなくても、エレベーターの故障……? 頼むよ、僕、お腹に爆弾抱えているっていうのに……。
「んん? 故障かなぁ? まずいなぁ……」
独り言にはやや大きめの声を発するブルース先輩。
しばらく待てば復旧するだろうか、僕は静かに待つ。
「ん~……。故障かなぁ? これはまずいなぁ……」
さっきよりやや大きめの声で独り言を吐き出すブルース先輩。
僕は静かに待つ。
「んん~~……! まずい、実に由々しき事態だ……!」
「あ、なんか急いでるんですか?」
いるんだよなあ……。こういう、こちらが気付いて話しかけるまで自分からは話しかけずに気を引く人……。結局話しかけちゃったし。
「レポートの提出をしなきゃいけないんだよね。15時までに提出なんだけど、現在14時30分を迎えてから、一番細い時計の針が二周ほど余計に数字のトラックを回った状況だ。即ち僕にはリミットまで半刻の猶予も残されていないってこと。つまり、これは非常にまずい状況ってやつだね。」
「……ああ、それは大変そうですね」
こういう人ってなんで妙に文語調かつ早口なんだろう。
「こういう故障は大抵すぐに復旧するんだけど、場合によっては何時間もこの狭い無機的な密室の中で取り残される可能性もある。そうなると悲劇だ。君も何か急いでたんだろう?僕には分かるよ。なぜかって? 君は今、そういう顔をしている」
ブルース先輩が何か言っているけど、どうでもいい。僕はゆっくりと片手を壁に沿えて、軽く両足を交差するように立った。
お腹ピーピー専用技、モデル立ち。
足を少し交差させることによって通常よりもお尻に力を籠めやすくなる。括約筋をいつもよりも活躍させるための技だ。「モデル」と「もう、出る」が音的に似ていることは皮肉としか言いようがない。
「君、見たところ一年生だね。名前は?」
「……あ、平井です」
別に僕の名前とか今どうでもよくね?
「では平井君、この危機的状況、君の考える最上の一手とは?」
何この人……。モデル立ちによって改めてブルース先輩と向き合う余裕が出たけど、この人笑えない意味でオカシイ。
「え、え~っと、非常ボタンを押して外に助けを求め」
「はっはっは、優等生だな、これだから一年生は初々しいねえ」
これ僕が何言ってもセリフ用意してたパターンだな。
「もう少し危機感を持ちたまえ、いいかい村田君」
「平井です」
「もし、非常ボタンも異常の煽りを食らっていて、外部と接触が取れなかったら?」
「はぁ……」
「よしんば!」
「よしんば?」
「よしんば、外と連絡が取れたとして、そもそも復旧に時間を要する故障だったら?」
「はぁ……」
「天は自ら助ける者を助く。すべからく、道は自分で切り開くものなのだ」
どうでもいいから非常ボタン押してよ! 頼むよ!
僕、モデル立ちで動けないからブルース先輩押して……!
「この場合、生存の道は先人より学べる。分かるね? つまりアクション映画だ」
「何もわかりませんけど!?」
話のあまりの飛躍についていけない。僕はブルース先輩の妙な勢いに飲み込まれている。
「大抵の人は知るまいが、エレベーターとは上部に脱出口が用意されているのだよ。ほら、あそこだ」
ブルース先輩はエレベーターの天井の隅、四角く区切られたパネルを指さした。
「……」
嫌な予感がする。
「僕達には助けを待っている時間はない。脱出しよう!」
「はあ!?」
何を言ってんのこの人……? ブルース・ウィリスにでもなったつもり? ブルースはTシャツだけにしてほしい。
「僕が肩車をするから、君が先に天井の穴へ入るんだ。そして、次に君が僕を引き上げる。いいね?村田君」
「平井です」
僕の横にアクション俳優張りのポーズでしゃがむブルース先輩。
でも僕はモデル立ちでお腹ピーピーに耐えているから、肩車なんてやってる余裕なんてない。
「何を放心しているんだ! 僕に感心している暇はないぞ、早く!」
「……先輩!」
「どうした!?」
「僕が下になります!」
「何!?」
僕はおもむろに腰を下ろし、片方の膝を地面につける。そして膝をついた足の踵は尻の入り口にピッタリと押し当てた。
これぞお腹ピーピー専用技、クラウチングスタート……!
まるで陸上選手のスタートのような恰好だが、踵で尻の入り口を塞ぐことにより、どんな波も耐えるという姿勢だ。この固い城壁はどんな地獄の軍勢にも破られることはない。あとはブルース先輩を適当にいなせばいい。
「自ら下になるとは、見上げた根性だ。気に入ったよ、村野君」
「平井です」
執拗に「村」にこだわるな、この人。
「君を絶対に救い出す。そうだ、君を引っ張り上げ易いようにロープを用意しよう」
先輩はおもむろにカチャカチャ音を立ててベルトを抜き取り始めた。
まさか、ベルトをロープ代わりにするつもりか?
「……駄目だな、ベルトじゃ細くて心もとない……こっちか」
ブルース先輩はベルトを放り投げてズボンのボタンを外し、チャックを下した。
ロープの代用品はまさかのズボン!?
「ちょっと……何脱いでんすか先輩!!」
……ってブリーフ! よりによってこの人ブリーフ派? 少しはズボン脱ぐのためらえよ!
「よし!!」
ブルース先輩改めブリーフ先輩が鬼気迫る表情で振り返った。
「さあ、僕を持ち上げてくれ」
「ちょ、ちょ、ちょ……」
ブリーフ一枚で僕に跨るの!?
「ちょっと! 先輩! 首筋に! 首筋にぃぃぃ! あああああああっ!」
「さぁ、持ち上げてくれ!」
「待って下さい!自分のタイミングで行かせてください!」
と言いつつも、お腹ピーピーをただ耐えてるだけなんです! 最初からブリーフ先輩持ち上げる気なんてないんです!」
「どうした! がんばれ!君なら立ち上がれる!」
無理だっつってんでしょ! お腹ピーピーなんすよ!! このままエレベーター動くまで耐えるつもりなんです!
「行きますからちょっと待って……ていうか、ちょいちょい肩車の座りを調節するために動くのやめてもらっていいですか!? 首筋に擦れるんで!」
お願いします、さっさとエレベーター動いてぇぇぇ!!
ガクンッ!
その時、祈りが通じたのか――エレベーターが唐突に大きく揺れて動いた。
「うわああああっ!」
突然の衝撃にブリーフ先輩はバランスを崩し、前のめりに倒れた。
「う、動きましたよ!ブリ……先輩!」
ブリーフ先輩が顔から床に行ったことなどどうでもいい。とりあえず動いてくれた事の方が重要だ。
チンッ……ガ―――。
念願の4Fに辿り着いたエレベーターの扉が開いた。眩しい光とともに注ぎ込まれる、エレベーターを待っていたと思しき女生徒達の視線。
彼女達の視線の先にはうつ伏せに倒れこんだブリーフの男と、ちょうどその尻をしゃがんで眺めるような形の僕が映っただろう。
「……………」
絶句する女生徒達。気にも留めないブリーフ先輩が、がばりと顔を持ち上げて叫んだ。
「助かった……!?助かったのかい!?平井君!」
そこは名前間違えねーのかよ! みんな見てる時に限って!
「……か、階段で行こっか」
「ちょっと待って! 違うんです! 僕達怪しい者じゃありません!」
怪しいのはこのブリーフだけなんです!僕は被害者なんですよ!!
「さぁ、平井君、立ち上がって希望あふれる外へ出よう!僕達は生きてここを出られたんだ」
雄々しく立ち上がる先輩のブリーフを僕はただ見あげた。
先輩、僕、なんだか涙が出てきそうです……。
あと、トイレに立ち上がるまでもうしばらく待ってもらっていいですか。今、ちょうど心にも腹にも危機が来てるんで……。