『神の前に死はひざまずく ―祈りの果て―』
(りうら視点)
あの夜以降、私たちは日常に戻っていた。
魂を導く役目と、それに祈る彼女の存在。
それは、静かな“主従関係”であり、穏やかな“愛”のかたちでもあった。
けれど、均衡は崩れる。
信仰は、常にゆらぐ。
神ですら、それを支えることはできない。
◇
異変は小さなことからだった。
「……今日は、お祈りの声がしなかった」
彼女はうつむき、冷たい床にぬれた布を絞っていた。
亡くなった子ども──まだ十にも満たぬ命。
喰い手に襲われた形跡はない。けれど、その子の魂は、あまりにも静かに消えすぎていた。
「ほとけ……」
「りうらさん、私……どうすればいいんでしょう」
彼女は、初めて私の名を「さん」付けで呼んだ。
いつもは敬意と愛を込めて、ただ「りうら」と呼んでいたのに。
その距離が、ひどく冷たく感じた。
「神様に祈っても、こんなに小さな命が救われない。
それでも、私は……信じ続けないといけないんでしょうか」
「……」
言葉が出なかった。
私は死神。人の命を導くもの。
だからこそ、生きる者の痛みに寄り添う術を知らない。
◇
夜、彼女は礼拝堂にいた。
しかし、蝋燭の火は灯っていない。ステンドグラスも布で覆われ、十字架の前にはひざまずかず、ただ柱にもたれていた。
「……祈れないんです」
小さな声だった。
「私は、あなたの祈りにすがって生きてきました。
でも、今の私は……あなたに祈ることさえ、偽善に思えてしまう」
「私に、ですか?」
「ええ。だって、あなたが誰かの死を運ぶたびに、私は“それが正しい”と信じなければいけない。
子どもでも、罪なき者でも。神の御業として、受け入れなければならない。
それが、こんなに苦しいなんて……」
──崩れそうだった。
彼女の心が、音もなく崩れてゆく。
まるで、死者の魂のように。
◇
私は思った。
もし、彼女が信仰を失えば──
私の存在もまた、朽ちていくのではないかと。
彼女の祈りが、私の核。
祈りの温度で生まれ、祈りの言葉で保たれる命。
では、もしその灯火が消えたなら?
私自身が、ただの“空虚な死”に戻るとしたら。
「ほとけ」
私は彼女の前に跪いた。
「あなたが、神を信じられないなら……私を信じて」
ほとけは、ゆっくり顔を上げた。
瞳には涙が浮かんでいた。
「私は、神ではない。魂を救うことも、生を与えることもできない。
けれど、あなたが苦しむなら……私が、あなたの代わりに祈ります」
「……りうら、さん……」
「あなたが神を疑うなら、それでも構わない。
でも、私だけは──あなたを疑わない。あなたの優しさも、愛も、そしてこの痛みも」
私はそっと、彼女の指先に触れた。
「だから、どうか。もう一度だけ、“私のために”祈って。
“あなたの愛を知った死神”が、それでも魂を導こうとする姿を、あなたに見せたい」
ほとけは、こらえていた涙を流した。
「……あなたって、本当に……ズルい」
その声は、確かに祈りだった。
神に向けたものではなく。
愛する者の名を呼ぶ、祈りのような──ひとこと。
◇
その夜、喰い手が現れた。
「へぇ……信仰ってのは、死ぬと強くなるのかと思ってたが、
生きてるうちから壊れるもんなんだな。ま、どっちでもいいけどな──この女さえ殺せば」
喰い手が放つ瘴気に、影がざわめく。
私は立ちはだかる。
「お前には、渡さない。彼女の信仰も、命も、愛も──」
「ふん。じゃあ、その死神らしい鎌で、守ってみせろよ!」
「……私は鎌なんて使わない。私は、“彼女の祈り”を剣に変える」
影が集い、ほとけの涙を核にして、純白の刃が生まれる。
穢れのない、祈りの結晶。
私は、その刃で喰い手を一閃した。
闇が裂け、魂の道が開かれる。
──彼女の信仰が、また一つ、この世界を救った。
◇
その後、私は教会の塔の上にいた。
ほとけが上ってきて、隣に腰を下ろす。
「少しだけ、祈れるようになりました」
「ええ。感じました」
「神様のためじゃなくて。あなたが、信じてくれたから」
「……ありがとう」
風が吹いた。
彼女の白いヴェールが、私の黒衣に触れる。
「あなたに祈るの、やっぱり反則なんですよ」
「なぜ?」
「だって、あなたは“信じるに足る者”だから。神よりも、私の信仰に近すぎる」
私はその言葉を、ただ受け取るしかなかった。
それが、私にとって“命”のようだったから。
たとえ神に祈らずとも、
私は、この人の祈りを信じて生きる。
死神として。
そして、ただの一人の“愛した者”として。
コメント
2件
すげえいいな......