『神の前に死はひざまずく ―祈りの終わる場所―』
(りうら視点)
朝の光が、教会のステンドグラスを透かして差し込む。
色とりどりの光が床を照らし、まるで祝福の花びらのように揺れていた。
私は、今日も教会の片隅に立っていた。
祈る彼女──ほとけの背を、そっと見つめながら。
◇
あの夜、彼女は一度、神を疑った。
けれど、私を信じてくれた。
だから私は、死神としてでなく、“一人の女”として彼女の隣に在ろうと誓った。
死神に、未来はない。
時間の流れも、心の揺れも、すべては生者のものだ。
それでも、彼女の傍で生きたふりをすることが──
私にとっての“救い”だった。
◇
「……りうら。少しいいですか?」
いつもの呼びかけ。けれど、その声はどこか穏やかすぎて。
私は、わずかに緊張してしまう。
「今日は……この礼拝堂に、もう一人だけ“証人”を立てたくて」
「証人?」
「神様ではなく、“あなた”を」
彼女は、十字架の前に立つと、私の手をそっと取った。
冷たいはずの私の手に、自分の指を絡めて。
「私はあなたに祈りました。あなたを想い、あなたに縋り、あなたを信じてここまで来ました。
そして今、“あなたと共に生きたい”と願っています」
私は何も言えずにいた。
言葉が、胸の奥で震えていた。
「……あなたは、死神。でも、私の“生きる意味”そのものなんです」
「ほとけ……」
「だから、もし……」
彼女は静かに言葉を紡いだ。
「私が、あなたに“結婚を誓う”と言ったら。
これは、人としての罪になりますか? それとも、祈りの完成になりますか?」
私は、静かに首を振った。
そして、彼女の手の甲に、唇を寄せた。
「罪などではありません。
あなたが、私を選んでくれたこと。それは、世界で最も尊い祈りです」
この瞬間だけは、死神であることを忘れた。
この時間だけは、人として、彼女の隣に立てた。
◇
その後、彼女は小さなリングを取り出した。
金でも銀でもない。
手作りの、編み込まれた麻の指輪。
「神に誓うんじゃなくて、あなたに捧げたくて作ったの。
私が祈りを忘れても、これを見れば思い出せるように」
私は、自分の指にそれを通した。
それは重くもなく、熱くもなかった。
ただ、優しく私を“この世”に繋ぎとめるものだった。
「私からも」
私は影から、黒い糸で編まれた指輪を作り出す。
人の目には見えないそれを、彼女の左手の薬指に結ぶ。
「私が姿を消しても、声をなくしても……この指輪だけは、あなたに触れている」
彼女は泣きながら、微笑んだ。
「……ありがとう、りうら。私は、あなたに“祈りたい”」
◇
それからの時間は、まるで“生きている”ようだった。
教会の掃除も、亡き人のための祈りも。
手を取り合い、肩を並べ、影と光のように過ごした。
誰かが言った。「シスターが、恋人を作った」と。
けれど、それが死神だとは誰も知らない。
それでいい。
この静かな日々こそ、私たちの“結婚生活”なのだから。
◇
ある日、ほとけが言った。
「私が死ぬとき、誰よりも早く迎えにきてね」
「もちろん。誰よりも静かに、誰よりも愛を込めて」
「それって、プロポーズより素敵な言葉かもね」
「……私はもう、しているつもりですが」
「ふふ、じゃあ私ももう、あなたの妻のつもりでいますよ」
教会の鐘が、遠くで鳴った。
それは祈りの合図ではなく、
この世界のどこかで、誰かの命が、終わりに近づいているという知らせだった。
けれど私の手は、彼女の手を離さなかった。
「行かなくていいの?」
「ほんの数秒くらい、神も許してくれるでしょう。……私の妻と、誓いを交わしたばかりですから」
ほとけが、涙の中で笑った。
その笑顔を、私は永遠に忘れない。