テラーノベル
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アイリス領に到着した時、市場はすでに不穏な空気に包まれていた。
普段なら、昼下がりの市場には焼き立てのパンの香りが漂い、果物を売る店主たちの明るい声が響いているはずだった。
けれど、今日ばかりは違った。
「ウィステリアの関所が閉じるって、本当か!?」
「小麦が入ってこなくなるらしいぞ!」
「今のうちに買っておかないと、明日には値が倍になるかもしれない!」
人々は不安げに店先へ詰めかけ、袋いっぱいの小麦や塩を強引に買い込もうとしている。
店主たちも困惑した顔で客をさばき、中にはすでに値札を高い金額へと書き換えている商人の姿まであった。
(……思ったより、噂が広がるのが早いわね)
私は馬車のカーテンの隙間からその光景を見て、小さく息を吐いた。
関所封鎖そのものより、本当に怖いのは「噂」だ。
人は「物がなくなる」と聞いた瞬間、必要以上に買い込む。一部の商人がそこに便乗して値を吊り上げれば、不安はさらに広がり、やがて領民の不満へと変わっていく。
(だから、ここで止めるしかない)
馬車が屋敷の前に止まると、執事のフレッドが青ざめた顔で駆け寄ってきた。
「お嬢様……!」
「状況は?」
「すでに一部の商人が小麦と塩の買い占めを始めております。市場では値上げの噂が広まり、領民たちが不安に駆られております」
「主要商会の代表は?」
「すでに応接室へお集まりいただいております」
「仕事が早いわね。助かるわ」
私は頷き、屋敷の中へ足を踏み入れた。背後から、アレク、レオン、フローラが続く。
応接室へ向かう廊下の途中で、私は足を止めた。
「商会との交渉は、私ひとりで行くわ」
「なぜだ?」
アレクが眉をひそめる。
「あなたたちが同席すると、商人たちはあなたたちの顔色を見る。私の言葉ではなく、公爵や王子としての権力に従うことになるわ」
私は応接室の扉を見据えた。
「それじゃ意味がないもの。アイリス領を守るのは、私の仕事よ」
レオンが、ふっと笑う。
「なるほど。じゃあ僕たちは、君が戦いやすいように外堀を埋めればいいわけだ」
「ええ。レオンは王都側の商会と、貴族たちへの連絡をお願い。アイリス領に物資は十分にあると、情報を流して。外から価格を吊り上げられたら厄介だもの」
「了解」
私は次に、アレクへ視線を向けた。
「アレクは、倉庫と街道の警備。ウィステリア側の兵の動きも確認して。買い占めや暴動を煽る不審者がいないかも見てほしいわ」
「分かった」
「ただし、怪我人は現場に出ないで、指揮だけしてちょうだい」
「……善処する」
「善処じゃなくて約束」
「……」
少し不満そうにしながらも、アレクは頷いた。
最後に、私はフローラへ向き直る。
「フローラは、神殿、学校、診療所へ優先して回す分の医薬品と食料を用意して」
「お姉様のために、完璧にやり遂げます!」
フローラは胸の前で小さく拳を握り、きゅっと表情を引き締めた。
それぞれが動き出した。
レオンは執務室へ。アレクは騎士たちに指示を飛ばし、フローラはフレッドとともに倉庫へ向かう。
そして私は、ひとり応接室の扉の前に立った。
(ここからは、私の戦場ね)
私は背筋を伸ばし、扉を開けた。
長い机を囲むように、アイリス領の主要商会の会長たちが座っていた。
老舗の穀物商。
塩を扱う商会。
薬草問屋。
燃料商。
そして、近年急に勢いを伸ばしている若手商人たち。
彼らの顔には不安と警戒、そして少しだけ「欲」が浮かんでいた。
その中の一人が、私をちらりと見た。
「お嬢様おひとりで?」
別の商人が続ける。
「王子殿下やベルシュタイン公爵は、ご同席されないので?」
「これは領地経営の話。子どものお茶会ではありませんぞ」
小娘ひとりなら丸め込める。彼らの目が、そう語っていた。
「ええ。だから私ひとりで来ましたの」
商人たちの表情が、わずかに動く。
「これはアイリス領の商取引の話です。王子殿下にもベルシュタイン公爵にも、口を挟ませるつもりはありませんわ」
私は上座につき、全員を見回した。
「皆様もすでにご存じの通り、ウィステリア伯爵領が明朝より関所を封鎖すると通告してきました」
応接室に、重い沈黙が落ちる。
一人の商人が、わざとらしく咳払いをした。
「お嬢様。関所が閉じれば、小麦も塩も薬草も入りません。価格の上昇は避けられないかと」
「そうですな。商会としても、仕入れの見通しが立たねば、値を上げざるを得ません」
「領民には申し訳ないですが……我々も慈善事業ではなく、商売ですからな」
その言葉に、私は微笑んでみせた。
「ええ。商売ですもの。利益を出すこと自体は、悪ではありませんわ」
商人たちの表情が、わずかに緩む。
だが、私は声を一段、冷たく落として続けた。
「――ただし、危機に乗じた買い占めと暴利は、別ですわ」
空気がぴんと張り詰めた。
「一時的に儲けることはできるでしょうね。在庫を買い込んで、値を吊り上げて、ぎりぎりまで出し惜しみする。でも、そんなことをする商会の名前を、領民は一生忘れないでしょうね?」
誰かが息を呑む。
「逆に、危機の時に領民を支えた商会の名前も、十年後、百年後まで残るわ」
私はフレッドへ視線を向けた。
彼は心得たように、分厚い一覧表を机の上へ広げる。
「まず、結論から申し上げます」
私は言い放った。
「アイリス領には――すでに領民一年分以上の食料と医薬品が備蓄済みよ」
コメント
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第60話、めっちゃ面白かったわ!お嬢様が一人で商会の連中と渡り合うところ、最高に痺れたね。「小娘相手だと思いました?」ってタイトルそのままの回だった。最初は舐めた態度だった商人たちが、お嬢様の一言一言で空気変わっていくのが痛快だったわ。 「一年分以上の備蓄済みよ」の切り返し、完全に相手の土俵で勝負つけた感じで痺れた🔥 アレクたちに指示出してる時の統率力もヤバかったし、今回のお嬢様は政治力でも最強だわ。次が楽しみすぎる!