微かに聞こえてくる蝉の声が、ミサキの制服から滴る水の音をかき消していた。綺麗な黒い髪がへたりとミサキに張り付いている。薄いワイシャツの下に着ている黒色のブラジャーがぼんやりと透けて見えた。
「ねえ、そんなに見ないでよ。私、穴空いちゃうって。」
ミサキはこちらへと目を向けずに、ただ淡々と汚れた手や腕を洗っていた。黒いインクがきれいな水を濁して流れていく。ミサキの声は、じめじめと湿った気持ちの悪いこの空間に響いた。中学校3階の女子トイレの中。
ミサキは中学2年生になってから、私とクラスが離れてから、いじめを受けていた。当時それを私は知っていたけれど、私はミサキを助けなかった。ずっと、見て見ぬふりをしていた。
「今日、何か食べて帰ろっか、ユウナ」
「ミサキ」
「ん?」
「ごめんね」
私の言葉に、ミサキがどんな反応をするのか。こわくて目を逸らす。なにが?と問われるだろうか。何に対しての謝罪なんだろうか。自分で言ったくせに、私には何も分からない。何をこんなに悔やんでいるのか、何がこんなに苦しいのか。
「ユウナ、寂しかったでしょ」
「…え?」
「ねえ、私があんたを頼らないから、私があんたに何も求めないから、寂しかったでしょ」
ミサキの声が近づいてくる。俯いた先の視界に、ミサキの上靴と、静かに滴る水滴が映り込んでくる。
そうだよ、ミサキ。あなたは私を1度も頼らなかったじゃない。ミサキに手を差し伸べることによって、友人を失うことやいじめのターゲットが自分になることなどを恐れていた訳ではなかった。そんなのどうでもいい。
寂しかったんだ。求められないことが、干渉させてもらえないことが。
「馬鹿だね、あんたって」
頬に添えられたミサキの左手は、酷く冷たかった。悲しいくらいに。寂しいくらいに。顔を上げてみれば、ミサキは眉を下げて笑っていた。目や瞼は赤く腫れていて、唇は紫色をしている。あぁ、寂しいなあ。寂しいよ、私。
ぼやける視界の中で、私は自分の左手首のスイッチを押した。ミサキの左手首にそっと手を添えて、自分の左手首をかざす。外の蝉の声がどんどんと大きくなっていく。ジージーと、耳に残る音。
これで私達は、救われるんだろうか。寂しくなくなるのだろうか。ミサキは迷いのある手つきで、自分の左手首のスイッチを押した。
「ユウナ」
「なに?」
「私の部屋見れて、嬉しい?汚いものばかりでしょ」
「…嬉しいよ、これで私はミサキのことに干渉できる。支えられるから。」
「じゃあ、救えたね」
「何を?」
「あんたのことを。」
「え?…わたしは、」
「馬鹿だね、ほんと。これで私の痛みも辛さも分かった気でいる?この行為はね、人の気持ちを分かってあげたり、寄り添うためのものじゃない。他人のそういう欲求を満たす行為でしょ。」
「…それは」
「寄り添いたいなら、私をもっと見て。私の部屋よりも、私の目を。」
私はミサキに救われた。それからミサキは、自分の左手首に黒色のリストバンドをつけるようになった。中学2年生の夏のこと。
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