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注意書き
この作品はnmmnの二次創作です。
ご本人様は一切関係ございません。
ブクマは必ず非公開でお願いいたします。
〜エピローグ
人を好きになることはこんなにも静かで、重いものだったのだとすちは後になってから何度も思い返すことになる。
それは高校の、まだ何も知らなかった頃から始まっていた。
入学式の翌日。
校舎はまだ新しく、どこか落ち着かない空気に包まれていた。廊下には一年生の不慣れな足音と、二年生以上の余裕のある歩き方が混じっている。
すちは、放課後の掲示板の前で立ち止まっていた。
「……分かりにくいなぁ」
部活動の案内図を見つめながら、小さく呟く。地図はある。説明も丁寧だ。それでも、なぜか頭に入ってこない。
(俺、方向感覚ほんとにないな…)
苦笑していると、背後から控えめな声がした。
「……あの、先輩ですか」
振り返る。
そこに立っていたのは、まだ制服が体に馴染みきっていない一年生だった。背筋は少し強張っていて、手には同じように紙が握られている。
「うん」
「案内係の先輩を探してて……でも、誰もいなくて」
声が、少しだけ震えていた。
すちはその瞬間、理由もなく思った。
――放っておけない。
「俺も今、探してたところ。たぶん一緒」
そう言って歩き出すと、一瞬だけ相手の目が見開かれた。
「……ありがとうございます」
少し遅れて、後ろをついてくる足音。
階段を下りながら、すちはちらりと後ろを見る。
「名前、聞いていい?」
「らんです」
「そっか。俺はすち」
そのやり取りは、それだけだった。
なのに、不思議と沈黙が気まずくない。
部室前に着き、無事に案内を終えると、らんは深く頭を下げた。
「本当に助かりました」
「どういたしまして」
その場で別れるつもりだった。
でも。
「……あの」
呼び止められる。
「明日も、もし分からないことあったら……聞いてもいいですか」
少し必死な目。
すちは一瞬迷ってから、笑った。
「いいよ」
それが、始まりだった。
〜懐く後輩
それから、らんは自然にすちの視界に入り込むようになった。
「先輩、おはようございます」
朝、昇降口で。
「先輩、次の授業一緒ですよね」
廊下で。
「先輩、今日部活ありますか」
放課後。
最初は偶然だと思っていた。
(同じ学年の教室、近いしな)
そう納得していたはずなのに、三日も経つ頃には、すちは気づいてしまった。
――あれ、毎日いるな。
らんは距離の取り方が、少しだけ不器用だった。
話すときは必ず正面。
隣に立つときは、ほんの少し近い。
けれど決して、踏み込みすぎない。
「邪魔…じゃないですか…?」
そう聞いてくる声は真剣で、拒まれることを前提にしているようだった。
「邪魔だったら言うよ」
すちがそう返すと、らんは安心したように小さく息を吐く。
「……よかった」
その反応が、妙に胸に残った。
昼休み。
すちが一人で弁当を食べていると、らんが少し離れた場所から様子を窺っていた。
「…来たいならおいで?」
声をかけると、らんは一瞬目を見開き、それから静かに近づいてくる。
「いいんですか」
「嫌なら言うって」
隣に座ると、らんは少しだけ姿勢を正した。
「……先輩、優しいですね」
ぽつりと落とされる言葉。
その言葉にすちは箸を止めて、困ったように笑う。
「普通だよ」
「俺には、特別です」
即答だった。
その言葉をすちは深く考えなかった。
ただ、胸の奥が少しだけ温かくなる。
放課後、廊下ですれ違う他の一年生がらんに声をかける。
「らん、帰ろうぜ」
その瞬間、らんは一度すちを見る。
確認するように。
「……先輩、今日は」
無意識に、すちは答えていた。
「一緒に帰る?」
らんの表情が、ぱっと明るくなる。
「はい!」
他の一年生は、少し不思議そうな顔をした。
(……あ)
その視線で、すちはようやく気づく。
――これ、普通じゃないかも。
それでも。
帰り道、隣を歩くらんの歩幅が自然と合っていること。
自分の話を一言も聞き逃さないこと。
何より、隣にいるのが当たり前になり始めていること。
すちは、それを否定しなかった。
(……懐かれてるだけだ)
そう思うことで、安心していた。
らんはまだ、何も言わない。
でも、その視線だけは、最初から変わらない。
逃がすつもりのない目で、
静かに、すちを選び続けていた。
〜独占欲
それは、ある日の放課後から少しずつ形になっていった。
すちがクラスメイトに呼び止められたときのことだった。
「すち〜、次の行事のことでさ」
ただそれだけの用事。
数分で終わる他愛のない会話。
視線を感じた。
ふと廊下の先を見ると、らんが立っていた。
距離はある。
近づいてこない。
ただ、じっとこちらを見ている。
(……待ってる?)
用事を終えて近づくと、らんは何も言わずに歩き出した。
「先行くよ」
声をかけると、少しだけ足が緩む。
「……はい」
歩幅は合っている。
けれど、空気が少し違う。
「どうしたの?」
すちが聞くと、らんは一拍置いてから答えた。
「先輩、さっき……楽しそうでした」
「普通だよ」
「そうですね」
肯定するのに、声は低い。
沈黙。そのまま校門を出る。
「ねぇ…何かあったなら言って?」
すちがそう言うと、らんは立ち止まった。
「……嫌だっただけです」
ポツリと言葉をこぼす
「何が」
「先輩が、俺の知らない顔で笑ってたの」
言葉は静かだった。
怒っていない。
責めてもいない。
ただ、事実を述べるように。
すちは言葉に詰まる。
(……それ、言われる立場なのか?)
そう思うのに、不思議と否定できない。
「俺、先輩のこと見てない時間、嫌いです」
らんは目を逸らさずに続ける。
「先輩が、どこで誰と笑ってても」
「俺の知らないところに行く感じがして」
胸が、少しだけ重くなる。辛くなる。
「……束縛?」
冗談めかして言うと、らんは即座に首を振った。
「違います」
否定は強い。
「先輩が嫌なら、やめます」
「でも」
一歩、近づく。
「俺は、嫌です」
その距離の近さにと、その目の真剣さにすちは息を止めた。
(……逃げればいいのに)
そう思う。
でも、足は動かない。
「……重いね」
ぽつりと零すと、らんは少しだけ目を伏せた。
「分かってます」
「でも、隠しません」
その言葉に、背筋がぞくりとする。この感情は、善意じゃない。でも、悪意でもない。
らんは、最初から選んでいる。
すちを。
「先輩」
静かな声。
「俺、先輩がいなくなるの、無理です」
すちはその言葉を冗談だと切り捨てられなかった。だって、あまりに顔が真剣だから。
それが一番、怖かった。
(……ああ)
気づいてしまう。
これは、ただ懐かれているだけじゃない。
それでも。
「……分かった」
そう答えてしまった自分をすちは止められなかった。
らんの表情が、ほんの一瞬だけ緩む。
それを見て、胸の奥が静かに締めつけられた。
――このときから、
関係はもう、後戻りできなくなっていた。
〜自覚
それは、ほんの些細な違和感から始まった。
らんがいない放課後、部室の前で立ち止まったときすちは初めて気づいた。
(……静かだなぁ)
いつもなら、先に来ている。
鞄を置く音。こちらに気づいて向けられる視線。
それが、ない。
「らん、今日は?」
同じ部の後輩に聞くと、首を傾げられた。
「用事あるって言ってましたよ」
「そっか」
それだけのこと。
なのに、胸の奥が少しざわつく。
(……別に、毎日一緒にいる必要ないでしょ)
自分に言い聞かせる。
でも、頭のどこかで時間を数えている。
……来ない。
いつもなら、もういる時間なのに。
練習が始まっても、俺は集中できなかった。
「先輩、どうしたんですか」
声をかけられて、はっとする。
「あ、いや」
曖昧に笑って誤魔化す。
(……探してる?)
自覚した瞬間、心臓が強く跳ねた。
(無意識に俺、らんを求めてる…)
その日の帰り道も、無意識にスマホを見ていた。
連絡が来ていないか。既読はついているか。
(……待ってる?)
前に言われた言葉が、遅れて胸に刺さる。
――俺、先輩がいなくなるの、無理です。
「……それ、俺もじゃん」
声に出して、驚いた。
…その言葉に乾いた笑いがこぼれた
その夜。
らんから短いメッセージが届いた
《今日は遅くなります》
それだけ。
なのにほっとしている自分がいる。
(……何やってんだ、俺)
まるで…恋してるみたいだ
翌日。
らんは何事もなかったように現れた。
「おはようございます、先輩」
いつも通り。
それが、少しだけ嫌だった。
(……昨日、いなかったくせに)
自分でも意味が分からない。
らんが、他の人と話している。後輩でも、同級生でもないクラスの誰か。
それを見た瞬間、胸の奥が熱くなった。
(……なんで)
歩み寄る理由なんてない。
それでも、足は自然と動いていた。
「らん」
呼ぶと、すぐにこちらを見る。
その反応に、妙に安心する。
「何してたの」
「少し話してただけです」
それだけ、なのに
「……そっか」
言葉が、ぎこちない。
らんは、すちの顔をじっと見た。
「先輩」
「なんですか」
一瞬、言葉に詰まったあと、静かに続ける。
「……嫉妬、しました?」
心臓が跳ねる。
「え?」
否定しようとして、できなかった。
(……した)
その事実が、はっきりと胸に落ちる。
その事実がとても苦しい。
「……別に」
苦しいほどの嘘。
らんは何も言わなかった。
ただ、少しだけ口元を緩めた。安心したような笑顔。
「よかった」
「何が?」
「先輩も、同じだった」
逃げ場がなくなる。
(……終わった)
でも、嫌じゃない。
その夜、布団に入ってからも眠れなかった。
優しい先輩。
誰にでも平等で。
そうでいようとしてきた自分が初めて誰かを選んでしまった。
(……好きだ)
その言葉を
もう、否定できなかった。
――自覚は、
静かに、確実に、
すちの逃げ道を塞いでいった。
〜告白
夕暮れの校舎は、人が少ない。
窓から差し込む光が廊下を長く染めていて、
足音だけがやけに響いた。
「先輩」
呼ばれて、すちは立ち止まる。
振り返ると、らんがいた。走ったのか、少し息が上がっている。
「どうした」
「……話、したくて」
その言い方で、分かってしまった。
逃げ道がない話。
教室の一つに入る。みんな帰って誰もいない。
ドアを閉める音が、やけに大きく聞こえた。
「座ります?」
「いや、いい」
らんは少し迷ってから、正面に立った。
距離は近くない。
でも、離れてもいない。
「先輩」
名前を呼ばれるだけで、心臓が跳ねる。
こんなに心臓が早くなったことあったっけ…
「俺、先輩のこと好きです」
言葉は、驚くほど静かだった。
告白は、もっとドラマチックなものだと思っていた。
声が震えるとか。
勢いがあるとか。
でも、らんは違った。
「最初からです」
「先輩が優しくしてくれたから、とかじゃない」
「優しい人だって、知ったから」
一つ一つ、丁寧に、置くように言葉を並べる。
「先輩が、誰にでもそうだって分かってても」
「俺は、先輩がよかった」
胸が苦しくなる。
「……俺は」
声を出そうとして、詰まる。
(ちゃんと断らなきゃ)
そう思うのに。
「無理なら、いいです」
らんが先に言った。
「先輩が困るなら」
「……それでも、気持ちは変わりませんけど」
逃げ道を用意するようでいて、
実は何も引いていない。
「……ずるいな」
すちがぽつりと言う。
「そうですか?」
「そんな言い方されたら」
「……考えるだろ」
らんは、何も言わなかった。
ただ、待っている。
その姿を見て、
あのよく分からなかった感情が、はっきり形を持つ。
(選びたい)
優しい先輩でいるよりも。
「……俺も」
声が、震える。
「らんのこと、好きだ」
言った瞬間、
肩の力が抜けた。
らんの目が、わずかに見開かれる。
「……本当ですか」
確認する声が、少しだけ幼い。
「嘘ついてどうするの」
短く返すと、
らんは一歩、近づいた。
触れない距離。
「じゃあ」
言葉を選ぶように、一拍置いて。
「俺、先輩の恋人でいいですか」
逃げ道は、もうなかった。
「……お願いします」
その答えに、
らんは初めて、はっきりと笑った。
嬉しそうで。
どこか安心した顔。
「大事にします」
その言葉が約束でも、宣言でもあることを
すちは理解していた。
――こうして、二人の関係は名前を持った。
〜距離感
付き合い始めた翌日も、界は何も変わらなかった。
朝の昇降口。
「おはようございます、先輩」
「おはよ」
呼び方は、昨日までと同じ。
それが少しだけ、落ち着かない。
(……恋人、なんだよなぁ)
横に並んで歩く。肩が触れそうで、触れない。
その距離に意味が生まれてしまった。
「先輩」
「ん?」
言いかけて、らんは口を閉じた。
「どうかした?」
「……なんでもないです」
本当に、なんでもないのだろう。
でも、言わなかったことが増えた。
教室でもらんはいつも通りだった。後輩として礼儀正しく、でも、視線だけが違う。
目が合うたび、確かめるように見てくる。
(……見すぎ)
昼休み。
すちは友人に声をかけられた。
「すち、飯行こうぜ」
「あ、今日は――」
言いかけて、止まる。
(断る理由、ないな)
「……行く」
そう答えた瞬間。
らんの視線が、一瞬だけ強くなった…気がする。
(……気のせいかな?)
放課後。
部室に入ると、らんが先にいた。
「お疲れさまです」
「お疲れぇ」
二人きり。
沈黙が妙に長く感じる。
「……先輩」
「なに」
「俺、触っていいですか」
心臓が跳ねた。
(そこから来るのか)
「……嫌なら、やめます」
昨日と同じ言い方。
逃げ道を残しながら、
引く気はない。
「……手だけなら」
自分でも驚くほど、声が小さかった。
そんな俺にらんは、そっと手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、
熱が走った。
(……やば)
繋ぐ、というより
確かめ合うような握り方。
らんの指が、少しだけ強くなる。
「先輩」
呼ばれるだけで、
逃げたくなるのに、離れたくない。
「……あんまり、見ないで」
照れ隠しのつもりだった。
「無理です」
即答だった。
「恋人なんで」
その言葉に、
胸の奥がじん、と熱くなる。
(……ずるい)
帰り道。
手は、結局離さなかった。
誰かに見られるかもしれない、でもそれ以上に
離す理由が、なかった。
――距離は、
縮まったはずなのに。
近づくほど意識してしまう。
それが、
恋人になった二人の、
最初の戸惑いだった。
[newpage]
[chapter:加速]
恋人になった、という事実はらんの中で、はっきりと形を持った。
朝。
昇降口で待っていたらんは、すちを見つけると迷わず近づいてくる。
「おはようございます、先輩」
声はいつも通り。
けれど、立ち位置が違った。
自然に、隣。それが当たり前の顔をしている。
(……堂々とするなぁ)
すちは内心でそう思いながら拒まなかった。
廊下でも。
誰かがすちに声をかけるとらんは一歩、近づく。
会話に割り込まない。が距離だけは詰める。
(……見せつけてる?)
昼休み。
すちは別の友人と昼食を取っていた。
少し遅れて、らんが来る。
「ここ、いいですか」
返事を待たずに、すちの隣。
「お前ら、仲いいな」
友人の何気ない一言。
「恋人なんで」
らんが、あっさり言った。
すちは、思わずむせた。
「ちょ、らん」
「事実ですよね」
悪びれない。隠す気もない。
(……俺の心の準備)
それが追いつかないのは、
すちだけだった。
放課後。
部活のあと、校門を出る。
「先輩、今日は誰と帰ります?」
問いは柔らかい。でも、答えは一つしかない。
「……一緒に帰るよ」
そう言うと、
らんは満足そうに目を細めた。
「はい」
帰り道。
すちは、ふと気づく。
らんが、自分の進路の話を
あまり聞いてこないことに。
「ねえ」
「なんですか」
「……俺が、大学行って」
言いかけた瞬間。
らんの歩みが、わずかに止まった。
「先輩」
声は静か。でも
「まだ、その話は」
続きを、遮られる。
「今は」
一歩、近づく。
「俺のです」
言葉は短い。
でも、強い。
胸が、きゅっと締まる。
(……あ)
これが、
らんの独占欲の形なんだと、
すちは理解してしまった。
怖いはずなのに。
「……分かった」
そう答えてしまう自分がいる。
らんの指が、すちの手を探す。
絡め取るように、離さない。
「先輩は、俺の恋人です」
念を押すように。確認するように。自分に、俺に、言い聞かせるように。
「ちゃんと、大事にします」
その言葉に安心と同時に
逃げ道が一つ、消えた気がした。
――恋人モードは、
もう止まらない。
らんの独占欲は
静かに、でも確実に、
速度を上げていた。
〜内側
先輩が、隣にいる。
それだけで、世界は静かだった。
朝の校舎。
先輩の歩幅に合わせて歩く。
速すぎず、遅すぎず。
(ちゃんと、俺の隣)
それを確認するだけで、
胸の奥が満たされる。
でも――。
誰かが先輩の名前を呼ぶと、その音だけで
心がざわついた。
(取られるわけない。絶対に)
分かっている。
先輩は優しい。だから、誰にでも笑う。
それが…とても嫌だった。
昼休み。
先輩が友人と話しているのを、
少し離れた場所から見る。
笑っている。
いつも通りの顔。
(……俺の、なのに)
言葉にしたら終わる。
だから、胸の奥に沈める。
放課後。
一緒に帰れる日。
「先輩」
「ん?」
返事が、柔らかい。
(好きだ)
何度でも思う。
手を繋ぐ。
先輩の指は、まだ少し迷っている。
(可愛い)
恋人になっても、
先輩は変わらない。
変わったのは、俺だ。
失う想像が、
簡単にできるようになった。
もし、大学に行って。
知らない場所で。
知らない人と笑ったら。
(嫌だ)
喉の奥が、きつくなる。だから言った。言ってしまった。
「今は、俺のです」
あれは
宣言であり、祈りだった。
先輩が、
「分かった」と言った瞬間。
安心と同時に、
(……逃がさない)
そんな気持ちが、
確かに生まれた。
怖いと思った。自分が。
でも、
手を離す選択肢は、
最初からなかった。
「ちゃんと、大事にします」
あれは、嘘じゃない。
囲うつもりだし、
守るつもりだ。
それが、愛だと信じている。
先輩が隣にいる限り。
俺はこの独占欲を
手放す気はなかった。
〜亀裂〜
それは、些細なことだった。
放課後。
すちは担任に呼ばれていた。
進路の話。
「少し時間かかるから、先に帰ってて」
そう言われてらんは頷いた。
「分かりました」
校門を出ても、
足が前に進まなかった。
(……すぐ終わるだろ)
そう思いながら、
無意識に時計を見る。
十分。
二十分。
胸の奥が、ざわつき始める。
(遅い)
スマホを取り出して、
メッセージを打つ。
〈まだですか〉
既読がつかない。
(なんで)
知らない大人と、俺の知らない未来の話を。
(俺の知らない場所でッ)
考えた瞬間、
喉がひりついた。
ようやく、
校舎からすちが出てくる。
らんは、
思わず強い声を出した。
「先輩」
すちは、少し驚いた顔で振り返る。
「あ、らん。待ってたの?」
その一言で。
胸の中の何かが、
ずれてしまった。
(……待たせた自覚、ないんだ)
「担任と話してたんだ」
続く言葉。
「進路の相談」
頭の中が、白くなる。
「……言ってくれれば」
声が、硬くなる。
「え?」
すちは、困ったように笑った。
「すぐ終わると思ったし」
その笑顔が初めて怖いと思った
(俺がいなくても平気な顔)
「……俺、帰ります」
らんは、
そう言って踵を返した。
「らん?」
呼ばれても振り返れなかった。
怖かった。
先輩が、
自分のいない未来を
当たり前に選ぶことが。
夜。
布団に入っても眠れない。
スマホを見る。
〈ごめん〉
短いメッセージ。
(……それだけ?)
胸がぎゅっと縮む。
独占欲が初めて痛みに変わった。
これは、
守るための感情じゃない。
失うかもしれないという恐怖だった。
〜遠距離
春が来る前に
すちは卒業した。
校舎の前で、
写真を撮って。
「おめでとうございます、先輩」
らんは笑っていた。
ちゃんと。
でも、
手を繋ぐ力だけが、
少し強かった。
「大学、遠いですね」
らんが言う。
「そうだね」
すちは軽く返した。
その距離感がすでに遠かった。
すちが県外に出てから、
連絡は毎日あった。
おはよう。
今なにしてる。
おやすみ。
文字だけのやり取り。
最初は、それで足りた。
……はずだった。
電話をかける。
「今日、誰といたんですか」
電話越しの声。
静かで、穏やかで。
だからこそ
逃げ場がなかった。
「サークルの人」
すちが答えると、
一拍の沈黙。
「……男ですか」
「男も女も」
また、沈黙。
「楽しそうですね」
その言葉が責めていないのに、
責めていた。
「らん」
名前を呼ぶと、
少しだけ間が空く。
「俺、ちゃんと待ってますから」
声は優しい。
でも、
その優しさが、
重かった。
ある夜。
電話の途中で、
すちは言ってしまった。
「……少し、疲れてる」
その瞬間、
空気が変わる。
「俺のせいですか」
即答だった。
「違う」
否定するほど、
深く刺さる。
「先輩」
らんの声が、
わずかに震える。
「俺、ちゃんと恋人してますよね」
答えられなかった。
距離が物理的だけじゃないと
初めて実感する。
通話が切れたあと。
すちは、
スマホを見つめたまま、
動けなかった。
(……傷つけてる)
でも、
戻れない。
未来を、
手放すことも。
らんを、
手放すことも。
一方で、
らんは布団の中で天井を見ていた。
先輩の声が遠い。
繋がっているはずなのに、
触れられない。
(……離れていく)
そう思った瞬間胸が締めつけられた。
独占欲は、
暴れなかった。
ただ、静かに沈んで不安に変わっていった。
遠距離は、
始まったばかりだった。二人ともまだ知らない。
この距離が、愛を壊すか育てるのかを。
〜ケンカ
きっかけは、本当に小さなものだった。
夜。
いつもの通話。
画面越しのすちは、
少し疲れた顔をしていた。
「今日は?」
らんが聞く。
「サークル」
短い返事。
「またですか」
責めるつもりはなかった。
でも、
声が少しだけ尖った。
「最近、多くない?」
沈黙。
すちは、
一度視線を逸らした。
「……普通だよ」
その言い方が、
胸に刺さる。
「普通、って」
らんの喉が、
きゅっと鳴る。
「俺と話す時間より、
そっちの方が大事ですか」
空気が、
一気に冷えた。
「そういう言い方…やめて」
すちの声が、
初めて強くなる。
「俺だって、自分の生活がある」
その言葉で、
分かってしまった。
(……俺は、生活じゃない)
「分かってます」
らんは、
ゆっくり言った。
「だから、我慢してます」
「我慢?」
「先輩が、俺の知らない場所で笑ってることも」
「新しい人と、新しい未来の話をしてることも」
一つ一つ、
積み上げるように。
「全部」
すちは黙り込んだ。
その沈黙が答えだった。
「……ねぇ、らん」
低い声。
「それ、俺に全部捨てろってこと?」
らんの息が、詰まる。
「ッそんなつもりじゃ」
「でも、そう聞こえる」
画面越しに、
すちがこちらを見る。
その目が遠かった。
「俺、縛られるために進学したわけじゃない」
その言葉で何かが切れた。
「……じゃあ」
声が震える。
「俺は、
先輩の人生の邪魔ですか」
「違うッ!」
即座に否定される。
でも遅かった。
「違わないです」
らんは、
小さく笑った。
「だって、
先輩は今」
「俺と話すの疲れてるって言いました」
沈黙。
肯定も、否定もない。
「……ごめん」
絞り出すような声。
その謝罪が一番、痛かった。
「謝らないでください」
らんは、画面を見つめたまま言う。
「先輩が悪いわけじゃない」
「俺が、
重いだけなんで」
それは自己否定じゃない。
事実の提示だった。
「今日は、もう切ります」
「らん、待ってッ」
「おやすみなさい、先輩」
通話が、切れた。
すちは、
しばらく動けなかった。
(……言い過ぎた)
でも本音でもあった。
誰かの人生を縛る恋はしたくない。
それでも。
画面の向こうで傷ついた顔をしたらんの表情が、
頭から離れなかった。
一方でらんは布団に潜り込み、
声を殺して息を吐いた。
泣いていない。
ただ、
胸が苦しい。
(……離れていく)
怖かった。
独占欲が初めて自分を傷つけた。
それでも、
(嫌われたくない)
その気持ちだけは消えなかった。
遠距離のケンカは終わっていない。
ただ言葉を失ったまま、
二人を遠ざけただけだった
〜帰省
帰省を決めたのは、衝動に近かった。
「少し、帰ろうかな」
誰に言うでもなくすちは呟いた。
理由は分かっている。
このままじゃ壊れる。
距離が、
気持ちをすり減らしていく。
それなら。
会って、
ちゃんと話すしかない。
電車に揺られながら待ち着いた懐かしい駅のホーム。
懐かしい匂いがした。
地元の空気。
(……戻ってきた)
電車を降りると、
胸の奥が少しだけ緩む。
でも。
スマホのトーク画面を開く。らんからの連絡はない。
既読も、
未読も。
それが一番、重かった。
夜。
実家の自室。
天井を見つめながら、
すちは考える。
(俺は、何を守りたかったんだろう)
未来。
自分の人生。
でも。
らんを、
置き去りにしていた。
翌日。
意を決して、
メッセージを送る。
〈帰省してる〉
数分後。
既読。
返信はなかった。
(……当然か)
そう思いながらも、指が震える。
__寂しいよ。らん
夕方。
玄関のチャイムが鳴った。
一瞬、心臓が跳ねる。
(まさか)
そんな期待を抱きながらドアを開けると
らんが立っていた。
制服姿。
少し、
息が乱れている。
「……先輩」
呼ばれる声が近い。
「どうして」
言いかけて言葉が途切れる。
「会いたくなったんで」
短い答え。
でも、それが全てだった。
沈黙のまま、部屋に入る。
距離は、
一歩分。
触れない。触れられない。
「……怒ってる?」
すちが聞く。
「分かりません」
正直な声。
「怒ってるし」
「怖いです」
その言葉に胸がきゅっと締まる。
「俺は…」
言いかけて止まる。
言葉が足りない、届かない…
「先輩」
らんが先に口を開く。
「俺」
「離れるの嫌です」
それは責めじゃない。
願いだった。
すちは、一歩近づいた。
距離が、ゼロになる。
触れないまま。
「……俺も」
声が震える。
「でも、
逃げたくもない」
その言葉に、
らんの瞳が揺れる。
夜。
二人は、
同じ部屋にいた。
話し続けた。途切れ途切れに。完璧な答えは出なかった。
それでも。
「帰ってきて良かった」
すちのその一言で救われた気がした。
この帰省は、
解決じゃない。
でも。
二人が、もう一度
同じ場所に立つための始まりだった。
再開の朝
目を覚ました瞬間、最初感じたのは温度だった。
隣。
確かに、隣にいる。
布団の中で身じろぎすると、腕に軽い重みがかかった。
らんの腕だった。
「……あ」
声を出す前に、らんが目を開ける。
寝起きの、少しぼんやりした目。
それが自分を映して、ゆっくり細まった。
「おはようございます、先輩」
声が低くて、柔らかい。
胸の奥が、じんわり温かくなる。
「……おはよう」
それだけで、十分だった。
しばらく何も話さずに同じ天井を見る。遠距離の間、何度も想像した光景。
触れられない距離、画面越しの声。
今は、息遣いが近い。
その事実に胸が温かくなる
らんの指が、そっとすちの袖を掴んだ。
逃げないか確かめるみたいに。
「先輩」
「ん?」
「……行かないですよね」
不安を隠しきれていない声。
すちは、少し考えてから答えた。
「今日は、どこにも」
その瞬間、らんの腕に力がこもる。
抱き寄せるほど強くはない。
でも、離さないという意思だけははっきりしていた。
「……よかった」
その一言が、胸に沁みる。
(こんなことで安心するほど、怖かったんだな)
すちは、らんの髪にそっと触れた。
指先で撫でるだけ。
らんが小さく息を呑む。
「先輩、それ……」
「嫌だった?」
首を振る。
「……嬉しいです」
言葉が静かで重い。それ以上は、何もしなかった。
触れなくても伝わっている。
「朝ごはん、どうする?」
日常の言葉。
それだけで、未来に戻れた気がした。
「一緒に、作りたいです」
その言い方が、あまりにも自然で。
すちは思わず笑った。
「……なんか同棲みたい」
らんは、一瞬固まってから、小さく頷いた。
「いつか」
その「いつか」が遠くない気がして。
二人は、並んで布団を抜けた。
触れていないのに、甘い朝だった。
〜帰省中デート
街は、変わっていなかった。
よく通った道。昔からある店。
でも、隣にいる人だけが違う。それがとても嬉しい。
「先輩、ここ」
らんが自然に手を取る。
人混みの中、迷子にならないようにという名目。
すちは抵抗しなかった。
「……離さないでよ」
冗談めかして言うと
らんは即座に握り直した。
「もちろん」
返事が早すぎる。
(……独占欲、隠す気ないなぁ)
カフェに入る。窓際の席に二人向かい合わせで腰を下ろす。向かい合うと、らんはずっとこちらを見ていた。
「そんなに見ないで…恥ずかしい…」
言うと少しだけ目を伏せる。
「……久しぶりなんで」
それだけで、許してしまう自分がいる。
注文した飲み物が来る。
ストローを差しながら、らんが言った。
「先輩、帰ってきてくれてありがとうございます」
「それ、何回目?」
「何回でも言います」
即答。
「先輩がいない生活、ちゃんと過ごしてましたけど」
一拍、置く。
「幸せじゃなかったです」
胸が、きゅっと締まる。
「……俺も」
小さく返すと、
らんの表情が、少しだけ緩んだ。
外を歩く。肩が触れ合う。
らんは、すちが立ち止まるたびに同時に止まる。
先を歩かない。置いていかない。常に隣。
(……本当に、逃がす気ない)
公園のベンチに座る。夕方の風。
らんがすちの手を取った。
今度は言い訳なし。
「先輩」
声が低い。
「今は」
一歩、距離を詰める。
「俺のですよね」
確認するような言い方。
すちは、少しだけ考えてから答えた。
「……そうだよ」
その瞬間、
らんの指が絡め取るように強くなる。
「よかった」
安堵と、独占が混ざった声。
(……煽ってる自覚、ないんだよな)
すちは、らんの肩に軽く頭を預けた。
「……帰省中くらい、全部付き合う」
その一言で
らんの独占欲が、確実に一段階上がったのを感じた。
「逃がしませんよ」
冗談のようで、冗談じゃない声。
夕焼けの中、
二人の影はぴったり重なっていた。
――この幸せが、次の不安を呼ぶことを、
まだ誰も知らなかった。
〜旅行
先輩と並んで歩く、それだけで足りるはずだった。
小旅行。
車に乗って、知らない景色を一緒に見に行く。
それは、先輩が提案した。
「気分転換になるでしょ」
そう言って笑った顔が嬉しくて断る理由なんてなかった。
助手席。
ハンドルを握る先輩の横顔を、何度も盗み見る。
(……かっこいい)
自分が知らなかった時間を生きてきた人。
それが、今は隣にいる。
休憩で寄ったサービスエリア。
先輩が店員と話す。
ただ、それだけ。
なのに。
胸の奥が、ざわついた。
(……誰)
知らない人と笑う顔。それを見てしまうと、
一気に不安が湧き上がる。
先輩は、俺の恋人だ。
そう、分かっているのに。
「らん?」
呼ばれて、我に返る。
「……なんでもないです」
嘘。
車に戻る。
ドアを閉める音が、やけに大きい。
走り出す車内。
沈黙。
先輩が、ラジオをつけようとした瞬間。
「……やめてください」
自分でも驚くほど、強い声が出た。
先輩がこちらを見る。
困った顔。
「どうしたの」
(言うな)
(言ったら、終わる)
でも、止まらなかった。
「俺」
喉が、ひりつく。
「先輩が、俺の知らない人と話すの」
言葉が、歪む。心が、歪む。
「嫌です」
先輩は、何も言わなかった。
ただ、ハンドルを握る手に、少し力が入る。
(……引かれた)
そう思った瞬間、
胸がぎゅっと締まる。
「ごめんなさい」
即座に言った。
「今の、忘れてください」
逃げるように。
「……らん」
呼ばれる声が、優しい。
それが、余計に怖かった。
「俺」
先輩が、少しだけ息を吸う。
「束縛されてるって、思ってない」
その言葉に、心臓が跳ねる。
「でも」
続く言葉を、待ってしまう。
「少し、怖かった」
世界が、止まった気がした。
(……あ)
これが、暴走だ。
守りたかっただけなのに。
失うのが、怖かっただけなのに。
「……すみません」
声が、小さくなる。
先輩はそれ以上責めなかった。
「今日は、楽しもう?ね?」
そう言って、前を向く。
その背中が、遠い。
(……壊したかもしれない)
景色は綺麗だった。
それでも、心はずっと、揺れていた。
〜余韻
宿に着いたのは、日が沈んでからだった。
部屋は一つ。自然な流れ。
先輩は、何も言わない。
それが、逆に怖い。
「……先輩」
ベッドの端に座ったまま、声をかける。
「さっきのこと」
先輩は、少し考えてから口を開いた。
「らんが、怖くなった理由は分かるよ」
胸が、きゅっと縮む。
「でも」
一歩、近づいてくる。
「俺は、逃げない」
目線が合う。
「らんの気持ちも」
「俺の未来も」
「どっちも、手放したくない」
その言葉が
胸の奥に、深く落ちた。
「……ずるいです」
思わず、零れる。
「そんなこと言われたら」
「離すわけ、ないじゃないですか」
先輩の手が、頬に触れる。触れ方は優しい。
「独占欲、持ってていい」
低い声。
「でも、俺を怖がらせないで」
初めて、はっきり言われた。
「……はい」
喉が、熱い。
近づく距離。
額が、触れる。
「先輩」
呼ぶ声が、震える。
「俺」
言葉より先に、腕が伸びた。
抱きしめる。
離れないように。
「……好きです」
何度目か分からない告白。
「誰にも、渡したくない」
本音だった。
先輩は、少しだけ驚いたあと、
背中に腕を回した。
「……ばか」
小さな声。
「俺も、同じだよ」
その一言で
張り詰めていたものが一気に溢れた。
夜は、長かった。
触れて、
確かめて言葉を交わして。
独占欲も、不安も、全部、抱えたまま。
それでも。
この夜だけは、二人の距離は確かにゼロだった。
〜帰省最終日の夜
部屋の時計が、静かに進んでいく。
カチ、カチ、と音がするたびに胸の奥が締め付けられた。
明日、先輩は帰る。
分かっている。
最初から、決まっていたことだ。
それでも。
(……早すぎる)
布団に並んで横になる。
電気は消したまま。
触れていない。
触れていないのに、
存在だけで熱い。
「眠れない?」
先輩の声。
「……はい」
正直に答えた。
「俺も」
小さな笑い声。
その一言で、我慢していたものが少しだけ緩む。
沈黙。
先輩が、先に口を開いた。
「寂しいな」
それだけ、なのに。
胸が痛くなる
「……俺もです」
声が、震えた。
「先輩がいない日、想像できない」
言ってしまってから、
しまったと思う。
重い。
そう思われたくなかった。
でも、先輩は否定しなかった。
「俺も、らんがいない部屋は嫌だ」
暗闇の中で
視線が合う気がする。
「だから」
布団の中で、
手が伸びてくる。
指先が、そっと触れた。
「今夜くらい」
絡める。
「一緒にいよう」
指と指が、しっかり結ばれる。
(……ずるい)
心の中で、何度も思った。
こんなふうにされたら、
離れる覚悟なんて、できない。
身体を寄せる。
額が、肩に触れる。
「先輩」
名前を呼ぶだけで、
喉が熱くなる。
「帰っても」
言葉を探す。
「俺のこと、忘れないですよね」
一瞬の沈黙。
そのあと
先輩の手が、背中に回った。
抱き寄せられる。
「忘れるわけないだろ」
低くて、はっきりした声。
「らんは」
「俺の恋人だ」
胸に、直接落ちてくる言葉。
「……ずっと」
続く声が、少しだけ弱くなる。
「離れてても」
その不完全さが
逆に、真実味を帯びていた。
「……約束ですよ」
強がるみたいに言う。
「破ったら」
冗談のつもりだった。
「嫌いになります」
先輩は、少し笑ってから、
額に唇を落とした。
軽い。
触れるだけ。
「それは困る」
そう言って、
もう一度、抱きしめる。
夜は、静かだった。
それなのに
胸の中は、うるさかった。
独占欲も、不安も
全部、抑え込んで。
それでもこの温度だけは、
手放したくなかった。
明日、離れる。
分かっている。
だからこそ、
この夜を何度も、心に刻んだ。
〜翌朝
朝は、容赦なく来る。
カーテンの隙間から差し込む光が夜を終わらせに来たみたいだった。隣で眠る、らん。
規則正しい呼吸。
少しだけ、眉が寄っている。
(……緊張してたんだな)
昨夜のことを思い出して、
胸が、きゅっと縮む。
布団から出る音を、できるだけ小さくする。
起こしたくなかった。
キッチンで湯を沸かす。カップを二つ並べながら帰りの電車の時間を頭の中でなぞる。
(まだ、来るな)
そう思っても、
時間は待ってくれない。
背後で、足音。
「……先輩」
眠そうな声。振り返ると
らんが立っていた。
「起きた?」
できるだけ、いつも通りに。
「先輩、早いですね」
「癖みたいなものだよ」
嘘だった。
眠れなかっただけだ。
マグカップを渡す。
指が、触れる。
一瞬。
それだけで胸がざわつく。
「……今日、帰るんですよね」
確認するみたいな口調。
「うん」
短く答える。
言葉を足せばきっと、らんは察してしまう。
「寂しいですか?」
聞かれて、少し困った。
「……寂しいよ」
正直に言った。
「でも」
続ける前に、
らんの目が、少し揺れる。
(ああ)
この顔をさせる権利が、俺にあるのか。
「行かないって、言わないよ」
自分に言い聞かせるみたいに、そう言った。
らんが、笑う。
「知ってます」
「先輩、そういう人ですもん」
その理解が、ありがたくて少し、苦しい。
玄関。靴を履く。
時間が、背中を押してくる。
「……らん」
名前を呼ぶと、すぐに顔が上がる。
「ちゃんと、連絡する」
「毎日じゃなくても」
「途切れないように」
約束というには不完全な言葉。
それでも。
「……はい」
らんは、頷いた。
近づく。
抱きしめたら
多分、離れられなくなる。
だから。
頬に、そっと触れる。綺麗な桃色の瞳と視線が合う。
距離が縮まる。唇が、触れる。
ほんの一瞬。
確かめるだけの、キス。
それ以上、しなかった。
離れる。
らんが、少しだけ名残惜しそうに息を吸う。
「……いってらっしゃい」
その言葉が、背中に刺さる。
「行ってきます」
ドアを開ける前に振り返る。
らんは、そこに立っていた。
ちゃんと、待つ顔で。
(……ずるいな)
そう思いながらドアを閉めた。
離れるためじゃない。
戻るための、別れだ。
そう信じなければ、
前に進めなかった。
〜同じ鍵
春。
引っ越し用の段ボールが部屋の隅に積まれている。
窓を開けると、風がカーテンを揺らした。
「……狭いですね」
らんが言う。
「二人なら、ちょうどいいよ」
そう返すと、少し不満そうな顔をしてから、
らんは笑った。
大学生になった、らん。
制服はもうない。
でも、距離は近くなった。
同じ部屋。同じ朝。同じ帰り道。
テーブルの上に、鍵が二つ並ぶ。
「これ」
らんが、一つを指で押した。
「俺の、ですよね」
確認するみたいに。
「そうだね」
答えるとらんは満足そうに頷く。
独占欲は、消えていない。
でも今は不安よりも、安心のほうが重い。
コーヒーを淹れる。
湯気の向こうで
らんがこちらを見る。
「先輩」
呼び方は、変わらない。
「今日、帰り遅くなります」
「了解」
それだけ。
信じることが特別じゃなくなったから。
夜。
同じソファに座る。
肩が触れる。
「……帰ってきました」
「おかえり」
短い会話。
それで足りる。らんが、そっと手を伸ばす。
指が絡む。
離さない力。でも、縛らない。
「ずっと」
らんが言う。
「一緒にいますから」
重くない。
ただの事実みたいに。
「うん」
そう答えてすちは笑った。
鍵は、同じ場所に戻される。
迷わず、
同じ部屋へ。
それが、
二人の選んだ未来だった
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