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受話器越しの怒声は、金属を爪でゆっくりと引き裂くような音だった。耳に届くのではなく、鼓膜の裏側に直接貼り付いてくる。剥がそうとすれば、かえって深く食い込む類のものだ。
フロアのあちこちで着信ランプが明滅する。規則正しいはずの電子音は、重なり合うことで不安定な波となり、空気を微細に震わせていた。パーテーションで囲まれた小さなブースの中、オペレーターたちは背を丸め、決まりきった謝罪を繰り返す。
「申し訳ございません」
「確認いたしますので、少々お待ちくださいませ」
それらの言葉はもはや、単なる言葉ではなかった。呼吸に近い。吸って、吐く。その間に挟まれた儀式のようなものだ。感情を込めれば摩耗し、込めなくても摩耗する。
斜め前の席で、若い男性オペレーターがミュートボタンを押した。指先は白く、唇の色も薄い。
「……すみません、代わってもらっていいですか」
小さな声だが、鉛のようなどんよりとした重さが伝わる。
「代わります」
いくつかの視線が一斉に彼女に向く。彼女は静かに立ち上がった。椅子の軋む音さえ立てず、背筋を伸ばし、ヘッドセットの位置をわずかに調整する。その無駄のない動作は、訓練の成果というより、祈りに近かった。
ブースに身体を滑り込ませる。
「お電話代わりました」
低く、穏やかな声。それだけで空気がわずかに整う。乱れた糸が、見えない手で引き揃えられたように。
彼女は「鬼」と呼ばれている。クレーム処理専門のエースで、最悪の案件ほど最後に彼女の元へ流れ着く。
受話器の向こうで、客は怒鳴り続ける。音量は調整されているはずなのに、隣席にまで言葉の破片が飛び散る。
「おっしゃる通りです。ご不快な思いをさせてしまい、大変申し訳ございません」
彼女は決して遮らない。反論せず、正しさを主張しない。相手の言葉をすべて受け取り、内側でほどき、整え、棘だけを丁寧に摘み上げる。
「つまり、配送日時の変更が正しく反映されていなかった点が問題ということでよろしいでしょうか」
怒号が、一瞬だけ途切れる。ほんの数秒だが、彼女にとっては十分だった。
静かに言葉を差し込み、流れを変える。やがて通話は終わる。
「……以上でよろしいでしょうか。本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございました」
ヘッドセットを外すと、フロアに小さな安堵が広がる。
「さすがですね……」
若いオペレーターが心底ほっとした声で言う。彼女は首を横に振った。
「怒りは有限ですから」
それが彼女の口癖だ。
「受け止めれば、必ず終わります」
理屈としては正しい。怒りは燃料を消費し、やがて鎮まる。けれど本当は、終わらせたくない。それを、誰にも知られてはいない。
怒声が降りかかる瞬間、彼女の内側で何かが静かにほどける。胸骨の裏に溜まった硬い塊が熱を帯び、溶け出す。きつく締め付けられた鎧が、内側から外れていく。責められているはずなのに、呼吸が深くなる。自分の輪郭が曖昧になり、罵倒は痛みではなく快楽として彼女を押し広げる。
評価、期待、信頼――それらは彼女の身体に張り付く透明な板。重く、冷たく、いつも呼吸を浅くする。「鬼」と呼ばれるたび、背中に何かを背負わされる。だが怒鳴られている間だけは違う。
#お仕事
#秘密
「役に立たない」「謝って済むと思うな」「お前なんかに何が分かる」
一語一語が板を削り落とす。自分が無価値だと断じられるたび、胸の奥がかすかに震え、芯が柔らかくなる――もっと、もっと強く、深く。声には出さない。出した瞬間、すべてが壊れることを知っている。
それでも、確かに彼女は願っている。もっと踏みつけてほしい。自分の存在が靴底で平らに潰される感覚を、もう少しだけ味わいたい。
だから彼女は、誰よりも長く通話する。誰よりも粘る。怒りが弱まり、相手の言葉が重複し始めるころ――終わりが近づくと胸の奥に淡い寂しさが灯る。
――もう、これで終わりか。まだ足りない、と言ってしまいそうになる自分を、ぎりぎりで押し留める。
「ご指摘ありがとうございました」
通話終了。フロアは、何事もなかったかのように回転を続ける。