テラーノベル
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数席離れた場所から、視線を感じた。彼女は気づかないふりをする。視線の主は男性オペレーター、入社三年目。真面目で観察力が鋭く、誰よりも彼女を尊敬している。だが最近、胸に小さな違和感が芽生えていた。
彼女は疲れていない。長時間の罵倒を浴びたあとでも肩を落とさず、どこか緩んでいる。椅子に深く腰掛け、ヘッドレストに後頭部を預ける。目を閉じ、喉仏がゆっくり上下し、長い息を吐き出す。
その瞬間、唇の端がわずかに緩む。それは勝利の笑みでも誇らしさでもない。圧力から解放された者の、静かな満足――いや違う。圧力そのものに抱かれていた者が、ようやく腕を離されたときの、名残惜しさを含んだ微細な変化だ。彼は見逃さなかった。
次の着信音が鳴る。彼女は目を開け、空洞はすでに薄く閉じ、「鬼」という輪郭が整えられていく。マウスを動かし、画面を確認する。
鬼は今日も、怒りを引き受ける。そして誰にも知られず、その怒りの中で、膝を折るようにして密やかな愉楽に身を沈める。
その番号が表示された瞬間、フロアの空気は目に見えない膜に包まれた。重く、鈍い圧力が全体を押し潰す。
ブラックリスト――最上位。通話履歴は異様な密度で埋め尽くされていた。平均通話時間は四十分超、折り返し回数は二桁。数字の並びは冷静だが、その裏には削り取られた神経、乾いた喉、何度も繰り返された謝罪が重なり合っている。
受信ランプが明滅する。着信を受けたオペレーターの喉がわずかにひくりと鳴る。
「……きました」
誰に向けたわけでもない呟き。視線が一瞬泳ぐ。目を合わせない仕草が、状況を逆に強調する。
数秒の沈黙のあと、かすれた声が落ちる。
「……代わってください」
救難信号。その言葉はいつも同じ重さで空気を沈める。視線が一人に集まる。
彼女はモニターを見つめたまま、静かにうなずく。立ち上がる動作は、いつもよりわずかに早い。それを彼女自身が意識しているかどうか、彼には分からない。横顔を見つめ、彼は思う――どうして、そんなに落ち着いていられるのか。
転送。一拍の無音。そして。
「おい、今度は誰だ」
鼓膜を突き刺す怒声。音量は制限されているはずだが、荒い息遣いまで漏れる。威圧と緊張が瞬間的にフロアを支配する。
「お電話代わりました」
彼女の声は低く、安定している。荒れる海をゆったり漕ぐ舟のようだ。
「この会社はどうなってるんだ! 何度説明させる気だ!」
「ご不快な思いをおかけし、申し訳ございません」
怒声は止まらない。人格否定、論点の飛躍、同じ主張の反復。言葉は鈍い鉄塊のように叩きつけられる。彼女は決して遮らず、すべてを受け止める。沈黙さえ相手に差し出す。
彼は自席に戻ったふりをしながら、視界の端で彼女を捉える。姿勢は真っ直ぐ、背筋は緩まない。だが呼吸が違う。怒鳴られている人間の呼吸ではなく、むしろ深い。胸郭がゆっくり上下し、長距離走の後の整った呼吸のようだ。
「お前らみたいなのがいるから世の中が腐るんだ!」
「おっしゃる通りです」
その瞬間、彼女の喉がかすかに鳴る。怯えではない。指先が机の端を握り、爪が白くなる。怒声がさらに強く叩きつけられる。
「謝って済む問題じゃないんだよ!」
彼女の視線が一瞬伏せられる。睫毛の影が頬に落ちる。彼は気づく。頬の筋肉がわずかに弛んでいることに。緊張ではなく、緩和。強く締め付けられた紐が内側からほどけるような動きだ。
次の瞬間、透明な光が彼女の口元に滲む。唇の端に細い線が走り、光を受けてわずかに揺れる。よだれだった。無意識の滲出。それは一滴というより糸のように静かに垂れる。
怒声が降り注ぐたび、彼女の喉が小さく動く。飲み込むのを忘れた体液が、静かに溜まる。彼女は瞬きをして現実に引き戻され、素早くハンカチを取り出し口元を押さえる。白布に吸い込まれる湿り気。その動作は冷静だが、呼吸はわずかに乱れている。
視線が周囲を探る。誰も見ていない――はずだった。だが彼と目が合う。一瞬。彼女の瞳が揺れる。それは恐怖でも羞恥でもない、見られてしまった事実そのものに対する剥き出しの動揺だ。
すぐに視線は逸れる。通話は続く。
「具体的な経緯を、もう一度整理させていただいてもよろしいでしょうか」
声は完璧だ。滑らかで非の打ち所がない。しかし彼の胸はざわめいていた。怒鳴られている最中に、どうして――どうしてあんなふうに濡れた目で受け入れる表情を向けられるのか。
通話は四十五分を超え、怒りは徐々に枯れ、同じ言葉が繰り返される。息は荒く、声は掠れる。
「……もういい」
終息。フロアに、目に見えない拍手が広がる。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございました」
いつもの台詞だ。だが、彼には分かってしまった。彼女は耐えているのではなく、浴びている――罵倒を雨のように。そしてその雨に身を差し出している。
椅子に深く腰掛け、ヘッドレストに頭を預け、目を閉じる。長く、ゆっくり息を吐く。喉が上下し、肩の力が抜ける。その表情は安堵ではない。満たされた者の静かな余韻。強く踏みつけられた地面に身体を預けるような顔。彼の指先が震える。
尊敬していた。鋼の精神だと思っていた。でも違う。鋼ではない。むしろ柔らかすぎる。怒りによって形を与えられる粘土のような。彼女は壊れないのではなく、壊されることを選んでいる。
モニターに次の着信が光る。彼女は何事もなかったかのようにヘッドセットを整える。横顔は完璧な「鬼」。だが彼には見えてしまった。鬼の仮面の裏、怒号に濡れ、わずかに光を帯びる本性。疑念が胸の奥でゆっくり根を張る。
あれは偶然ではない。あのよだれは事故ではない。あの表情は――愉悦だ。そして彼は、初めて思った。
もしそれが事実なら。私は。この人を、止めるべきなのだろうか。
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