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舜太とご飯に行って、俺の人生の中でも一番と言っていいほど大きな決断をしたあの日から、もう一週間が経っていた。
……怖くないわけがない。
やってはいけないことだって、当然わかっている。この一週間、何度も何度も考えた。考えるたびに、やめた方がいいという答えにたどり着いた。
それでも、舜太が結婚してしまったら。
俺の知らないところで、俺以外の誰かと暮らして、俺の知らない顔で笑うようになったら。
いつか、俺という存在が舜太の中から少しずつ消えていってしまう気がした。
そんなことになったら、俺はもう、どうしたらいいのかわからない。
だから、ごめんね、舜太。
舜太は、こんなこと望んでいないと思う。きっと嫌だと思う。
それくらい、俺にだってわかっている。
全部、俺のエゴだ。
それでも。
ほんの少しの間だけでいいから。
俺だけの舜になって。
スマホを手に取り、舜太とのトーク画面を開いた。
何度もやり取りを重ねてきた、見慣れた画面。
『今週の土日、空いてたりする?』
そこまで打ち込んで、俺は指を止めた。
結局、その文字をすべて消してしまう。
いつもなら何も考えずに送れるはずなのに、今日はどうしても送信ボタンを押せなかった。
入力して、消して。また入力して、消して。
まだ計画の序盤も序盤だ。変に思われないように、いつも通りに振る舞わなければ。
そう考えれば考えるほど、不自然な文章ばかりが浮かんでくる。
……何してるんだろ、俺。
舜太に連絡するだけなのに。
今までだって、何度もこうしてメッセージを送ってきた。それなのに、たった一言を送ることさえ、こんなにも怖い。
何度目かもわからない入力を繰り返して、ようやく俺は文章を決めた。
『今週の土日って空いてる?』
送信ボタンを押す。
たったそれだけのことなのに、心臓が嫌なくらい大きな音を立てていた。
しばらくして、スマホが震えた。
『空いとるよー!どしたん?』
見慣れた返事に、思わず息が漏れる。
……よかった。
いや、何がよかったんだろう。
舜太は何も知らない。俺がどんな気持ちでこのメッセージを送ったのかも、これから何をしようとしているのかも。
何も知らないまま、いつもと変わらない返事をくれる。
そんな舜太に、俺はまた嘘をつく。
『月曜締め切りで、どうしても間に合わせないといけない仕事があってさ』
『舜がよかったら手伝ってもらえないかなって。後で奢るから』
送信してから、スマホを握りしめたまま返事を待った。
断られたら、どうしよう。
そんな考えが頭をよぎり、俺はすぐに首を横に振った。
いや、別に断られたっておかしくない。急に頼んだのは俺なんだから。
そう自分に言い聞かせていると、再び画面に見慣れた名前が表示された。
『ええよー!』
思わず、ほっと息を吐く。
『ほんと?助かる、ありがとう』
『全然ええよ笑』
『土日どっちも手伝えばええ?』
……ああ、本当に、何も疑っていないんだな。
そのことが嬉しくて、同時に、どうしようもなく申し訳なかった。
『できれば土日ともお願いしたい!』
『おっけー!』
『何時くらいに行けばええ?』
そこまで読んで、少しだけ指が止まった。
来てくれる。
土曜日も、日曜日も。
これからの二日間、舜太が俺の家にいてくれる。
そう考えた瞬間、胸の奥がじわりと熱くなった。
……ほんと、最低だな。俺。
『午後くらいで大丈夫!昼過ぎならいつでもいいよ』
『りょーかい!』
『じゃあ明日なー!』
『うん、気をつけて来てね』
最後にそう送って、スマホを伏せた。
これで、明日には舜太に会える。
そう思った瞬間、さっきまで感じていた罪悪感が、ほんの少しだけ薄れた気がした。
けれど、それも一瞬だった。
明日、舜太がこの家に来る。
何も知らずに、いつも通りの笑顔で。
俺を、親友だと信じたまま。
「……ごめんね、舜太」
誰もいない部屋で、小さく呟く。
その謝罪が舜太に届くことはない。
それでも俺は、もう引き返すつもりなんてなかった。
そして、次の日の土曜日。
俺はいつもより少し早く起きた。
舜太が来るのは午後だ。それなのに、朝から落ち着かなかった。
届いたまま放置していた段ボールを畳んで、溜まっていたゴミをまとめる。テーブルの上を片付けて、ソファに置きっぱなしだったクッションまで整えた。
普段なら、ここまで念入りに掃除することなんてない。
それでも今日は、少しでもきれいな状態で舜太を迎えたかった。
……何を期待してるんだろうな、俺。
そんなことを考えながら片付けを続けているうちに、時計の針は昼を過ぎていた。
そのとき、ピンポーン、とチャイムが鳴り響いた。
「はーい」
返事をして、玄関へ向かう。
ドアを開けると、両手にいくつもの袋を抱えた舜太が立っていた。
「ごめん!いろいろ買っとったら遅なった!」
そう言って、舜太は袋を少し持ち上げる。
「仕事するなら、軽くつまめるもんがあった方がええかなって思って」
「うわ、いいの?わざわざごめん、ありがと」
「ええよええよ。俺も食べたかったし!」
そう言って、舜太はいつものように笑った。本当に、何でもないことみたいに。
俺は、こんなにも自分勝手なことを考えているのに。
舜太は何も知らず、俺のために食べ物まで買ってきてくれた。
その優しさが嬉しい。
だからこそ、胸の奥が痛んだ。
「ほら、早く入りな? せっかく来たんだし」
できるだけいつも通りに笑って、舜太を家の中へ招き入れる。
「お邪魔しまーす!」
舜太は何の疑いもなく靴を脱ぎ、慣れた様子でリビングへ向かった。
その後ろ姿を見つめながら、俺はそっとドアを閉めた。
カチャリ、と小さな音がする。
たったそれだけの音なのに、なぜかひどく印象に残った。
……今日一日くらい、何も考えずに過ごせたらいいのに。
そんなことを思いながら、俺も舜太の後を追った。
「そういえば、仕事手伝う……とは言うたけど、何したらええん?」
ソファに座った舜太が、買ってきた袋をテーブルに置きながら尋ねてきた。
「あ、そっか。まだ言ってなかったね。ちょっと待ってて」
そう答えて、俺は寝室へ向かった。
クローゼットから、あらかじめ用意しておいた紙袋を取り出す。中身を確認してから、リビングへ戻った。
「ごめんごめん、おまたせ」
「ん? 何それ?」
舜太が俺の持つ紙袋を不思議そうに見た。
「これ、俺がデザインした服なんだけど、まだ試作段階でさ。実際に着たときのサイズ感とか、客観的な意見が欲しくて」
紙袋から何着か取り出し、テーブルの上に並べていく。
「舜ならサイズもちょうどよさそうだし、試着して感想を聞かせてもらえないかなって」
もちろん、それも嘘ではなかった。
服のデザインをしているのは本当だし、試作品を誰かに着てもらいたいと思っていたのも本当だ。
ただ、それだけじゃない。
俺は、舜太にこの家にいてほしかった。
できるだけ長く。
できるだけ、俺のそばに。
「え!それ全部、柔が作ったん?」
舜太は目を丸くして、テーブルの上の服を覗き込んだ。
「すごっ。めっちゃ本格的やん!」
「いや、まだ試作だからね。そんな大したもんじゃないよ」
「いやいや、すごいって!俺でええんやったら……っていうか、むしろ俺なんかでええん? もっとファッションに詳しい人とかおるやろ?」
「舜がいいんだよ」
思ったよりも早く、言葉が口をついて出た。
舜太が、きょとんとした顔で俺を見る。
しまった。少し食い気味だったかもしれない。
「あー……いや、ほら。普段から一緒にいるし、気ぃ遣わずに感想言ってくれそうだから」
慌てて付け足すと、舜太は納得したように「あー、なるほど!」と頷いた。
「確かに。それに、あんま知らん俺やから、ってのもあるもんな?」
「……うん。そういうこと」
笑って返しながら、俺は内心で小さく息を吐いた。
今のは、少しだけ本音に近すぎた。
「じゃあ、さっそく着てみよっか。サイズ合うかも見たいし」
「おっけー! どれから着ればええ?」
舜太はテーブルの上の服を楽しそうに眺め始めた。
その姿を見ているだけで、どうしようもなく嬉しくなる。
俺が用意した服を着て、俺の家で過ごして、俺のために時間を使ってくれている。
それだけのことが、こんなにも幸せだなんて。
……本当に、どうかしてる。
「じゃあ、まずはこれかな」
俺は一着のシャツを手に取り、舜太へ差し出した。
「これ着てみて。たぶんサイズもちょうどいいと思う」
「りょーかい!」
舜太はそれを受け取ると、生地を指で触ったりしながら興味深そうに眺めた。
「へえ、こういう生地使っとるんや。柔、こういうの好きなん?」
「うん。着心地も大事にしたくてさ」
「なるほどなあ」
何気ない会話。
いつもと変わらない、二人の時間。
それなのに俺は、その一瞬一瞬を、ひとつも逃したくないと思っていた。
やがて舜太が立ち上がり、服を持って寝室へ向かう。
「じゃあ待っとってな、着替えてくるわ!」
「うん。ゆっくりでいいよ」
舜太が部屋を出ていくと、リビングには俺一人が残された。
中身をすべて出されて空になった紙袋を見つめる。
これでいい。
まずは今日。
今日一日、舜太と一緒に過ごす。
明日も、その次も。
そうやって今までと同じ時間を積み重ねていけば、いつか舜太にとって、俺がいなくてはならない存在になれるだろうか。
そこまで考えて、俺はゆっくりと目を閉じた。
違う。
本当は、わかっている。
こんなの、友情なんかじゃない。
舜太の気持ちを確かめることもせず、自分の不安を埋めるためだけに、あいつの時間を独り占めしようとしている。
それでも。
今だけは。
この家にいる間だけは、舜太が俺の隣にいてくれる。
その事実にすがることしか、今の俺にはできなかった。
「……柔ー? 着替え終わったでー!」
寝室の方から明るい声が聞こえた。
俺ははっと顔を上げる。
「今行く!」
できるだけ自然な声で返し、舜太の待つ部屋へと向かった。
「……っ、え、めっちゃええやん!」
着替えを終えた舜太が鏡で自分の姿を確認すると、「さすがじゅうやわ!」なんて興奮気味に言ってくれる。
さっきまで俺の手元にあった服が、今は舜太に似合っている。
当たり前のことなのに、不思議だった。
自分が考えて、デザインして、形にしたものを、舜太が着てくれている。
「ほんと?サイズとか……デザインの方も大丈夫そう?」
「うん!全然ええ感じ!これ、普通に欲しいわ」
「……ほんとに?」
「ほんとやって! だから発売したら教えてな? 買うから!」
屈託なく笑う舜太に、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「ああ、もう。そんなこと言われたら、もっと喜ばせたくなるじゃん」
「え、何か言うた?」
「ううん。じゃあ、今度ちゃんと完成したやつあげるよ」
「え、ええの!? やった!」
ぱっと顔を輝かせる舜太を見て、俺も自然と笑っていた。
こんな時間が、ずっと続けばいいのに。
何も考えずに笑って、くだらない話をして、同じ空間で過ごして。
いつか舜太が結婚して、俺とは別の誰かと暮らすようになっても、こうして一緒に過ごした時間までなくなるわけじゃない。
……そんなこと、本当はわかっている。
わかっているのに。
どうして俺は、今あるものだけじゃ満足できないんだろう。
「柔?どしたん?」
「……え?」
「なんかぼーっとしとるけど。疲れた?」
目の前で舜太が首を傾げていた。
「ああ、いや。ちょっと考え事」
「仕事忙しいんやもんなぁ。無理せんときなー」
そう言って、舜太は俺の肩を軽く叩いた。
「俺、今日はちゃんと手伝うから!」
その優しさに、俺は笑って頷いた。
舜太は、何も知らない。
それでも俺を心配してくれる。
そんな舜太の優しさに甘えながら、俺は心の奥で、これから先のことを考えていた。
今日だけじゃない。
明日も。
その先も。
ずっと、こうして一緒にいられたらいいのに。
それからしばらく、俺たちはほかの試作品を着てもらって感想を聞いたり、ゲームをしたりして過ごした。
気がつけば、窓の外はすっかり夕暮れに染まっていた。
「え、もうこんな時間なん!?」
時計を見た舜太が、驚いたように声を上げる。
「ほんとだ。時間経つの早いね」
「な!ゲームしとると一瞬やわ」
舜太はコントローラーをテーブルに置いた。
「さすがにお腹減ったわ〜。そういや、今日の晩飯どうするん?」
「……俺が作るよ」
「え、ほんま?やった!」
「せっかく来てもらったしね。何か食べたいものある?」
「んー、柔の作るもんなら何でもええよ!」
また、それだ。
何でもいい。
俺の作るものなら、何でも。
そんなふうに、何の迷いもなく言ってくれる。
「……そっか。じゃあ、ちょっと待ってて」
キッチンへ向かいながら、俺はそっと息を吐いた。
夕飯を作る。
いつもと同じように、食材を用意して、料理をして、食卓に並べる。
ただ、それだけのこと。
なのに今日は、ひどく緊張していた。
この先のことを考えるたびに、頭の中で何度も警告が鳴る。
ーーやめろ。
今なら、まだ間に合う。
舜太は何も知らずに、ここにいる。
俺を信じて、笑ってくれている。
その信頼を裏切ることが、どれほど取り返しのつかないことなのか。
わかっているはずなのに。
「柔ー?なんか手伝うことある?」
リビングから声が飛んできた。
「大丈夫、座ってていいよ!」
「ほんまにー?」
「うん!」
返事をしてから、俺は目を閉じた。
……ごめん。
心の中で、何度目かわからない謝罪を繰り返す。
それでも、俺は決めたことをやめられなかった。
夕飯ができるころには、舜太は再びソファでゲームをしていた。
「できたよー」
「おっ、待っとった!」
舜太は嬉しそうに立ち上がり、テーブルへやってきた。
「うわ、うまそ!」
「大げさだなあ。冷めないうちに食べよ」
「いただきまーす!」
向かい合って座り、二人で夕飯を食べる。
舜太は一口食べるたびに「うまい!」と笑ってくれた。
「柔、これめっちゃ好きな味!」
「ほんと?よかった」
「え、これまた作ってや!今度来たときも食べたい!」
その言葉に、箸を持つ手が止まりそうになった。
今度。
舜太は、ごく自然にそう言った。
明日も、その先も、またここに来ることがあると疑いもしないような口ぶりで。
……そうだよ。
また来ればいい。
これからだって、何度でも。
そんな未来を思い描くことが、どうしてこんなにも嬉しいんだろう。
「……うん。いつでも作るよ」
俺が笑うと、舜太も嬉しそうに笑い返した。
食事を終えたあとも、俺たちはしばらくリビングで過ごした。
買ってきてくれたお菓子を開けて、ゲームの続きをして、くだらない話で笑って。
何も変わらない、いつもの二人。
ただ一つ違うのは、俺だけが、この夜の終わりに何が起こるのかを知っていることだった。
夜が深くなってくると、舜太はソファに座ったまま目をこすっていた。
「……んー、なんか眠いわ」
「もう遅いしね。今日は疲れた?」
「んー……そうかも」
そう答える舜太の声は、いつもより少しゆっくりだった。
さっきまで楽しそうにゲームをしていたのに、今は画面を見つめる目にも、眠たげな様子が浮かんでいる。
「無理しなくていいよ。眠かったら寝てもいいし」
「いや、まだ大丈夫……」
舜太は笑った。
けれど、その笑顔も長くは続かなかった。
少しして、舜太の手からコントローラーが滑り落ちた。
「あれ……?」
不思議そうに瞬きをする。
「なんか、急に……眠……」
言葉が途中で途切れた。
「……舜太?」
呼びかけても、返事はない。
舜太の頭がゆっくりと傾き、やがて身体から力が抜けていく。
俺は慌てて、その身体を支えた。
「舜太?ねえ、舜太」
肩に触れて呼びかける。
けれど、舜太は目を開けなかった。
さっきまで、あんなに元気だったのに。
笑って、話して、ゲームをして。
俺の隣にいてくれたのに。
「……っ」
喉の奥がひどく乾いた。
とうとう、やってしまった。
こんなに急に寝るってことは、きっとあの薬の効果が出てきたんだろう。
……もう、何も知らなかったころには戻れない。
目の前にいる舜太は、俺を信じていた。
その信頼を利用したのは、ほかでもない俺だ。
「……ごめん」
震える声で呟いた。
返事はない。
当然だ。舜太は眠っている。
俺の言葉なんて、何ひとつ届いていない。
それなのに、俺は何度も名前を呼んでしまった。
「舜太……」
いつものように返事をしてほしかった。
「んー? なに、柔」
そんなふうに、何でもないことみたいに笑ってほしかった。
けれど、返ってくるのは静けさだけだった。
俺は舜太を寝室へ連れていき、ベッドに横たえた。
起こさないようにと、ただそれだけを考えながら。
いつもなら、ふざけて騒いで、勝手にベッドへ転がり込んでくるようなやつなのに。
今は、俺が何をしても目を覚まさない。
その事実が、ひどく恐ろしかった。
見慣れた寝顔だった。
何度も見たことがある。一緒に遊んでいる途中で眠くなったときも、移動中にうとうとしていたときも。
でも、今夜は違う。
舜太は、自分の意思でここにいるわけじゃない。
俺がそうさせたのだ。
その事実を、どれだけ考えないようにしても、目の前の舜太を見れば思い知らされる。
それなのに。
ベッドのそばに座り、眠っている舜太を見つめていると、胸の奥に、言葉にできない感情が湧き上がってきた。
……少しだけ、嬉しいと思ってしまった。
今、舜太はここにいる。
俺の部屋で。
俺の手の届くところに。
誰かと出かけることも、俺の知らない場所で笑うこともなく、ただここにいる。
そんな考えが浮かんだ瞬間、自分自身がひどく気持ち悪くなった。
違う。
これは、俺が望んでいたものじゃない。
……本当に?
心の中で、自分に問いかける。
じゃあ、どうして。
どうして、ほんの少しだけ安心してしまったんだろう。
どうして、目の前の光景を見て、もっとこのままでいてほしいと思ってしまったんだろう。
俺は、答えを知っていた。
舜太を大切に思っている。
それは本当だ。
でも同時に、誰にも渡したくないとも思っている。
舜太が誰かのものになるくらいなら、少しでも長く、自分の手の届くところにいてほしい。
そんな醜い願いが、俺の中には確かにあった。
「……最低だな」
声に出すと、余計に惨めだった。
俺が本当に欲しかったのは、こんな形で手に入れた時間じゃない。
舜太が自分の意思でここに来て、俺と一緒にいたいと思ってくれることだった。
それなのに俺は、自分の不安を埋めるために、舜太の意思を無視した。
わかっている。
こんなの、友情なんかじゃない。
それでも、舜太のそばを離れられなかった。
俺は、眠っている舜太の手を見つめた。
今なら、まだやめられる。
そう思った。
今なら、なかったことにはできなくても、これ以上ひどいことをせずに済むかもしれない。
けれど、その先を想像した途端、胸が締めつけられた。
舜太が帰ってしまう。
俺を見て、もう二度と信用できないと思う。
今までみたいに笑ってくれなくなる。
俺の家に来ることも、隣に座ることも、名前を呼ぶことさえも、なくなってしまうかもしれない。
考えたくなかった。
そんな未来を受け入れるくらいなら。
……いや。
それは、違う。
受け入れたくないからといって、舜太をここに閉じ込めていい理由にはならない。
わかっている。
わかっているのに。
俺は、どうしても手を離す決心がつかなかった。
とうとう俺は、舜太が自由に帰れないようにしてしまった。
その事実を前にしても、心のどこかでは、これで明日も一緒にいられるのだと安堵していた。
その安堵こそが、何よりも恐ろしかった。
時計の針は、いつの間にか午前零時を回っていた。
俺はベッドのそばに座ったまま、何度も舜太の様子を確認していた。
だが、俺の体も疲れが限界に達してしまう。
俺はその場から離れられないまま、いつの間にか眠りに落ちていた。
どれくらい眠っていたんだろう。
ふと、物音が聞こえた気がして目が覚めた。
最初は、夢かと思った。
けれど、すぐそこで聞こえてくる金属が触れ合うような、硬い音。
……少し考えたところで、俺は一気に眠気が吹き飛んだ。
「……舜太?」
バッとベッドで眠っていたはずの舜太を確認すると、もう既に起きていた。
「……っ!」
舜太は俺の声に気づくと、びくりと肩を揺らした。
その手元から、再び金属音が鳴る。
俺が目を覚ましたあの音は、自分の手をどうにかしようと動かしていた舜太のものだった。
舜太も目を覚ましたばかりなのか、表情には戸惑いが浮かんでいる。
それでも、俺が目を覚ましてことに気付くと、怯えるように体を縮める。
「……柔?」
聞き慣れた声。
けれど、いつもとは違う。
困惑と、警戒と、ほんの少しの怯え。
そのすべてが混ざった声だった。
「……舜太、起きたの?」
自分でも驚くほど、間の抜けた言葉が出た。
そんなこと、見ればわかるのに。
舜太は答えず、ベッドに繋がれた両腕を見上げた。
それから、ゆっくりと俺へ視線を戻す。
「……なあ、柔」
「……うん」
「これ、何?」
静かな声だった。
怒鳴られたわけでもない。
責められたわけでもない。
ただ、わからないことを尋ねているだけ。
それなのに、俺は何も答えられなかった。
舜太は俺を見つめたまま、もう一度口を開いた。
「……俺、なんでこんなことになっとるん?」
その瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
なんて答えればいい?
仕事を手伝ってほしかったから?
帰ってほしくなかったから?
ずっと一緒にいたかったから?
どれも本当で、どれも言い訳だった。
俺は、ただ――舜太を失うのが怖かった。
だから、舜太の気持ちを無視した。
舜太がどう思うかも、どう感じるかも、考えないふりをした。
自分が安心するためだけに。
「……柔?」
もう一度呼ばれて、俺はようやく顔を上げた。
舜太は、さっきよりも少しだけ距離を取るように、身体を後ろへ引いていた。
その小さな動きが、何よりも痛かった。
いつもなら、こんなことしない。
俺の隣に座って、肩が触れるくらい近くにいて。
何も気にせず笑ってくれるのに。
今は、違う。
俺が近づくことを、怖がっている。
俺は、舜太を独り占めできたわけじゃない。
ただ、舜太から自由を奪っただけなんだ。
「……ごめん」
やっとのことで、それだけを口にした。
舜太の表情が、わずかに揺れる。
「……ごめんって、何?」
その声は震えていた。
「何が起きたん?俺、全然わからんのやけど……」
当然だ。
舜太は何も知らない。
知らないまま眠って、目を覚ましたら、こんなことになっていた。
怖いに決まっている。
混乱するに決まっている。
それなのに俺は、まだ、どうすればいいのかわからなかった。
手を伸ばせば、舜太に触れられる距離にいる。
けれど、今はもう、その距離さえ遠く感じた。
「……柔」
舜太が、俺の名前を呼ぶ。
「……なんで、こんなことするん?」
その問いに、俺は答えられなかった。
答えなければいけない。
もう、嘘をついてはいけない。
それでも、口を開くのが怖かった。
だって、言葉にしてしまったら。
自分がどれほど取り返しのつかないことをしたのか、認めなければならないから。
部屋の中に、重たい沈黙が落ちた。
ずっと怖かったのは、舜太が俺のもとからいなくなることだと思っていた。
でも、本当は。
舜太が俺を信じてくれていた、その事実まで、自分の手で壊してしまうことが。
何よりも、怖かったんだ。
「……怖かったんだ。」
ようやく、それだけを口にした。
舜太は、何も言わなかった。
その沈黙に耐えきれず、俺は続ける。
「舜太が帰っちゃうのが、怖かった。結婚して、俺の知らないところで暮らして……いつか、俺のことなんてどうでもよくなっちゃう気がして」
「……俺、ずっと舜太のことが好きだったんだよ。学生の頃から、ずっと。」
「でも、舜太は俺のことなんてただの親友としか思ってくれなかったでしょ。……俺は、こんなに好きなのにさ。」
言いながら、自分でもわかっていた。
こんなことを言ったところで、言い訳にしかならない。
「……だからって、こんなことしていいわけないのはわかってる。舜太が怖いって思うのも、当然だと思う」
舜太は俺を見ていた。
さっきまでの戸惑いは、少しずつ別の感情に変わっていた。
信じられない、という顔。
どうして、という顔。
そして、俺が今まで一度も向けられたことのない顔。
「……そうやったん。」
「……うん」
「俺、確かにじゅうのことは……親友やと思っとった」
「……うん」
「……なぁ、でも、なんで、それじゃあかんの……?」
舜太の声が、かすかに震えた。
俺は、何も言えなかった。
謝れば許されるなんて思っていない。
理由を説明すればわかってもらえるとも思っていない。
それでも、舜太が俺を見ている。
今までみたいに、何の疑いもなく俺を見てくれていた目で。
その目に、もう俺への信頼は残っていないのかもしれない。
そう思うと、息ができなくなりそうだった。
「……帰りたい」
「お願い、帰らせてや。」
舜太が言った。
短い言葉だった。
けれど、俺には、その言葉の意味が痛いほどわかった。
ここから出たい。
俺のそばにいたくない。
俺から離れたい。
当然だ。
当然なのに。
「……嫌だ」
気づいたときには、声が出ていた。
舜太が目を見開く。
俺だって、自分の言葉に驚いていた。
「……柔?」
「ごめん」
謝る。
でも、それだけだった。
俺は、舜太が怖がっていることに気づいた。
俺がしたことが、どれほどひどいことなのかもわかった。
舜太が帰りたいと思うのは当然で、俺がそれを止める権利なんてない。
そんなこと、全部わかっている。
それでも。
「……ごめん。でも、今は……帰せない。いや、帰したくない。」
舜太の顔から、表情が消えた。
俺はその顔を見て、胸の奥がひどく痛んだ。
怖がらせたくなかった。
こんな顔をさせたかったわけじゃなかった。
いつもみたいに笑ってほしかった。
俺の名前を呼んで、隣に座って、何でもない話をしてほしかった。
なのに、俺がしたことは、その全部を壊すことだった。
わかっている。
それでも、手放せなかった。
舜太が俺を嫌いになっても。
もう二度と、以前のようには笑ってくれなくても。
今ここで帰してしまったら、二度と戻ってこない気がした。
そんな恐怖に、俺は勝てなかった。
「……なぁおれは、おれはどうしたらええん……?」
舜太の声は、小さくて、今にも泣いてしまいそうだった。
その言葉に、俺は答えられなかった。
どうしたらいいのか。
本当なら、答えはわかっている。
舜太を自由にして、謝って、二度とこんなことをしないと、もう舜太には近付かないと決めるべきだ。
でも、俺はそれを選べなかった。
「……ごめん、舜太」
また謝る。
「……俺、舜太がいなくなるのが怖いんだ。」
それは、嘘じゃなかった。
舜太が大切だった。
失いたくなかった。
誰よりも近くにいてほしかった。
でも、その気持ちが本物だからといって、何をしてもいいわけじゃない。
そんなこと、わかっている。
わかっているのに。
俺は、舜太を手放せなかった。
舜太はもう、俺の方を見ていなかった。
ただ、どうすればここから出られるのかを考えるように、静かに視線を落としていた。
その姿を見て、俺はようやく理解した。
俺が手に入れたかったのは、こんな時間じゃなかった。
舜太が自分の意思で俺のそばにいてくれること。
俺と一緒にいたいと、笑って言ってくれること。
それが欲しかったはずなのに。
今、俺のそばにいる舜太は、俺から離れたいと思っている。
その事実が、何よりも苦しかった。
それでも。
俺は、その場から動かなかった。
怖かった。
舜太を失うことも。
舜太に嫌われることも。
自分が取り返しのつかないことをしたのだと、認めることも。
全部、怖かった。
それでも俺は、舜太を帰すことができなかった。
「……ごめんね」
もう何度目かわからない謝罪を口にする。
舜太は、何も答えなかった。
その沈黙を受け止めることもできないまま、俺はただ、そこに立ち尽くしていた。
舜太が怖がっていることに、気づいてしまった。
俺が壊したものが何なのかも、わかってしまった。
それでも、手放すことだけはできなかった。
……最低だ。
自分でも、そう思う。
それでも。
俺は、もう決めてしまったのだ。
舜太を失うくらいなら、嫌われてもいい。
そう言い切れるほど強くはないくせに。
嫌われることも、怖くて仕方がないくせに。
それでも俺は、舜太をここに留めることを選んだ。
このままにしておけば、いつか、舜太が俺のそばにいることを望んでくれる日が来るかもしれない。
そんな希望にすがりながら。
俺は、舜太を手放さないまま、静かな部屋に立ち尽くしていた。
コメント
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わあ……すごく重くて、胸がぎゅっとなるお話でしたね。柔くんの「舜太がいなくなるのが怖い」っていう気持ちが痛いくらい伝わってきて、読んでて息が苦しくなりました。理性ではダメだとわかってるのに、手を離せない。その苦しさの描写が本当に丁寧で……。でも最後に舜太くんが「どうしたらええん…?」って震える声を出すところ、読んでて切なくなりました。続きが気になります😢