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◇ ◇
「ただいま」
翔が玄関を開けるなり、パタパタと廊下を急ぎ足で来た母親が、愛理のもとへ歩みよる。
「愛理さん、淳が……。本当にごめんなさい。親としてなんてお詫びをすればいいのか」
と、翔からの電話で、あらかじめ事情を聴いていた母親に深々と頭を下げられた。
「あの、ケガもたいしたことなかったので……」
愛理はどうしていいのか困惑して、翔へ助けを求めるように視線を送った。
「母さん、玄関でいきなりそんなこと言われて、愛理さんだって困っているよ。ちょっと、落ちつこうよ」
「それで、淳は?」
母親は不安気な表情で翔へと問いかける。そんな母親へ、困り顔を向けながら翔は口を開く。
「入院させた。右手と肋骨が折れていたから、熱が出るかもって、パジャマとかタオルとかは、病院のレンタルだし、コンビニで下着や小物は買って置いてきたから心配いらないよ。内臓は傷ついていないから2.3日で退院できる」
母親は、はぁーっ、と息を吐き出した。
「事情を聴く限りは、淳に非があるからなんとも言えないけど、派手にやったわね」
「話し合いの日を決めて帰ろうとしたところで、急に襲って来たんだ。愛理さんにケガさせて、手加減なんて出来ないよ」
「淳もこれに懲りて、少しは反省してくれるといいんだけど……」
玄関での話しが長くなりそうな気配に翔は話しを切り替える。
「とにかく、なにか食べさせて、夕飯も食べていないんだから」
「あっ、ごめんなさいね。愛理さんもお腹すいたでしょう。片手でも食べれるようにおにぎりを用意したの」
「すみません。ありがとうございます。お世話になります」
ケガをして体調を崩すかもしれない、ホテルにひとりにさせるのは心配だと、翔の提案で中村の家へ来た愛理だった。けれど、離婚予定の夫の実家でもあって、なんとなく身の置き所がない。
その様子を察してか、翔が椅子を引き、「どうぞ」と着席を促した。愛理は、おずおずと椅子に座る。
ダイニングテーブルの上には、お皿に並べられたおにぎりや、お新香などが用意されていた。
「翔、お手拭きあるから、愛理さんの手を拭いてあげて」
と、お汁が入ったお椀をテーブルに置きながら、母親の声が聞えた。翔は言われるままに、かいがいしく愛理の手を拭き始める。
「じ、自分で……」
恥ずかしさも手伝って、愛理は自分でやろうとしたけれど、翔はそれを譲らない。
「ダメだよ。無理して傷口が開くと大変だよ。5針も縫ったんだから」
「ケガは、自分のせいだよ。よく考えたら、翔くんの運動神経なら避けられていたかも知れないのに、私が手を出したから……」
「でも、避けられなかったかもしれない。愛理さんにまた、助けてもらったんだよ」
淳から守ってくれようとして、翔は危ない目に遭っているのに、感謝されるのは申し訳なくなってしまい、愛理は首を横に振った。
母親の声が、ふたりの間に割り込んで来る。
「淳のしたことは、ケガのことも不倫のことも含めて、本当にごめんなさい。親として出来る限り償わせてもらいたいの。それに愛理さんをお嫁さんってだけでなく、実の娘のように思っていたのよ。お願いだから力にならせて」
悲しそうに顔を歪める母親に、愛理はかける言葉が見つけられず、ケガの無い方の手をそっと添えた。
その手の温かさにホッとしたのか、母親はポツリとつぶやいた。
「ナイフまで持ち出してケガをさせるなんて、思春期ならいざ知らず、30も手前になった子供のことでこんなに悩むとは思わなかったわ。何がいけなかったのかとか、どこで間違えちゃったとか、いろいろ考えちゃって……」
人生の先輩であるお義母さんでさえ、立ち止まっては振り返り、自分と同じような悩みを抱えている。愛理はそう思うと、普段は口に出来ないことを素直に打ち明けられるような気がした。
「私も、同じようなことを思っていました。私と結婚したから淳があんな風に変わってしまったような気がして、ふたりの生活を良くしようと頑張ってきたはずなのに、何がいけなかったのか、どこで間違えてしまったのか、ずっと考えてしまって、でも、答えなんて出なくて……」
「自分の子供といえども、自分とは考え方も行動も違うのよね。親が子供のためを思って言った言葉も、子供が受け取らなければ届かなくて……切ないわ。夫婦も同じように、相手のためを思って、いろいろと行動しても、結局は、受け取る側が気持ちを傾けてくれなければ、ダメだと思うの。淳は周りの思いを受け取ろうとしなかったんだわ」
愛理は、母親の言葉にうなずいた。
「兄キは、恵まれていたんだ。自分の欲しい物を苦労をしなくても手に入れてしまって、苦労していない分だけ、大事にしなかった。欲しくて渇望して、やっと手に入れたものなら、それだけ、大事にするだろう? 社会的地位や人も羨む家庭がどんなに有難いのか、その価値がわからなかった。失くしそうになって、はじめて価値に気づいて暴走して、警察に突き出されても文句が言えないことをしたんだ」
それを聞いて母親は視線を落とし、ギュッと手を握りながら後悔を口にした。
「わたしが甘やかしたのがいけないんだわ。せめて、淳が大学出て直ぐに入社させないで、翔みたいに外の会社で社会経験を積ませれば良かった」
「いまさらだろ。それよりも、これから本人がどうするかだよ」
「そうね……」
と、言って遠くを見つめた母親に翔が問いかける。
「父さんは?」
「急遽、用事が出来て九州の実家へ行ってる。明日の夜には帰ってくるはずよ」
「じゃあ、今日の話しはメールしておくから」
食事を終えた愛理には和室の客間が用意され、その客間には、布団が敷かれている。気がつけば、夜もだいぶ深い時間になっていた。
布団に入ると、どっと疲れが押し寄せ、 ケガをした左腕が心臓の脈動に合わせて、ズキンズキンと痛む。
病院で縫合の際の麻酔が切れたのだ。食後に飲んだ痛み止めや抗生剤が、早く効いてくれるのを願うしかできなかった。
痛みのせいで、寝ているのか起きているのかわからない朦朧とした意識の中、柔らかい手が額に触れたような気がして、愛理は、薄っすら目を開ける。すると小さな声が聞こえた。
「ごめんなさい、起こしちゃったかしら? 熱が出てきたみたいなの。辛いわよね。冷たいけど我慢してね」
頭が持ち上げられ、首の後ろがひんやりする。氷枕をあててくれたのだ。
「……ありがとうございます」
「いいのよ。遠慮しないでね。具合の悪いときぐらいは、いっぱい我がままを言って、甘えてちょうだい。その方が、きっと早く治るわ」
優しい声の心地よさにホッとして、目を閉じた。
翔の声も聞こえてくる。
「母さん、愛理さんの具合どう?」
「熱が出ているみたいなの。いま、氷枕をあてたから、少し様子見ましょう」
愛理は、淳に刺された傷の痛みを感じながら、自分の行いが、正しいのか間違っているのか、ぼんやりと考えた。
今回のことを傷害事件として、警察に通報するのが、正解だったのかもしれない。でも、この優しい人たちの生活を壊してしまうのが、良い選択とは思えなかった。
もしも、警察に通報していたら、こうして穏やかな時間を過ごせずに、みんなが明日の暮らしに不安を抱えていただろう。そんなことになったら後悔していた気がした。
障子越しに柔らかい光が差し、部屋の中が仄かに明るくなり始めた。
モゾリと動いた布団から顔を覗かせた愛理は、壁掛け時計を見上げた。針は午前6時半を指している。
昨日、病院から上司へ仕事を休ませてもらう連絡を入れておいたのに、習慣でいつもの時間通りに目が覚めてしまったのだ。
あまり早く起きては、迷惑になりそうな気がして、もう一度寝ようかと体を反転させた。氷枕に耳をつけると、水の中を空気が通る音がポコポコと伝わる。
かいがいしく看病してくれたおかげで、熱も下がっている。氷枕をあててくれたときの優しい手を思い出し、ホワリと温かい気持ちになった。
目を閉じて、うつらうつらしていると、壁の向こうから、コトコトと生活音が聞こえてくる。
昨日の晩、遅くまで看病をしてくれていたのに、こんな早い時間に起きているなんて……もしかしたら、眠れなかったのかも知れない。
そう思った愛理は、布団から起き上がり、台所へ向かった。
「お義母さん、おはようございます」
調理台に向かって、朝食の支度をしている背中に声をかける。
「おはよう、具合はどう? もっと、ゆっくり寝ていて良かったのよ」
と振り返ったお義母さんの瞳が赤くなっているのを見て愛理は心を痛めた。
「いつもこの時間に起きているので、目が覚めてしまったんです。昨夜はありがとうございました。おかげさまで熱もすっかり下がったんですよ」
「安心したわ。あの、もし、良ければ愛理さんに折り入って話しがあるの。聞いてもらえるかしら?」
改めて話しがあると言われ、ダイニングテーブルの席に着いた愛理は、緊張して口を引き結ぶ。そして、お義母さんの相談事は予想を裏切らない内容だった。
「あの……。愛理さんは淳と離婚したいと思っているよね」
愛理は、静かにうなずいた。
「それで、お願いと言うのは、愛理さんの弁護士さんと連絡を取らせてもらいたいの。日程を調整して、淳を交えて、お話しをさせてもらえたらと思って……。勝手を言って悪いけれど、できれば……話し合いの場所は、この家でもいいかしら?」
早々に弁護士を交えて、話し合いの場を設けてもらえるのは、有難い申し出だ。
でも、淳の両親とも一緒というのは、場合よっては、アウエーな状態になって、話しがこじれるかもしれない、と覚悟をした。
「よろしくお願いします」
愛理は深く頭を下げた。
「ありがとう。愛理さん」
ホッと息をついたタイミングで、翔が入って来た。
口元に手をあて、ふゎぁっと、まだ眠そうに大きなあくびをしている。
「おはよう、ふたりとも早いね。愛理さん、具合はどう?」
「心配かけてごめんね。熱も下がって、だいぶ楽になったの」
「今日は、病院へ消毒に行かないと、オレも有給を取ったから一緒に行くよ。昨日、置いてきた車を取りに行きたいし……」
と翔は、頭の中で今日の予定を組んでいた。そして思いつたようにパッと目を見開く。
「愛理さん、マンションに置いてある残りの荷物運び出せるよ」
マンションの玄関ドアを開けると、置きっぱなしになっているゴミ袋が行く手の邪魔をする。
久しぶりに帰った我が家は、空気までも薄汚れているように感じられた。
翔はゴミ袋を軽く蹴飛ばしながら、ため息をつく。
「兄キは、ゴミも捨てられないのかよ」
淳と気まずくなるのがいやで、手伝ってもらうことをあきらめた結果が、今につながっているようで、愛理からは後悔が口をつく。
「私が、あまり言わなかったから……。何もしなくなっちゃったみたい」
眉尻を下げた翔は、気持ちを切り替えようと明るい声を出す。
「大人なんだから、普通ゴミぐらい自分で捨てられるでしょ。換気、換気」
物が散乱しているリビングの窓を開け放つ。初冬のキンと冷えた空気が流れ込み、薄汚れた空気が洗われていくようだ。
「さあ、やろうか。何からすればいい? 愛理さんの指示で動くよ」
淳は入院中だ。肋骨と腕の骨折なんて、ギブスを付け自宅療養で十分なのに、翔の知り合いのお医者さんに頼み預かってもらっている。ここには、絶対に現れない。
どうしても、早々に片付けたい物があった愛理にとって、千載一遇のチャンスだった。
でも、翔にそれを頼むのをためらってしまう。緊張を隠すようにゆっくりと話しだした。
「実は、片付けたいものがあるんだけど、翔くんに嫌われるかも……」
愛理の言葉に、翔は驚いたように目を丸くする。
「オレが愛理さんを嫌うようなものって⁉」
「私の真っ黒な部分に、きっとドン引きになるよ」
そう言って、愛理は肩をすくめてみせた。
リビングの隅に置かれているバンブーで編み込まれたフロアスタンドの前に立ち、その中へケガの無い右手を入れ、麻紐で巻かれた小さな機械を取り出し、翔に見せる。
「えっ⁉ これって、もしかして……」
「そう、カメラを隠して、淳の不倫の証拠を集めていたの」
翔の視線が、小さな機械に注がれる。
「前に愛理さんが話してくれた見守りカメラってコレ?」
「……私、カメラを仕掛けた話しをした?」
「飛行機を降りて、買い物した後のタイミングで、兄キが不倫している話しのときに聞いたけど……」
と翔は意外そうな顔をしている。
あの日、福岡空港から羽田空港へ降り立った後、あまりにも色々なことが起こり、おおすじの記憶はある愛理だったが、細部まで覚えていなかったのだ。
「はぁー。話していましたか」
「はい、話していました」
愛理の言葉を反芻するように翔がおどけて返した。
それに反応して、フッと愛理の口元が緩み、緊張が解ける。
「翔くんに引かれるかと、覚悟を決めて言ったのに……」
「それぐらいのことじゃ、引いたりしないよ」
「だって、普通に考えて、部屋に隠しカメラとか、自分がやられていたら引くでしょう」
「愛理さんが普段そんなことをしない人だって知っているし、そうまでしなければならない理由を作ったのは、兄キだよ」
そう、家庭をかえりみず、友人の美穂と不倫をして、ましてや妻の留守中に自宅に招くようなマネをしたのは淳だった。
「実は、もう一台設置してあるんだけど、高いところに付けたから、外してもらいたいの」
「いいよ。どこ?」
と、寝室のカーテンBOXの上に設置した見守りカメラを翔に外してもらう。その広い背中を見つめ、愛理の気持ちは複雑に揺れていた。
なんだかんだと、翔に頼り切ってしまっている。今だって、翔に軽蔑されるかもしれないと思い、見守りカメラのことを言い出すのをためらってしまったのは、失うことを恐れているからだ。
離婚する夫の弟。
それを思うと、ほのかに色づき始めた気持ちを、胸の奥底へ仕舞い込みたくなる。
「あと、持って行くものある?」
見守りカメラも無事に回収した。そして、荷物に取り掛かる。
バッグや靴など、いざクローゼットから出してみると意外なほどかさばった。荷物の多さにうんざりし始めていたとき、隅に置かれたアルバムを見つけた。
実家から持ってきた物まである。荷物になるからと言って、それをここに置いておくわけにもいかない。
「ごめん。翔くん、これも持って行っていい?」
「なに? もしかして、愛理さんのアルバム⁉ 見ていい?」
返事をする間もなく、翔は好奇心旺盛な瞳でアルバムをめくった。それを見て愛理は慌てふためく。
「だめっ⁉ 恥ずかしいから見ないで」
アルバムなんて、ご多分に漏れず黒歴史の集約だ。そんなものをとてもじゃないけど、見せられない。
愛理は、取り返そうと右手をのばすも、180センチを超える高身長の翔が、それを高く掲げページをめくった。
「わー、愛理さんのJK時代、可愛いい」
「ちょ、ちょっと、だめだって言ってる!!」
取り返そう必死な愛理の手の届かないさらに高みへ、翔はアルバムを持ち上げる。
「この写真も可愛い、文化祭かな?」
「もう!」
愛理は、右手を思いっきり伸ばし、意地になって、つま先立ちでどうにかアルバムを取り戻そうと、ぴょんぴょんと跳ねた。
そのムリな姿勢がたたり、ぐらりと重心がゆらぐ。
「きゃっ!」
ギュッと目を瞑り、次に来るはずの床に激突する痛みを覚悟する。
けれど、痛みなど感じるはずもなく、翔の大きな手に背中を支えられ、胸に抱き留められていた。
窓を開け放っている部屋の片隅で、抱き留められた愛理の鼻先に、翔が付けている香水の爽やかな香りがする。
そして、耳元で声が聞こえた。
「ごめん、やり過ぎた。愛理さんケガしているのに、ごめん」
耳に吐息がかかり、間近にある広い胸板の厚みを感じて、愛理の心臓はドキドキと早く動きだす。
「ううん、ありがとう。私も恥ずかしいからって、ムキになって大人気ないね」
と言って、離れようとしたけれど、その腕はほどけない。
抱き留めている手にギュッと力がこもり、翔の心臓もドクドクと脈動しているのがわかった。
「愛理さん……」
耳に翔の切ない声が届く。
けれど、突き放すことも抱きしめることも出来ずに、ただ翔の温かな腕に包まれている。彼の優しさを享受するばかりで、なにも返していない。愛理は、そんな自分をズルいと思った。
翔から離れるのが怖いくせに、その手を掴み飛び込む勇気を持てずにいる。
「翔くん……」
そう呟いて身じろぐと、翔がハッとして腕が解かれる。
「ごめん。何もしないって、言っていたのに……」
「ううん、転びそうなところを助けてくれたんだよね」
こんなことを言って、逃げ場を作るのも、愛理は自分が、ズルいような気がしていた。
愛理がそんなことを思っているとは知らない翔は、眉尻を下げ、バツが悪そうに言う。
「アルバムって、他の人に見られると困る写真もあるのに、調子に乗ってホント、ごめん」
”アルバムって、他の人に見られると困る写真もある”
翔の言った言葉が、愛理の心の中にストンと落ちた。
愛理は、驚いたように目を大きく見開き、独り言のように言う。
「……そうだよね。他の人に見られると困る写真もあるよね」
「ごめん」
「ううん。翔くん、ありがとう」
そう言って、愛理は子どものように無邪気な笑顔を浮かべる。
「愛理さん?」
普段、見たことがない愛理の表情を 翔は不思議に思った。だが、気がつけば、愛理は片手で、テキパキと荷物をまとめ出していた。
「トランクルームも借りないといけないよね。ざっと調べたら、敷金、礼金、カギ代とか結構かかるし、2か月とか3か月借りないといけなかったりするんだよね。そろそろ本格的に部屋を探そうかな?」
ホテル暮らしも味気無く、ちょっとしたことが不便だ。何せ収納が無いのが辛い。
荷物の行き場を考えて、うんざりした愛理は頬に手をあて、真剣に悩み出した。
「トランクルームも面倒だろうから、荷物はオレのマンションで預かるし、部屋探しも手伝うよ」
「ありがとう、助かる。なるべく早く部屋を探すね」
愛理は、まとめた荷物を見て、大きく息をはき出した後、翔へ顔を向ける。
「翔くん、もし、この後時間があったら、見守りカメラに残っている映像の確認、一緒にしてもらってもいいかな? ひとりで見るのは、ちょっと、キツイから……変なことお願いしてごめんね」
「証拠になった映像は、弁護士さんへ預けてあるんだけど、あの日の続きがあるはずなんだ。本体のSDカードに残っていると思うの」
あの日、愛理はショックで映像のすべては見ていなかった。不倫の証拠として弁護士へ提出したものは、クラウドの録画機能で収めたものをダウンロードしたものだ。
「時間はあるからいいけど、愛理さん大丈夫?」
「もう淳に未練はないから大丈夫だと思うけど、いやな気分になったのを思い出しそうで……。それに、この部屋では見たくないの」
結婚したときから、使っていたお気に入りの家具。ベッドやソファーは厳選してそろえたものだ。その大切な空間を踏みにじるように情事に|耽《ふけ》っていた淳と美穂。その時の映像をココで見るのは辛すぎる。
「じゃ、荷物を運びがてら、オレの部屋で見ようか」
「変なお願いしてごめんね。翔くんだって、見たくない映像だよね」
「いいよ。兄キの不倫の証拠。どんなものか、ちょっと気になっていたんだ」
「離婚の証拠としては、弁護士さんのお墨付きがあるぐらいの内容だから、覚悟した方がいいよ」
ため息まじりの愛理の言葉に翔は眉根を寄せ険しい表情になる。
「覚悟か、たしかに必要だ」
身内の情事なんて、見ていて気持ちの良いものではない。気持ちを強く持たなければ見れないだろう。
◇ ◇ ◇
「4倍速でいいか?」
「うん」
翔の部屋で、ふたりは言葉少なに映像を追いかけた。淳と美穂の情事にうんざりした頃、パソコンの画面に映し出されている映像は、やっと朝を迎え、服を着た淳と美穂がリビングのソファーに座り、コーヒーを飲み始めた様子だ。
「あっ! 何か話しを始めた。倍速を元に戻すよ」
内容は聞き取れるスピードに調整される。
映像の中の淳と美穂の会話が聞こえてきた。
『は? もう、会わないとか。冗談だろ⁉』
『本気よ。私、結婚が決まったの。だ・か・ら・遊びはお終い。お互い楽しんだんだから、良い思い出にしましょう。それに、愛理にも悪いし』
そう言って、美穂はふくみ笑いを浮かべる。そんな美穂を見て淳は、呆れ顔で言う。
『悪いと思っていたら、オレを誘うなよ』
『その誘いに乗ったアナタも同罪でしょう?』
『据え膳食わぬは男の恥だろ? 本当は、悪いとか思っていないクセに、何言っているんだ?』
『あら、ちょっとは悪いと思ったわよ。でも、抑えられない好奇心ってあるじゃない? それに、人のモノって良く見えたりするでしょう?』
『悪い女だな』
淳が吐き出した言葉を聞いて、美穂は艶のある唇の端を上げ、鮮やかに微笑んだ。
翔は横にいる愛理の様子を窺うと、血の気を失った青い顔をして口を引き結び、画面を見つめていた。映像を一時停止をして話しかける。
「愛理さん。もう止める?」
「ううん、大丈夫……。後、少しだと思うから最後まで見なくちゃ」
愛理は、自分に言い聞かせるように強くうなづく。
「じゃ続けるよ」
と、翔は続きの映像を再生した。
パソコンの画面の中では、淳が美穂へ問いかけている。
『じゃ、俺のこと、どう思っていたんだ?』
『うーん、絶妙なスリルは楽しかったわ。それだけかな? これからの暮らしを引き換えにしてまで、関係を続けていこうとは思えないの。ごめんなさいね』
その言葉を聞いて、不快な気持ちを隠そうとしない淳は顔を歪めた。
『なんだよ。ずいぶん評価が低いな』
『ふふっ、あなたには、良くも悪くもマジメな愛理がお似合いよ。この部屋だって綺麗にしてくれているんでしょう。センス良く整えられているもの』
『ああ、妻としては、マジメでいいけれど、お前とスルときみたいに|愉《たの》しめないんだよ』
『|あのコ《愛理》とのSEXが|愉《たの》しめないとか言っていないで、好きなように仕込んであげたら?』
『はっ、余計なお世話だよ』
『妻は清く正しくがいいのね。でもあのコ、M気がありそうじゃない? 調教しちゃえば?』
そう言って、美穂はフフフと笑う。
それにつられたように淳も口角をあげた。
『まあ、お気楽なSEXが|愉《たの》しみたいなら、今度から佐久良を誘えばいいのよ。愉しませてくれるわよ』
『冗談キツイな。あの女じゃ、すぐに浮気がばれて、THE END だ。両親のお気に入りの愛理と離婚にでもなったら、会社のイメージダウンにつながると評価されて、会社を継ぐのが難しくなるんだ』
『じゃあ、浮気はしないでお利口さんにした方がいいわね。これからは愛理と仲良くして愉しめば?』
と美穂は含みを持たせたような笑顔を淳へと向ける。
『お前に言われたくないな』
顔をゆがませる淳へ、美穂はどこ吹く風で朗らかに手を振りながら言う。
『もう帰るから私の連絡先消してね。楽しかったわ。では、愛理とお幸せに!』
綺麗にネイルさせた指先をひらひらさせながら美穂は、画面からフェードアウトする。
淳は暫くスマホを操作して、ソファーから立ち上がり、廊下の方へと消えて行った。
プツンと画面が暗くなる。
すると、膝の上で手をギュッと握った愛理は、堰を切ったように話し出した。
「私、淳と美穂……ふたりから蔑まれていたんだね。長い間、ぜんぜん気が付かなったなんて、バカみたい」
瞳がゆらゆらと揺れ、大粒の涙がポタポタと落ちる。
翔はやりきれない憤りを抑え、愛理を胸に抱き寄せた。
「愛理さん、あのふたりの感覚がおかしいんだ。あんな奴らのために傷つくことないよ。普通じゃない」
「翔くん……私……淳も美穂も許せない。なんで……ひどいよ……」
「許さなくていい。愛理さんはもっと怒っていいんだ」
小さな肩を震わせ涙を流しながら、言葉を吐き出す愛理の姿に、翔は心を軋ませた。
「私……もう……やだ」
淳と美穂に裏切られていただけではなく、あざ笑われていたショックで、言葉にならない悔しさが、涙となって愛理からこぼれ落ちていく。
「やっぱり、兄キを警察に突き出してやろう」
翔の声が聞こえ、愛理はハッとして顔を上げる。
「それは、ダメだよ。警察に届けても刑事罰があるとは限らないんだよ。過剰防衛で逆に翔くんも訴えられるかもしれないし。それに、会社に与えるダメージを考えたら、届けを出して損をすることの方が多いんだから」
警察に届け、逮捕されたからと言って、終わりではない。
逮捕の後、道筋としては起訴をされ、裁判にかけられるはずだが、傷害罪で起訴をされるのは、全体の30.2%。実に3件に1件しか裁判に持ち込まれないのだ。
「くそっ、もっと蹴飛ばして、バキバキにしてやれば良かった」
真顔でそんなことを言う翔に愛理は驚き目を見開く。
「気持ちは嬉しいけど、翔くんが警察に連れて行かれるようなことになって欲しくないの」
「……愛理さん」
「今朝、お義母さんが、弁護士さんも交えて場を設けてくれるって言っていたの。そのとき、できれば、翔くんも一緒に居てくれる?」
「もちろんだよ」
◇◇◇
「ただいま」
「お帰り。あら? 愛理さんは?」
実家の玄関ドアを開けた、翔の気配に気づいた母親が台所から顔を出す。
「疲れていたみたいだったから、オレのマンションに泊まってもらった」
前日からの寝不足のうえ、見守りカメラに残されていた映像の衝撃で、疲弊した愛理はそのまま翔のマンションに泊まることにしたのだ。
「愛理さんの体調は、大丈夫なの?」
「心配だけど、本人が平気だって言うし、オレが泊まり込むわけにはいかないだろ?」
「そうよ。今はまだ、愛理さんは淳のお嫁さんなのよ。間違いは起こさないでね」
わかり切ったことをあえて言うのは、釘を刺しているということだ。
翔は、母親の言葉を苛立たしく思った。
「……だから、こうして帰って来てるだろ?」
「わかっているならいいのよ」
と母親は眉尻を下げ、不安気に翔を見つめた。
淳の不倫を知った日から、愛理を自分のマンションに置き、翔は実家に身を寄せている。
その事情を両親には説明してある翔だったが、誰の目から見ても愛理に対する思慕はあきらかだった。
「父さんは?」
「リビングにいるわ」
「少し話があるんだ」
翔はリビングへ足を踏み入れた。
「父さん、今、話しをしても平気?」
翔の声で仕事用のタブレット端末から父親が顔を上げる。
「ああ、翔か。留守にして悪かった。大変だったな」
父親のはす向かいの位置にあるソファーに腰を下ろした。翔は手のひらを見つめ、昨日、起きたことを思い出すように話しを始める。
「兄キ、オレのことを刺そうとするなんて、タガが外れているよ。メールでも知らせたけど、愛理さんが庇ってくれて、腕を5針も縫うケガをしたんだ」
父親は眉根を寄せ、苦悩の表情を浮かべた。
「それで、愛理さんの容体はどうなんだ?」
「傷痕は残るけど深くなかったから抜糸が済めば、普通に使えるようになるって。でも、昨晩は発熱したんだ。今日は、兄キのところから荷物を引き上げて、疲れた様子だったから、オレのマンションに泊まってもらった」
「そうか、傷が残るのか……。それで、淳のことは何か言っていたか?」
「兄キ、愛理さんの友だちをマンションに連れ込んでいたんだ。その友だちと愛理さんのことを好き勝手言って……。愛理さんは酷くショックを受けていた。仕事帰りの待ち伏せで、ケガもさせられたし、普通なら傷害で、警察沙汰にしてもおかしくないんだ。それなのにウチの会社の心配をして、兄キのことは通報しないって……」
そう言って、翔は悔し気に唇を噛んだ。
父親は深く息を吐き出す。
「良いお嫁さんをもらって、安泰だと思っていたのに……。不倫をした挙句、刃物まで持ち出すなんて常軌を逸している。この先の処遇も考えないといけないな」
「そうだよ。兄キは、自分のことしか考えていないんだ。家庭のことも、会社のことも、力づくでどうにかなるとか、浅はかな考えで動いて……自分勝手にもほどがある」
高ぶる気持ちを抑えるように、息を吐き出した翔は、ギュッと手のひらを握りしめた。
「オレも被害者だ、スタンガンをあてられ、刃物を向けられたんだ。弁護士を呼んで話し合いをする際には、同席させてもらうよ」