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「さよなら」は別れの言葉だけじゃない
第一章 春風の匂いと、あの人の背中
三月。
空は薄く霞み、春の匂いを含んだ風が、校舎の古びた壁を優しく撫でていた。
桜の蕾は、まだ完全には開ききっていない。けれど、枝の先に浮かぶ薄紅の色が、季節が確かに巡ってきたことを告げていた。
正門の脇、ひときわ早く咲いた一本の桜の木の下に、僕は立っていた。
その背中越しに、軽やかな足音が聞こえた。細く、少し弾むような音。僕が名前を呼ぶ前に、その声は春の風に乗って届いた。
「先輩。やっぱり、ここにいたんですね」
振り返るまでもなく、誰なのか分かった。
あの声。あの間合い。あの、少し遠慮がちな呼びかけ方。
―綾瀬遥。
二つ下の後輩。生徒会の書記。無邪気に笑っては、誰よりも芯の強い瞳を持っている少女。
僕の、生徒会長としての最後の一年を、ずっと隣で支えてくれた存在だった。
「明日から、ここに来なくなるって……全然、実感が湧かないですよね」
遥はそう言って、制服の袖を風に揺らしながら僕の隣に並んだ。
足元には、誰かが置いていったのか、小さな紙袋がひとつ落ちていた。中には、卒業式の記念用に配られた小さなキャンディが数個、静かに眠っていた。
「そうだな。なんだか、今日がただの放課後みたいだ」
僕はポケットに手を入れて、遥の横顔を見た。
長い睫毛の先に光が集まっている。まぶしさに細めたその瞳には、どこか切なさが滲んでいた。
「……先輩がいなくなるって、すごく寂しいです」
風が、ふっと強く吹いた。
遥の髪が宙を泳ぐ。顔にかかりそうになった前髪を、彼女は慣れた仕草で耳にかけた。
「お前までそんなこと言うなよ。俺が泣きそうになるだろ」
「え、本当に泣くんですか? 藤宮先輩が?」
遥が少しだけ笑って、僕を見上げた。けれどその瞳の奥にある何かは、冗談だけではなかった。
言葉の裏にある、言いそびれた本心を、僕は感じ取っていた。
――さよならは、言葉だけじゃない。
僕たちは、きっとこの春、何か大切なものを手放してしまう。
でも、それでも。
それはきっと、悲しい別れじゃないと、信じたい。
遥の横顔を見ながら、僕は胸の奥に、かすかな痛みと温かさが混ざったような感覚を抱えていた。
第二章 心に積もる言葉たち
生徒会室の扉を開けると、懐かしい木の香りが鼻をくすぐった。
春の午後の日差しが、窓のブラインド越しに机の上に静かに差し込んでいる。
いつも通りに整頓された資料、白いマグカップ、壁にかけられた年間予定表——すべてが、そのままだった。
「やっぱり、落ち着きますね。ここ」
遥が言って、僕の隣に座った。
彼女は椅子の背にもたれて、少しだけ目を閉じる。その姿は、春の陽だまりに溶けていくように穏やかだった。
「……ここでの時間、全部忘れたくないな」
「忘れるなよ。忘れたら、化けて出るからな」
「それ、先輩が言うと冗談に聞こえないです」
遥はくすっと笑った。けれどその笑い声も、どこか遠くから聞こえてくるようで、僕の胸にやわらかく響いた。
僕たちは、この生徒会室でいくつもの季節を重ねた。
文化祭の準備で徹夜した日。誰も来なかったイベントの反省会。予算で揉めて職員室に頭を下げに行ったこと。
すべてが、眩しいほど色濃く、思い出に焼きついている。
「律先輩」
急に、遥が名前で呼んできた。下の名前で呼ばれることは、滅多にない。
「……ん?」
「ひとつだけ、お願いしてもいいですか?」
彼女の声は、とても静かだった。机の木目を見つめながら、目を逸らすように話し始める。
「卒業式、終わったばかりなのに。もう、明日から“生徒会長”じゃない律先輩には、もう関係ない話かもしれないけど……」
「関係ないことなんて、ない」
僕は、即座にそう言った。
その一言に、遥の肩がふわりと揺れた。
「言ってみろ。なんでも聞く」
遥は、少しの間黙っていた。けれど、その沈黙は不安や迷いではなく、言葉を選ぶための沈黙だった。
そして、ようやく、彼女は口を開いた。
「新しい生徒会長に、私……立候補しようと思ってます」
その言葉に、僕は少しだけ目を見張った。
意外だった。でも、妙に納得もいった。
「遥なら、きっといい会長になる」
「……そう思いますか?」
「間違いない。自分のことより、人のことを先に考えられるやつが、生徒会長に向いてるって、俺は知ってる」
遥は、小さく頷いた。だけど、何かまだ言いたそうな雰囲気があった。
その“言えなさ”が、空気をぴんと張り詰めさせる。
「もう一つだけ、言ってもいいですか?」
今度は目をそらさず、真っ直ぐに僕を見て言った。
「卒業した後も、私……律先輩のこと、忘れません」
春の光が、遥の瞳の奥に差し込んで、そこに淡い水面のようなゆらめきを描いていた。
その目に、わずかな涙がにじんでいることに、僕は気づいた。
「ありがとう」
それだけを言うのが精一杯だった。
それ以上の言葉は、春風にさらわれて、どこかに行ってしまいそうだったから。
第三章 きみの手紙、ぼくの沈黙
卒業式の翌日、目覚ましの音に追い立てられる必要もなく、僕は早朝の静けさの中で目を覚ました。
制服もなく、予定もなく、なのに習慣で背筋が伸びる。
それでも、どこかで“今日だけは”学校に行かなくていいことに、ほっとする自分がいた。
けれど、携帯の通知が一つだけ、そんな安堵を破った。
【生徒会室に、最後の手紙を置いておきました。見てくれると嬉しいです。綾瀬】
――遥からのメッセージだった。
内容は淡々としていたけれど、“最後の手紙”という言葉に、胸が少しだけ痛んだ。
*
校舎の鍵は、今日まで生徒会メンバーにだけ開放されているらしい。僕は久しぶりに、誰もいない早朝の校舎を歩いた。
昇降口のロッカーに並ぶ無数の空洞。教室のドアのガラス越しに差し込む、白くぼやけた春の光。
それらがすべて、“終わった”ことを物語っていた。
生徒会室に入ると、空気はまだ昨日の気配を残していた。
机の上に、小さな便箋が一枚。水色の封筒に、繊細な手書きの文字でこう書かれていた。
「藤宮律先輩へ」
僕は封を切り、中を読んだ。
律先輩へ
卒業、おめでとうございます。
言いたいことはたくさんあるはずなのに、こうして文字にしようとすると、指が止まってしまいます。
どうしてでしょうね。たぶん、本当の気持ちは、言葉にならないからだと思います。
私はこの一年、律先輩のそばにいられて、本当に幸せでした。
だけど、どこかでずっと怖かった。
先輩が卒業する日が来ることも。
先輩のいない世界で、生徒会に残る自分を想像することも。
たくさんのことを教えてくれて、たくさんの背中を見せてくれて、
それがどれだけ大きな支えだったか、先輩にはわからないでしょう。
だから――
ここに書いておきます。
私、律先輩のことが好きでした。
“でした”なんて言い方、おかしいかもしれません。
でも、もうこれ以上、先輩を縛ってはいけない気がして。
先輩は、きっと新しい場所で、また誰かを支えていく人になる。
私はその背中を、少しだけ遠くから、見つめられたらそれでいいんです。
最後に一つだけ。
この“さよなら”が、ただの別れじゃないことを願っています。
さよなら、律先輩。
――綾瀬遥
手紙を読み終えた瞬間、胸の奥で、何かが崩れる音がした。
遥の“でした”という過去形が、どうしようもなく哀しかった。
それなのに、そこにあるのは優しさばかりで、怒ることも、泣くこともできなかった。
「……バカだな」
僕は呟いた。
遥は、いつだって誰かのために自分を引く。
だけど本当は、誰よりも隣にいて欲しいと思っていたはずなのに。
封筒の中には、小さな付箋がもう一枚だけ入っていた。
P.S. 明日の朝、もし来てくれたら……校庭の東側で待ってます。
これで最後。もう一度だけ、会いたいです。
僕は、机に肘をついて、深く息を吐いた。
きっと、この一歩を踏み出したら、もう戻れない。
けれど――
この春を、本当の意味で“終わらせる”ためには、その一歩が必要だった。
第四章 朝靄の向こう、君の名前を呼ぶ
翌朝——世界は音をひそめ、白い朝靄が校庭を包み込んでいた。
吐く息がまだかすかに白くなるその中を、僕は一歩ずつ東側の校庭へと向かっていた。
風は穏やかだった。けれど、胸の内はどこか落ち着かなかった。
足音が芝の上で柔らかく吸い込まれる。前を向くたび、靄の向こうに誰かの気配を感じる。
――遥は、そこにいた。
白いカーディガンを羽織った制服姿。
髪は昨日より少しだけ無造作で、でもそれが不思議と大人びて見えた。
彼女は僕の存在に気づいていたのか、ふと顔を上げた。
そして、微笑んだ。
「来てくれて、ありがとう」
その一言で、胸の奥に積もっていたものが、少しだけ溶けていく気がした。
「手紙、読んだよ」
僕はそう言ったきり、しばらく言葉を探していた。
何かを言わなければと焦る一方で、何も言えない自分がいた。
遥は僕のそんな沈黙に、ただ微笑を絶やさず、春の光の中に立っていた。
「……言い逃げするつもりだったんです。たぶん、昨日までは」
彼女は、足元の芝に目を落としながら続けた。
「でも、それじゃ駄目だなって思って。先輩が、ちゃんと読んでくれたってわかって、それだけで満足するなんて……本当の私じゃない」
顔を上げたその瞳は、どこまでもまっすぐで、もう迷いはなかった。
「律先輩。私、本当にあなたのことが好きです。
“でした”じゃなくて、“です”。ずっと、です。いまも」
靄の中、彼女の声がはっきりと届く。
「だから、ちゃんと聞きたかった。先輩は……どう思ってたんですか?」
その言葉に、僕の胸が強く脈を打つ。
今まで、はっきり言葉にしてこなかった。
あまりに自然すぎて、近すぎて、恋だなんて考えたことがなかった。
でも違った。
春が終わる直前、ようやく僕は気づいていた。
遥の不器用な優しさに。まっすぐな瞳に。
無意識のうちに惹かれていた自分の心に。
「俺も……好きだよ、遥」
靄が晴れた。
まるでその言葉が合図だったかのように、朝日が雲の隙間から差し込んだ。
遥は目を見開いて、そして、ゆっくりと笑った。
その笑顔は、この一年で見たどんな笑顔よりも柔らかく、美しかった。
「……よかった。ほんと、よかった」
僕は思わず言った。
「これで、終わらないな。俺たちの春」
「うん」
遥は小さく頷いて、そして僕の手を取った。
指先がふるえていた。だけど、それはもう不安のふるえではなかった。
「“さよなら”って言葉、嫌いでした。でも、今日だけは言わせてください」
遥が、僕の目を見て言った。
「さよなら、子どもだった私。
さよなら、誰かの影に隠れてた私。
これからは、自分の足で進んでいける。だから——ありがとう、律先輩」
その言葉を聞いて、僕は思った。
——さよならは、ただの別れじゃない。
新しい何かが始まるための、静かな合図なんだ。
そして僕たちは、もう何も言わずに、しばらく手をつないでいた。
春の風が吹いた。
桜が、ようやく花びらを舞わせ始めていた。
第五章 一年後の春、届いた言葉
春の光は、記憶を連れてやってくる。
新しい年度が始まる日、生徒会室のカーテンを開け放った瞬間、遥は静かに息を吸い込んだ。
木の香り。紙の擦れる音。ひとりぼっちになったこの空間も、もう怖くなかった。
彼女は、立派な「生徒会長」になっていた。
後輩に指示を出し、書類に目を通し、行事に奔走する日々。
それは一年前、藤宮律がこなしていたことのすべてだった。
けれど、違ったのはそこに「彼」がいないこと。
遥はその背中を追うようにして、ようやく少しずつ、彼のいた場所に近づいてきた。
――そんなある日。
新年度の資料が入った段ボールを整理していると、底の方から一枚の封筒が落ちた。
封はまだ閉じられていた。薄いグレーの紙。達筆な字で、こう記されていた。
「綾瀬遥さんへ(開封は卒業から一年後に)」
差出人は、藤宮律。
遥の心臓が、強く跳ねた。
震える指で封を切り、便箋を広げる。
一年前の春、彼が残していた“もうひとつの手紙”が、そこには綴られていた。
遥へ
この手紙を、いつかお前が見つけてくれることを願って、残します。
今日、卒業式が終わって、生徒会室でひとりになったとき、やっぱり俺は思ったんだ。
ちゃんと伝えきれてなかったって。
遥、お前のことが好きだ。
この気持ちは、時間が経てば消えるものじゃない。むしろ、時間が経つほどに確かなものになる気がしている。
お前がどんな選択をしても、どこにいても、俺はそれを尊重する。
でも一つだけ――
来年の春、もしこの手紙を見て、それでもまだ俺のことを想っていてくれたなら、俺は待ってる。
いつもの桜の下で。
約束の、あの木の下で。
律
手紙を読み終えたとき、遥はその場に立ち尽くしていた。
心の奥で、ずっとしまい込んでいた何かが、ふっと光を帯びて浮かび上がる。
「……ほんと、ずるいなぁ、先輩」
涙が、ひとすじ頬を伝った。けれど、胸の奥は不思議とあたたかかった。
遥はすぐにカレンダーを確認した。
――今日、三月十九日。
明日が、ちょうど一年後の卒業記念日だった。
翌日、東側の桜の木の下には、春の風が吹いていた。
遥は、一年前と同じカーディガンを羽織り、静かにそこへ向かった。
手には、花束と、彼の手紙。
風が枝を揺らし、桜の花がひらひらと落ちる。
そして、彼は——そこにいた。
制服ではなく、少し大人びた私服姿で。
でも、変わらない微笑みで。
「……よく来たな」
律は言った。
「来るに決まってるでしょ。来なかったらどうするつもりだったんですか」
「来なかったら、一週間くらい待つつもりだった」
「バカ」
遥はそう言って、笑った。涙がにじむのを隠しもしなかった。
「私、先輩がいなくてもやってこれたけど……でも、いないとダメな日も、ちゃんとあったんです」
「俺もだよ」
ふたりは見つめ合って、そして自然に、抱き合った。
まるでその距離を縮めるのが、もう当たり前のことだったかのように。
最終章 さよならは、はじまりの合図
それから数年後。
大学進学を経て、二人は同じ町で暮らしていた。
春が来るたび、あの桜の木の下に立つのが、毎年の小さな儀式になった。
遥は教員免許を取り、母校の教師として戻ることを決めていた。
律は、教育関係の出版社に就職し、時折、講演のために校舎を訪れていた。
「また春が来ましたね」
「そうだな」
二人は並んで、咲き誇る桜を見上げた。
あの日、別れだと思った春が、こんなふうに未来へ続いていたこと。
あの“さよなら”が、別れではなく、始まりの言葉だったこと。
ようやく、その意味を、心から理解できた気がしていた。
遥はふと、笑って言った。
「ねえ、先輩。今度は、生徒じゃなくて、先生として一緒に仕事しませんか?」
「……やっぱ、お前には敵わないな」
律は、ゆっくり頷いた。
春風が、二人の間をふわりと通り抜ける。
さよならは、別れだけの言葉じゃない。
それは、誰かと再びめぐり合うための、あたたかい約束のようなもの。
――そう信じて、ふたりは、また歩き始めた。
短いのは許して!
あと連載系のストーリーを書こうとしてるんだけど、見たいかコメントできたら嬉しい。
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