わたしが寝食を忘れれぐらい読書が好きなことや、週末に向けて本を借りに王立図書館に来ていることも、殿下に話したことはなかったのに、どうして知っているんだろうと、一瞬不思議に思ったことはあった。
きっと、屋敷の者が殿下の周囲の方に話したのだろうぐらいにしか思っていなかった。
殿下のこの話しを人が聞いたら、すべてを信じるなんて純粋すぎると言われるだろう。
でもいまはわたしは殿下のすべてを信じられる。
殿下は真っ直ぐにわたしに向き合ってくれた。
「俺がこのままでは、愛するエリアーナが崖から身を投げてしまうと考えて、俺自身が変わることにしたんだ」
殿下が砂をひとすくいして、ぎゅっと握りしめる。
「俺は、エリアーナが好きで好きでどうしようもないのにこの気持ちをエリアーナに伝えてこなかったことを酷く後悔したよ。だから、エリアーナを溺愛して崖から飛び降りる結末を回避したかったんだ」
だから、最近は甘々な殿下だったのね。
そんな変わっていく殿下にわたしは恋に堕ちた。
「わたしは悪夢の中のような悪役令嬢になりたくなくて、必死に足掻いて、殿下から逃げて… そして、殿下への恋心も忘れることにしました」
殿下の砂を握りしめている手にわたしの手をそっと添える。
すると、殿下の握りしめている手から、サラサラと砂が溢れていく。
「うん。エリアーナがなにかに悩んでいるのは気づいてた。もしかして、俺と同じように小説の記憶があるのではないかと思ったのは、エリアーナがナイフ男と川に飛び込んだのがきっかけだよ」
「殿下はだから今日、わたしをここに?」
隣に座る殿下と初めて目が合う。
その瞳が潤んでいるように見えるのは、夏の陽射しの所為?
「確信はなかったんだけど、どうしてもエリアーナが領地に帰る前に確かめたくて。エリアーナはここは来たくもないところだったよね。ごめんね」
わたしは黙ったまま、首を横に振る。
「さあ、辛い話はここまでだ。波際まで行こう」
殿下がスクっと立って、わたしに手を差し伸べられる。
金色の髪が太陽に反射して眩しく、殿下の表情は見えない。
殿下のその大きな手を取り立ち上がると、グッと殿下の胸に引き寄せられてぎゅっと抱きしめられた。
「エリアーナ、別れよう」
ドクっと心が波打つ。
「エリアーナは領地に帰ったら、王都に戻ってくるつもりはないんだろう」
どうしてそれを…
「…あ………」
「なにも言わなくていい。なんとなく、そうなんじゃないかと」
殿下はわたしを酷い女だと思うだろう。
でも、もうそれしか道はないように思えていた。
「政治的なこともあって、直ぐに婚約解消はしてやれないけど、いまここで俺たちはなんの制約にも縛られない関係に戻ろう」
殿下がわたしを離す。
「俺たちは最初を間違えたんだ。きっと、階段から落ちて、ようやく始まりだった」
お互いにその瞳にいっぱいの涙が溜まっている。
瞳を伏せるとわたしの頬に一筋の涙が溢れ出した。
「そうですね。階段から落ちた時、殿下は初めてわたしの名を呼んでくださいましたね」
あの時のことを思い出し、思わず微笑んでしまう。
だって、初めて名前を呼ばれたあの瞬間、きっとなにかが芽生え、始まった。
そう思えた。
「あの時、実は隣に立つエリアーナがあまりに凛として綺麗で見惚れていて躓いたんだ」
アーサシュベルト殿下がふぃと目線を逸らす。
横顔の殿下の頬にも一筋の涙が溢れている。
「ほら。波打ち際まで行くぞ」
あ然とするわたしに満面の笑顔で殿下が手を差し出してくれる。
それを迷うことなく取る。
ゆっくりゆっくりふたりで歩き出す。
握っていた手がどちらからともなく、指を絡め合いぎゅっうと握る。
「ディステン公爵領の南の領地はここより暑いか?」
海風が心地良く抜けていくのに、握り合っている手にだけ熱がこもる。
「崖から海に飛び込みたくなるぐらい暑いですよ」
いつもの戯けた調子で答える。
「そうか。俺は覚悟しないとな」
エリアーナ、好きだ。
愛している。
俺と付き合って欲しい。
俺の恋人になって。
ずっとそばにいてくれないか。
ここからやり直そう。
公爵領に帰ったエリアーナの元に全ての言葉を持って逢いに行くつもりだ。
「なぁ、エリアーナ。悪い夢を見たら、今度から一番に俺に話して」
「もちろん。アッシュのことを信じていますから」
「うん」
絡め合った指が再び、ぎゅっとなった。
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