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#ご本人様とは一切関係ありません
686
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あんにんどう腐(ゆ腐)
2,751
#ご本人様とは一切関係ありません
さくら(皇千ト君最推し)
2,469
午後のスタジオは、午前より少しだけざわついていた。
機材の移動音。
スタッフ同士の短いやり取り。
モニター前での確認。
次の仕事へ向けて空気が切り替わっていく、あの独特の忙しさ。
ルイはその中を、少し急ぎ足で入ってきた。
タイキの部屋からそのまま来たから、普段よりほんの少しだけ服に皺が残っている。
でも表情は仕事の顔に戻っていた。
戻してきた、の方が正しいかもしれない。
ドアを閉めて、軽く周囲に目をやる。
誰かに挨拶をする前に、すぐに声が飛んだ。
「ルイ」
雛子だった。
壁際の資料机の前に立って、タブレットを片手にこちらを見ている。
その顔はいつも通り落ち着いているけど、呼び止め方が少しだけ早い。
つまり、たぶん仕事の話だ。
ルイはまっすぐそっちへ向かった。
「来た」
「見ればわかる」
雛子はそう返して、すぐに本題へ入る。
「タイキどう?」
ルイは短く息を吐いた。
「熱は少し下がった」
「でもまだ高い。薬と粥入れて、寝かせてきた」
雛子の目が少しだけやわらぐ。
「そう。じゃあ今のところは大丈夫そうね」
「今のところは」
その返しに雛子は小さく頷いて、それ以上そこを引っ張らない。
必要な確認だけ済ませて、すぐ仕事へ切り替えるところが雛子らしかった。
「じゃあ次」
タブレットを軽く持ち上げる。
「案件の話」
ルイの目が少しだけ細くなる。
「何」
「撮影」
雛子が画面をスワイプする。
「服のモデル案件」
「ブランド側からの指名」
そこで一拍置く。
ルイはその間に、妙な予感だけ先にした。
雛子はそのまま言う。
「ルイとカノン」
ルイの動きが、ほんのわずかに止まる。
「……は?」
声に出たのは、ほとんど反射だった。
雛子はその反応を見ても顔色を変えない。
むしろ少しだけ口元を上げた。
「その“は?”は何」
「仕事です」
「いや、わかってるけど」
「わかってない顔してる」
ルイは小さく息を吐く。
服のモデル案件。
ルイとカノン。
画としてはわかる。
たしかに二人とも映える。
距離感や空気を作る仕事もできる。
ブランド側が欲しがりそうなのも理解できる。
でも。
(今かよ)
ルイは内心でそう思う。
カノンとは、つい最近まで別の意味で空気があった。
しかもそれをゴイチは知っている。
タイキは、まだこの案件を知らない。
面倒なカードが、かなり自然な顔で切られた感じがした。
雛子はそういうルイの沈黙を一瞬で読んでいる顔で言う。
「大丈夫。これは純粋に仕事の相性で来てる」
「変な意味じゃない」
「そういう話はしてねぇよ」
「でも顔がしてる」
ルイは少しだけ視線を逸らした。
「……で、内容は」
雛子はタブレットを見せる。
「秋立ち上がりのメンズライン」
「二人の空気感重視。距離は近いけど、あくまで“静かな強さ”寄り」
「雑誌掲載とSNS展開込み」
「今日ここで軽く打ち合わせして、後日フィッティング」
ルイは画面を見ながら、頭の中で仕事の顔に切り替えていく。
近い距離。
静かな強さ。
ルイとカノン。
たしかに、求められてるものは作れる。
「受ける前提?」
ルイが聞く。
雛子は頷く。
「事務所的にはかなり前向き」
「あなたたち二人なら、ブランドの温度に合う」
少し間。
「ルイ。やれる?」
その問いは、仕事人としての問いだった。
ルイは数秒だけ考える。
それから、短く答えた。
「やる」
迷いは見せない。
雛子はそこでようやく「よし」と言った。
「じゃあ後でカノンにも話す」
「多分、もう来る」
その言葉の直後、スタジオのドアが開いた。
「おつかれー」
カノンだった。
空気を読んでるのか読んでないのか分からない顔で入ってきて、すぐに雛子とルイの並びに気づく。
「何、その感じ」
雛子が即答する。
「ちょうどいい。あなたにも話ある」
カノンが少しだけ目を瞬かせる。
「え、何かやらかした?」
「逆」
「仕事です」
カノンが近づいてくる。
ルイはその横顔を見て、ほんの少しだけ気配を整えた。
ここからは、仕事の話だ。
⸻
少し離れた場所で、そのやり取りを見ていたのがゴイチだった。
タオルを首にかけたまま、壁にもたれている。
表情はいつも通り落ち着いているけど、視線はちゃんと向こうにある。
雛子。
ルイ。
そこにカノンが合流して、何やら話し始める。
その空気だけで、仕事の話なのはわかる。
でも、ゴイチの胸の奥には妙なざわつきがあった。
(妙に、心配だな。今回のこの感じ)
理由ははっきりしている。
ルイとカノンの案件。
しかも、ペア。
仕事だから問題ない。
そこは当然わかってる。
カノンもルイも、そんなところで雑に仕事をしない。
でも、問題は仕事そのものじゃない。
カノンは一度、ちゃんとルイを好きだった。
しかも、あいつは自分で区切りをつけたけど、完全に言い切れたかなんて本人にしかわからない。
そして、タイキはまだ知らない案件だ。
(今のカノンを信じてる……けど)
ゴイチは心の中で小さく息を吐く。
信じてる。
それは本当だ。
カノンは前を向こうとしてる。
ちゃんと、自分で。
ルイのことも、もう“ただの仕事相手”として見ようとしてる。
でも、人の気持ちってそこまで綺麗に整理できるもんでもない。
(完全に言えたかなんて、本人にしかわからない……)
そこが引っかかる。
仕事中に揺れるとか、そういう話じゃなくて。
終わったあとに、ちょっとだけ寂しくなるとか。
自分でも気づかない場所に、まだ熱が残ってるとか。
そういうのは、なくなったとは言い切れない。
ゴイチは向こうの三人を見たまま、心の中で決める。
(今夜一応、確認しておくか……)
責めるためじゃない。
疑うためでもない。
ただ、揺れた時に一人で抱え込ませないために。
それが今の自分の役目だと、自然に思った。
⸻
その頃のルイとカノンの打ち合わせ
「というわけで、二人案件です」
雛子がタブレットを見せながら言う。
カノンは画面を覗き込んで、「へぇ」と小さく声を出した。
「服のモデル?」
「ルイと俺?」
「そう」
「うわ、何か……わかるわ」
カノンは少しだけ笑った。
「絶対雰囲気いいやつじゃん」
雛子がすぐに返す。
「そういう判断で来てる」
「静かな空気感、距離の出し方、視線の強さ」
「そういうの込みであなたたち」
カノンはそこで、ちらっとだけルイを見た。
ルイはもう、仕事の顔だった。
少し前までの複雑さをちゃんと引っ込めて、内容を整理している目。
それを見て、カノンも自然に切り替える。
「距離、近い系?」
「まあまあ近い」
「でも過度ではない」
「了解」
カノンはそう返してから、少しだけ口元を上げた。
「ルイ、こういうの得意でしょ」
ルイは淡々と返す。
「お前もな」
「でた。急に仕事モード」
「仕事だろ」
その返しに、カノンは小さく笑った。
でもその笑いの奥で、ほんの少しだけ胸がきしむ。
好きだった相手と、“空気が映えるから”という理由で並ぶ。
仕事としては正解だ。
だからこそ、ちょっとだけ複雑だ。
でも、今はそれを表に出さない。
「撮影日までに、ブランドイメージだけ共有しとく」
「二人とも、私服寄せで入るから準備して」
雛子が言う。
カノンが「了解」と返し、ルイも短く頷く。
そのやり取りは滑らかだった。
滑らかすぎるくらいに。
でもゴイチには、その“滑らかさ”の裏にあるものまで少し見えていた。
⸻
その日の帰り道。
仕事を終えてスタジオを出ると、夜の空気は少しだけ湿っていた。
カノンは肩にバッグを引っかけたまま、「疲れたー」と小さく伸びをする。
その横を、ゴイチが自然な歩幅で並ぶ。
しばらくは他愛ない話だった。
リハのこと。
スタッフの変な言い間違いのこと。
雛子の案件説明が相変わらず早いこと。
でも、住宅街の少し手前まで来たところで、ゴイチがふっと口を開いた。
「カノン」
「ん?」
「今日の案件」
カノンはそこで少しだけ目を瞬かせる。
「ルイのやつ?」
「うん」
少し間。
ゴイチは前を見たまま、できるだけ何でもない調子で聞いた。
「もう吹っ切れてんのか」
カノンの歩幅が、ほんの少しだけ止まりかける。
でもすぐに戻る。
「……急だな」
「急だけど、聞いといた方がいいかなと思って」
責めてるわけじゃない。
その声音が、ちゃんとそうだった。
カノンは少しだけ視線を落とす。
吹っ切れてるか。
その問いは、簡単そうで全然簡単じゃない。
「吹っ切れてる、って言ったら嘘かも」
小さく答える。
ゴイチは何も言わない。
ただ、続きを待つ。
カノンは少しだけ苦く笑った。
「でも、戻りたいとかじゃないよ」
「そこは違う」
少し間。
「ただ……」
「好きだった相手と、“二人で映えるから並んで”って言われると」
「まあ、ちょっとだけ変な感じはする」
その言葉は、ちゃんと正直だった。
ゴイチはそこで小さく息を吐く。
「だよな」
カノンが横目で見る。
「怒んないの」
「何で怒るんだよ」
「いや、まあ」
「俺がまだちょっと引っかかってるとか言うとさ」
ゴイチはそこで、少しだけ口元を上げた。
「引っかかるくらい、あるだろ」
「そんなの、急にゼロになる方が怖ぇよ」
カノンはその返しを聞いて、しばらく黙る。
それから、少しだけ肩の力を抜いた。
「……相棒すぎる」
「褒めてる?」
「半分」
「残り半分は」
「ムカつく」
「ひでぇな」
でも、そのやり取りで少しだけ呼吸が楽になる。
ゴイチはそこで歩く速度を落とした。
カノンの家へ向かう分かれ道が近い。
「仕事は仕事でやれるだろ、お前は」
ゴイチが言う。
「そこは信じてる」
カノンは頷く。
「うん」
「でも」
そこでゴイチは、少しだけ声音を落とす。
「もし、揺れたら」
カノンが顔を上げる。
ゴイチはまっすぐ前を見たまま、何でもないみたいに言った。
「俺に連絡しろ」
その言葉が、カノンの胸に静かに刺さる。
すぐには返せない。
言い方は軽い。
でも、軽くない。
大丈夫か、でもなく。
無理すんな、でもなく。
揺れたら連絡しろ。
それはつまり、揺れること自体を責めないってことだ。
一人で抱えるなってことだ。
そんな時に、自分はちゃんと横にいるってことだ。
カノンはそこで、ほんの少しだけ目を伏せた。
「……何それ」
小さく笑う。
でも声は少しだけ掠れていた。
ゴイチは肩をすくめる。
「相棒の仕事」
「便利に使うなよ、その立場」
「便利だろ」
「……ずる」
カノンはそう言ってから、少しだけ視線を逸らす。
胸の奥が、あたたかい。
少しだけ痛い。
でも、その痛みも前に進くためのものに思えた。
分かれ道で立ち止まる。
ゴイチがいつも通りみたいに片手を上げる。
「じゃ、また明日」
カノンは少しだけ間を置いてから、頷いた。
「うん。また明日」
でも、ゴイチはそこで一度だけ振り返る。
「カノン」
「ん?」
「ほんとに、変な遠慮すんなよ」
その一言に、カノンは何も返せなくなる。
ただ、小さく笑って頷いた。
「……うん」
ゴイチはそれを見て、ようやく歩き出す。
カノンはその背中を見送ったあと、しばらくその場を動かなかった。
ルイの案件のこと。
少しだけ残る引っかかり。
でも、それ以上に。
もし、揺れたら
俺に連絡しろ
その何気ない相棒の言葉が、まだ胸の奥で静かに響いていた。
仕事が終わる頃には、外はもう夜の色に変わっていた。
スタジオの照明から一歩外へ出ると、急に現実の暗さが目に入る。
風は昼より少し冷えていて、ルイは肩に掛けたバッグを持ち直した。
今日はまっすぐ帰るつもりなんて最初からなかった。
雛子との案件の話。
カノンとのペア撮影。
その打ち合わせ。
その全部が終わっても、頭の中にあるのは別のことだけだった。
タイキ。
熱はどうだ。
薬はちゃんと効いてるか。
ちゃんと寝てるか。
水は飲んでるか。
ルイは足を止めることなく駅へ向かった。
途中、コンビニに寄る。
スポドリ。
ゼリー。
追加の冷却シート。
消化のいいスープ。
あと、少しだけ甘くないプリン。
カゴに入れながら、ルイは小さく息を吐いた。
今日の案件のことを、タイキには深くは話さない。
そう決めていた。
言えばたぶん、タイキは「別に気にしねぇよ」と言うかもしれない。
あるいは、何でもない顔で聞くかもしれない。
でも。
今は違うと思った。
まだ熱のある身体で、ベッドの上にいるタイキに。
ルイとカノンのペア案件なんて話を、わざわざ詳細まで持ち込む意味がない。
心配させたくない。
余計なことを考えさせたくない。
その気持ちが、今のルイには一番強かった。
別に後ろめたいわけじゃない。
仕事は仕事だ。
やると決めたし、ちゃんとやる。
でも、今夜のタイキに必要なのは、仕事のややこしい話じゃなくて。
熱が下がってきてるかどうかと、次の薬の時間と、少しでもちゃんと眠れる夜の方だ。
ルイは会計を済ませて、袋を受け取る。
レジ袋の持ち手が手のひらに食い込む。
そのまま、まっすぐタイキの家へ向かう。
電車の中でも、スマホはほとんど見なかった。
雛子からの連絡は入っていたけど、必要な返信だけ返して終わらせた。
ルイ
今から戻る
明日詳細確認する
それだけ。
今夜の優先順位は、もう決まっている。
駅を降りて、タイキのマンションへ向かう道は昨日と同じなのに、少し違って見えた。
昨夜は、熱でふらつくタイキを支えながら歩いた。
今夜は一人で歩いている。
でも、一人なのに一人じゃない感じがする。
“戻る”と言った。
“来ていいなら、仕事終わって真っ直ぐ来る”とも言った。
そしてタイキは、“来ていい”と言った。
その短いやり取りが、今のルイには妙に大きかった。
エントランスを抜ける。
エレベーター。
数字がゆっくり上がっていく。
ルイはその間に一度だけ、自分の顔をエレベーターの扉にうっすら映る影で確認した。
少し疲れている。
でも、思ったより表情は静かだった。
タイキの前では、余計なものを持ち込みたくない。
案件のこと。
カノンとの打ち合わせのこと。
ゴイチの視線のこと。
そういうものは、今は置いていく。
少なくとも、部屋に入るまでは。
エレベーターが止まる。
廊下に出る。
タイキの部屋の前に立った瞬間、ルイの胸の奥が小さく鳴る。
大げさな意味じゃない。
でも、ちゃんと“戻ってきた”感じがする。
インターホンを押す。
数秒。
少し遅れて、室内で小さな物音がした。
足音は重くない。
朝よりはたぶん、ましだ。
ドアが開く。
タイキが立っていた。
部屋着のまま。
髪は少し乱れていて、熱の名残で頬がまだほんのり赤い。
でも朝や昼より、目はずっとはっきりしていた。
ルイはその顔を見た瞬間、内心で少しだけ安堵する。
「……来た」
タイキが言う。
ルイはレジ袋を軽く持ち上げた。
「来るって言っただろ」
タイキの口元が、ほんの少しだけ緩む。
「ん」
それだけ返して、少しだけ身体を横へずらす。
入れ、という無言の合図。
ルイは靴を脱ぎながら、もう一度だけタイキの顔を見た。
「熱は」
「昼よりはマシ」
「測ったか」
「一応」
「数字は」
タイキが少しだけ眉を寄せる。
「入ってすぐそれ?」
「そこが一番大事だろ」
その返しに、タイキは小さく息で笑った。
「……三十七度台」
ルイはそこでようやく少し肩の力を抜く。
まだある。
でも、ちゃんと下がってきている。
「飯は」
「ゼリー飲んだ」
「あと、水」
「よし」
短く返して、ルイは袋をキッチンに置く。
部屋の中は朝出た時と少し変わっていた。
飲み終えたペットボトル。
畳まれていないブランケット。
でも、ちゃんと起きてちゃんと動いた痕跡がある。
それだけで、少しだけ安心する。
タイキはソファの背に手をかけたまま、そんなルイを見ていた。
仕事終わりの顔。
少し疲れてる。
でも、自分を見た時にほんの少しだけやわらいだ目。
それが、タイキにはちゃんとわかる。
「……スタジオ、どうだった」
何気ないふうに聞く。
ルイは冷蔵庫を開けながら、一瞬だけ手を止めた。
来た、と思う。
当然の質問だ。
隠すことじゃない。
でも、どこまで話すかは選べる。
ルイは振り返らずに答えた。
「雛子に捕まった」
「うわ、かわいそ」
「お前が午後行けって言ったんだろ」
「言ったけど」
「捕まるとこまでは知らねぇ」
少し笑いが混ざる。
その温度なら、これでいい。
ルイはスポドリをグラスに移しながら続ける。
「新しい案件の話」
「明日詳しく詰める」
それだけ。
ペア案件。
カノンの名前。
撮影の内容。
そこには触れない。
今はまだ、必要ない。
タイキはその言い方を聞いて、少しだけ目を細めた。
ルイが少し省いていることくらい、たぶんわかる。
でも、それ以上は聞かなかった。
体調の悪い日に無理に引き出したい話し方じゃないことも、ルイの声で伝わったからだ。
「……そっか」
短く返す。
ルイはグラスを持って、タイキの方へ戻る。
「ほら」
タイキが受け取る。
指先が少しだけ触れる。
一瞬。
でもそれだけで、部屋の空気が少しだけやわらかくなる。
ルイはそのまま、熱を確かめるみたいにタイキの額を軽く見る。
触る前に一瞬だけ目で確認して、でも今度は何も言わずに、手の甲をそっと当てた。
朝よりだいぶましだ。
それでもまだ、ほんのり熱い。
「……まあ、下がってきてるな」
タイキはグラスを持ったまま、ルイを見上げる。
「言っただろ」
「言ってたな」
その返しは、少しだけやわらかかった。
ルイはそこでようやく、ソファの端に腰を下ろす。
でも深くは座らない。
すぐ動ける距離に、自分を置いている。
タイキはその姿勢を見て、少しだけ口元を上げた。
「何」
ルイが気づく。
タイキは肩をすくめる。
「いや」
「ほんとに真っ直ぐ来たなって」
ルイは少しだけ視線を逸らした。
「来るって言ったからな」
「うん」
短いやり取り。
でも、その中にあるものは少しだけ大きい。
仕事終わり。
疲れているはずなのに。
スタジオからそのまま、ちゃんとここへ来た。
それを、タイキは何も言わないふりでちゃんと受け取っている。
ルイはその視線を感じながら、内心で小さく息を吐く。
今夜も、案件のことは深く話さない。
心配させないために。
余計な熱を持ち込まないために。
少なくとも、タイキの熱が下がるまでは。
その代わりに、自分がここにいることだけは、ちゃんとわかるようにする。
それが、今のルイの選び方だった。
「で」
ルイが少しだけ目を細める。
「次の薬まで、あと何分だ」
タイキはグラスを口元に運びながら、思わず少し笑う。
やっぱり、今夜のルイはそういう感じなんだと思った。
でも、それが不思議と心地よかった。
夜が深くなる頃には、部屋の空気は昼よりずっと静かになっていた。
窓の外はもう暗い。
さっきまでうっすら残っていた夕方の名残も消えて、ガラスには室内の灯りだけがぼんやり映っている。
タイキの熱は、さらに少し下がっていた。
まだ平熱じゃない。
でも、額の火照りは朝や昼よりずっとましで、呼吸も落ち着いている。
ルイはさっき体温計の数字を見てから、ようやく肩の奥に入っていた力を少しだけ抜いた。
「三十七度台前半」
体温計を見ながら、ルイが低く言う。
ベッドに背を預けたタイキは、小さく目を細めた。
「下がった?」
「下がった」
「じゃあ、俺の勝ち」
「何のだよ」
「大丈夫って言ったやつ」
ルイはそこで小さく息を吐いて、体温計をテーブルへ置いた。
「お前の“大丈夫”は信用ならねぇ」
「でも下がった」
「結果論だろ」
「結果出てるならよくね?」
その言い方が少しだけいつものタイキに戻っていて、ルイはようやく少しだけ安心する。
熱のせいで声はまだ弱い。
でも、言葉の端にある生意気さはだいぶ戻ってきていた。
ルイはキッチンから持ってきたスープのマグをサイドテーブルに置き、椅子に浅く腰を下ろした。
タイキはベッドの上から、それをじっと見ている。
仕事終わりにまっすぐ来て。
コンビニで買ったものを並べて。
熱を測って。
次の薬の時間まで気にして。
それなのにルイは、午後のスタジオのことだけ妙に薄くしか話さなかった。
タイキはそこが、ずっと引っかかっていた。
「ルイ」
呼ぶと、ルイがマグの位置を直していた手を止める。
「ん」
「今日の案件」
ルイの目が、ほんの少しだけ細くなった。
タイキはその変化を見逃さない。
「ほんとは何」
静かな声だった。
責めているわけじゃない。
でも、逃がす気もない声。
ルイはすぐには答えなかった。
サイドテーブルの木目に一瞬だけ視線を落として、それからゆっくりタイキを見る。
「それ、今聞くか」
「今だから聞く」
タイキは枕に少しだけ頬を預けながら言う。
「お前、今日ずっとそこだけ薄かった」
ルイは小さく息を吐いた。
やっぱり気づくよな、と思う。
タイキは弱っていても、こういうところはちゃんと見ている。
むしろ今は余計なノイズが少ないぶん、余白の違いを拾うのかもしれない。
ルイは背もたれにもたれず、少し前屈みのまま言う。
「服の撮影案件」
タイキは黙って聞いている。
「モデル寄りのやつ」
「雑誌とSNS展開込み」
そこまで言って、ルイは一拍置いた。
言うなら、ここまでだと思っていた。
でも、タイキの目を見たら、その先だけ隠すのは余計に不自然だともわかった。
「ペア」
タイキの喉が、小さく動く。
「相手は」
短く聞く。
ルイは視線を逸らさず答えた。
「カノン」
部屋の中が、ほんの一瞬だけ静かになった。
エアコンの音だけが小さく鳴る。
タイキはすぐには何も言わない。
驚いたというより、予想していなかった名前が来て、その場で一度きちんと受け止めている顔だった。
「……そっか」
ようやく出た声は小さい。
ルイはそこで、少しだけ表情をやわらげた。
「だから言わなかった」
タイキの目が上がる。
ルイは続ける。
「隠したかったわけじゃねぇよ」
「でも今のお前に、その話まで足す必要あるかって思った」
少し間。
「余計なこと、考えさせたくなかった」
その言い方は、ひどく静かだった。
言い訳っぽくならない。
でも、ちゃんと本音だとわかる声。
タイキはその言葉を聞いて、枕の上で少しだけ視線を落とした。
カノン。
名前を聞いた瞬間、胸の奥に小さく引っかかるものが出たのは本当だった。
仕事だとわかってる。
ルイもカノンも、そこで妙なことをするわけじゃない。
でも、引っかかる。
それもまた本当だ。
その自分に少しだけ眉を寄せながら、タイキは言う。
「……気、遣ったんだ」
「遣うだろ」
「俺、そこまで弱ってるように見える?」
ルイは少しだけ目を細めた。
「熱出してるやつが言う台詞じゃない」
「でも、ちゃんと聞ける」
「聞けるのと、聞きたいのは別だろ」
タイキはそこで言葉に詰まる。
図星だった。
聞ける。
でも、今の自分がそれを聞いて何も思わないわけじゃない。
少なくとも、ルイはそこまで見ていた。
「……嫌だったの、俺が知るの」
タイキがぽつりと聞く。
ルイは少しだけ首を振る。
「違う」
短く、すぐに返す。
「お前が知らない方がいいと思ったんじゃなくて」
「お前が今、それで余計にしんどくなるのが嫌だった」
タイキの胸の奥が、じわっとあたたかくなる。
そういう言い方をされると、少し困る。
責めるつもりで聞いたわけじゃない。
でも、ここまで真っ直ぐ返されると、自分の中の小さな棘まで見られた気がして、少しだけ落ち着かない。
「……別に」
「そこまでじゃねぇよ」
ぶっきらぼうに返すと、ルイは小さく息を吐いた。
「そこまでじゃない顔してねぇ」
「うるさい」
「知ってる」
そう言って、ルイは立ち上がる。
タイキは一瞬だけ身構えた。
話が終わるのかと思ったのかもしれない。
でもルイはそのままベッドの方へ歩いてきて、端に腰を下ろした。
距離は近い。
でも、触れすぎない位置。
その座り方が妙にルイらしくて、タイキは少しだけ目を上げる。
ルイは前を向いたまま言う。
「仕事は仕事でやる」
「カノンとも普通に打ち合わせした」
少し間。
「でも、お前に無駄に引っかかるものまで背負わせる気はない」
タイキはその横顔を見る。
夜の灯りに照らされた輪郭。
疲れているのに、まだ少し緊張している肩。
それでも、隠さずに話すためにここへ座ったのがわかる。
「……俺さ」
タイキが小さく言う。
ルイが少しだけ目を向ける。
「知らない方が嫌だ」
ルイの目が、ほんの少しだけ動いた。
タイキは続ける。
「変に隠される方が、勝手に考える」
「隠したつもりはねぇよ」
「うん」
「でも、薄かった」
その言い方に、ルイは少しだけ口元を引き結ぶ。
否定できない。
実際、薄くした。
タイキに余計な顔をさせたくなかったから。
「……悪い」
低く言うと、タイキは少しだけ目を瞬かせた。
「謝ってほしいわけじゃねぇ」
「じゃあ何だよ」
「次からは」
少しだけ間。
「ちゃんと言って欲しいだけ…」
ルイはその言葉を受け止めたまま、何秒か黙った。
それから、小さく頷く。
「……わかった」
たったそれだけ。
でも、その返事は思っていたよりずっと深く胸に落ちた。
タイキは少しだけ肩の力を抜く。
引っかかりは、完全に消えたわけじゃない。
カノンの名前を聞いた時の小さなざわつきも、まだなくなってはいない。
それでも、ルイが最終的にちゃんと話したこと。
言わなかった理由まで、まっすぐ置いてきたこと。
そこが、今のタイキにはちゃんと効いていた。
ルイはベッドの端に座ったまま、少しだけ視線を落とす。
「カノンのこと気にしてんなら」
タイキの目が動く。
「それもわかる」
ルイは前を向いたまま言う。
「わかるけど、今はそれでしんどくなる必要ない」
「そこまで今のお前にやらせたくねぇ」
タイキはその言葉を聞いて、苦く笑いそうになる。
「何だよそれ」
「そのままだよ」
「過保護」
「病人にはそれくらいでいい」
「病人って言えば何でも通ると思うなよ」
「通るだろ、今は」
短いやり取り。
でも、そのやり取りがあるだけで、部屋の空気が少しずつやわらぐ。
タイキは枕に顔を半分だけ埋めた。
「……ルイ」
「ん」
「嫉妬は、した」
ルイの目が、そこで一瞬だけ止まる。
タイキは視線を逸らしたまま続ける。
「ちょっとだけな」
その言い方が、妙に正直で、ルイの胸の奥が静かに鳴る。
驚きはしない。
でも、ちゃんと口にされるとやっぱり嬉しい。
ルイはそこで少しだけ目を細めた。
「知ってる」
「は?」
「顔に出てる」
「出してねぇし」
「出てる」
タイキはそこで小さく舌打ちしたくなる。
でも、熱の残る身体ではそれすら少し面倒で、結局ただ枕を引き寄せただけだった。
ルイはそんなタイキを見てから、ほんの少しだけ手を伸ばす。
でもすぐには触れない。
一拍置いて。
タイキが嫌そうな顔をしないのをちゃんと見てから。
そっと、前髪を少しだけ整える。
「……でも」
低い声。
「言ってくれてよかった」
タイキの心臓が、また少しだけ鳴る。
言わなきゃよかった、と思う。
でも、言ったこと自体は後悔していない。
それくらいには、ルイの今の触れ方も、言葉も、ずるかった。
「今度は、最初から言え」
タイキがぽつりと返す。
ルイが少しだけ眉を上げる。
「何を」
「案件のことも」
少し間。
「そういうのも」
ルイはその“そういうの”の意味をたぶん理解していた。
嫉妬とか。
引っかかりとか。
不安にさせたくないから薄くする、みたいなこと全部。
ルイは前髪から手を離して、静かに答える。
「努力する」
「努力かよ」
「簡単じゃねぇだろ」
「まあな」
そこで二人とも少しだけ笑った。
夜の部屋。
少し下がった熱。
仕事の話。
小さな嫉妬。
それでも今の二人は、前みたいにそれを飲み込まずに、少しずつ言葉にできるところまで来ている。
ルイはベッドの端から立ち上がる前に、もう一度だけタイキを見る。
「次の薬、あと一時間」
「覚えてる」
「その前に寝ろ」
「命令?」
「お願いでもいい」
その返しに、タイキは小さく目を細めた。
「……じゃあ、聞いとく」
ルイはその言葉を聞いて、少しだけやわらかい顔になった。
案件のことは、まだ全部終わったわけじゃない。
たぶんこれからも、引っかかることはある。
でも今は、それでもいいと思えた。
少なくとも、言わずに抱えるよりはずっといい。
夜の部屋は、昼より少しだけ静かだった。
熱が少し下がったぶん、タイキの呼吸も前よりずっと穏やかだ。
額の赤みも朝ほどじゃない。
ベッド脇の灯りが、シーツとルイの横顔をやわらかく照らしている。
ルイはベッドの端から立ち上がって、サイドテーブルの上の薬と水をもう一度だけ確認した。
次の服薬時間。
体温。
冷却シートの残り。
そういう現実的なことを一つずつ頭の中で並べる。
並べないと、別のことを考えそうだった。
タイキはベッドに横になったまま、その背中を見ている。
さっき案件のことを聞いて、少しだけ嫉妬したって言って。
そのあともルイはいつも通りみたいな顔で薬の時間を確認している。
でも、その“いつも通り”が少しだけ無理してるのも、今のタイキにはわかった。
「ルイ」
呼ぶと、ルイが少しだけ振り返る。
「ん」
タイキは枕に頬を半分預けたまま、しばらく何も言わなかった。
本当は何か言いたい。
でも、何をどう言えばいいのかはまだちゃんとわからない。
ルイはその沈黙を急かさない。
急かさないまま、少しだけ視線をやわらげる。
それが、逆にタイキには少しずるかった。
「……今日」
ようやく出た声は、思っていたより小さい。
「ん」
「まだ、いるの」
その問いに、ルイの目がほんの少しだけ揺れた。
たぶん、意味がわかってる。
“今この瞬間”じゃなくて。
“この夜”の話だと。
ルイはローテーブルの縁に軽く手を置いて、少しだけ視線を落とした。
それから、静かに答える。
「今夜、お前が寝たら」
少し間。
「ちゃんと帰る」
タイキの胸の奥が、そこで小さく鳴る。
ちゃんと帰る。
その言い方が、妙に残る。
昨夜は“朝までいる”と言った。
実際そのまま、ベッド脇の椅子で眠ってしまった。
でも今夜は違う。
熱は少し下がった。
意識もはっきりしてる。
こうしてちゃんと会話もできている。
だからルイは、自分で線を引いた。
タイキはすぐには何も返せなかった。
寂しい、と思ったのか。
安心したのか。
その両方なのか。
自分でもまだよくわからない。
ルイはその沈黙を見て、少しだけ苦く笑うように息を吐いた。
「その顔すんなよ」
タイキが目を上げる。
「どんな顔」
「……わかるだろ」
ルイは視線を少しだけ逸らした。
「昨日は、お前ほんとにしんどかったし」
「一人にするの無理だったから、朝までいた」
低い声。
でも、冷たくはない。
「今日は少し下がった」
「薬も効いてるし、水も飲めてるし、ちゃんと話せてる」
少し間。
「だから、帰る」
その説明は筋が通っている。
仕事みたいに、整っている。
でもタイキには、それだけじゃないことも伝わる。
ルイは“帰れるから帰る”んじゃない。
“帰らないと危ないから帰る”んだ。
今の自分たちの距離で。
今の空気のまま。
この部屋で夜をまたぐのは、たぶん少し危うい。
そこまで含めて、ルイはちゃんと考えている。
タイキは小さく息を吐いた。
「……俺が寝なかったら」
ルイの喉が、小さく鳴る。
タイキは視線を逸らさないまま続ける。
「お前、ずっといるの」
その問いに、ルイはしばらく答えなかった。
夜の部屋に、短い沈黙が落ちる。
それから、ルイは目を細めた。
「寝ろよ」
「答えになってねぇ」
「答えたら、お前寝ないだろ」
その返しに、タイキは少しだけ口元を動かす。
笑いそうになって、でも笑いきれない顔。
図星だった。
ルイはそこで少しだけ天井を見たあと、もう一度タイキを見る。
「……起きてたら、いるよ」
タイキの目が、わずかに揺れる。
ルイはそこで続ける。
「でも、お前がちゃんと寝たら」
「その時は帰る」
その言い方が、やさしくて。
でも、ちゃんと線を引いていて。
タイキには、それが少しだけ苦しかった。
「……そっか」
小さく返す。
ルイはその一言を聞いて、ほんの少しだけ表情をやわらげた。
「明日の朝、熱がまた上がってたら来る」
「連絡もする」
「必要なら病院も連れてく」
淡々と言う。
でも、そこに迷いはない。
「だから今夜は」
少し間。
「ちゃんと寝ろ」
タイキは枕に顔を少しだけ沈めた。
“帰る”という言葉だけを切り取れば寂しい。
でも、ルイがそう言う理由まで見えるから、ただ寂しいだけでは終われない。
ルイは前みたいに曖昧にしない。
近づける時と、近づかない方がいい時を、自分で選ぼうとしている。
それがわかるから、責める気にもなれない。
むしろ、その線を引くルイを見ていると、また少しだけ胸が鳴る。
「……ルイ」
「ん」
「ちゃんと帰る、って何」
その聞き方に、ルイは少しだけ眉を上げた。
「何って」
「言い方」
「妙に強調しただろ」
ルイはそこで、一瞬だけ言葉を探した。
それから、小さく息を吐く。
「……ちゃんと帰らないと」
タイキが黙って聞いている。
ルイは視線を少しだけ落としたまま続ける。
「俺が、帰れなくなりそうだから」
部屋の空気が、そこで少し変わる。
タイキの呼吸が止まる。
ルイはそのまま顔を上げない。
でも声は逃げていなかった。
「今のお前、熱も少し下がってるし」
「喋れるし、顔色も朝よりいいし」
「だから」
ほんの少しだけ苦く笑うみたいに、口元が動く。
「昨日より危ない」
その一言が、静かに落ちる。
タイキの心臓が、どくんと鳴る。
熱のせいじゃない。
もうそれはごまかせない。
ルイはやっぱり、正直だ。
言わなくていいところまで、言ってしまう時がある。
しかも、それが全部ちゃんと本音だから、余計に効く。
「……何だよ、それ」
タイキが掠れた声で言う。
ルイはようやくそちらを見た。
「そのままだよ」
短く、でもやわらかい声。
「お前がちゃんと起きてて」
「俺のこと見てて」
「普通に会話してる今の方が、昨日よりずっと落ち着かねぇ」
タイキは目を逸らせなかった。
ルイはそこで、ほんの少しだけ笑う。
「だから、寝たら帰る」
「それが今の俺の理性」
その言い方に、タイキは小さく息を詰める。
帰る、は拒絶じゃない。
むしろその逆だ。
大事にしたいから帰る。
壊したくないから帰る。
その意味が見えすぎるくらい見えてしまって、胸の奥がじわっと熱くなる。
「……ずるい」
タイキがぽつりと漏らす。
ルイの眉がほんの少し動く。
「何が」
「そういう言い方」
少し間。
「帰るって言ってんのに」
「何か、引き止めたくなるだろ」
その言葉に、今度はルイが黙る番だった。
数秒、どちらも動かない。
ルイは喉を小さく鳴らして、それから低く言う。
「引き止めんな」
タイキは少しだけ目を細める。
「何で」
ルイは視線を逸らした。
「引き止められたら」
「多分、残る」
その答えがあまりにも正直で、タイキは一瞬言葉を失う。
残る。
そう言い切る。
でも、それでも“寝たら帰る”を選んでる。
そこまで見えてしまうから、余計に苦しい。
タイキは枕に顔を少しだけ押しつけた。
「……じゃあ寝る」
ルイが少しだけ目を上げる。
「は?」
「寝ればいいんだろ」
「そういう意味で言ってねぇよ」
「でも寝たら帰るんだろ」
「そうだけど」
「なら寝る」
その返しに、ルイは本気で少しだけ困った顔をした。
タイキはその表情を見て、ようやく少しだけ笑う。
熱はまだ残ってる。
身体もしんどい。
でも、ルイがこういう顔をするのは、少しだけ見ていたかった。
ルイは小さく息を吐いて、ベッドの端に腰を下ろした。
「……お前、そういうとこだぞ」
「何が」
「人の理性で遊ぶな」
タイキは枕に顔を半分埋めたまま、くぐもった声で返す。
「散々、遊ばれた側なんだけど」
その一言に、ルイの口が閉じる。
何も言い返せない。
言い返せない代わりに、少しだけ肩を落とした。
タイキはそんなルイを見ながら、目を閉じる前に小さく言う。
「でも」
ルイがそちらを見る。
「ちゃんと帰るって、言ってくれてよかった」
ルイの目がわずかに揺れる。
タイキは続ける。
「言わずに曖昧にされるより、そっちの方がいい」
その言葉に、ルイはしばらく何も返せなかった。
それから、ほんの少しだけ目元をやわらげる。
「……そっか」
低い声。
でも、そこには少しだけ救われたような響きがあった。
ルイはベッドの端に座ったまま、タイキの額をもう一度だけ確認する。
熱はまだ少しある。
でも、眠気も来ている顔だ。
「寝ろ」
小さく言う。
タイキは目を閉じたまま、少しだけ口元を動かした。
「起きたら、まだいたらいいのに」
その一言に、ルイの呼吸が止まる。
でも、今度は何も言わなかった。
言ったら、たぶん帰る線がまた曖昧になる。
だから返事の代わりに、そっと前髪を整える。
それだけ。
でも、それだけでタイキは少しだけ安心したみたいに、呼吸をゆるめた。
今夜、お前が寝たら。ちゃんと帰る。
その言葉は、離れるための言葉じゃなくて。
今の二人の距離を守るための、ルイなりの約束だった。
タイキの呼吸が、少しずつ深くなっていく。
ルイはベッドの端に座ったまま、その変化をじっと見ていた。
瞼の力が抜けて。
口元の強ばりも消えて。
熱の残る額だけが、まだほんの少し赤い。
でも、もうちゃんと眠りに落ちている。
ルイはそこでようやく、小さく息を吐いた。
「……寝たか」
返事はない。
その静けさを確認してから、ルイはそっと立ち上がる。
ベッドの軋む音すら立てないように、慎重に。
前髪が少し乱れていたから、最後に一度だけ整えそうになって、でもやめた。
触れない。
今夜はもう、それでいい。
サイドテーブルの上を片づける。
飲み終えたグラス。
薬のシート。
冷却シートの空袋。
スポドリの残りは冷蔵庫に入れて、朝すぐ飲めるように前へ出しておく。
それから、置き手紙じゃなくてスマホを手に取った。
眠っているタイキを起こさないように、寝室のドアを少しだけ閉める。
完全には閉めない。
朝、空気がこもらない程度に。
玄関で靴を履きながら、もう一度だけ部屋の中を振り返る。
静かだ。
昨夜の熱も、朝のやり取りも、午後の会話も、全部この部屋に残っている気がした。
でも今は、その余韻を置いていく方が正しい。
ルイはポケットから合鍵を取り出した。
マンションの共用廊下は、夜の空気に少しだけ冷えている。
ドアを閉める音が響かないように、ゆっくりノブを戻す。
そのままポストの前まで歩いて、鍵を中へ落とした。
カタン。
小さな金属音。
それを聞いた瞬間、ようやく“ちゃんと帰る”を本当にやったんだと思う。
ルイはスマホを開いて、タイキとのトーク画面に短く打ち込む。
寝たから帰る
鍵、ポストに入れた
朝、熱測ってから連絡しろ
少し考えて、最後にもう一文。
おやすみ
送信。
画面を閉じたあと、ルイはその場で小さく息を吐いた。
「……帰るか」
自分に確認するみたいに、そう呟く。
帰った。
ちゃんと。
でも、その“ちゃんと”の中には、少しだけ寂しさも混ざっていた。
⸻
夜道は、思っていたより静かだった。
人通りも少なくて、コンビニの光だけが妙に明るく見える。
ルイはジャケットのポケットに手を入れたまま、ゆっくり歩いた。
ひとりの帰り道。
でも、今夜は前みたいな空っぽさじゃない。
昔の夜は、タイキの部屋から出ても、ルイの部屋からタイキを帰しても、いつも妙な渇きだけが残った。
満たされたようで全然満たされていなくて、近くにいたはずなのに余計に遠いみたいな夜ばかりだった。
でも今夜は違う。
看病して。
粥を作って。
薬を飲ませて。
熱を測って。
眠るまでそばにいて。
それだけだった。
なのに、その“それだけ”が今までのどの夜より深く残っている。
ルイは歩きながら、何度か小さく息を吐く。
昼前に、腕にくっついて寝ていたタイキ。
「離してくれ」と言った時の、自分でも情けないくらい困った声。
頭を撫でた時の、タイキの「ずるい」。
袖を掴まれた朝。
“怖くないの”と聞いた自分。
“されたことねぇし”と照れた顔で返したタイキ。
それから夜。
案件のことを聞かれて。
嫉妬したと小さく認めたタイキ。
“ちゃんと言え”と言われたこと。
“今夜、お前が寝たら。ちゃんと帰る”と言った自分。
全部が、思っていたよりずっとやわらかく胸に残っていた。
「……同じ夜、か」
小さく呟く。
前と同じ“二人きりの夜”のはずなのに。
意味が全部変わった。
欲しいからじゃなく。
離したくないからでもなく。
ただ、熱が下がるまでそばにいる夜。
それがこんなに苦しくて、こんなにあたたかいなんて、少し前なら絶対にわからなかった。
ルイは夜空を見上げる。
雲が薄い。
街の灯りに白くにじんで、星は見えない。
でも、それでもよかった。
今夜は、自分の中の焦りより、ちゃんと帰れたことの方が大きい。
ルイはポケットの中でスマホに触れる。
もう返信は来ない。
来るとしても朝だ。
それでいいと思う。
今夜はその距離のまま終わるのが、たぶん一番正しい。
「……ちゃんと寝ろよ」
誰もいない夜道に、小さく落とす。
その言葉の先にある相手の顔が、ちゃんとやわらかく浮かぶ夜だった。
翌朝。
最初に感じたのは、熱がちゃんと下がっている、ということだった。
頭の重さが違う。
喉の渇きはあるけど、昨日みたいな火照りがない。
身体の節々もまだ少しだるいけど、もう寝込むほどではない。
タイキはベッドの上でしばらく天井を見ていた。
部屋は静かだ。
カーテンの隙間から朝の光が入っている。
エアコンの音。
遠くで車が走る気配。
ひとりだ。
その当たり前に気づいて、タイキはゆっくり起き上がる。
寝室のドア。
リビング。
ローテーブルの上。
少し前に出してあるスポドリ。
冷蔵庫の音。
部屋を見渡しながら、タイキは小さく息を吐いた。
「……ちゃんと、帰ったか」
少しだけ口元が動く。
昨夜の最後、自分は眠気に負けた。
ルイがどう帰ったのか、鍵をどうしたのか、ちゃんと見送ったわけじゃない。
でも、玄関までの物音も、ドアの閉まる気配も、どこかで薄く覚えている。
スマホを手に取る。
画面をつけると、ルイからのLINEがあった。
寝たから帰る
鍵、ポストに入れた
朝、熱測ってから連絡しろ
おやすみ
タイキはその文面を見たまま、しばらく動かなかった。
“おやすみ”まで、ちゃんと打ってある。
ぶっきらぼうな文の並びの最後に、その四文字だけがやけにやわらかく見える。
「……律儀」
小さく呟く。
でも、その律儀さが嫌じゃない。
むしろ今朝の静けさの中では、妙に心地よかった。
タイキは体温計を探して熱を測る。
数字を見て、小さく息を吐く。
「よし」
すっかり、とは言わない。
でも、もう大丈夫だ。
スマホを開いて、まずはグループLINEに送る。
タイキ
熱、だいぶ下がった
今日は午後からなら顔出せそう
昨日ごめん
すぐに既読が増えるだろうけど、今はまだ返事を待たない。
続けて、雛子との個別トークを開く。
タイキ
おはようございます
熱、下がりました
午後からなら顔出せます
送信。
そこまでしてから、タイキはスマホをベッドへ置いた。
朝一でシャワーを浴びたいと思った。
汗の残り。
熱の夜の名残。
ルイがいた部屋の空気。
その全部を、一度きれいに流したかった。
バスルームへ向かう。
服を脱いで、シャワーをひねる。
少し熱めのお湯が落ちてくる音。
その音を聞いた瞬間、昨夜のことがまた静かに戻ってきた。
粥を作るルイ。
ベッド脇の椅子。
寝言で名前を呼んだこと。
手を探して、掴んだこと。
昼前、腕にくっついていた自分。
“ここにいてやるから”と言った声。
夜、案件のことをちゃんと話したあとで、“今夜、お前が寝たら。ちゃんと帰る”と言った顔。
シャワーの湯が肩を流れる。
タイキは目を閉じた。
熱のせいだけにしたい瞬間が、いくつもあった。
弱っていたから。
頭がぼんやりしていたから。
そういうことにしてしまいたかった。
でも、今朝目が覚めて熱が下がっても。
思い出した時の心臓の鳴り方は、やっぱり変わらなかった。
「……無理だろ」
小さく漏らす。
ルイは変わった。
それはもう、嫌でもわかる。
触れ方も。
止まり方も。
言葉の選び方も。
でも一番困るのは、そういう変化全部が、ただの反省とか義務じゃなくて、ちゃんと“好きだから”に見えてしまうことだった。
シャワーの中で、タイキは額に手をやる。
もう熱は高くない。
なのに、思い出すたびに耳の奥まで熱くなる。
“ちゃんと帰ったか”。
朝起きて最初にそう思ったことも、少しだけ照れくさい。
帰るって言ったんだから、帰るに決まってる。
それでも、自分の中ではあの夜の続きがまだどこかに残っていた。
シャワーを止める。
部屋の外は、昨日より少しだけはっきりした現実に戻っている。
午後からはスタジオだ。
仕事もある。
案件の話も、たぶん聞くことになる。
それでも今朝のタイキの胸の中に残っていたのは、まず仕事じゃなくて、昨夜静かに帰っていったルイの背中だった。
ちゃんと帰った。
でも、ちゃんと戻ってきた夜でもあった。
そのことを思いながら、タイキはタオルを頭にかぶせた。
今日は、少しだけましな顔でスタジオへ行けそうな気がした。
コメント
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うわ〜〜第16話、読み終わったあとの余韻がすごいよ…😭💕 ルイがちゃんと線引いて「帰る」って決めたところ、あれマジでエモすぎた。でもそれ以上にタイキが「ちゃんと言ってほしい」って伝えたシーン、二人の関係がちゃんと前に進んでる感じがして胸熱だった🔥 そしてゴイチの「揺れたら連絡しろ」…何それずるすぎる。相棒の域超えてるよあの人〜〜!🥺💗 何気ない夜の静けさの中にぎゅっと詰まった感情の機微、ほんと大好きです…! 次がもう待ちきれない〜〜!!🌸