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#ご本人様とは一切関係ありません
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あんにんどう腐(ゆ腐)
2,751
#ご本人様とは一切関係ありません
さくら(皇千ト君最推し)
2,469
午後のスタジオは、昼の光が少し斜めに入っていた。
窓のない空間のはずなのに、出入りのタイミングで差し込む外の明るさが、どこか午後らしい空気を運んでくる。
スタッフの声。
音源確認の音。
床を擦るスニーカーの音。
タイキはその中へ、少しだけ静かな顔で入ってきた。
熱はもうほとんど引いている。
顔色も昨日よりずっといい。
でもまだ身体の芯に少しだけだるさが残っていて、いつもの軽さよりは一段低い場所にいる感じがする。
「おはよ」
遅めの出勤に近い時間だから、“おはよう”より“来たな”の温度に近い声だった。
最初に気づいたのはアダムだった。
「タイキ」
短く名前を呼んで、近づいてくる。
その後ろでゴイチも顔を上げた。
「お、顔色戻ってんじゃん」
タイキはバッグを下ろしながら、小さく肩をすくめる。
「だいぶな」
「朝のLINE見た」
アダムが言う。
「無理そうなら帰せって雛子にも言われてる」
「そこまでじゃねぇよ」
そう返しながら、タイキの視線は自然にスタジオの中を探していた。
いつもの場所。
鏡の前。
壁際。
休憩スペース。
でも、探している二人の姿がない。
「……ルイは?」
先にそう聞いたのは、ほとんど無意識だった。
アダムが少しだけ視線を横にずらす。
ゴイチがそれを引き取るように答えた。
「カノンと一緒に、別室で打ち合わせ」
タイキの喉が、小さく動く。
知ってる。
案件のことは昨夜、ルイから聞いた。
服の撮影。
カノン。
だから驚きはしない。
でも、こうして自分が来たスタジオにルイがいない理由として、その名前が改めて出ると、胸の奥に小さく引っかかるものがある。
タイキはそれを顔に出さないようにしながら、水のペットボトルを手に取った。
「まだやってんの」
ゴイチが頷く。
「ブランド側とスタイリスト入ってるっぽい」
「ちょい長い」
少し間。
タイキはキャップを開けながら聞いた。
「……どんなやつ」
ゴイチとアダムが、一瞬だけ目を合わせる。
タイキが何を聞いているのか、ちゃんとわかっている顔だった。
アダムが先に言う。
「秋ライン」
「メンズの服撮り」
ゴイチが続ける。
「二人の空気感重視」
「距離は近いけど、露骨じゃないやつらしい」
「静かな強さっていうか、そういう雰囲気寄り」
タイキは水を一口飲んだ。
でも、うまく喉に落ちていく感じがしない。
静かな強さ。
距離は近い。
二人の空気感。
それをルイとカノンでやる。
頭では仕事だとわかっている。
わかっているからこそ、逆に絵が浮かんでしまう。
ルイの視線の強さ。
カノンの空気の乗せ方。
二人とも“距離の演出”ができるタイプだ。
だからブランド側が欲しがるのもわかる。
わかるけど、そこに納得と感情は一致しない。
「……へぇ」
ようやくそれだけ返す。
ぶっきらぼうでもない。
でも、あまり感情を乗せない声。
ゴイチはその横顔を見ながら、内心で小さく息を吐いた。
やっぱり、引っかかるよなと思う。
そりゃそうだ。
昨日まで熱を出して寝ていて、ルイはそばにいて、やっと少し戻ったところで、今度はルイとカノンの“距離感案件”だ。
タイミングとしては、だいぶ悪い。
「まあ、仕事だけどな」
ゴイチが何でもない調子で言う。
タイキは少しだけ目を向ける。
「知ってる」
「うん」
ゴイチは頷く。
「知ってる顔してる」
それを聞いて、タイキは少しだけ口元を歪めた。
「何だよ、それ」
「いや」
「知ってるけど、嫌なんだろうなって」
あまりにそのまま言われて、タイキは一瞬言葉に詰まる。ゴイチは見抜いてる。カノンが話したのか、どこまで自分たちのことを知ってるのかもわからない。でも今更、下手に隠すのももう面倒だ。
アダムは横で何も言わない。
でも、静かな目でタイキを見ている。
逃げ場をなくすためじゃなく、正確に見ている目だった。
タイキは視線をペットボトルへ落とす。
「……嫌ってほどじゃない」
小さく言う。
でも、その言い方だけで十分だった。
“ほどじゃない”の中に、ゼロじゃないものがちゃんとある。
ゴイチはそれを責めるつもりはなかった。
むしろ自然だと思う。
「まあ」
少し肩をすくめる。
「ゼロじゃないなら、それでいいんじゃねぇの」
タイキが目を上げる。
ゴイチは続けた。
「今の時点で、全部綺麗に割り切れてる方が逆に不自然だろ」
タイキは少しだけ目を細める。
それは昨日の自分なら、ちょっとムッとしたかもしれない。
でも今は、その通りだとも思う。
割り切れてない。
たぶん、ちゃんと。
嫉妬したって昨夜ルイに言った。
それを今さら、ここで“全然何ともない”みたいにする方が嘘っぽい。
アダムがそこで静かに口を開いた。
「打ち合わせのあと、撮影自体はまだ先だ」
「今、そこで一人で先回りしてしんどくなる必要はない」
タイキはその言葉を聞いて、小さく息を吐く。
「わかってる」
「うん」
アダムは頷く。
「わかってる顔もしてる」
さっきのゴイチと同じことを違う言い方で言われて、タイキは小さく舌打ちしたくなった。
でも、その二人の見方が嫌じゃないこともわかっている。
「……ルイ、何か言ってた?」
タイキがぽつりと聞く。
ゴイチは少しだけ考えてから答える。
「仕事の話しかしてなかったな」
アダムが補足する。
「多分、切り替えてる」
その一言が、タイキの胸に静かに落ちる。
切り替えてる。
たぶんそうだろうと思う。
ルイはそうする。
しかも、タイキに余計な不安を持ち込まないように、昨日の夜の時点でたぶんある程度決めていた。
そこまで考えると、また少しだけ胸の奥があたたかくなる。
厄介な感情と、救われる感じが同時にある。
「……そっか」
小さく返す。
午後のスタジオ。
ルイはいない。
でも、いないからこそ見えるものもある。
タイキはペットボトルのキャップを締め直しながら、心の中で一つだけ思う。
帰ってきたら、顔見ればわかる。
それでいい。
たぶん今は、それで。
その頃、スタジオ奥の小さな打ち合わせルームでは、別の空気が流れていた。
壁際にハンガーラック。
テーブルの上にはブランド資料とルックブック。
スタイリストとカメラ側スタッフがモニターを見ながら話している。
ルイとカノンは並んで座っていた。
距離は仕事の距離。
自然で、でも必要以上に近くはない。
ブランド担当が資料をめくりながら説明している。
「今回は“静かな熱”がテーマです」
「派手な表情より、目線と距離感で見せたい」
「二人の会話が聞こえてきそうな画、でも説明しすぎない感じ」
カノンが資料を見ながら小さく頷く。
「なるほど」
ルイもタブレットに目を落としたまま、要点を拾っていく。
「服のシルエットは崩さない」
「でも硬くしすぎない、で合ってます?」
スタイリストがすぐに反応する。
「そうです」
「ルイさんは線の綺麗さを出したい」
「カノンさんは少しだけ抜けを作れると理想」
カノンが「うわ、めっちゃわかる」と少し笑う。
「俺、そういうの好きです」
「でしょ?」
雛子がすぐに入る。
「だからこの組み合わせ来てるんだから」
その言葉に、ルイは何も言わない。
ただ、画面を見ながら必要な部分だけを拾っていく。
でも、その沈黙の下で考えていることは、仕事だけではなかった。
タイキ、今頃スタジオ入ったか。
熱、ぶり返してねぇといいけど。
ちゃんと水飲んでるか。
そういう思考が、説明の合間に何度も一瞬だけ頭をよぎる。
「ルイさん」
ブランド担当に呼ばれて、ルイはすぐ顔を上げる。
「はい」
「このくらいの距離感、できますか」
見せられた参考写真。
肩がほとんど触れそうな位置で並ぶ二人。
顔は近い。
でも、あくまで静か。
ルイの視線が一瞬だけその画に止まる。
できる。
もちろん、仕事ならできる。
「できます」
短く答える。
カノンは横でその返事を聞きながら、少しだけルイを見た。
切り替えている。
本当に、仕事として座っている顔だ。
でも、その切り替え方が逆に少しだけ痛かった。
ルイは今、ちゃんとルイで。
ちゃんとプロで。
そしてたぶん、その奥には別の誰かがいる。
そこまでわかるから、カノンは苦笑したくなる。
「カノンさんはどうですか?」
問われて、カノンもすぐに前を向く。
「大丈夫です」
「距離感で見せるやつなら、むしろやりやすいです」
雛子が小さく頷く。
「二人ともそこは信用してる」
打ち合わせはそのまま進む。
服の色味。
撮影場所。
ポージングの方向性。
雑誌とSNSで少しトーンを分けること。
その一つひとつを、ルイとカノンはしっかり聞いて、必要な返答をしていく。
仕事としては、何の問題もない。
でも、カノンは途中で一瞬だけ思う。
タイキ、これ知ったら絶対ちょっと嫌だろうな。
そして同時に、ルイも多分同じことを考えている気がした。
だからこそ、ルイは必要以上に私情を持ち込まない。
私情を消してるんじゃなくて、持ち込まないようにしてる。
そこが、今のルイだった。
打ち合わせが一区切りついたところで、短い休憩が入る。
カノンがペットボトルを開けながら、何でもないふうに言う。
「お前、今日やたら真面目だな」
ルイは水を一口飲んでから返す。
「いつも真面目だろ」
「出たよ」
カノンは少しだけ笑う。
でもその笑いのあとに、小さく続ける。
「タイキ、来てる?」
ルイの目が、ほんの一瞬だけ動く。
「あぁ」
「体調は?」
「昼よりは下がってる」
「そっか」
カノンはそれ以上何も聞かなかった。
聞かなくても、今のルイの気の張り方でだいたいわかる。
仕事にちゃんと集中してる。
でも、気持ちは完全にはこっちに置いていない。
それが、少し前までルイを好きだったカノンには、皮肉なくらいよく見えた。
「……大丈夫だよ」
ぽつりと、カノンが言う。
ルイが少しだけ顔を向ける。
「何が」
「お前がそんな顔してなくても」
「仕事はちゃんと回るって話」
ルイはそこで少しだけ目を細めた。
「どんな顔だよ」
「落ち着いてるふりして、全然落ち着いてねぇ顔」
その返しに、ルイは一瞬だけ言葉を失って、それから小さく息を吐いた。
「うるせぇ」
「はいはい」
カノンはペットボトルを傾けながら笑う。
でも、その笑いの中にはもう前みたいな未練だけはなかった。
少しだけ寂しくて。
少しだけ、ちゃんと前を向いていて。
そして今は、仕事を一緒にやる相手としてルイを見ている。
「終わったら、さっさと帰れよ」
カノンが何でもないふうに言う。
「今の顔のままスタジオ戻ったら、たぶんタイキにバレる」
ルイがそこで、ほんの少しだけ口元を動かした。
「もうバレてるだろ」
カノンは「それもそう」と笑う。
休憩は終わる。
また打ち合わせが始まる。
ルイとカノンは資料へ視線を戻す。
仕事として、並ぶ。
ちゃんとやる。
でもその裏で、それぞれ違う相手や違う感情を抱えている。
それでも前へ進いていくところが、今のこのグループらしかった。
打ち合わせが終わって、ルイがスタジオへ戻ってきたのは、午後のリハが始まる少し前だった。
ドアが開く音。
それだけで、タイキの視線が反射みたいにそっちへ向く。
ルイだった。
ジャケットの袖を軽くまくって、タブレットを片手に持ったまま入ってくる。
打ち合わせ帰りの少し張った空気。
でも歩き方はいつも通りで、顔も仕事のまま整っている。
なのに。
その姿を見た瞬間、タイキの胸の奥がふっとゆるむ。
(……あ)
戻ってきた。
その当たり前みたいな事実に、思っていた以上に安心してる自分がいて、タイキは少しだけ目を細めた。
別に、帰ってこないわけじゃない。
仕事なんだから当たり前だ。
わかってる。
でも。
さっきまでルイがいないスタジオは、妙に落ち着かなかった。
カノンと一緒に案件の打ち合わせ。
距離感重視の服撮影。
聞かされたあとだったから余計に。
頭では仕事だとわかっていても、視界にいない時間はやっぱり少し長く感じた。
ルイはスタジオへ入った瞬間、まず雛子に何か短く返して、それからまっすぐこっちを見た。
いや、“こっち”じゃない。
正確には、タイキを見た。
その視線が合った瞬間、タイキの呼吸が少しだけ止まる。
ルイは一瞬だけ目を細める。
それは、ようやく戻ってきた相手を見る目じゃなくて、まず状態を確認する目だった。
そのまま、迷いなく近づいてくる。
タイキの前で足を止めると、ルイはタブレットを脇に持ち替えて、少しだけ顔を覗き込むようにした。
「熱は」
第一声が、それだった。
仕事の話でもない。
案件の説明でもない。
“ただいま”でもなければ、“戻った”でもない。
熱は。
タイキの胸の奥が、そこで静かに鳴る。
「……下がってる」
少しぶっきらぼうに返す。
でも、それは照れ隠しでしかなかった。
ルイは眉をわずかに寄せる。
「ちゃんと測ったか」
「測った」
「数字は」
「三十七度台前半」
それを聞いて、ルイの肩からほんの少しだけ力が抜ける。
タイキはその変化を見逃さなかった。
「粥は」
「食った」
「薬は」
「飲んだ」
「水」
「飲んでる」
ルイはそこでようやく、小さく息を吐く。
「……ならいい」
その“ならいい”が、やけにやわらかい。
タイキはルイを見上げたまま、少しだけ口元を動かした。
「何だよ」
「戻ってきて最初それ?」
ルイは一瞬だけ目を向ける。
「それが一番大事だろ」
短く返す。
その言い方に迷いがない。
タイキはそこで、どうしようもなく安心してしまう。
案件の打ち合わせから戻ってきた。
カノンと一緒の仕事の話をしていた。
そのはずなのに、戻ってきて最初に見るのは自分の熱。
そこが、やっぱりずるい。
「……仕事は」
タイキがぽつりと聞く。
ルイは少しだけ視線を逸らして、それからまた戻した。
「まとまった」
「細かいのはまた後で詰める」
短い説明。
深くは言わない。
でも、今のルイはわざと避けてるというより、“今はそこじゃない”と切り分けてる感じだった。
タイキにはその違いが、ちゃんとわかる。
ルイは案件のことを雑に扱っているわけじゃない。
むしろちゃんとやってきた顔をしてる。
そのうえで今は、仕事より先にタイキの熱を見る方を選んでる。
それが、妙に胸にくる。
ルイはそこで少しだけ距離を詰めた。
「顔、まだ少し赤い」
「さっきよりマシだろ」
「マシなだけだ」
その返しに、タイキは少しだけ笑う。
「厳し」
「病人にはこれくらいでいい」
「もう病人ってほどじゃねぇよ」
「午前休んだやつが言うな」
淡々としたやり取り。
でも、その一つひとつが不思議と心地いい。
少し離れたところで、その空気を見ていたゴイチが小さく息を吐いた。
(……あぁ)
大丈夫だ、と思う。
案件の名前を聞いた時のタイキの引っかかりも。
カノンとの空気も。
全部ゼロじゃない。
でも今、ルイが戻ってきて最初にタイキの顔色を見ていること。
タイキがそれだけで少し安心した顔をしていること。
それを見れば、たぶん今の優先順位はもう十分わかる。
アダムもまた、何も言わずにそのやり取りを見ていた。
口を挟む必要がない時の静けさで。
カノンはルイの少し後ろで、その様子を見てからわずかに目を細める。
戻ってきた瞬間、ルイの視線が探したのはタイキだった。
そして、タイキがほっとしたのも見えた。
それだけで、少しだけ胸の奥がきしむ。
でも、それと同時に、ちゃんと前を向ける感じもあった。
「ルイ」
雛子の声が少し離れたところから飛ぶ。
「五分後、確認入る」
ルイがそちらへ顔を向ける。
「わかった」
でも、その返事をしたあとでもすぐには離れない。
もう一度だけタイキを見る。
「しんどくなったら言えよ」
低い声。
タイキは少しだけ眉を上げた。
「誰に」
「誰でもいい」
少し間。
「でも、できれば俺に」
その一言に、タイキの胸が静かに熱くなる。
案件のあとで。
カノンの隣から戻ってきて。
それでも、こういう言葉を迷いなく置いていく。
ほんとにずるい、と思う。
「……わかった」
タイキは小さく返す。
ルイはそれを聞いて、ようやくほんの少しだけ表情をやわらげた。
それから離れていく。
完全に仕事の顔に戻る前に、一瞬だけ見せたそのやわらかさが、タイキにはやけに残った。
ルイの背中を見送りながら、タイキは内心で小さく息を吐く。
安心した。
それが、いちばん先に来た本音だった。
案件のことも気になる。
カノンと並ぶところを想像すれば、やっぱり少し引っかかる。
でも、それより先に、“戻ってきた”ことに安心してしまった。
しかも戻ってきて、最初に心配したのが自分の熱。
そこまで見せられたら、引っかかりだけで終われるわけがない。
タイキはペットボトルを手に取りながら、少しだけ目を伏せた。
「……何なんだよ」
小さく呟く。
でもその言葉の奥は、前みたいな棘じゃなかった。
もっとやわらかくて。
もっと静かで。
ちゃんと安心した人間の音だった。
撮影当日。
朝から現場の空気は少しだけ張っていた。
アパレルの撮影用に組まれた白背景。
可動式のライト。
衣装ラックに並ぶ秋物のジャケット、ニット、シャツ。
スタイリストが最終のシワを伸ばし、ヘアメイクが細かい毛流れを整える。
今日の主役は、ルイとカノン。
“静かな熱”。
“近いのに説明しすぎない距離”。
“視線だけで空気を作れる二人”。
そういうオーダーで呼ばれた撮影だった。
ルイは鏡の前でジャケットの襟元を整えながら、静かに息を吐いた。
服はよく似合っている。
黒に寄りすぎない深いチャコール。
少し柔らかさのあるシルエット。
余計なアクセサリーはほとんどない。
完璧に仕事向きだ。
なのに、頭の奥でずっと別の顔がちらつく。
タイキ。
今朝スタジオで見た顔。
熱は下がっていたけど、まだ少しだけ頬に色が残っていた。
それでも「大丈夫」と言って、ルイが戻ってきた時に少しだけ安心した顔。
それが、撮影前のルイの頭のどこかにずっと残っていた。
「ルイ、位置お願いします」
スタッフに呼ばれて、ルイは鏡から離れる。
切り替える。
仕事だ。
そう思いながらセットに入る。
すでにカノンが立っていた。
今日のカノンは、柔らかさの中に芯がある衣装だった。
ベージュ寄りのトップスに、少しだけラフな抜け感。
でも立ち姿は軽くない。
カノンはルイを見て、口元だけで少し笑う。
「お互い、映えるな」
ルイは肩をすくめた。
「知ってる」
「出た、自信家」
「お前もだろ」
そうやって一度軽く空気を崩してから、二人とも自然に仕事の顔になる。
⸻
最初は立ち位置の確認からだった。
「ルイ、もう半歩だけ内側」
「カノン、そのまま肩落として」
「二人とも目線だけこっち」
カシャ。
シャッターが切れる。
最初の数枚は、空気を作るための試し撮り。
でも、その時点でスタッフの顔が少し変わっていた。
「いいね」
「二人とも距離の作り方うまい」
当然だ、とルイは思う。
カノンもたぶん同じことを思っている。
この手の“空気を撮る仕事”は、二人とも得意だった。
問題は、その次だった。
「次、もう少し近く」
「肩、触れるか触れないかくらいまで寄って」
ルイが一歩寄る。
カノンも自然に合わせる。
近い。
肩先の熱がわかる距離。
視線を横にずらせば、相手の睫毛の長さが見える。
ルイはその瞬間、内心で小さく息を吐いた。
(落ち着け)
でも前みたいに、自分が距離で乱れるわけにはいかない。
これは仕事だ。
しかも相手はカノン。
カノンもちゃんと切り替えてここに立っている。
なのに、それでも頭の奥では別のものが動く。
こんな距離で並ぶたびに、なぜか浮かぶのはタイキだった。
レコード店の視聴ブース。
帰り道キスしそうだった距離。
熱で弱った朝、腕にくっついてきた感触。
そこまで一瞬で繋がってしまって、ルイは視線だけで呼吸を整える。
一方のカノンも、完璧にプロモードに切り替えていた。
表情。
目線。
首の傾け方。
全部、仕事としては正しい。
でも、距離が近づいた一瞬だけ、胸の奥が微かに揺れた。
ルイの横顔。
昔なら、それだけで少し息が詰まっていたかもしれない。
その残り火みたいな感覚が、一瞬だけ胸の奥に浮く。
けれど、その瞬間。
カノンの頭の中に、咄嗟に浮かんだ顔があった。
ゴイチだった。
あの大きい手。
何でもない顔で差し出される優しさ。
“もし、揺れたら俺に連絡しろ”と言った帰り道の声。
朝、自分のベッドの横で寝ぼけた顔。
「俺なら、カノンを傷つけない」と当たり前みたいに言った、あの無垢な顔。
そのいくつもの表情と言葉が、ほんの一瞬で背中を押す。
(……違う)
カノンはそこで、胸の奥の揺れをきれいに整えた。
今、自分がここでやることは一つだ。
迷わない。
引きずらない。
仕事で、ちゃんと持っていく。
カノンはわずかに口角を上げた。
カメラの向こうには見えないくらい小さく。
でも、ルイには伝わるくらいの温度で。
「俺が主役、持ってく」
少し強気な笑顔。
挑発でもなく、宣言みたいな一言だった。
その言葉に、ルイの目がほんの少しだけ細くなる。
プロとして火が点く瞬間。
「やれるもんなら」
低く返す。
カノンのそのスイッチの入り方が、逆にルイの集中を引き上げた。
私情を削ぐ。
空気を研ぐ。
ルイのプロ意識に、さらに拍車がかかる。
「いい」
「その空気そのまま!」
カメラマンの声が飛ぶ。
二人の間に流れるのは、もはや迷いじゃなかった。
仕事の熱だった。
⸻
現場の空気は切り替わったかのように
そこから一気に熱が上がっていった。
ルイが静かに目線を落とせば、カノンが抜けを作る。
カノンが少しだけ口元に笑みを置けば、ルイが温度を締める。
二人とも、自分が何を出せば画が強くなるかをわかっている。本来のふたりの強さ。
「もう一枚!」
「いい、その首の角度!」
「二人とも動かないで、そのまま!」
シャッター音が続く。
スタッフの熱も上がる。
ブランド担当が小さく「これ、来た…」と呟く。
雛子は腕を組んだまま、静かに口元を上げていた。
ルイは画の中で、完璧だった。
視線の抜き方も、立ち方も、服の見せ方も。
でも、その芯にあるのはカノンじゃない。
ずっと、どこかにタイキがいる。
“近さ”を知ってしまった相手。
“触れないこと”の意味を知ってしまった相手。
大事にしたいと、自分で口にした相手。
その感情の輪郭があるからこそ、ルイの静けさは深く見えた。
一方でカノンも、撮影の途中から迷いが消えていた。
ルイへの未練を否定するんじゃない。
でも、それを“今の自分の中心”にはしない。
そう決めた瞬間、逆に身体が軽くなった。
ルイの隣で作る空気は、もう“好きだった相手との距離”じゃない。
“今の自分が仕事で勝ちにいく距離”だった。
そして、その背中を押したのがゴイチだったことを、カノンはちゃんとわかっていた。
撮影の後半。
ソファに浅く腰掛けたルイの横へ、カノンが立つカットがあった。
カノンが少しだけ屈んで、ルイの方へ目線を落とす。
本来なら危うい熱になる構図。
でも、その瞬間のカノンの胸にあったのは、もう別のものだった。
(俺、もう大丈夫だ)
そう思った。
好きだった。
本気だった。
それは嘘じゃない。
でも、今は違う。
今、自分の心臓を動かすのは、ルイが見せる横顔じゃなくて。
何でもない顔で横にいてくれる、あの相棒の方だ。
その実感が、すとんと落ちる。
カシャ。
その瞬間を切り取ったみたいに、シャッターが鳴る。
「オッケー!」
「めっちゃいい!」
カメラマンの声が響く。
カノンはそこでようやく、肩の奥に入っていた力が抜けるのを感じた。
吹っ切れてる。
きっと、今ここでちゃんと。
ルイもまた、そのタイミングでカノンの空気が変わったのを感じていた。
だから最後の数カットは、二人とも本当に仕事だけで並べた。
結果、めちゃくちゃいい絵が撮れた。
余計な感情を消したんじゃない。
ちゃんと整理したうえで、仕事に昇華したから出た強さだった。
⸻
同じ頃。
スタジオではタイキが壁際に座って、水を飲んでいた。
熱はもうだいぶ引いている。
身体も午前より軽い。
それでも、まだフルで踊るところまでは戻していない。
周りの会話は聞こえている。
スタッフの指示も、カノンの笑い声も、ゴイチの低い返事も。
でも、頭のどこかは別の場所を向いていた。
ルイとカノンの撮影。
どんな画になっているのか。
どれくらい距離が近いのか。
ルイはどんな顔で立っているのか。
想像しないようにしても、少しだけ浮かぶ。
「タイキ」
アダムが横に来る。
「ん」
「しんどいか」
「平気」
すぐに返してから、タイキは少しだけ苦笑した。
「……でも、何も感じないわけじゃない」
アダムも少しだけ笑う。
「自覚あるならまだ大丈夫だ」
短いやり取り。
でも、タイキの気持ちは完全には晴れない。
仕事だ。
わかってる。
でも、わかってるだけじゃ止まらないものもある。
そんな時、不意にスマホが震えた。
タイキの視線が落ちる。
画面には、ルイの名前。
胸の奥が、先に鳴った。
⸻
撮影が終わった瞬間だった。
スタッフに軽く礼を返したルイは、衣装替えの前にスマホを手に取った。
打ち上げのような空気がその場にはあった。
ブランド側も満足している。
雛子も結果に手応えがある顔をしている。
でもルイの指は、迷わずタイキのトーク画面を開いていた。
短く、余計なものを削って打つ。
終わった
ちゃんと終わった
めちゃくちゃいいの撮れた
でも、今お前の顔見たい
打ってから、最後の一文を一瞬だけ見つめる。
消すか迷う。
でも、消したくなかった。
そのまま送る。
ルイはスマホを握ったまま、小さく息を吐く。
一方その頃、スタジオの壁際で休んでいたタイキのスマホが震えた。
ルイからの通知。
タイキはすぐに開く。
文面を読んだ瞬間、胸の奥の小さな引っかかりが、少しだけほどける。
“終わった
ちゃんと終わった
めちゃくちゃいいの撮れた
でも、今お前の顔見たい”
最後の一文で、呼吸が止まりそうになる。
ずるい、と思う。
仕事が終わって。
カノンと並ぶ撮影を終えて。
その直後に、そう送る。
それはたぶん、ルイなりのまっすぐな帰り方だった。
タイキは少しだけ唇を噛んで、それからゆっくり返信を打つ。
見せてやるよ
戻ってこい
送信。
その短いやり取りだけで、体温が少しだけ上がる。
熱はもう下がったはずなのに。
心臓だけは、まだずっと落ち着かない。
離れた場所で、ルイのスマホが震える。
文面を見たルイの口元が、ほんの少しだけやわらいだ。
仕事は終わった。
ちゃんとやった。
カノンとも、プロとして最高の空気で並んだ。
でも今、自分が戻りたい場所ははっきりしていた。
ルイはスマホをポケットにしまって、軽く顔を上げる。
その横顔にはもう、さっきまでの撮影用の静かな熱じゃなくて。
別の場所へ帰る人間の、少しだけやわらかい温度が戻っていた。
スタジオのドアが開いた音で、タイキは顔を上げた。
もう何回も人が出入りしている午後だったのに、その音だけは妙にはっきり耳に入った。
自分でも、待っていたんだと分かるくらいに。
入ってきたのはルイだった。
撮影終わりの少しだけ張った空気をまだ身体に残したまま。
でも歩き方はいつも通りで、顔も仕事のまま整っている。
タイキの胸の奥で、小さく何かがほどける。
(……あ)
戻ってきた。
それだけで、まず安心が先に来る。
その安心のあとで、まだ完全には消えていなかった嫉妬の残り火が、遅れて静かに揺れる。
カノンと並んでいた時間。
近い距離で、いい画を撮ってきたんだろうこと。
それを想像していた自分。
でも今、こうして戻ってきたルイを見た瞬間に、そのざらつきの半分くらいはもう消えていた。
ルイは雛子に何か短く返してから、すぐに視線を巡らせる。
探している。
その目が自分を見つけた瞬間、タイキの呼吸が少しだけ止まった。
ルイは一拍も置かず、まっすぐこっちへ来る。
「熱は」
第一声が、それだった。
タイキは思わず少しだけ笑いそうになる。
「下がった」
「数字は」
「三十六度台後半」
ルイの肩が、そこでほんの少しだけ落ちた。
やっと、本当に下がったと確認できた顔。
タイキはその表情を見て、胸の奥がまたやわらかくなる。
「ちゃんと休んだか」
「少しはな」
「少しじゃ足りねぇだろ」
「お前に言われたくねぇよ」
短い応酬。
でも、そこにある温度は撮影前とも朝とも違っていた。
ルイが戻ってきた。
タイキがそれに安心した。
ルイは戻って最初にタイキの熱を見る。
その順番が、全部ちゃんと今の二人だった。
少し離れた場所で、カノンがその空気を見て小さく目を細める。
撮影が終わったばかりの自分たちの空気は、仕事として綺麗に切り分けられた。
でも、ルイが戻って真っ先に見たのはやっぱりタイキで。
タイキがほっとした顔をしたのも、もう隠しようがない。
カノンはそこで、胸の奥に残っていた最後の小さな引っかかりまで、ふっと軽くなるのを感じた。
(……ほんと、わかりやす)
でも、そのわかりやすさが今は嫌じゃない。
ルイはようやく、少しだけ声のトーンを落とした。
「撮影、ちゃんと終わった」
タイキが目を上げる。
「見ればわかる」
「どう見えてんだよ」
「仕事してきた顔」
ルイはそこでほんの少しだけ口元を緩めた。
撮影中じゃない、タイキの前だけで出る少しやわらかい顔。
それを見て、タイキの胸の奥に残っていた嫉妬の残り火が、ようやくほぐれていく。
完全に消えるわけじゃない。
でも、もう“気になる”だけでは終わらない。
戻ってきて。
こっちを見て。
最初に熱のことを聞いて。
その一つひとつで、ルイはちゃんと帰ってきていた。
タイキは少しだけ目を逸らしながら、ぽつりと言う。
「……写真、いいの撮れたんだろ」
ルイは短く頷いた。
「かなり」
「そっか」
また少しだけ、胸がちくりとする。
でも、それと同じくらい、今は安心の方が大きい。
ルイはタイキの顔を見て、たぶんその揺れを少しだけ読んだ。
でも、そこで余計な言い訳はしない。
ただ、低く言う。
「終わって最初に送りたかった相手には、もう送った」
タイキの目が、わずかに動く。
それはたぶん、さっきのLINEのことだ。
でも、今お前の顔見たい。
その文面を思い出した瞬間、タイキの胸の奥で何かが静かに鳴った。
「……知ってる」
小さく返す。
ルイはそれ以上言わなかった。
でも、その沈黙だけで十分だった。
撮影終わりの空気。
安心と、少し遅れてほどける嫉妬。
全部を抱えたまま、二人は同じスタジオの中でようやく同じ場所へ戻ってきていた。
それ以上、それ以下もなく。
その静かな熱はふたりの日常に溶けていった。
数日後。
公開された写真は、想像していたよりずっと強かった。
ブランド公式のSNS。
雑誌の先行カット。
イベントスペースの大型モニター。
画面いっぱいに映る、ルイとカノン。
静かな熱。
説明しすぎない距離。
視線だけで空気を作る二人。
肩が触れそうで触れないカット。
ソファ越しに目線が交差するカット。
並んで立ってるだけなのに妙に濃い一枚。
公開イベントの会場は、朝からざわついていた。
スタッフが慌ただしく動き、モニターの映像確認が繰り返される。
ファン向けのコメントパネル。
メディアのカメラ。
ブランド側の挨拶。
STARGLOWのメンバーも現場入りして、それぞれの立ち位置で軽く準備を進めていた。
「やば……」
カノンがモニター前で思わず言う。
「普通にめっちゃいいじゃん」
「普通にって何だよ」
ゴイチが横から返す。
「いや、マジで」
「俺らこんな感じだった?」
ルイは少し離れた位置でその写真を見て、短く息を吐いた。
「カメラがいい」
「いや、素材もいい」
カノンが即答する。
そのやり取りに、周囲のスタッフも少し笑う。
でも実際、出来はかなり良かった。
雛子が腕を組んだまま、満足そうに画面を見る。
「予想以上」
「ブランド側、正解引いたわね」
ルイはその一言に、小さく肩をすくめる。
カノンも茶化すみたいに「でしょ?」と返す。
でも、その横でタイキは少しだけ複雑な顔で写真を見ていた。
もちろん、いい写真だと思う。
仕事として、文句なくかっこいい。
二人とも映えてる。
空気も強い。
だからこそ、少しだけ面白くない。
(……うわ、ちゃんといい)
それがまず最初の感想だった。
雑に撮れていてくれた方がまだ楽だったかもしれない。
でも、ルイもカノンもプロだから、そんなわけがない。
「何その顔」
横からアダムに言われて、タイキは少しだけ眉を寄せた。
「何でもねぇよ」
「そうは見えない」
「うるさい」
その返しに、アダムは静かに少しだけ笑う。
タイキはもう一度モニターを見る。
ルイの視線。
カノンの抜き方。
二人の距離。
ちゃんと“画”として強い。
でも、その強さを認めるのと、平気で見ていられるのは別だった。
そこへ、ルイが自然にタイキの隣へ来る。
何でもない顔で。
でも、わざわざタイキの隣に立つ。
それだけで、タイキの胸の中のざらつきが少しだけ落ち着いた。
ルイはモニターを見たまま、小さく言う。
「こうして見ると、思ってたより近いな」
タイキがそちらを見る。
「今さら?」
「撮ってる時は仕事しか見てねぇから」
「……ふーん」
その返しに、ルイは少しだけ目を細める。
「何だよ」
「別に」
そう言いながらも、タイキの口元はほんの少しだけやわらいでいた。
ルイはその変化を見逃さない。
「嫌か」
低く聞く。
タイキは一瞬だけ黙って、それから小さく息を吐いた。
「嫌っていうか」
「……ちゃんといいから、腹立つ」
その正直すぎる答えに、ルイの口元がほんの少しだけ動く。
「だろうな」
「否定しろよ」
「無理」
「カノンもちゃんとしてた」
「俺も」
あまりに即答で、タイキは思わず少しだけ笑ってしまう。
その笑い方を見て、ルイの胸の奥も少しだけやわらぐ。
イベント会場のざわめきの中で、二人だけが少し違う温度を持っている。
仕事としての写真。
でも、その受け取り方は完全に仕事だけではない。
一方でカノンは、その写真を見ながらもう一つ別のことを思っていた。
ここに写っている自分の顔は、もうルイを好きだった頃の顔じゃない。
もちろん技術は使っている。
空気も作っている。
でも、その奥にあったのは“ルイにどう見られたいか”じゃなくて、“この仕事をどう勝ちに持っていくか”だった。
そこまで来たんだ、と写真を見ながら思う。
そしてそのことを、一番早く伝えたい相手の顔が自然と浮かぶ。
ゴイチ。
カノンはそこで、モニターから少しだけ視線を外して、近くに立つゴイチを見た。
ゴイチはその視線に気づいて、少しだけ首を傾げる。
「何」
「いや」
カノンは少しだけ笑った。
「あとで話す」
ゴイチはその一言で、なんとなく察した顔になる。
「了解」
短い返事。
でも、その短さが今のカノンには心地よかった。
イベント終わりの夜は、少しだけ風があった。
会場を出て、街の明かりが少し滲んで見える道を、カノンとゴイチが並んで歩いている。
仕事終わりの疲れはある。
でも、今日のカノンはどこか軽かった。
「で」
ゴイチが先に口を開く。
「あとで話す、ってやつ何」
カノンは少しだけ笑って、肩のバッグを持ち直した。
「今日の撮影のこと」
「写真の?」
「うん」
少し間。
カノンはあっけらかんとした顔のまま、でもちゃんと正直に言った。
「俺さ」
「撮影の時、一瞬だけ揺れかけた」
ゴイチの歩幅が、ほんの少しだけ変わる。
でも、止まらない。
顔も変えない。
「へぇ」
短く返す。
責めるでもなく、軽く流すでもなく。
ただ続きを促すみたいな相槌だった。
それがカノンにはありがたかった。
「近かったし」
「画も、空気も、ちゃんと作る仕事だったし」
「うん」
「だから、一瞬だけね」
「昔の残り火みたいなの、胸の奥で動いた」
ゴイチは前を見たまま聞いている。
カノンはそこで、小さく息を吐いた。
「でも、その時に浮かんだの」
「ルイじゃなくて、お前だった」
ゴイチの喉が、そこで小さく動く。
カノンは続ける。
「お前が言ったこととか」
「帰り道の顔とか」
「“揺れたら俺に連絡しろ”って言ったのとか」
少しだけ笑う。
「あと、朝うちで寝てた、あの間抜けな顔」
「最後いらなくね?」
「いるよ。あれ結構効いたもん」
ゴイチはそこで、ようやく少しだけ口元を上げた。
でも、その笑いの奥にはちゃんと何かが動いている。
カノンはそのまま言う。
「それ思い出したら、急にすげぇ整理ついた」
少し間。
「俺、もうルイのこと“今の好き”じゃないなって」
その言葉は、ちゃんと静かだった。
ドラマチックに落としたわけじゃない。
でも、自分で自分に確認するみたいに、はっきりしていた。
ゴイチは数秒黙ってから、低く言う。
「……そっか」
それだけ。
でも、その二文字がやけに深い。
カノンは少しだけ横目でゴイチを見る。
「何、その反応」
「いや」
「ちゃんと聞いてた」
「真面目かよ」
「お前が真面目な話してるからだろ」
その返しに、カノンは少しだけ笑う。
でもすぐに、また少しだけ真面目な声に戻る。
「悪びれてないだろ、俺」
「うん」
「普通こういうの、言わない方がいいのかもってちょっと思った」
ゴイチはそこで首を振る。
「いや」
「言えよ」
カノンが少しだけ目を上げる。
ゴイチは前を見たまま続ける。
「隠される方が嫌だ」
「それに、お前が揺れたことより」
「そのあと何思ったかの方が、俺には大事」
その一言に、カノンの胸の奥が静かに鳴る。
言い方がずるい、と思う。
でも、今はそれを責める気になれない。
「……何それ」
「本音」
「最近みんな正直すぎない?」
「お前もだろ」
カノンはそこで、小さく息で笑った。
分かれ道が近づく。
歩幅が自然と少しだけゆるむ。
ゴイチは一度だけ立ち止まって、カノンの方を向いた。
「でも」
カノンが目を上げる。
ゴイチの顔は穏やかだった。
でも、目だけは思っていたよりずっとまっすぐだった。
「それ、聞けてよかった」
カノンの呼吸が少しだけ止まる。
ゴイチは続ける。
「お前がちゃんと前向いてるってわかったから」
「安心した」
その“安心した”が、何より強かった。
好きだった相手のことを整理できた、という意味だけじゃない。
ちゃんとこっちへ来ている。
そういう意味まで含んでいる気がしたから。
カノンは一瞬、何も言えなかった。
それから少しだけ視線を逸らして、小さく口を開く。
「……お前さ」
「ん」
「そういうの、たまにめっちゃ刺さる」
ゴイチは少しだけ笑う。
「たまに?」
「たまにでいいだろ」
「本当は?」
カノンはそこで、ほんの少しだけ言葉に詰まった。
でも、逃げないで返す。
「……結構」
その返事に、ゴイチの目がほんの少しだけやわらぐ。
夜風が、二人の間を抜けていく。
イベント帰り。
写真公開の日。
ルイとカノンの仕事が世に出た日。
でもその帰り道で、カノンの中では別の何かが、静かにちゃんと進んでいた。
ゴイチが最後に、小さく言う。
「また揺れたら」
カノンが少しだけ笑う。
「連絡しろ、だろ?」
ゴイチも少しだけ口元を上げた。
「必要なら」
その何気ない言葉が、またカノンの胸にきれいに刺さる。
「……はいはい」
軽く返しながら、でも声は少しだけやわらかかった。
二人はそこで別れる。
でも、今日の帰り道は少しだけ前より近かった。
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読み終わりました……第17話、すごく好きな回でした。 スタジオに戻ってきたルイがタイキに最初に「熱は」って聞くところ、あれだけで「ああちゃんと帰ってきてるな」って安心しました。カノンと撮影で最高の仕事をしたあとでも、戻る場所ははっきりしてるのが伝わってきて、胸がぎゅっとなりました。 それと、カノンがゴイチに「ルイじゃなくて、お前だった」って話す場面、静かな決意が感じられてとても良かったです。 一つの撮影がそれぞれの距離を動かした、本当に繊細なエピソードでしたね。