二つ目は勧められて手に取った。
薄く焼いたエグックで米部分が見えないよう綺麗に包まれた物に、ちょうどいい大きさのシュリップが載せられている。
黄色に橙色。
こちらもまた鮮やかな食材の組み合わせだ。
特にシュリップの背の模様が美しく出ている。
もしかして個体別に厳選しているのだろうか。
そう思わせるほどに華やかなのだ。
エグックにもシュリップにも下味がつけられているようで、一口でいただくと素材の味だけではない複雑な風味が口の中に広がる。
食材に下味をつけるのも、その作業に大変手間がかかるのも、手間がかかる分、美味しく仕上がるのも、娼館に来てからの学びで得た知識だ。
何時もと違う環境になったので、何時もと違う学びを求めた結果、得た知識だった。
その知識がこうして、アリッサの歓待を余すところなく感じさせてくれるのだから不思議だ。
有意義な時間を過ごせたものだとすら思えてしまった。
三個目は野菜、魚の次は肉をお勧めいたします! と言われてつまみ上げる。
まるうしのローストを薄くスライスして、これもまた米が見えないように包み込んだ上に、ラディッシュホース(西洋ワサビ)をちょんと載せてある寿司だ。
まず驚いたのはまるうしローストの鮮やかさ。
王宮で食べたときだって、ここまで赤が鮮やかだった物はない。
ほとんど生ではないか? そんな色にもかかわらず、スパイスのほどよく利いたローストまるうし味なのだ。
まるうしは味付けをせずに食べるのが一番とされてはいるが、それも料理人の腕次第。
超一流と謳われた、料理人の手によるまるうしのローストですら、比べものにならないほどこちらが美味しい。
また上に可愛らしく極々少量載せられた僅かに緑がかったラディッシュホースも、今まで食べた物よりまろやかだ。
鋭すぎない辛さといった表現が、より明確だろうか。
このラディッシュホースなら、これだけを食べても箸休めとして有効な味だと感じられる。
四個目は何も言われなかったので、ぱっと見は地味な物を手にした。
フライドソイ(油揚げ)に包まれているので、稲荷寿司の亜種だと推測する。
何しろ丸い稲荷寿司は初めてだった。
色もかなり薄く、ドライユウガーオ(かんぴょう)でリボン結びにされているのだ。
推測があっているだろうかと心を躍らせながら口にする。
酢飯によく混ぜられているセサミ(ごま)が何とも香ばしい。
セサミは食感も楽しいので、好む食材の一つだ。
なかなか食べる機会には恵まれないので、堪能できる今の時間は貴重で、それ以上に楽しかった。
「こちらの手まり寿司には二種類のセサミを使っています。ブラックとホワイト。ブラックセサミ(黒ごま)は主張が強いのでホワイト三、ブラック一の割合で入れました」
和食を極めた方々が使う、美しい装飾の箸を器用に使いこなしたアリッサが手まり寿司を二つに割る。
綺麗な断面図にはなるほど、ブラックセサミが少々とホワイトセサミ(白ごま)がたっぷり入っているのが見て取れた。
「稲荷寿司ではホワイトセサミを使う方が多いようですね。ただ断面図を見せるタイプの稲荷寿司ですと、ブラックセサミを使う方が増えるようです」
「ブラックは目を惹きますわ」
「料理では少ない彩りだからかもしれません。特に寒いときには黒い食材を食べるといいらしいので、寒い地方だとより多く食べられている気がします」
「まぁ、そうなんですの? アリッサ様は本当に博識でいらっしゃいますわ!」
「ふふふ。ほとんどが主人の知識です。あの人こそ博識の名にふさわしいと思います」
時空制御師に会う機会には恵まれていない。
公爵家の歴代当主の中では会えた者もいたらしいが。
ただアリッサの口から聞く時空制御師は、ひたすらにアリッサを愛しているのだろうと窺い知れた。
そしてまた、アリッサも深く夫を愛しているのだろうとも。
離れていても変わらぬ愛を抱き続けるのは難しい。
特に一度裏切られると、心は遠のいてしまう。
長く続かない不愉快な状況だったと予感はしていた。
魅了が使われているのも理解していた。
それでもあの。
寵姫を優遇し、ローザリンデを冷遇した期間が存在していたのだ。
何もなかったかのように振る舞えても、心の芯が冷えきってしまった。
冷えは簡単に払拭されまい。
以前のようには愛せない。
二度と愛せないわけではない……と、思う。
ただ今、ハーゲンとアリッサのどちらに心を寄せているかと問われたのならば、一切の躊躇なくアリッサと返答するだろう。
この先もきっと情は戻っても完全な愛は戻らない予感があった。
だからアリッサと時空制御師の関係は純粋に羨ましい。
「夫婦仲がよろしゅうございますね」
「そうですね。仲はとてもいいと思います。主人は何時も私に寄り添ってくれるのです。ただ少し……大分……過保護な傾向にあるので、理想の夫であるのと同様に本来父親とはこのような存在かと、考えてしまうときもあるのですよ」
浮かぶ微苦笑もまた美しい。
どうやらアリッサは両親との仲が悪いようだ。
ローザリンデの両親は実に高位の貴族らしい存在だったが、その範囲内ではローザリンデを娘として慈しんでくれた。
娼館へ身を寄せている間も、足こそ運ばなかったが手紙や物資は途切れなかったので、ローザリンデが考えていたよりも、随分大切に扱ってくれていたのではないかと反省もしている。
「最愛の夫でもあり、理想の父親でもあるとしたら、依存してしまうのは無理からぬ行為ではないのでございましょうか?」
「ローザリンデ様はお優しい……私はこれでも、主人への感謝を忘れたら、人として間違った存在になってしまうと、常に警戒しておりますよ」
大げさな! と反射的に飛び出しそうになった言葉を胸の中へと落とし込む。
それだけ時空制御師が大切だとも取れるのだ。
実際それ以外の何物でもないのだろう。
「では私も重々警戒したいと思いますわ。ハーゲン様への愛は形を変えたとしても、情の形は変わっておりませんもの」
「ああ、情は時に愛より厄介な感情ですから、それは正しい心の在り方なのかもしれません。王妃ともなれば気苦労も少なからぬことでしょう。どうか無理はなさいませんよう」
「無茶はいたしませんわ。私の望む言葉をくださるアリッサ様には、そうお約束いたします」
無茶はしない。
だが、無理はせざるを得ない。
ローザリンデがした約束の意味をきちんと理解してくれたアリッサの微笑が深まる。
「お約束、とても嬉しく思います。ローザリンデ様が遵守してくださるとわかっておりますので、余計に」
「ほほほ。本当に私に嬉しい言葉ばかり。ありがとうございます、アリッサ様」
あらん限りの敬愛を込めた微笑を浮かべる。
すばらしいタイミングでリス族の長女がお茶を淹れてくれた。
ほうじ茶に続き、いただくのは粉末茶。
こちらも健康にいいらしい。
キャンベルがエルフ族として、交易を望むのだ。
長寿が期待されるとするならば、王都でも人気が出るかもしれない。
茶葉をそのまま飲み干したらこんな味がするのだろうか。
何とも芳醇な風味だ。
茶葉の濃厚な香りが残る吐息をふうと満足げにつき、五個目の手まり寿司を取り皿に移す。
サモンがふわりと米の上に載っている。
この手まり寿司は米部分が見える状態だ。
サモンの周囲をぐるりとボカドアで飾られていた。
白、橙、緑に黄色。
これまた大変鮮やかで食欲がそそられる色味だ。
サモンとボカドアに下味はついていない。
ただ極少量のソイソースが、御飯とサモンの間にかけられている。
特にソイソースは魚介と相性が良いと聞くが、この手まり寿司を食べて、しみじみ実感した。
ふとブラックサモンで作る手まり寿司を考え、連想で真っ黒いアフタヌーンティーを思い浮かべる。
新しいものや変わったものに興味が尽きない両親が喜ぶかもしれない。
娼館についてきてくれた、柔軟な思考の料理人にこっそりと頼んでみよう。
たぶん大喜びで作ってくれる気がする。
最後の手まり寿司はこれまた美しく、クラーケンが菊の花のように飾られていたのだ。
白い菊はこの世界でも流通している。
時空制御師が広めた数多くのうちの一つ。
清楚で典雅な佇まいは年配の方たちが好む花とされている。
ローザリンデも好ましいと思う花だ。
雛菊が特に可愛らしい。
菊花の下にはソッシー(しそ)、上にはピリタラノコ(明太子)が載っている。
どこまでも彩りの華やかさが追求されていて頭が下がった。
口元に持ってくればソッシーの爽やかな香りが鼻を擽る。
ソッシーにはリラックス効果があるとされていた。
かなり強い香りにもかかわらず鬱陶しさを感じないのは、効果が高いからだろう。
口の中でもふわりと広がるソッシーの香りを楽しみつつ、独特の食感であるクラーケンを噛み締める。
初めて食べたときは首を傾げてしまった、くにゅくにゅとした食感。
ローザリンデはこの食感が癖になってしまった口だ。
小型の物ほど甘いとされているクラーケン。
口にしているクラーケンも実に甘かった。
ピリタラノコの辛みは、クラーケンにもソッシーにもあう。
和酒にはピリタラノコのソッシー巻きがあうと聞いた。
お酒が強そうなバザルケットに尋ねてみようか?
バザルケットは既に三の重に入っている。
甘味も好物らしい。
眦がやわらかく下がっていた。
甘い物を喜ぶ無邪気な子供に似た表情は、バザルケットの顔を驚くほど若く見せる。
バザルケットの表情をこっそりと盗み見つつ、ローザリンデも三の重に手を伸ばした。
口元を持参したナプキンで拭いたナルディエーロの目線が、こちらに向いていると気がついて胸がざわつく。
後ろ暗いものがなくとも、美しくも妖艶な紅の瞳で見つめられると、己の所業を振り返ってしまうのは、ローザリンデだけではなかろう。
清廉潔白でなければ務まらない職業の一つに上げられる立会人。
下級であれば不祥事による解任も少なくないが、上級ともなると滅多な解任はない。
あるときは国の上層部が絡んで、国家存亡がかかった問題にまで発展してしまう例がほとんどなのだ。
そんな立会人の最上級称号の弩級。
現在公式に認められている弩弓称号の持ち主は世界広しといえど、たったの十人しかいない。
ここ十年は増減もなかったはずだ。
貴重な称号持ちの中でもナルディエーロは容姿の美しさと幼さ、容貌に似合わぬどこまでも冷静で公平な立ち会いで広く名が知れていた。
ローザリンデ自身、ナルディエーロに依頼した過去はないが、公爵家からの依頼は幾度かある。
同席もした。
一言で表現するならば、凄まじい。
歴戦の猛者という呼び方が、これほどに似合う方はいないだろうとまで思った。
完璧に見えた契約に驚くほどの不備が見つかるだけでなく、こちらに有利だと信じて疑わなかった箇所こそが、相手にとって一番の利益なのだと気付かされるのだ。
ナルディエーロの幼さを侮った者は悉く沈んでいった。
反省し、努力し、ナルディエーロに頭を下げて、以前と同じ立ち位置もしくはそれ以上にまで上り詰めた者は少ない。
事前にナルディエーロの仕事に対する完璧な噂を、疑いようがない機関の資料付きで掌握していても尚、その幼さに惑わされる者は後を絶たないのだ。
ナルディエーロが認める幾人かの立会人たちは、口を揃えてその幼さが彼女の一番の武器なのに……と苦笑している。
実際ここまで近い位置取りで、さらにはプライベートなはずの空間で会っていても、愛らしいと思ってしまう。
ただそれと同様、もしくはそれ以上にナルディエーロを敬う気持ちもあった。
ローザリンデは、自分の目と勘が正しく発動している事実に心の底から安堵する。
「ローザリンデ様は、かの犯罪者ゲルトルーテ・フライエンフェルスに、どのような罰を望んでいるのか、この場で聞いておきたいのですが……お聞かせ願えますか?」
「己の罪をきちんと自覚した上での、過不足のない罰を……と思っておりますの。ですが、ゲルトルーテ嬢が己の犯した罪の深さを理解できる能力があるのかどうか……幾つもの疑問点がありまして、何とも申し上げにくいのですわ」
そう。
出自や育成環境を考えても愚かすぎる。
何よりローザリンデが悍ましかったのは、どんな細やかな場面においてもやり直しができると信じていたこと。
そしてやり直せないとわかる都度に、どうしてやり直せないのかと不思議がる様子。
さらには今度こそやり直せるはず……己の、思うとおりにできるはず、と同じ過ちを際限もなく繰り返せる神経の図太さ。
根本が間違っている、歪んでいる、狂っている、と幾度煮え湯を飲まされたかしれない。