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休憩の声がかかると、スタジオの空気が一度だけゆるんだ。
さっきまで鳴っていた音源が止まり、床を踏む足音も途切れる。
スタッフがモニター前で次の確認を始めて、メンバーもそれぞれ水を飲んだり、タオルで汗を拭ったりしていた。
タイキは壁際のウォーターサーバーで紙コップに水を注いでいた。
まだ少しだけ身体が熱い。
でも、それ以上に神経の方が疲れている。
今日のルイはやっぱり、見ていた。
昨日の告白のあとだから当然なのかもしれない。
でもそれを当然みたいに飲み込めるほど、タイキの中は整理できていなかった。
紙コップに水が落ちる音だけを聞いていると、背後に気配が止まる。
わかる。
振り返らなくても、わかる。
タイキの指先がほんの少しだけ止まった。
「タイキ」
低い声。
静かで、でも今までとは少し違う呼び方。
命令じゃない。
問い詰める感じでもない。
ただ、ちゃんと名前を置くみたいな声。
タイキは紙コップを取ってから、ゆっくり振り返る。
ルイが立っていた。
距離は近すぎない。
でも、他のメンバーやスタッフから見れば、ちゃんと二人で話しているとわかるくらいの距離。
タイキは少しだけ目を細めた。
「何」
短い返事。
ルイはすぐには答えなかった。
ほんの一拍だけ、呼吸を整えるみたいに目を伏せる。
それから、言う。
「どこでもいい」
タイキの眉がわずかに動く。
ルイはそのまま続けた。
「二人で、出かけないか」
タイキの呼吸が、ほんの少しだけ止まる。
休憩中のスタジオはざわざわしている。
カノンの笑い声も、ゴイチがスタッフに返事をしている声も、少し離れたところではちゃんと聞こえている。
なのに今、ここだけ妙に静かだった。
タイキはすぐに返せなかった。
ルイはそれを見て、視線を外さないまま言葉を足す。
「昼間」
少し間。
「飯食うだけでもいいから」
その言い方が、タイキの胸の奥を静かに揺らす。
来い、じゃない。
夜でもない。
部屋でもない。
曖昧なままの“いつもの流れ”でもない。
昼間。
飯食うだけ。
どこでもいい。
それは、たぶんルイにとって今まででいちばん不器用で、いちばん真っ当な誘い方だった。
ルイは続ける。
「……話したい」
低い声。
でも今度は、その奥に明確なためらいがあった。
「ちゃんと」
少しだけ喉が動く。
「今までみたいじゃない時間、ほしい」
その一言が落ちた瞬間、タイキの胸の奥がまた強く鳴る。
今までみたいじゃない時間。
それが、どれだけ失われていたものかをタイキは知っている。
高校の頃。
トレーニーの頃。
ただゲームをして、映画を見て、音楽を流して、くだらないことで笑っていられた時間。
いつの間にかなくなって、代わりに夜が来た。
“来い”の一言で始まる、呼ばれて終わるだけの時間が。
ルイは今、それを失っていたとわかっている顔をしていた。
その自覚が、タイキには少し苦しかった。
遅い。
本当に、遅い。
そう思うのに。
それでも今の言葉は、ちゃんと届いてしまう。
「……なんで」
タイキが小さく言う。
ルイの目が動く。
「今さら、そんな」
言いかけて、タイキは少しだけ視線を逸らした。
“今さら”なんて、自分が一番言いたいはずなのに。
なのに今のルイの顔を見ていると、その言葉だけで切るのも違う気がしてしまう。
ルイはそこで、すぐに綺麗な答えを返そうとはしなかった。
少しだけ口を閉じてから、正直に言う。
「今さらだから」
タイキがまた顔を上げる。
ルイは笑っていない。
でも、どこか自分を諦めているみたいな顔でもない。
「遅いのは分かってる」
低い声。
「でも、遅いままでも」
少し間。
「取り戻せるなら、取り戻したい」
タイキは何も言えない。
その“取り戻す”の中に、ルイが失ったと気づいている時間が全部入っているのがわかるから。
来る、来ないじゃなく。
呼ぶ、呼ばれるじゃなく。
二人で普通に並んで歩いて、飯を食って、話すだけの時間。
そんな当たり前が、二人の間では一番遠くなっていた。
「無理にとは言わない」
ルイが静かに言う。
「今、すぐ返事じゃなくてもいい」
その言い方まで、今までとは違った。
待つつもりの言い方。
タイキに選ばせる言い方。
それが逆に、タイキを困らせる。
断る方が簡単ならよかった。
怒って切ればよかった。
でもルイは、そういう逃げ方をさせないところで待っている。
「……考える」
やっと、タイキはそれだけ言った。
短い。
曖昧だ。
でも、嘘じゃなかった。
ルイの目がほんの少しだけやわらぐ。
「うん」
それだけ返す。
それ以上、押さない。
聞き返さない。
今のルイは本当に、そこまでしかしなかった。
遠くからスタッフの「あと五分で戻ります!」という声が飛ぶ。
現実が戻ってくる。
タイキは紙コップの水を一気に飲み干した。
喉は冷たいのに、胸の奥だけは全然落ち着かない。
ルイは少しだけ後ろへ下がる。
「タイキ」
もう一度、名前を呼ぶ。
タイキが目だけで向くと、ルイは短く言った。
「ありがとう」
その二文字に、タイキはほんの一瞬だけ何も言えなくなった。
考える、と言っただけだ。
何も受け入れていない。
何も許していない。
それなのに、ルイはありがとうと言う。
タイキは小さく息を吐いた。
「……まだ、何も言ってねぇよ」
ルイはその返しに、少しだけ口元を緩めた。
「知ってる」
それから、先にスタッフの方へ戻っていく。
タイキはその背中を見たまま、しばらく動けなかった。
⸻
それでも、心臓は正直だった
考える
そう言った自分の声が、まだ耳の奥に残っている。
休憩が終わって、また立ち位置について、音源が流れて、身体はいつも通り動いているのに。
頭の中だけが、ずっとさっきのままだった。
どこでもいい。
二人で、出かけないか。
昼間、飯食うだけでもいいから。
ルイがそんなふうに言うなんて、思っていなかった。
“来い”じゃなくて。
夜じゃなくて。
自分の部屋じゃなくて。
ただ、出かけないか、と。
タイキは鏡越しにルイの背中を見る。
今のルイは、前より少しだけ不器用だ。
たぶん、自覚してしまったせいだろうと思う。
好きだと認めたから。
遅いと分かったから。
今までみたいに押し切る顔ができなくなっている。
それが見えるから、余計にしんどい。
(ほんと、何なんだよ……)
心の中でそう呟く。
怒ってる。
まだちゃんと怒ってる。
傷ついたことは消えていない。
今さら好きだと言われて、それで全部が丸く収まるわけじゃない。
あの夜も。
呼び出されていた時間も。
悲しかった顔も。
全部まだ、自分の中に残っている。
なのに。
ルイが“今までみたいじゃない時間がほしい”と言った時。
“取り戻したい”と口にした時。
胸の奥が、ちゃんと揺れた。
それが悔しい。
(俺、だめだろ)
思う。
もう距離を置くって決めたのに。
好きだって自覚したからこそ、余計に慎重にならなきゃいけないって分かってるのに。
ルイの言葉ひとつで、またあの頃の景色が浮かぶ。
ゲーム。
映画。
コンビニ。
音楽。
何でもない帰り道。
ただ二人でいられた時間。
そんなもの、もうとっくに失ったと思っていた。
ルイはたぶん、その失った時間の代わりに夜を作った。
自分はその夜の中で、ずっとルイを嫌いきれなかった。
好きだったから。
そこまで考えて、タイキは小さく目を閉じたくなる。
「考える」
そう言った時点で、たぶんもう完全な拒絶じゃなかった。
それが自分でもわかるから、余計に情けない。
アダムなら、何て言うだろう。
ふとそう思う。
たぶん、今は決めなくていいって言う。
雑に答えるなって。
しんどいなら、そのままちゃんとしんどがれって。
アダムの静かな声が頭に浮かんで、少しだけ呼吸が整う。
助けられてる。
本当に。
アダムの優しさに救われてるのは、たぶん間違いない。
でも、その救われた先で考えるのはやっぱりルイのことだ。
「……最悪」
心の中で、また呟く。
好きだ。
まだ好きだ。
それも認めるしかない。
そのうえで、どうするかだ。
出かけるのか。
昼間に。
二人で。
飯を食って。
話すのか。
怖いに決まってる。
期待してしまう自分が怖い。
ルイがちゃんと変わろうとしているように見えてしまうのが怖い。
それでまた、前より深く傷ついたらと思うと怖い。
でも同時に。
少しだけ、行ってみたいと思ってしまった自分もいる。
(ほんとに、飯食うだけなら)
その考えが浮かんだ瞬間、自分で自分に呆れる。
飯食うだけ、で済むわけがない。
ルイと二人で出かけて、今までのことに触れないわけがない。
そんな簡単な時間じゃないって、もう十分知ってる。
でも。
それでも。
“来い”ではじまる夜じゃなくて、
昼間に、どこでもいいから、飯でも、って言ったルイは。
少しだけずるかった。
ずるいくらい、ちゃんと欲しい言葉だった。
タイキはタオルで顔を拭うふりをしながら、小さく息を吐いた。
まだ何も決めない。
今はまだ。
でもたぶん、考えるしかない。
だってもう、あの人も自分も、前みたいには戻れないところまで来てしまってるから。
仕事終わりのスタジオは、少しだけ静かだった。
通しを何本もやったあとの空気。
スタッフが機材をまとめる音。
床に落ちた汗をタオルで拭う音。
誰かの「おつかれ」が遠くで重なって、今日という一日がようやく閉じていく。
ルイはバッグのファスナーを閉めたあと、そこで少しだけ手を止めた。
昼の休憩で言った言葉が、まだ胸の奥に残っている。
どこでもいい。二人で、出かけないか。
昼間、飯食うだけでもいいから。
あんなふうに言ったのは初めてだった。
“来い”じゃなく。
夜じゃなく。
自分の部屋でもなく。
ちゃんと誘った。
その事実だけで、今日のルイは思った以上に消耗していた。
返事は今すぐじゃなくていい、と言った。
そう言ったのは本心だ。
本心だけど、正確には半分嘘でもあった。
すぐ返事がほしかったわけじゃない。
でも、何も返ってこないままの可能性も、ちゃんと考えていた。
考えていたというより、そっちの方を本命にしていた。
断られるかもしれない。
いや、断られる以前に。
口すら、聞いてもらえないと思ってた。
それが本音だった。
タイキに避けられて。
見られなくなって。
近づけば空気が硬くなって。
それでも好きだなんて今さら言って。
そんな自分に、まともな返事が返ってくるなんて、どこかで期待しないようにしていた。
だから今も、表向きはいつも通り荷物を持ち上げながら、心の中だけが妙に静かだった。
諦めに似た静けさ。
そこへ、近づいてくる足音がした。
ルイは顔を上げる。
タイキだった。
一瞬、心臓が変に鳴る。
でも表情は崩さない。
崩さないようにする。
タイキはルイの少し手前で止まった。
バッグを肩にかけたまま。
タオルを首に下げたまま。
目だけが少し落ち着かない。
それでも、逃げなかった。
「……ルイ」
名前を呼ばれる。
その二文字だけで、ルイの胸の奥が静かに波立つ。
「ん」
短く返す。
タイキは一度だけ息を吸った。
「昼の話」
ルイの手が、バッグの持ち手の上でわずかに止まる。
タイキは視線を少しだけ逸らして、すぐに戻した。
「その……」
言葉を選んでいる。
簡単には言えないみたいに。
その時間ごと、ルイは黙って待った。
待ちながら、変に期待しないようにする。
ここで少しでも顔に出したら、たぶんタイキはまた言いづらくなる。
タイキは少しだけ眉を寄せて、ようやく言った。
「行く」
短い声。
でも、はっきりしていた。
ルイの呼吸が一瞬だけ止まる。
タイキは続ける。
「……飯だけな」
少し間。
「昼間」
さらにもう一言、念を押すみたいに。
「それだけなら」
そこでやっと、ルイは息を吐けた気がした。
胸の奥の、ずっと固くなっていたところが、少しだけゆるむ。
嬉しい、と思う。
でもその嬉しさは、“OKされた”ことそのものとは少し違っていた。
タイキが答えてくれた。
逃げずに。
無視せずに。
曖昧に笑って流さずに。
ちゃんと、言葉を返してくれた。
それが思っていたよりずっと嬉しい。
(……ああ)
ルイはその時、ようやく気づく。
自分はたぶん、もっと低いところまで落ちていたのだ。
一緒に出かけられるかどうか以前に。
誘いに乗ってくれるかどうか以前に。
もう、自分の言葉なんか届かないかもしれないと思ってた。
だから、ただ答えてくれたことだけで、こんなに胸がほどける。
ルイは少しだけ目を伏せる。
笑いたいわけじゃない。
でも、変に気を抜くと今の自分は簡単に顔に出そうだった。
「……うん」
やっと返せたのは、それだけだった。
タイキが少しだけ怪訝そうに見る。
たぶん、もっと何か言うと思っていたんだろう。
日時を詰めるとか。
どこ行くとか。
そういう実務的なことを。
でも今のルイには、その一言が精一杯だった。
嬉しい。
ただ、それだけで精一杯になるなんて、思っていなかった。
「ほんとに、飯だけだからな」
タイキが念を押す。
その言い方にはまだ警戒がある。
完全に許したわけじゃない声。
ちゃんと線を引いてくる声。
でもルイは、それすら今はありがたかった。
線を引きながらでも、来ると言ってくれた。
そこに希望を見てしまう自分がいて、内心で苦く笑いたくなる。
「わかってる」
低く返す。
「それでいい」
タイキの目が、ほんの少しだけ揺れる。
ルイはそこで初めて、少しだけ口元を緩めた。
押しすぎないように。
でも、ちゃんと受け取ったことは伝わるように。
「答えてくれて、ありがと」
その言葉に、タイキが一瞬だけ息を詰める。
たぶん、そう言われると思っていなかった顔だった。
「……大袈裟」
ぼそっと返ってくる。
でも、完全に冷たい声じゃない。
ルイは小さく首を振る。
「大袈裟じゃない」
本当にそうだった。
口すら聞いてもらえないと思っていた。
返事なんて、返さないことで示されるかもしれないと思っていた。
だから今、タイキがここに立って、自分に向かって言葉を返してくれていることが、思っていたよりずっと大きい。
ルイはそれをちゃんと噛みしめるみたいに、もう一度だけタイキを見た。
近くはない。
でも、遠くもない。
今の二人には、その距離がちょうどよかった。
「じゃあ」
タイキが少しだけ視線を逸らしながら言う。
「日にちは、また」
「うん」
「ちゃんと連絡しろよ」
その一言に、ルイは少しだけ眉を上げる。
「する」
「“来い”とか送ってきたら無視するから」
タイキのその返しに、ルイは思わず小さく笑った。
「送らない」
即答する。
タイキはほんの少しだけ、警戒を解いた顔で息を吐いた。
それから「じゃあな」と短く言って、先にスタジオを出ていく。
ルイはその背中を見送る。
呼び止めない。
追わない。
今はそれでいい。
ただ、答えてくれた。
それだけで、今日のルイには十分だった。
バッグを持ったまま、ルイはその場に少しだけ立ち尽くす。
胸の奥が、まだ静かに熱い。
(……答えてくれた)
行く、と。
飯だけな、と。
昼間、それだけなら、と。
条件つきでも、警戒つきでも、何でもいい。
それでもちゃんと答えてくれた。
ルイは小さく目を閉じる。
嬉しい。
思っていたより、ずっと。
それは“うまくいきそう”だからじゃない。
“許された”からでもない。
ただ、まだ自分の言葉を受け取ってもらえる余地が残っていた、そのことが嬉しい。
口すら聞いてもらえないと思ってた。
本気で。
そこまでいっていた自分に、今さら気づいて少しだけ笑いたくなる。
「……重症だな」
誰にも聞こえないくらい小さく、ルイは呟いた。
でもその声は、数日前の自嘲とは少し違っていた。
ちゃんと遅い。
ちゃんとバカだ。
それでも、今は少しだけ前に進めた気がする。
答えてくれた。
その事実だけを、今夜は大事に持ち帰ろうと思った。
スタジオには、まだ少しだけ練習後の熱が残っていた。
スタッフの声はもう遠くて、機材をまとめる音もだいぶ減っている。
広い鏡張りの部屋の中、オフで会う約束をしたばかりのルイとタイキが、少しだけ距離を開けたまま立っていた。
近くない。
でも、遠すぎもしない。
その距離が、今の二人には逆にやけに生々しかった。
タイキはバッグの紐を片手で握っている。
ルイはその少し斜め前。
さっきまで交わしていた会話の余韻がまだ空気の中に残っていて、どちらもすぐには動けないでいた。
「じゃあ……また連絡する」
タイキが小さく言う。
ルイは頷く。
「うん」
それだけ。
それだけなのに、声の温度が少し違う。
前みたいに刺々しくない。
でも、まだ簡単に笑い合えるほどほどけてもいない。
タイキは一度だけルイを見る。
見て、すぐに目を逸らす。
ルイもそれを追わない。
追わないことが、前より少しだけ大事だと知っている顔だった。
その空気を。
スタジオの入り口、廊下側から三人がこっそり覗いていた。
カノン。
ゴイチ。
アダム。
完全に怪しい。
でも誰もそれを指摘しない。
今だけは、全員がそれどころじゃなかった。
「今の、見た?」
小声で、でも少し嬉しそうに言うのはカノンだ。
隣のゴイチが、壁に肩を預けたまま小さく頷く。
「あぁ」
少し間。
「ちゃんと」
その“ちゃんと”の中には、色んな意味が入っていた。
ちゃんと答えた。
ちゃんと受け取った。
たったそれだけのことなのに。
カノンはその一言に、ふっと口元を緩める。
「でしょ」
小さく笑う声は、少しだけ安心した響きだった。
アダムは何も言わない。
ただ、廊下の影の中に静かに立ったまま、スタジオの奥の二人を見ている。
目を細めるでもなく、口を挟むでもなく。
でも確かにそこにいて、見守っていた。
その沈黙が、アダムらしかった。
カノンはそんな二人の横で、もう一度だけスタジオの中を見る。
ルイが少しだけ下を向いて、それからタイキに何か短く言う。
タイキが小さく返す。
それだけのやり取り。
でも数日前までの二人なら、そこにあったのは張り詰めた沈黙か、刺々しい拒絶のどっちかだった。
今は違う。
不器用でも。
遅くても。
それでも、ちゃんと一歩前に進んでいる。
カノンは胸の奥で、その変化を静かに噛みしめた。
痛くないわけじゃない。
ルイに向けていた気持ちが、綺麗さっぱり消えたわけでもない。
傷はまだ、完全には癒えていない。
ふとした瞬間に、先日のことを思い出せば、胸の奥が少しだけきしむ。
でも。
それでも、と思う。
ちゃんと、前に進んでもらわなきゃ困るんだよ……
心の中で、ぽつりとそう呟く。
ルイにも。
タイキにも。
そしてたぶん、自分がちゃんと前を向くためにも。
あの夜、踏み込んで。
答えを見て。
ちゃんと区切りをつけた意味を、無駄にしたくなかった。
ルイがルイのまま、ちゃんとタイキの方へ行ってくれなきゃ困る。
タイキがあんなふうに傷ついたままで終わるのも、嫌だった。
だから今、こうして二人がぎこちなくても同じ場所に立っているだけで、少しだけ救われる。
「お前さ」
ゴイチが小声で言う。
「顔、ちょっと嬉しそう」
カノンはすぐ横目で睨む。
「うるさい」
「図星か」
「図星とかじゃねぇし」
そう返しながらも、声はあまり尖っていなかった。
ゴイチはそんなカノンを見て、ほんの少しだけ口元を緩める。
「ま、よかったな」
短い一言。
その“よかった”が何に向いてるのか、カノンにはちゃんとわかった。
二人が進み始めたことにも。
カノン自身が、そこを見て“よかった”と思えていることにも。
カノンは少しだけ息を吐く。
「……うん」
それだけ返した。
アダムはまだ黙ったままだった。
でも、その視線はやわらかかった。
少しだけ肩の力が抜けたみたいに、静かに二人を見ている。
タイキがようやくスタジオの出口の方へ歩き出す。
ルイは追わない。
でも、目だけはまっすぐその背中を見ていた。
その“追わない”が、ちゃんと変化だった。
「行くか」
ゴイチが壁から背を離す。
カノンが頷く。
「うん」
アダムも何も言わず、一歩だけ前へ出る。
三人は廊下の影からそっと離れた。
もう覗く必要はない。
たぶん二人とも、ちゃんと自分たちでやるしかないところまで来ている。
廊下を歩きながら、カノンは一度だけ後ろを振り返る。
スタジオの中では、まだルイが立っていた。
でもその横顔は、少し前までみたいな行き場のなさだけじゃなくて、ちゃんと“待つ”顔をしていた。
それを見て、カノンは小さく目を細める。
ちゃんと、前に進んでもらわなきゃ困る。
もう一度だけ、心の中でそう言った。
まだ少し痛む胸を抱えたまま。
それでも、自分の足で前を向くために。
約束の日の前夜。
部屋は静かだった。
シャワーはもう浴びた。
ドライヤーで乾かした髪も、時間が経って少し落ち着いている。
ベッドの上には、明日着るかもしれない服が二つ、適当に置かれたままだった。
黒のパーカー。
薄いグレーのスウェット。
どっちでもいい。
昼に飯を食いに行くだけなんだから、本当ならこんなふうに悩むことでもない。
なのに決まらない。
タイキはベッドの端に腰を下ろしたまま、その二つを見ていた。
(いや、なんで悩んでんだよ)
小さく息を吐く。
飯を食うだけ。
昼間。
それだけ。
ルイもそう言った。
自分も、それだけならと答えた。
それなのに、胸の奥だけが全然“それだけ”じゃない。
明日、ルイと会う。
スタジオじゃなくて。
仕事でもなくて。
メンバーもスタッフもいない場所で。
ちゃんと二人で。
その事実が、思った以上に重かった。
タイキはベッドに倒れ込む。
天井を見る。
あの日、ルイは言った。
今更、お前のこと好きだなんて気付いた俺は、バカだ。
その声がまだ頭から離れない。
遅い。
ほんとに遅い。
そんなの、自分がいちばんわかってるはずなのに。
それでも、あんな顔で言われたら。
あんなふうに初めて取り繕わないまま立たれたら。
揺れるに決まってる。
「……最悪」
ぽつりと漏れる。
自分のことだ。
好きだと自覚したからこそ、もう前みたいな夜には戻れない。
だから距離を取った。
でも、距離を取った先でも結局、ルイのことばっかり考えてる。
明日行ったら、何を話す。
怒ってること。
今まで傷ついてきたこと。
好きだと気づいてしまって、余計に苦しかったこと。
全部、言える気がしない。
でも、言わないままでは会う意味がない気もする。
スマホが震えた。
タイキは少しだけ肩を揺らして、枕元に置いてあったスマホを手に取る。
表示された名前を見た瞬間、少しだけ呼吸が楽になる。
アダム
開く。
短い文面だった。
アダム
“明日、行くんだろ”
タイキは画面を見つめたまま、小さく苦笑する。
タイキは親指を動かす。
“行く”
送ってから、少しだけ間が空く。
すぐ既読がつく。
その速さに、アダムもまだ起きてたのかと思う。
次のメッセージ。
アダム
“そっか”
それだけ。
余計なことを言わない。
行くなとも、頑張れとも言わない。
その“そっか”に、タイキは少しだけ目を細めた。
たぶんアダムは、自分が今どれだけ落ち着かないかも、だいたいわかってる。
だからこそ、変に背中を押さない。
少しして、また通知が来る。
アダム
“無理だと思ったら帰っていい”
タイキの指が止まる。
画面の白い光が、薄暗い部屋の中でやけにやさしく見えた。
アダム
“最後まで付き合う義理はない”
タイキはその文を、しばらく見ていた。
最後まで付き合う義理はない。
その言い方が、妙に胸に残る。
前なら、なかった。
ルイに呼ばれて、行って、終わるまでそこにいた。
苦しくても、腹が立っても、最後には何も言わずに帰っていた。
でも今は違う。
好きだとわかったから。
好きだと認めたから。
そのまま流されるのはもう無理だ。
アダムの言葉は、それをタイキにもう一度思い出させる。
逃げてもいい。
無理なら帰っていい。
選ぶのは自分でいい。
その当たり前が、今のタイキにはありがたかった。
タイキは少し考えてから返す。
“わかってる”
すぐに、また既読。
それから少し長めの文が届く。
アダム
“行くって決めたなら”
.‘ルイのためじゃなくて、 自分 のために行きな”
タイキの呼吸が、そこでほんの少し止まる。
自分のため。
その言葉が、思っていたより深く入ってくる。
ルイに好きだと言われたから会うんじゃない。
可哀想だからでもない。
今さら変わろうとしてるように見えるから、期待して行くのでもない。
自分のために。
自分が聞きたいことを聞くために。
言いたいことを言うために。
曖昧だった時間を、これ以上曖昧にしないために。
タイキはスマホを持ったまま、目を閉じた。
胸の奥が少しだけ整理される。
怖いのは変わらない。
会ったらまた揺れる。
たぶん、ルイの顔を見た瞬間に心臓だってうるさくなる。
でも、それでも。
“自分のために行け”は、ちゃんと立つための言葉だった。
タイキは短く返す。
“うん”
送信。
アダムからの返事は、今度は少しだけ間があいた。
その数秒のあいだ、タイキは天井ではなく、スマホの画面を見ていた。
やがて届く。
アダム
“それなら大丈夫”
そのたった一行に、タイキはまた少しだけ笑う。
「何を根拠に……」
小さく呟く。
でも、その根拠のなさが逆によかった。
絶対うまくいく、なんて言わない。
傷つかないとも言わない。
ただ、“自分のために行くなら大丈夫”とだけ言う。
アダムらしい。
タイキは指先で画面を少しだけスクロールする。
これまでのアダムとのやり取り。
食ったか、とか。
寝ろよ、とか。
今は決めなくていい、とか。
泣くだけ泣け、とか。
どれも短いのに、必要なところにだけちゃんと届いている。
「……助けられすぎだろ」
独り言みたいにそう漏らして、タイキはもう一度だけ画面を見た。
それから、最後に一文だけ送る。
「ありがと」
既読はすぐについた。
でも、返事は来ない。
たぶん、もうこれ以上いらないと思ったんだろう。
そこまで含めてアダムらしくて、タイキはスマホを胸の上に置いたまま、少しだけ息を吐いた。
部屋は相変わらず静かだ。
ベッドの上の服。
薄暗い照明。
窓の外を走る車の気配。
でも、さっきよりは少しだけ呼吸がしやすかった。
明日、ルイに会う。
怖い。
たぶん、ちゃんと怖い。
でも今はそれでいい気もした。
揺れることも。
好きなことも。
傷ついたことも。
全部ひっくるめて、自分のために行く。
タイキはそう思いながら、もう一度だけ目を閉じた。
ルイの顔が浮かぶ。
スタジオで見た、少しだけ不器用な目。
“ありがとう”と言った時の、あの顔。
胸がまた少しだけざわつく。
それでも今夜は、前みたいな苦しさだけじゃなかった。
アダムの言葉が、ちゃんと足元にあったからだ。
タイキは枕元にスマホを戻す。
それから、ベッドの上の服のうち黒のパーカーを引き寄せて、明日着る方へなんとなく寄せた。
「……これでいいか」
誰に言うでもなく呟く。
飯を食いに行くだけ。
昼間。
それだけ。
そう言い聞かせながらも、心臓は全然平常運転に戻ってくれなかった。
でも。
そのうるささごと抱えたまま、明日ちゃんと行こうと、タイキはようやく思えた。
ルイ宅。
部屋は静かだった。
シャワーを浴びて、髪を軽く乾かして。
ベッドの上には、何着か服を出したままルイが腕を組んで立っている。
どれも自分が好きなものだ。
身につければ落ち着くし、鏡に映った時に“いつもの自分”でいられる。
でも。
ルイはその中から、ひとつずつ手を引いていく。
気取りすぎない方がいい。
シンプルでいい。
そう思った。
結局ベッドの端に残ったのは、無地の黒に近いグレートップスと、少しゆるめのパンツ。
余計な装飾のない、すっきりした服だった。
アクセサリーも、今回はやめる。
時計だけでいいと思った。
普段なら自分の好きなものを全部身につける。
似合うものを選ぶし、見せ方も知ってる。
でも明日は、そうじゃない気がした。
自然でいい。
いや、自然がいい。
ルイはネックレスを箱に戻しながら、小さく息を吐いた。
「……何やってんだ、俺」
独り言みたいに漏れる。
服ひとつ選ぶだけで、こんなに考えるなんてらしくない。
でも、それくらい明日のことをちゃんと意識している自分がいるのも、もう否定できなかった。
ベッドに腰を下ろす。
スマホを手に取る。
明日、どこへ行こう。
飯を食う。
それは決まっている。
でもその前後、少しだけでも一緒にいる時間があるなら、どういう場所がいいのかと考え始めてしまう。
(会話が……しんどくないところ)
思った瞬間、自分で少しだけ眉を寄せる。
別に甘えてるわけじゃない。
ただ、行くなら。
(タイキが……)
そこまで考えて、ルイの頭に自然と浮かぶのは、最近のタイキの顔ばかりだった。
苦しそうな顔。
泣きそうな顔。
怒った顔。
“遅いんだよ”と言った時の、あの揺れた目。
ルイはスマホを持ったまま、少しだけ目を閉じる。
今さらだ。
それでも明日会うなら、少しでもタイキがしんどくない方がいい。
少しでも。
(……笑ってくれるようなところが良い)
そこまで考えて、ルイはハッとした。
笑ってくれるようなところ。
そんなふうに思った自分に、一瞬だけ動きが止まる。
今までの自分なら、もっと違った。
自分が落ち着ける場所。
自分の空気に持ち込みやすい場所。
そういうところを選んでいたはずだ。
でも今は違う。
タイキが少しでも肩の力を抜けるなら。
少しでも笑えるなら。
そういう場所の方がいいと思っている。
それが妙に新鮮で、少しだけ怖い。
ルイはベッドに背中を預けて、天井を見る。
水族館。
ふと、その言葉が浮かぶ。
静かだし。
見るものも多い。
会話が途切れても間が持つ。
歩くペースも合わせやすい。
悪くない。
でも。
「……いや」
小さく首を振る。
ガキっぽいか。
しかも、飯だけって言ったのに、あまりにも“そういう感じ”が出すぎる。
デートみたいだ。
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、ルイは苦く笑う。
タイキの顔が目に浮かぶ。
眉を寄せて、少しだけ睨むみたいにこっちを見る顔。
“飯だけって言っただろ”
たぶん、そう言う。
怒られる、間違いなく。
ルイはその想像だけで、小さく息を吐いた。
だめだ。
じゃあ、どこならいい。
もう一度、頭の中で候補を並べる。
静かすぎても話しづらい。
人が多すぎても落ち着かない。
“ちゃんと話す”ことはしたい。でも、話すことだけを強制する場所は避けたい。
スマホを持つ手の力が少しだけ抜ける。
その時だった。
不意に、昔の景色が浮かんだ。
高校時代。
制服のまま、駅前をぶらついて。
片耳ずつイヤホンを分けて、同じ音楽を聞きながら歩いていた頃。
タイキが新しい曲を見つけては「これ聴いて」とイヤホンを押しつけてきて、
ルイが「音量でかい」と文句を言いながら、そのまま最後まで聴いていた。
帰り道。
同じ歩幅。
何でもない会話。
たまに黙っても、それが気まずくならなかった頃。
その記憶の延長みたいに、ひとつ場所が浮かぶ。
レコードショップ。
ルイは少しだけ目を見開いた。
「……あそこか」
駅前のビル。
昔よく寄った店。
規模はそんなに大きくないけど、輸入盤も新譜もあって、視聴スペースも少しある。
上の階に、確か洋食屋も入っていたはずだ。
レコードショップなら、話題に困らない。
見ながら喋れる。
懐かしい話もできるかもしれない。
何より、二人にとって“昔の続き”みたいな場所だ。
ルイはそこでようやく少しだけ肩の力を抜いた。
(……いいかもな)
飯だけ、という約束も守れる。
その前に少しだけ店を見る。
それくらいなら、不自然でもない。
スマホを手に取って、店の営業時間を確認する。
洋食屋もまだやっている。
予約までは要らないかと思ったけれど、明日は昼の混みそうな時間帯だ。
少し迷ってから、店の予約ページを開く。
名前。
人数。
時間。
入力しながら、妙に緊張する。
ただ飯を食いに行くだけだ。
なのに一文字打つたび、心臓が変にうるさい。
予約完了の画面を見て、ルイは小さく息を吐いた。
次に、LINEを開く。
そこに並んでいる短い文面たちが、一瞬だけ目に入る。
“来い”と送っていた頃の自分が、今見ると信じられないくらい遠く感じた。
ルイは親指を少しだけ止める。
明日の待ち合わせ場所。
時間。
それを普通に打つだけ。
本当なら簡単なはずだ。
でも、タイキ相手だとそれすら緊張する。
何て送る。
文章、硬すぎないか。
逆に軽すぎても嫌だ。
変な絵文字なんて論外だし、句読点の置き方ひとつまで気になる。
ルイは一度打って、消す。
また打つ。
最終的に残ったのは、本当に普通の文章だった。
「明日、12時に〇〇駅前のレコードショップでどう?」
「上の洋食屋、予約できる」
送る直前で、また少しだけ指が止まる。
ルイは短く息を吸う。
それから、少しだけ緊張しながら送信ボタンを押した。
小さな送信音。
たったそれだけなのに、胸の奥がやけに強く鳴った。
ルイはスマホを伏せて、ベッドの上に置く。
返事はまだ来ない。
でも今夜はそれでよかった。
ちゃんと誘って。
ちゃんと場所を決めて。
ちゃんと連絡した。
それだけでも、前の自分とは少し違う。
ルイはもう一度、明日着る服を見た。
自然でいい。
無理に何かを足さなくていい。
昔、片耳ずつイヤホンを分けて歩いていた頃みたいに。
ただ同じ場所を、同じ時間を、少しだけ並んで過ごせればいい。
そう思って、また自分で少し驚く。
小さく笑って、ルイはようやくベッドに横になった。
目を閉じる。
でも、明日のタイキの顔ばかり浮かぶ。
怒った顔だったらどうする。
警戒されたままだったら。
でも、少しでも笑ってくれたら。
その“少しでも”を本気で願っている自分に、もう言い訳はできなかった。
タイキ宅。
シャワーも終わって、髪も半分くらい乾いていて、ベッドの上には明日着る予定の黒のパーカーが置かれている。
スマホは枕元。
部屋の明かりは少し落としてあって、もう寝る前の空気なのに、タイキの頭の中だけが全然眠る準備をしていなかった。
ルイと会う。
明日。
昼間。
飯だけ。
そう自分に何度も言い聞かせてるのに、胸の奥だけが妙に落ち着かない。
その時、スマホが震えた。
タイキの肩がぴくっと揺れる。
画面を見る前から、なんとなくわかった。
手を伸ばして、スマホを取る。
通知欄に表示された名前を見た瞬間、喉が小さく鳴った。
ルイ
ほんの数文字。
それだけで心臓が無駄にうるさくなる。
「……はぁ」
小さく息を吐いてから、画面を開く。
そこに並んでいたのは、本当に普通の文だった。
“明日、12時に〇〇駅前のレコードショップでどう?”
“上の洋食屋、予約できる”
タイキはしばらく、その文を見たまま動けなかった。
レコードショップ。
その単語が、まず胸に引っかかる。
懐かしい、と思った。
同時に、ずるいとも思った。
高校の頃、よく行った。
制服のまま寄って、新譜を見て、視聴機の前でどっちが先にイヤホンを取るかみたいな、どうでもいい小競り合いをして。
気になったアルバムを手に取って、「これ良くない?」とか言い合って。
そんな記憶が、たった“レコードショップ”の一言だけで勝手によみがえる。
(……なんでそこ)
思う。
たまたまかもしれない。
でも、たぶん違う。
ルイはきっと覚えてる。
自分と同じように、あの頃のことを。
それが少し、苦しい。
それに。
ちゃんと考えて選んだんだ、とわかるから。
適当に“どっか行くか”じゃなくて。
来い、でもなくて。
待ち合わせ場所を決めて、飯屋まで押さえて。
それが、ルイにしてはやけに丁寧で。
その丁寧さが今のタイキには、ありがたいのに、困る。
「……なんだよ、これ」
ぽつりと呟く。
ただの連絡だ。
普通の待ち合わせLINEだ。
本当なら、「了解」か「わかった」で返せば終わるくらいの。
なのに。
指がすぐに動かない。
文面の温度を読みすぎる。
レコードショップ、ってわざわざ選んだ意味まで考える。
洋食屋を予約したルイの姿まで、変に想像してしまう。
似合わねぇ、と思う。
いや、似合うのかもしれない。
でも、自分の中ではまだ“来い”の一言を送っていたルイの方が強く残ってるから、その変化に心がついていかない。
タイキはスマホを持ったまま、ベッドに背中から倒れ込んだ。
天井を見る。
画面の光が顔の横を白く照らしている。
返さなきゃ。
でも何て返す。
“了解”
冷たすぎるか。
“わかった”
普通。でも普通すぎるか。
“レコードショップ?”
それじゃ変に意識してるみたいだ。
そこまで考えて、タイキは自分に呆れる。
「いや、何悩んでんだよ……」
待ち合わせの確認だろ。
ただそれだけだろ。
それなのに、こんなに緊張するのは。
たぶん自分の方が、もう“ただ会うだけ”では済まないってわかってるからだ。
ルイのこと、まだ好きだ。
それは変わらない。
でも、傷ついたことも消えてない。
好きだから会いたい、で片づけられる段階でもない。
そんな相手から、昔を思い出すみたいな場所を提案されて。
しかも、“ちゃんと考えてます”みたいな顔の見える文面で送られたら。
落ち着けるわけがない。
タイキはスマホを胸の上に置いて、目を閉じた。
レコードショップ。
洋食屋。
昼間。
二人。
頭の中で並べるたびに、心臓が少しずつ騒がしくなる。
嬉しいのか。
怖いのか。
多分その両方だ。
ルイがちゃんと選んだことはわかる。
自分が少しでも話しやすいように、変に重くなりすぎないように、でも何でもない感じでも終わらないように。
そこまで考えてるんだろうな、と思ってしまう。
思ってしまうから、余計に困る。
「……ずる」
小さく言ってから、目を開ける。
ルイのことをそう思うのは、もう何度目かわからない。
でも本当にそうだった。
真っ直ぐ来られるより、こういう丁寧さの方が今は効く。
タイキはスマホをもう一度持ち上げる。
画面を開いて、返信欄に指を置く。
“わかった”
打つ。
でも、それだけじゃ少し冷たく見える気がして、消す。
もう一度。
“うん、わかった”
今度は少し柔らかい。
でも、“うん”なんて普段の自分っぽいか、とまた引っかかる。
「……めんどくさ」
自分に向けて呟く。
でも結局、削りすぎても違うし、気を遣いすぎても違う。
タイキは少しだけ考えて、最終的にこう打った。
“わかった”
“12時に行く”
短い。
でも必要なことは入っている。
それ以上でも、それ以下でもない。
送る前に、またほんの一瞬だけ止まる。
この送信ひとつで、明日がちゃんと現実になる気がした。
ルイと会う。
レコードショップに行く。
そのあと飯を食う。
逃げ場のない形で、それが現実になる。
タイキは小さく息を吸って、送信ボタンを押した。
既読は、思ったより早くついた。
その速さにまた心臓が鳴る。
「見てたのかよ……」
思わずそう漏れる。
次の返信はすぐには来ない。
でも、その数秒が妙に長い。
やがて一通だけ返ってきた。
“ ありがとう”
タイキはその文字を見て、しばらく何もできなかった。
また、それか。
昼の時もそうだった。
答えてくれたこと自体に、ルイが本気で少し救われてるみたいな顔をしていた。
今も同じだ。
それが、わかる。
わかってしまうから、胸の奥がまたざわつく。
「……知らねぇよ」
口ではそう言いながら、画面を閉じる指先は少し熱かった。
ありがとう、なんて。
こっちが言われる筋合いは別にない。
それなのに、その二文字を見ただけで、自分がちゃんとルイに届いてしまった感じがする。
届くなよ、と思う。
でも、完全に届かなくなるのはそれはそれで嫌だと思ってる自分もいる。
タイキはベッドの上で寝返りを打った。
枕に顔を少しだけ押しつける。
明日、たぶんちゃんと緊張する。
会った瞬間、どういう顔をすればいいのかわからなくなるかもしれない。
昔みたいに自然には話せない。
今までのことを全部なかったことにもできない。
それでも、行くと返した。
ちゃんと、自分の意思で。
アダムの言葉がふと浮かぶ。
自分のために行け。
タイキは目を閉じた。
そうだ。
ルイのためじゃない。
流されるためでもない。
自分が聞きたいことを聞いて、見たいものを見て、ちゃんと確かめるために行く。
そう言い聞かせながらも、胸の奥は全然静かになってくれない。
でも、そのうるささの中に少しだけ、昔の帰り道みたいな懐かしさが混ざっていることに気づいて、タイキはまた苦く笑った。
「……ほんと、無理」
たぶん明日は、思ってるよりしんどい。
でも、思ってるより少しだけ、嬉しいのかもしれない。
そのどっちも抱えたまま、タイキはようやくスマホを枕元に戻した。
部屋はまた静かになる。
でも、さっきまでよりはほんの少しだけ、明日へ向かって気持ちが定まっていた。
約束の日、当日。
待ち合わせの駅前は、昼前の光で明るかった。
人の流れは多すぎず、少なすぎず。
改札から出てくる学生。
買い物袋を持った年配の夫婦。
カフェの前でメニューを見ている二人組。
そんな何でもない昼の街の中で、ルイだけが少し早く来ていた。
ルイはレコードショップの看板が見える位置で立ったまま、スマホを一度見て、また伏せた。
時間はまだ約束の少し前。
落ち着かない。
別に、何度も人を待ったことがないわけじゃない。
撮影の入りだって、取材だって、待ち合わせそのものは慣れている。
でも、今日のこの数分だけは、どうしようもなく長かった。
やがて、人の流れの中に見慣れた姿が混ざる。
タイキだった。
歩いてくるその足取りは普通を装っているのに、近づくにつれて少しだけ硬いのがわかる。
ルイの喉が、小さく動いた。
タイキも、少し離れたところでルイを見つける。
目が合う。
ほんの一瞬だけ。
それだけで、二人の間にあった時間が、夜じゃない昼の光の中に引っ張り出される。
タイキが先に言った。
「……早」
ルイは少しだけ口元を緩める。
「お前も十分早い」
タイキはそこで、小さく息を吐いた。
少しだけ肩の力を抜くみたいに。
「待った?」
「いや」
短い返事。
でも、その“いや”は本当に責める温度じゃなかった。
タイキは一度だけレコードショップの看板を見上げる。
それから、またルイを見る。
「ここ、久しぶり」
「うん」
ルイも同じ方を見る。
「まだあったんだな」
「俺も思った」
会話は少ない。
無理に繋げない。
でも、完全な沈黙でもない。
そのぎりぎりの感じが、逆に今の二人にはちょうどよかった。
「行くか」
ルイが言う。
タイキは頷く。
「うん」
並んで歩く。
近すぎない。
でも、遠すぎない。
その距離の取り方すら、二人とも少しだけ意識しているのがわかった。
ビルに入って、エスカレーターで上がる。
少し冷たい館内の空気。
昼の明るさから、店の落ち着いた照明へ変わる瞬間。
レコードショップの入口をくぐると、懐かしい匂いがした。
新品の紙ジャケット。
プラスチックケース。
古いスピーカーから流れる少し丸い音。
視聴スペースの近くに積まれた新譜。
壁際のジャンル分けされた棚。
二人とも、そこで一瞬だけ足を止めた。
「あー……」
タイキが小さく漏らす。
ルイも少しだけ目を細める。
「変わってるけど、変わってないな」
「わかる」
その一言だけで、昔の空気が少しだけ戻ってくる。
高校の帰り。
制服のまま寄って、どっちが先に試聴機を使うかで軽く揉めていた頃。
“これ聴いて”って片耳にイヤホンを押し込まれて、結局最後まで付き合わされていた頃。
今はもう、あんなふうに雑に近くは立てない。
でも、同じ棚の前に立つだけで思い出すことがある。
タイキは指先でジャケットを一枚引き出す。
「これ、まだ置いてんだ」
ルイが隣から見る。
「あの時、お前めちゃくちゃ聴いてたやつ」
「ルイが先にハマってたろ」
「俺は一曲だけ」
「いや、絶対アルバム通しで聴いてた」
「記憶違い」
「違わねぇし」
そのやり取りに、二人とも少しだけ笑う。
笑ってから、少しだけ静かになる。
こんなふうに話すのは、いつぶりだろうと、どちらもたぶん思った。
タイキは別の棚へ視線を流す。
ルイもそれにつられるみたいに歩く。
会話は少ない。
「これ新譜?」
「たぶん」
「ジャケいいな」
「お前好きそう」
それくらい。
でも、少ない会話の隙間には、ちゃんと音楽があった。
流れている曲。
並ぶジャケット。
思い出す昔の話。
“ちゃんと話す”っていう今日の約束の前に、音楽が少しだけ二人の呼吸をつないでくれているみたいだった。
タイキは視線を落として、ある棚の前で少しだけ止まる。
「……これ」
ルイもそのジャケットを見る。
懐かしいバンドだった。
高校の頃、二人でよく聴いていた。
片耳ずつイヤホンを分けて、帰り道に聴いていた曲が何曲も入っている。
「まだ聴く?」
ルイが聞く。
タイキは少しだけ口元を緩めた。
「たまに」
「俺も」
その“俺も”の響きが、妙に静かに残る。
タイキはジャケットを棚に戻す。
その横顔は、まだ完全にやわらかくはない。
でも、スタジオにいる時より少しだけ呼吸がしやすそうだった。
ルイはそれを見て、胸の奥で小さく息をつく。
ここにしてよかった、と思う。
そう思ったこと自体が、少しだけ不思議だった。
自分が落ち着く場所じゃなくて。
タイキが少しでも笑える場所を選んでよかった、と。
ルイは一瞬だけ視線を上げて、少し遠くを見る。
ひと呼吸。
それから言った。
「あのさ」
タイキが顔を向ける。
ルイは店の奥を軽く指差した。
「あそこで、聞けるけど、聞く?」
できるだけ自然に。
静かに溢した。
タイキはその先を見る。
小さな視聴スペース。
昔と少し形は変わってるけど、まだ残っている。
イヤホンがいくつか並んでいて、新譜の試聴カードが差してある場所。
その景色を見た瞬間、タイキの胸の奥がまた静かに揺れた。
あの頃も、こういうふうだった。
「どっちが先に聴くか」で揉めて。
結局、気になる方を先に取ったやつが勝ちみたいな空気になって。
隣で流れる音を片耳で勝手に聞いて、感想を言い合って。
それが、こんなに遠くなっていたなんて、当時は思わなかった。
タイキは視線をそこに向けたまま、小さく息を吐く。
「……聞く」
ルイの目がほんの少しだけやわらぐ。
「うん」
それだけ返す。
二人はまた並んで、店の奥へ歩き出す。
昔みたいにはいかない。
でも、昔の続きみたいな時間を、今はまだ壊さないまま持てるかもしれない。
そんな予感だけが、昼の静かなレコードショップの中に、少しだけ流れていた。
店の奥にある視聴スペースは、昔より少しだけ整っていた。
イヤホンは前より新しくなっていて、視聴機の画面もタッチ式に変わっている。
でも、狭いスペースの空気だけはどこか変わっていなかった。
壁際。
少し並べば肩が触れそうな距離。
流れている店内BGMより、ここだけ少しだけ静かな感じ。
ルイが棚からさっきのアルバムを持ってくる。
タイキはそのジャケットを目で追って、それから視聴機の前に立った。
「入れるぞ」
ルイが言う。
「ん」
タイキは短く返す。
それだけのやり取りなのに、妙に神経が細くなる。
昔なら、もっと雑だった。
どっちが操作するとか決めもしないで勝手に触って。
イヤホンだって片耳ずつ分けて、近いとか遠いとかそんなこといちいち意識しなかった。
今は違う。
ルイがイヤホンを持ち上げる。
一組しかない。
その瞬間、二人ともほんの少しだけ動きが止まった。
「……どうする」
タイキが先に小さく言う。
ルイはヘッドホンを見て、少しだけ苦く笑う。
「昔みたいに、片方ずつでいいか?」
その“昔みたいに”が、思っていたより静かに胸へ落ちる。
タイキは一瞬だけ視線を落とした。
でも、嫌だとは言わない。
「……うん」
ルイがコードを指先で整える。
その手つきまで、妙に落ち着いて見えて、タイキは余計に意識してしまう。
ルイが右側を自分の耳に当てる。
残った左側を、タイキに差し出した。
「ほら」
タイキはそれを受け取ろうとして、指先がわずかに触れた。
ほんの一瞬。
それだけ。
でも、熱い。
タイキは何も言わずに、ヘッドホンを耳に当てる。
そのために自然と、ルイの方へ少しだけ身体を寄せることになる。
近い。
肩まではまだ触れていない。
でも、コードの長さのせいで、これ以上離れるとイヤホンが変に引っ張られる。
だから、並ぶしかない。
ルイの腕。
肩。
横顔。
視界の端に全部入る。
タイキは呼吸を浅くしながら、なるべく平然とした顔を作った。
「いける?」
ルイが低く聞く。
「……うん」
返事も少しだけ硬い。
ルイはそこで視聴機をタップした。
次の瞬間、音楽が流れ始める。
最初の音が耳に入った瞬間だった。
二人の間の空気が、少しだけ変わる。
張っていたものが、全部消えるわけじゃない。
でも、音楽が入ったことで、互いを意識しすぎていた感覚がほんの少しだけほどける。
懐かしいイントロ。
ドラムの入り。
ギターの薄い歪み。
何度も聴いた曲。
高校の帰り道。
制服の肩がぶつかりそうな距離で歩きながら聴いていた時の、夕方の空気まで少しだけ蘇る。
タイキは視線を落としたまま、小さく息を吐く。
その瞬間、無意識だった。
音をちゃんと聞こうとするみたいに、ほんの少しだけルイの方へ寄る。
本当に、ほんの少しだけ。
でもその重心の移動は、ルイにははっきりわかった。
ルイの鼓動が、そこで初めて強く鳴る。
どくん、と。
自分でも驚くくらい、はっきり。
タイキはたぶん気づいていない。
ただ昔みたいに、音楽を共有する体勢へ身体が寄っただけだ。
意識してやったわけじゃない。
そういうところまで、ルイにはわかる。
わかるのに。
それでも、その無意識の近さが、ルイの胸の奥を静かに揺らした。
好きだと自覚してから、タイキに近づくことはずっと怖かった。
近づけば嫌がられる気がしていた。
警戒される気がしていた。
当然だと思っていた。
だから今、たった少しでもタイキとの距離が近いことが、思っていた以上に効く。
ルイは視線をまっすぐ前に向けたまま、息を整える。
今ここで変に顔を向けたら、たぶんタイキもまた意識して離れる。
だから見ない。
見ないまま、隣にある体温だけを感じる。
曲が進む。
サビ前。
二人とも何も言わない。
でも沈黙は苦しくなかった。
音楽が、その沈黙にちゃんと意味を持たせてくれている。
タイキの耳元で少しだけ髪が揺れる。
ルイの肩の近くで、タイキの呼吸がかすかに上下しているのがわかる。
タイキは途中でほんの少しだけ口元を緩めた。
たぶん、好きなフレーズが来た。
昔もそうだった。
この曲のここで、少しだけ表情が変わる。
ルイはその横顔を視界の端で拾って、胸の奥がまた静かに熱くなる。
懐かしい。
でも、昔と同じじゃない。
昔よりずっと近いのに、昔よりずっと触れられない。
その不自由さごと、今の二人だった。
曲が二番へ入る頃、タイキはほんの少しだけ首を傾けた。
ヘッドホンの位置を直すために、また無意識にルイへ寄る。
今度は肩が、かすかに触れた。
一瞬。
でも、そこから離れない。
ルイの鼓動がまた鳴る。
さっきより少しだけ速く。
視聴スペースの狭さ。
音楽のせい。
昔の癖。
理由なんていくらでもつけられる。
でも、たぶんルイはもう、そういう言い訳をしたいわけじゃなかった。
ただ今は、このたった少しの近さを壊したくない。
曲が終わりに近づく。
最後のフレーズが流れて、余韻みたいに音が薄くなる。
その数秒だけ、二人とも動かなかった。
音が消えても、すぐには離れない。
タイキが先に、ほんの少しだけ顔を上げる。
それから、ルイの方を見ないまま小さく言った。
「……やっぱ、いいな」
その声は、音楽に向けた言葉のはずなのに。
ルイには、今この時間ごと肯定されたみたいに聞こえて、胸の奥がまた静かに鳴った。
「うん」
ルイも短く返す。
それだけ。
それだけなのに、二人の間には、さっき視聴を始める前とは少しだけ違う空気が流れていた 。
音楽が終わる。
最後の余韻みたいに、わずかなノイズだけが耳に残って、それもすぐに消えた。
二人とも、すぐには動かなかった。
さっきまで共有していたイヤホンの片側が、まだ耳にかかったまま。
肩は一度触れたきり、今は触れていない。
でも、離れたわけでもない。
タイキが先に、小さく息を吐く。
それからゆっくりとイヤホンを耳から外した。
ルイも少し遅れて、自分の側を外す。
その動作だけで、急に現実に戻される。
近い。
さっきまで音楽のせいで誤魔化されていた距離が、今はやけに生々しい。
タイキはイヤホンをルイに返そうとして、また指先が触れそうになって、ほんの少しだけ手を引いた。
その不自然な動きを、自分でもわかってしまって、余計に落ち着かない。
ルイもそれを拾ったらしい。
でも、何も言わない。
ただ、静かにイヤホンを受け取って、視聴機の上に戻した。
「……行くか」
低い声。
その一言に、タイキは少しだけ救われる。
変にそこへ触れられたら、たぶんもっとぎこちなくなっていた。
ルイが触れないでいてくれたことが、今はありがたかった。
「うん」
短く返す。
二人は視聴スペースを離れる。
歩き出しても、しばらく会話はなかった。
でも、さっきまでの重たさとは少し違う沈黙だった。
完全にほどけたわけじゃない。
ただ、音楽を挟んだぶんだけ、呼吸の合わせ方を少し思い出したみたいな沈黙。
レコードショップを出る前、タイキがふと棚の一角を見て立ち止まる。
「……まだこんなの置いてんだ」
昔好きだった国内バンドの再発盤だった。
ルイもその横に立つ。
「お前、これの二曲目ばっか聴いてたな」
タイキが少しだけ眉を上げる。
「ルイだろ、それ」
「俺は一曲目」
「いや、絶対二曲目もハマってた」
「記憶改ざんすんなよ」
そのやり取りに、ほんの少しだけ笑いが混ざる。
短い。
でも、ちゃんと笑った。
それだけで、タイキの胸の奥が少しだけやわらぐ。
同時に、やわらいでしまう自分にまた少し困る。
「飯、行こう」
ルイが言う。
タイキは頷いた。
「うん」
⸻
洋食屋は、思っていたより落ち着いた店だった。
白い壁。
木目のテーブル。
昼時のにぎわいはあるけれど、うるさすぎない。
窓際の席に通されて、二人は向かい合って座る。
この“向かい合う”という形が、タイキには少しだけ緊張した。
スタジオでは横に並ぶ。
レコードショップでも、同じ方向を向いて立てた。
でも今は、真正面だ。
逃げ場がない、とまでは言わない。
でも、目を上げたらすぐルイがいる。
水が運ばれてくる。
メニューを開く。
「何にする」
ルイが先に聞く。
「……まだ見てる」
「そっか」
その返しまで静かだ。
タイキはメニューに視線を落としながら、少しだけ落ち着きを取り戻す。
こういう普通のやり取りがあるだけで、少し助かる。
「オムライス、まだある」
ぽつりと漏らすと、ルイが目を落とす。
「あぁ」
少しだけ口元を緩めた。
「お前、昔もここでそれ食ってた」
タイキが顔を上げる。
「覚えてんの」
「覚えてる」
即答だった。
タイキはまた視線を落とした。
そういうところだ、と思う。
忘れててほしいことは忘れないくせに。
今さら胸に残るようなことばかり、こうして静かに返してくる。
結局、ルイはハンバーグ。
タイキはオムライスを頼んだ。
注文が通って、少しだけ間が空く。
水のグラスに手を伸ばしながら、タイキは窓の外を見る。
通りを歩く人たちは、こっちの空気なんてもちろん知らない。
普通の昼。
普通の店。
普通の二人連れに見えるのだろうか、とふと思う。
「……思ったより普通だな」
タイキがぽつりと言う。
ルイが目を向ける。
「何が」
「こういうの」
少しだけ曖昧な言い方。
でもルイには伝わったらしい。
小さく息を吐いて、言う。
「普通にしたかったから」
タイキの指先が、グラスの縁で止まる。
ルイは続ける。
「変に構えたくなかった」
少し間。
「……お前に、これ以上しんどい顔されたくなかったし」
その言い方があまりにも真っ直ぐで、タイキはすぐに返せない。
ルイはもう、前みたいに飾らない。
格好つけてもいない。
ただ、自分が考えたことをそのまま置いてくる。
それが今のタイキには、やっぱり少しずるい。
「だから、レコードショップ?」
ようやくそう聞くと、ルイは少しだけ目を細めた。
「うん」
「……昔、行ってたから?」
「それもある」
ルイは水を一口飲む。
「会話に困らない場所の方がいいと思った」
短く、でもちゃんとした理由だった。
「飯だけって言ったけど、いきなり向かい合って話すだけだと」
少しだけ言いよどむ。
「たぶん、お互いきついだろ」
タイキは何も言わない。
その通りだったからだ。
もし最初からこの店だけで、向かい合って座るところから始まっていたら、今よりもっと息が詰まっていたと思う。
レコードショップの時間があったから、まだこうして座れている。
ルイは少しだけ視線を落とした。
「考えた」
ぽつりと言う。
「どこなら、お前が少しでも楽か」
タイキの胸の奥がまたざわつく。
そんなこと、前のルイは言わなかった。
たぶん考えてもいなかった。
自分の欲しいように呼んで、自分の欲しいように時間を使っていた。
今は違う。
違うからこそ、余計に苦しい。
「……遅いけどな」
タイキは小さく言う。
責めるつもりの声。
でも、思ったより鋭くならなかった。
ルイは頷く。
「うん」
否定しない。
それがまた、逃げ場をなくす。
料理が運ばれてくる。
オムライスの湯気。
ハンバーグソースの匂い。
ナイフとフォークが置かれる音。
二人とも少しだけ、その気配に救われるみたいに視線を皿へ向けた。
「いただきます」
タイキが小さく言う。
「いただきます」
ルイも返す。
食べ始める。
最初の数口は、また静かだった。
でも、静かすぎて苦しいわけじゃない。
互いに食べることで、少しだけ呼吸を整えている感じだった。
ルイが先に口を開く。
「オムライス、変わってない?」
タイキはスプーンを止める。
「……変わってないかも」
少しだけ笑う。
「前から、こういう味だった」
「だよな」
ルイも小さく口元を緩めた。
それだけのやり取りに、ほんの少しだけ昔の空気が混ざる。
高校の頃もそうだった。
食いながら、どうでもいいことを言って。
味の感想で言い合って。
そのくせ大事なことはなかなか口にしない。
今もたぶん、少し似ている。
違うのは、その“言わなかった大事なこと”が、もう今は二人の間にずっと置かれたままだということだ。
タイキはオムライスをもう一口食べてから、視線を皿に落としたまま言う。
「……言っとくけど」
ルイが顔を上げる。
「今日来たからって」
少し間。
「別に、全部どうでもよくなったわけじゃないから」
ルイは一瞬も逸らさなかった。
「知ってる」
その返事は早い。
「それでいいと思ってる」
タイキの胸が少しだけ痛む。
その“それでいい”は、きっとルイなりに本気なんだろう。
簡単に許されようとしてない。
それくらいは伝わる。
「俺、まだ普通に腹立ってるし」
タイキが続ける。
「思い出したら、今でもムカつくし」
「何であんなことされたのか、全部納得したわけでもない」
ルイはナイフを置いた。
「うん」
また頷くだけ。
でもその頷き方は、逃げない顔だった。
「今日来たのも」
タイキはそこで少しだけ言葉を探す。
「……ちゃんと聞くなら、って思っただけ」
ルイの喉が小さく動く。
「ありがとう」
また、それだ。
タイキは思わず眉を寄せる。
「だから、そういうの」
「何」
「いちいち礼言うなよ」
ルイが少しだけ困ったみたいに笑う。
「嬉しいから」
その一言に、タイキの言葉が詰まる。
本当にそう思ってる顔で言う。
誤魔化しもなく。
「……ほんと、ずるい」
小さく溢すと、ルイはそれを聞いても笑わなかった。
ただ、少しだけ目を細めただけ。
店内のざわめきの中で、二人のテーブルだけが少しずつ別の温度を持ち始める。
タイキは水を飲む。
喉を通る冷たさで、少しだけ頭を整える。
そして、ようやく聞く。
「ルイ」
「ん」
「なんで今さら……昼に誘ったの」
その問いに、ルイの手が少しだけ止まる。
前なら、そこで格好つけたのかもしれない。
でも今のルイは、少し考えてからそのまま言った。
「夜だと、また同じになる気がした」
タイキの目が動く。
ルイは視線を落とさない。
「俺が」
少し間。
「そうしないって決めても、お前はそう思うだろ」
その通りだった。
タイキは返せない。
ルイは続ける。
「だったら最初から、違う時間にしたかった」
低い声。
「昔みたいな時間にしたかった」
その言葉が落ちたあと、二人の間には少しだけ長い沈黙ができた。
タイキは皿の上のオムライスを見つめる。
視界が少しだけ揺れる。
昔みたいな時間。
その言い方は、たぶん今の二人には一番効く。
失っていた。
なくしたと思っていた。
でもルイは、それを“戻したい”側に立っている。
タイキは小さく息を吐いた。
「……簡単じゃないぞ」
ルイが頷く。
「うん」
「昔みたいに、は無理かもしれない」
「うん」
「俺、まだ全然……」
言いかけて、言葉が詰まる。
好きだとか。
許せないとか。
苦しいとか。
その全部をまとめて言葉にするには、まだ少し足りなかった。
ルイはそこで、また待った。
急かさない。
奪わない。
タイキはそれに少しだけ救われながら、それでもまだ苦しかった。
窓の外の光は変わらず明るい。
昼のまま。
夜じゃない。
それだけで、少しだけちゃんと話せている気がする。
タイキはゆっくり顔を上げて、ようやくルイを見る。
「……でも」
ルイが目を向ける。
「今日ここ来て、ちょっとだけ思い出した」
小さく言う。
「昔のこと」
それは、今のタイキができる精一杯の“来てよかった”だった。
ルイの目が、ほんの少しだけやわらぐ。
でも何も大げさには返さない。
「俺も」
ただ、それだけ返した。
その短い会話の上に、昼の光と食事の湯気が静かに重なっていた。
食事を終えて店を出る頃には、昼の光は少しだけやわらいでいた。
真上から差していた日差しが、もう少し斜めになっている。
ビルのガラスに映る空も、昼というより夕方に近い色へゆっくり変わり始めていた。
店の扉を出ると、外の空気が思ったよりぬるい。
タイキは一度だけ小さく息を吐いた。
食事中、ずっと張っていたものが少しだけほどけている。
全部が軽くなったわけじゃない。
言いたいことも、まだ言えていないこともある。
でも、店に入る前よりは、ちゃんと同じ速度で呼吸ができていた。
ルイが少しだけ前を見ながら言う。
「……どうする」
タイキが顔を向ける。
「どうするって」
「帰るか」
短く。
それから少しだけ間を置いて、続ける。
「まだ、少し歩くか」
その言い方が、また前と違った。
決めつけない。
引っ張らない。
こっちに選ばせる言い方。
タイキは一瞬だけ視線を落とす。
帰る、と言えば帰れる。
それで別に間違いじゃない。
でも今、ここで離れたら、せっかく少しだけほどけた空気までまた固まってしまう気がした。
「……少しだけ」
そう返す。
ルイは小さく頷いた。
「うん」
それだけで、二人は駅と反対側へ少し歩き出す。
⸻
夕方の街は、昼より少しだけ静かだった。
買い物帰りの人。
制服のまま歩く高校生。
コンビニの前に止まる自転車。
何でもない日常の流れの中を、ルイとタイキは並んで歩いていく。
近すぎない。
でも、昼に待ち合わせた時よりは少しだけ自然な距離だった。
店を出た直後の沈黙は、そこまで苦しくなかった。
むしろ食事の余韻みたいに、少しだけ落ち着いている。
タイキが先に口を開く。
「ここら辺、変わったな」
ルイが周りを見る。
「あぁ」
前方の角にできた新しいカフェ。
昔は雑貨屋だった場所。
その隣の古本屋は、まだ残っている。
「でも、あの店まだある」
タイキが顎で示した先には、小さなゲームショップがあった。
高校の頃、二人で意味もなく寄っていた店だ。
ルイが少しだけ笑う。
「お前、あそこで毎回いらねぇもの買いそうになってた」
「ルイが止めてたんだろ」
「止めないと買うからな」
「今思えば、たぶん半分くらい欲しくなかった」
「知ってる」
その返しが自然で、タイキは少しだけ口元を緩めた。
「知ってたのかよ」
「顔見ればわかる」
「何それ」
「お前、欲しい時となんとなくテンション上がってるだけの時、顔違う」
タイキはそこで、少しだけ目を細めた。
そういうふうに見られていたことが、昔は当たり前だった。
今はそれが、少し懐かしい。
「ルイって」
ぽつりとタイキが言う。
「昔から、そういうとこだけ妙に見てたよな」
ルイは前を向いたまま、小さく息を吐いた。
「見てた」
短い返事。
タイキはそれ以上すぐに続けなかった。
夕方の風が、二人の間を通り抜ける。
タイキの前髪が少し揺れて、ルイはその横顔を見そうになって、でも見すぎないように視線を前へ戻した。
前より近い。
でもまだ、どこかぎこちない。
それでもそのぎこちなさを、もう隠さなくていい感じが少しだけあった。
しばらく歩いて、信号で立ち止まる。
赤。
並んだまま、二人とも前を見る。
タイキが急に小さく言った。
「……聞きたいこと、ある」
ルイの喉が小さく動く。
「うん」
信号はまだ赤い。
タイキは視線を前に向けたまま続ける。
「なんで、カノンのこと……ちゃんと止めたの」
その問いは静かだった。
責める声でもない。
でも、軽くもない。
ルイは数秒だけ黙った。
そこで誤魔化したら、今日ここまで来た意味がなくなる。
それがもうわかっている。
「お前が浮かんだから」
ルイは低く返す。
タイキの指先が、ポケットの中で少しだけ動く。
ルイは続けた。
「それだけだよ、ほんとに」
少し間。
「近づかれた瞬間に、先に浮かんだ」
タイキはそれを聞きながら、視線を落とさない。
ルイの声は静かだった。
自分を良く見せようとする感じがない。
だから余計に刺さる。
信号が青に変わる。
二人はまた歩き出す。
タイキは少しだけ俯きながら言う。
「……俺、その話」
ルイが横目で見る。
「嬉しいとか、そういうふうに受け取っていいのか、まだわかんねぇ」
正直な声だった。
「でも」
少し間。
「誤魔化さなかったのは、ちゃんと分かる」
ルイはそこで、少しだけ息を吐く。
「うん」
それしか返せなかった。
十分だった。
タイキが“分かる”と言った。
それだけで、今日ここに来た意味が少しだけ形になる。
夕方の空は、さらに色を変えていく。
ビルの隙間から見えるオレンジに近い光が、歩道を長く照らしていた。
二人の影も、少しずつ長くなる。
「ルイ」
「ん」
「俺さ」
タイキは歩きながら、自分の足元を見る。
「まだ、お前のこと許してない」
ルイは頷く。
「うん」
「たぶん、すぐには無理」
「うん」
また頷く。
タイキはそこで少しだけ顔を上げた。
「でも」
その一言で、ルイの胸がまた静かに鳴る。
「今日みたいな時間、嫌じゃなかった」
夕方の風が、ちょうどそこで吹いた。
タイキの声は大きくない。
むしろ、少しだけ照れ隠しみたいにぶっきらぼうだった。
でも、それが今のタイキの精一杯なんだと、ルイにはわかった。
ルイは少しだけ目を細める。
「……そっか」
短く返す。
本当はもっと何か言いたい。
嬉しいとか。
よかったとか。
ありがとうとか。
でも今は、それ以上を乗せない方がいい気がした。
タイキが少しだけ眉を寄せる。
「何だよ、その反応」
「いや」
ルイは少しだけ笑う。
「嬉しいんだよ」
タイキの耳がほんの少しだけ赤くなる。
「……いちいち言うな」
「言った方がいいかと思って」
「そういうとこだよ」
タイキはそう言いながら、でも完全には怒っていなかった。
そのやり取りの温度に、二人とも少しだけ救われる。
駅に近づくにつれて、人通りが増えていく。
夕方帰りの流れができ始める時間だ。
二人は自然と歩く速度を少し落とした。
もうすぐ、この時間も終わる。
そう思うと、タイキの胸の奥にまた少しだけ複雑なものが広がる。
まだ話し足りないのか。
それとも、今日はこれで十分なのか。
自分でもまだわからない。
駅前の信号の手前で、ルイが止まる。
タイキも少し遅れて止まった。
「ここでいい」
ルイが言う。
タイキは少しだけ目を瞬かせる。
「……いいのかよ」
「送ると、お前また警戒するだろ」
その言い方に、タイキは少しだけ口元を動かした。
「まあ、するかも」
「だろ」
ルイも少し笑う。
その笑い方が、今日一番自然だった。
少しだけ間が空く。
夕方の駅前の音が、二人の間を埋める。
アナウンスの声。
自転車のベル。
人の話し声。
「じゃあ」
タイキが先に言う。
「今日は、ありがと」
その言葉に、ルイは一瞬だけ目を止めた。
昼の待ち合わせから何度も揺れてきた胸が、その一言でまた静かに鳴る。
「……うん」
ルイは小さく頷く。
それから、少しだけ間を置いて言った。
「また、こういうふうに会えたら嬉しい」
タイキはすぐには返さなかった。
でも、少しだけ目を逸らしてから、小さく返す。
「……考えとく」
それは断りじゃなかった。
前より少しだけ、先のある言い方だった。
ルイはその返事だけで、充分だと思った。
「じゃあな」
タイキが言う。
「うん。また」
タイキは背を向ける。
数歩歩いて、それから一度だけ小さく振り返る。
ルイはまだそこに立っていた。
追いかけてこない。
呼び止めない。
ただ、その場でちゃんと見送っている。
その姿を見て、タイキは少しだけ息を吐いた。
それから今度こそ、駅の方へ歩いていく。
夕方の光の中、ルイはその背中が人の流れに紛れるまで見ていた。
今日一日で、何かが劇的に変わったわけじゃない。
許されたわけでもない。
昔に戻れたわけでもない。
でも。
失っていた時間の、ほんの最初の一欠片だけは、ちゃんと取り戻せた気がした。
ルイは空を見上げる。
夕方の色は、もう夜の手前まで来ていた。
そしてその色の中で、タイキが最後に言った言葉だけが、静かに胸の奥に残っていた。
今日みたいな時間、嫌じゃなかった。
それだけで、今のルイには十分すぎるほどだった。
改札を通る。
ピッ、という軽い電子音がやけに現実的で、そこでようやく今日が終わりに向かっていることを身体が理解した。
タイキはICカードをポケットに戻しながら、少しだけ息を吐く。
人の流れに押されるみたいにホームへ向かう足は動いているのに、頭の中だけがまださっきの駅前に残っていた。
今日みたいな時間、嫌じゃなかった。
自分で言ったくせに、その言葉が何度も胸の奥で繰り返される。
嫌じゃなかった。
たったそれだけ。
それだけなのに、言ったあとからじわじわ効いてくる。
ルイの顔が浮かぶ。
待ち合わせで先に立っていた姿。
アクセサリーもなくて、妙に自然な服。
レコードショップで、昔みたいに片方ずつへイヤホンを分けた時の横顔。
“昼間、飯食うだけでもいいから”って言った時の、少しだけ不器用な目。
そしてさっき。
駅前で、追いかけてこなかった背中。
タイキは階段を上がりながら、少しだけ眉を寄せる。
「……なんだよ」
誰に言うでもなく、小さく漏れる。
今日一日で、何かが解決したわけじゃない。
許したわけでもない。
傷ついたことが消えたわけでも、今までの時間がなかったことになるわけでもない。
それなのに。
ちゃんと、楽しかった。
そこを認めるのが、一番くやしい。
ホームのベンチの前を通り過ぎる。
電車を待つ人たちの横顔。
スマホを見てる学生。
イヤホンをして目を閉じてる会社員。
そんな何でもない景色の中に混ざりながら、タイキは自分の足元を見た。
レコードショップ、ずるかった。
あんな場所、ずるいに決まってる。
昔のこと思い出すし。
並んで立つだけで、あの頃の空気が少しだけ戻るし。
音楽なんか一緒に聞いたら、余計に変なふうに心臓鳴るし。
無意識に寄った。
そこを思い出した瞬間、タイキは小さく息を止める。
あれ、たぶん自分でも気づいてなかった。
音を聞こうとしただけ。
昔みたいに、自然に。
でもあの瞬間、自分の身体は確かにルイの方へ寄っていた。
そのことを、たぶんルイもわかっていた。
そう思ったら、急にまた落ち着かなくなる。
「……うわ、無理」
ぼそっと呟いて、タイキはホームの端の方へ歩いた。
好きなんだと思う。
いや、もう“思う”じゃない。
好きだ。
それは前から知ってる。
泣いた夜に、アダムの肩口でちゃんと口にした。
だからそこはもう、ごまかせない。
問題なのは、その好きの先にあるものだ。
ルイも好きだと言った。
今さら。
遅すぎるくらい遅く。
その“遅さ”に怒ってる。
たぶん、まだ全然怒ってる。
でも今日、ルイはちゃんと遅いまま来た。
遅いことをわかってる顔で。
ごまかさずに。
押しつけずに。
昼間に。
ちゃんと飯だけ、って形で。
そのことを、どう受け取ればいいのかがまだわからない。
タイキは電車の案内表示をぼんやり見る。
あと二分。
二分あれば、余計なことばっかり考えられる。
もし今日、昼じゃなくて夜だったら。
もし店じゃなくて、またルイの部屋だったら。
たぶん自分はこんなふうに少しだけ楽しかったなんて思えなかった。
そう考えると、ルイが“違う時間”を作ろうとしたことは、ちゃんと意味があったのかもしれない。
その“ちゃんと”がまた、少し痛い。
「……なんで、今なんだよ」
呟いた声は、電車の入線アナウンスにかき消される。
今じゃなかったら、もっと簡単だったのか。
それもよくわからない。
高校の頃に言われてたら。
トレーニーの頃に言われてたら。
あの夜が始まる前に、ちゃんとルイが自分の気持ちに気づいていたら。
そんな“もしも”を考えても、今さら意味ない。
結局いま自分の手の中にあるのは、今日の昼と、今日の言葉だけだ。
また、こういうふうに会えたら嬉しい。
ルイの声を思い出す。
変に甘い言い方じゃなかった。
押してもなかった。
ただ、本当にそう思ってる顔だった。
それが困る。
ずっと前から知ってるはずルイが、ああいう顔するんだって、今日初めてちゃんと知ってしまった。
知らないままなら、もっと楽だったのに。
でもたぶん、知れてよかったと思ってる自分もいる。
タイキはポケットの中でスマホを握る。
電車がホームに入ってくる。
風が吹く。
前髪が揺れて、タイキは小さく目を細めた。
今日みたいな時間、嫌じゃなかった。
それは本当だ。
でも“嫌じゃなかった”の先を、今すぐ名前にするのはまだ怖い。
また会いたいのか。
会うべきなのか。
ルイを許せるのか。
好きのまま、ちゃんと向き合えるのか。
まだ何もわからない。
ただ一つだけわかるのは。
今日、改札を通ってルイと離れたあと。
胸の中に残ってるのが痛みだけじゃないってことだった。
少しだけ、あたたかい。
それがたぶん、今の自分には一番厄介で。
一番、希望でもあった。
「……ほんと、面倒くさい」
そう呟いて、タイキは止まった電車に乗り込む。
ドアの窓に映った自分の顔は、思っていたより少しだけやわらかかった。
コメント
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2人を繋ぐのはやっぱり音楽っていう関係本当に好きです…。 Tくんが隣にいないと音楽もできないし生きられないだろう、不器用なRくんがたまらなく愛おしいです😢がんばれ…!
美月ゆめかだよ〜🌸✨ 第10話、めっちゃ泣けた…!😭💕 ルイが“来い”じゃなくて“出かけないか”って言えたの、でかすぎる…🥺 レコードショップで片方ずつイヤホン分けて聴くシーン、懐かしさと切なさで胸がぎゅってなったよ… “今までみたいじゃない時間”って言葉に、二人の関係の変化が詰まってて、すごく響いた。 まだ全部許せたわけじゃないのに、“嫌じゃなかった”って言えるタイキの強さも好きだし、アダムの“自分のために行きな”って台詞も刺さったなあ… 次が待ち遠しすぎるよ〜〜!!⋆♡
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さくら(皇千ト君最推し)
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