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あんにんどう腐(ゆ腐)
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さくら(皇千ト君最推し)
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うわ、第11話、めっちゃ良かった…。ルイがタイキに「嫉妬した」って認めたところ、マジで胸に来たわ。あのルイが素直になるって、めちゃくちゃデカい進展だと思う。タイキからの「またレコード店行かない?」のLINEも、めっちゃ良かった。続きを楽しみにしてるって返すルイに、「ああ、やっとちゃんと恋してるな」って思えたよ。この先どうなるか、ガチで気になる🔥
数日後のスタジオは、少しだけ空気が戻っていた。
戻ったといっても、何もかも元通りというわけじゃない。
ルイとタイキの間にはまだ慎重さが残っているし、視線が合えば互いに一瞬だけ呼吸を止めるような緊張もある。
でも。
前みたいに全部が張りつめているわけでもなかった。
昼間に会ったあの日以来、二人の間にある沈黙の質が少しだけ変わった。
話せないままの沈黙じゃなくて、まだ話しきれていないことを抱えたままの沈黙。
それは不器用だけど、前よりずっとまともだった。
その日の仕事終わり。
スタッフの「おつかれさまでしたー!」が飛んで、メンバーたちもそれぞれ帰り支度を始める。
カノンはゴイチと何か言い合いながら先にスタジオを出ていった。
アダムは最後まで機材の確認をしていたスタッフに短く挨拶をして、静かにドアの方へ向かう。
ルイはバッグを肩にかけながら、ふと鏡越しにタイキを見る。
タイキはまだそこにいた。
首にかけたタオルを外しながら、少しだけ考えるみたいな顔をしている。
その横顔を見た瞬間、ルイの胸の奥が小さくざわつく。
今日も話せずに終わるのか。
いや、それでも別にいい。
急ぎすぎる方がだめだと、今はわかっている。
そう思っていた時だった。
「ルイ」
名前を呼ばれて、ルイの手が止まる。
振り返る。
タイキが立っていた。
少しだけ距離を置いて。
でも、はっきり自分に向かって。
「何」
ルイが返すと、タイキは一瞬だけ目を伏せてから、言った。
「今日、時間ある?」
その一言に、ルイは本気で目を見開いた。
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「……は?」
間の抜けた声が出る。
タイキが少しだけ眉を寄せる。
「時間」
少しぶっきらぼうに言い直す。
「あるのかって聞いてる」
ルイの喉が小さく動く。
タイキから。
タイキの方から。
そんなふうに聞かれるなんて、思っていなかった。
「……あるけど」
ようやくそれだけ返すと、タイキはほんの少しだけ息を吐いた。
それから、ルイを見たまま言う。
「うちくる?」
その瞬間、ルイの中で何かが止まった。
スタジオの空気。
鏡。
さっきまでの音の余韻。
全部が一瞬遠のく。
タイキは冗談みたいな顔をしていない。
でも、自然な誘いでもない。
見ている。
はっきり。
こっちを。
ルイはそこで、言葉を失った。
一秒。
二秒。
たぶんタイキは、その沈黙まで見ている。
(何考えてんだ……)
ルイの胸の奥がざわつく。
うち来る?
それは前の関係なら、何の迷いもなく飲み込んでいた言葉だった。
夜。
二人きり。
部屋。
その先まで、もう考えなくても流れで知っている場所。
だからこそ、今のルイにはその誘いの意味がわかった。
試されている。
タイキは今、自分を見ている。
ルイがまだ同じように“行く”のか。
同じように夜と部屋の中で欲を選ぶのか。
ルイは短く息を吐いた。
それから、はっきり言った。
「行くわけないだろ」
タイキの目が、ほんの少しだけ動く。
ルイはそのまま続けた。
「何考えてんだ」
声は低い。
でも、前みたいな刺々しさじゃない。
むしろ、自分の方が動揺しているのを隠すための低さだった。
タイキは黙っている。
試すみたいに。
確かめるみたいに。
ルイはそこで一度、視線を落とした。
正直に言えば、行きたいか行きたくないかで言ったら、行きたいに決まってる。
タイキの部屋。
二人きり。
好きな相手に“来る?”と誘われて、行きたいと思わないわけがない。
でも。
その“行きたい”の先にあるものを、ルイはもう知っている。
知っていて、今さらそこへ乗るほど愚かでもない。
「……今」
ルイがぽつりと溢す。
タイキが少しだけ眉を寄せる。
ルイは顔を上げて、真っ直ぐ見た。
「今お前の部屋なんか行ったら」
少し間。
「俺、まともでいられる自信ねぇよ」
タイキの呼吸が、ほんの少し止まる。
ルイは逃げない。
「前みたいにしたくないって、俺が一番思ってる」
声は静かだった。
でも、そこに嘘はない。
「だから行かない」
その言い方は、拒絶じゃなかった。
欲を押し殺した、自制の音だった。
タイキはしばらく何も言わない。
たぶん、そこまで言うと思っていなかった。
あるいは、行くわけないだろ、だけで切られると思っていたのかもしれない。
ルイは続ける。
「お前が試してんのも、わかる」
タイキの目が少しだけ細くなる。
「……試してる、って何」
ぶっきらぼうに返す。
でも、その声の奥に少しだけ揺れがある。
ルイは小さく息を吐いた。
「わかるだろ」
「……」
「お前が今の俺見てること」
少し間。
「夜に部屋誘ったら、どうするかって」
タイキは視線を逸らした。
図星だった。
その横顔を見て、ルイは胸の奥にまた熱が集まるのを感じる。
好きだと思う。
やっぱり今でも。
でもその好きのまま手を伸ばしたら、また壊すとわかっている。
それが、前の自分との決定的な違いだった。
「……じゃあ」
タイキが小さく言う。
ルイが待つ。
タイキはまだ視線を逸らしたまま続ける。
「なんで、そんな顔してんの」
ルイの眉がわずかに動く。
「顔?」
「行きたくない顔じゃない」
その一言に、ルイは一瞬だけ言葉を失った。
さすがだな、と少しだけ思う。
昔から、タイキはこういうところだけ妙に鋭い。
ルイは口元を少しだけ歪めた。
苦い笑いだった。
「そりゃそうだろ」
タイキが顔を上げる。
ルイは視線を逸らさずに言った。
「行きたいよ」
短く、はっきり。
「好きなやつに、うち来る?なんて言われて」
「何も思わねぇわけないだろ」
タイキの耳が、ほんの少しだけ熱を持つ。
ルイはそこで、少しだけ喉を鳴らした。
「でも」
その一言で、空気が少しだけ変わる。
「今行ったら、俺は行きたいだけの欲を選ぶことになるだろ」
静かな声。
「お前のこと、ちゃんと見る前に」
タイキは動かない。
ルイはさらに続ける。
「それが嫌だから行かない」
「……」
その言葉が落ちた瞬間、スタジオの広い空間が妙に静かになった気がした。
タイキの目が揺れる。
それはたぶん、今のルイがいちばん言わなきゃいけなかった言葉だった。
前なら逆だった。
欲を選んで。
近さを選んで。
タイキの心より、自分が離されたくない気持ちの方を優先していた。
今は違う。
行きたい。
触れたい。
近くにいたい。
それでも、行かない。
その“行かない”を、ルイは初めて自分で選んだ。
タイキはしばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐く。
「……そっか」
ほんの一言。
でも、その声は少しだけやわらいでいた。
ルイの胸が、そこでようやく少しだけ落ち着く。
タイキは首元のタオルを指でいじりながら、少し考えるみたいに目を伏せる。
「別に」
ぽつりと言う。
「ほんとに部屋来てほしかったわけじゃねぇし」
ルイが眉を上げる。
タイキはそこで、少しだけ口元を歪めた。
「試したかっただけ」
正直な物言いだった。
「だろうな」
ルイが返すと、タイキはようやく少しだけ笑う。
「当たってんじゃん」
「お前、わかりやすすぎ」
「お前にだけは言われたくねぇ」
そのやり取りに、少しだけ昔の温度が混ざる。
ほんの少しだけ。
でも確かに。
ルイはそこで、ふっと息を吐いた。
欲を選ばなかった。
正確には、選べなかったんじゃない。
選ばないと決めた。
その事実が、自分の中で思っていたより大きかった。
タイキがまた顔を上げる。
「じゃあ」
ルイが待つ。
「今日、飯だけならいい」
ルイの目がわずかに動く。
「近くで」
タイキは続ける。
「コンビニ飯でも」
その言い方に、ルイは一瞬だけ本気で笑いそうになった。
「雑だな」
「今さら洒落た店とか行く方が嫌だろ」
「それはまあ、そう」
タイキは肩をすくめる。
「部屋はなし」
「わかってる」
「夜だからって、変な空気にすんなよ」
ルイは少しだけ目を細めた。
「努力する」
「努力、って何だよ」
「嘘つけないから」
その返しに、タイキは呆れたみたいに息を吐く。
でも、その呆れ方はもう前みたいに冷たくなかった。
「……めんどくさ…」
小さく言う。
でも、その言葉の奥には少しだけ安心も混ざっていた。
ルイはそれを聞いて、心の中だけで苦く笑う。
面倒なのは知ってる。
でも、ようやくその面倒さの向け方を間違えなくなってきた気もしていた。
スタジオの外では、誰かが廊下を通る足音がした。
現実が少し戻る。
タイキがバッグを持ち直す。
「行くか」
ルイが頷く。
「うん」
二人は並んで歩き出す。
夜。
でも、前とは違う。
部屋へ向かうんじゃなくて、ちゃんと外へ向かう。
その小さな違いが、ルイには妙に大きかった。
欲よりタイキを選んだ。
そうできたのは、たぶん今日が初めてだった。
そしてその初めてを、タイキがちゃんと見ていたことが、何より静かに胸へ残っていた。
部屋に戻ってから、タイキはしばらく電気をつけたまま動かなかった。
コンビニの袋をテーブルに置いて。
上着を脱いで。
靴を脱いで。
それだけのことをしたのに、夜の空気が妙に静かで、逆に落ち着かない。
さっきまでルイといた。
夜。
でも前みたいな夜じゃない。
呼ばれて行くんじゃなくて。
部屋に閉じ込められるんでもなくて。
コンビニの飯を持って、並んで歩いて、外で食って、それで帰ってきた。
それだけだ。
ほんとに、それだけ。
なのに胸の奥がこんなにざわついてるのは、たぶん“それだけ”じゃ済まなかったからだ。
タイキはソファに座って、首の後ろを軽く押さえた。
ルイが明らかに変わった。
いや、変わろうとしてる、の方が近いかもしれない。
今日だってそうだった。
部屋に誘ったら来るか。
来たらどうするか。
たぶん、自分はあいつを試した。
前のルイなら来てた。
迷わず。
あるいは迷った顔すら見せないで。
当然みたいに来て、当然みたいに近づいて、自分が考える隙なんて与えずに、いつもの夜にしてた。
でも今日のルイは違った。
来たいくせに、行かないって言った。
その言葉がまだ胸に残っている。
タイキは小さく息を吐いた。
あんなこと言う男じゃなかった。
少なくとも、前は。
欲しい時に呼んで。
自分の気分で始めて、自分の気分で終わらせて。
タイキが何を思ってるかなんて、見てるくせに見ないふりをしてた。
なのに今は違う。
タイキの顔色を窺う。
言葉を選ぶ。
追い詰めないように、待つ。
自分の欲を抑えてまで、“前みたいにしたくない”って顔をする。
臆病になったんだと思う。
好きだと自覚したから。
失いたくないと、ようやく本気で思ったから。
その変化を、タイキはちゃんと感じていた。
だから今、主導権が少しずつこっちに来てる。
ルイが近づいてくるかどうか。
何を言うか。
どこまで踏み込むか。
それを決める側じゃなくて、決めさせられる側になっている。
前は逆だった。
自分は呼ばれる側で、揺らされる側で、終わりを決められる側だった。
今は、タイキが一言返すだけでルイの顔が変わる。
「考える」と言えば、ルイは待つ。
「今日は無理」と言えば、引く。
「うち来る?」と試せば、ルイは本気で止まる。
そのことが、少しだけ怖い。
同時に。
少しだけ、安心する。
タイキはテーブルの上のコンビニの袋を見た。
ルイと食べた夜。
たったそれだけの時間だったのに、今までのどの夜よりも呼吸がしやすかった。
変だ、と思う。
前なら、ルイに主導権を握られてる時の方が楽だったのかもしれない。
考えなくて済んだから。
流されるだけで済んだから。
嫌だ、最低だ、って思いながらも、どこかで“決めなくていい”ことに甘えてた。
でも今は違う。
ルイが臆病になった分、自分が選ばなきゃいけなくなってる。
答えを出すのも。
誘うのも。
試すのも。
進めるのも、止めるのも。
それがしんどいはずなのに。
ルイが自分の言葉で止まると、少しだけ息ができる。
ちゃんと、自分を見てるんだなと思うから。
タイキはソファに深くもたれた。
「……何なんだよ、ほんと」
小さく呟く。
主導権なんか、握りたいわけじゃない。
ただ、今はもう一方的に握られるのが無理なだけだ。
好きだとわかってしまった今なら、なおさら。
だからたぶん、今のこのバランスは必要なんだと思う。
ルイが恋を知って、臆病になって。
その前で、自分が少しずつ選ぶ側になる。
そうでもしなきゃ、二人とも同じ場所には立てない。
それがわかってしまう自分が、少しだけ大人になった気もして。
でも同時に、そんなふうに考えなきゃいけない恋が面倒で、たまらなかった。
シャワーを浴びたあと、ベッドに入っても眠れなかった。
部屋の明かりは消してある。
カーテンの隙間から、外の街灯の薄い光が入ってくる。
天井を見ていると、余計なことばかり浮かぶ。
自分は、あれだけ傷付いてた筈なのに。
その言葉が、ふいに胸の奥から浮かぶ。
本当にそうだ。
呼ばれて。
好き勝手されて。
何も言えなくて。
言えないまま帰って。
一人になってから、何度も腹が立って、苦しくて、でも嫌いになれなくて。
あれだけ傷付いてた。
悲しかった。
腹が立った。
悔しかった。
何より、自分の気持ちを雑に扱われてる気がして、たまらなかった。
なのに。
今のルイが臆病になってるのを見て。
自分の顔色を窺って、欲を抑えて、言葉を探してるのを見て。
胸のどこかが、少しだけ満たされる。
それがタイキには、一番信じられなかった。
「……最低」
ぽつりと漏れる。
傷付いてたのは、自分の方のはずだ。
泣いたのも。
苦しくて逃げたのも。
“遅いんだよ”って言ったのも、自分だ。
なのに今、ルイが止まると安心する。
ルイが困ると、どこかで“そうだろ”と思う。
自分を欲より先に選んだことが、嬉しい。
それって何だ。
復讐か。
違う。
仕返しか。
それも違う。
そんな単純な気持ちじゃないのは、自分でわかる。
たぶんタイキは、ずっと欲しかったんだ。
ルイが、自分の前で止まること。
ルイが、自分を失いたくないって顔をすること。
ルイが、自分のことでちゃんと迷うこと。
それが欲しかった。
前は、一度もなかったから。
呼ばれて、触れられて、欲を向けられても。
そこに“タイキを失いたくない”は見えなかった。
“今欲しいから呼ぶ”しかなかった。
だから傷付いた。
好きな相手に、自分の心じゃなくて都合だけを選ばれてるみたいで。
今は違う。
少なくとも、違おうとしている。
その変化が見えるたび、傷は消えないくせに、胸の奥の別の場所が少しだけ満たされる。
それが、悔しいくらい正直だった。
タイキは枕に顔を少しだけ押しつける。
許してない。
全然、まだ許してない。
今さら好きだと言われても、遅いと思ってる。
遅かった時間は戻らないし、自分が泣いた夜がなかったことになるわけでもない。
それでも。
ルイが欲より自分を選んだ夜を、思い出してしまう。
あの時、もし前みたいに来てたら。
たぶんタイキは、また別の形で壊れてた。
でもルイは来なかった。
行きたいくせに、来なかった。
その“不自由さ”が、嬉しかった。
自分はあれだけ傷付いてた筈なのに。
なのに今、ルイが同じように苦しそうにしてると、どこかで安心する。
少なくとも、自分だけじゃなかったと思えるからかもしれない。
自分だけが一方的に恋をして、一方的に傷付いて、一方的に苦しいんじゃなかった。
今やっとルイも、そこへ来た。
遅すぎるけど。
ほんとに遅いけど。
それでも、来た。
だからたぶん、タイキは完全には突き放せない。
あれだけ傷付いたのに。
あれだけ怒ってるのに。
それでも、試す。
試して、止まるかを見る。
困るか見る。
自分を選ぶか、見てしまう。
そのたびに、少しずつ信じたくなる。
でも、まだ簡単には信じられない。
その間を、ずっと揺れている。
「……めんどくさ」
小さく呟いて、目を閉じる。
恋って、こんなだったっけと思う。
もっと綺麗で。
もっと素直で。
好きなら好きで、ただ嬉しいだけのものかと思ってた。
実際は全然違う。
傷も、怒りも、嫉妬も、安心も、全部一緒にある。
好きだって気持ちひとつでまとめられない。
でも。
それでも、ルイが臆病になるのを見ると、自分の心の奥のどこかが静かに満たされる。
欲しかったのは、たぶんこういう顔だったんだろうなと思う。
自分の前で止まって、迷って、選んでくれるルイ。
そこまで考えて、タイキはまた少しだけ眉を寄せた。
「……ほんと、遅いんだよ」
タイキはゆっくりと息を吐いた。
今日のルイの顔。
あの時の言葉。
自分が返した声。
一つ思い出すたび、別の場面が勝手に繋がって、頭の中が全然休まらない。
タイキは薄く目を開けたまま、天井を見る。
許すって、なんだ。
その言葉が、ふいに胸の奥から浮かんだ。
自分はずっと、そこに向かってるようで向かっていない。
ルイのことを許せるのか。
許さないのか。
距離を縮めるなら、その前に許すってことが必要なのか。
でも、その“許す”って何なんだろうと、最近ずっと引っかかっている。
今までのことをなかったことにするのが、許すってことか。
傷ついた夜を、全部“でも好きだから”で飲み込むことか。
今さら好きだと言ってきたルイに、“じゃあいいよ”って笑って返せることか。
違う気がした。
たぶん、違う。
タイキは布団の上でゆっくり息を吐く。
自分は、ちゃんと傷ついていた。
あれは本当だ。
呼ばれて。
行って。
好き勝手されて。
優しい言葉なんてなくて。
終わったら帰るだけ。
そのたびに、心のどこかが削れていた。
悲しかったし、悔しかったし、何より、自分だけが取り残されてるみたいで苦しかった。
それを“俺も悪かった”の一言で薄めるのは、違う。
違うはずだ。
でも。
そこで終われないのが、また面倒だった。
タイキは片腕を額に乗せた。
ルイばかり責めている自分を、肯定しきれない。
そこが苦しい。
ルイはひどかった。
本当に、ちゃんとひどかった。
でも、自分は本当にただ“されるだけ”だったのかと考えると、そこにすぐ頷けない自分もいる。
抵抗しなかった。
行くなと言われたわけじゃないのに、行った。
嫌だと思いながら、完全には拒まなかった。
あまつさえ、最近は逆にルイを試している。
部屋に誘って。
来るかどうか見て。
止まるかどうか確かめて。
欲より自分を選ぶか、見ている。
それは何なんだろうと思う。
傷ついた側の当然の権利なのか。
それとも、自分も別の形で相手を揺らしているだけなのか。
タイキは小さく眉を寄せた。
ルイだけが悪い、って思い切れたら、もっと楽だった。
あいつは最低。
だから離れる。
もう関わらない。
そう決めてしまえたら、こんなに何度も心臓を振り回されなくて済んだかもしれない。
でも実際の自分は、そうじゃない。
好きだ。
それを知ってる。
しかも、まだ好きだ。
あれだけ傷ついたあとでも。
遅いんだよって言ったあとでも。
欲より自分を選んだルイを見て、少し安心してしまうくらいには。
そこに気づいた時、タイキはもうルイだけを責める側ではいられなくなった。
もちろん、責めたい。
責める資格もあると思う。
実際、責めて当然のことをされた。
でも、自分の中にはもう、責めるだけじゃない感情が混ざってしまっている。
嬉しい、とか。
ほっとする、とか。
もっと見たい、とか。
そういうものまである。
「……最悪」
ぽつりと漏れる。
自分に向けた言葉だ。
ルイが恋を知って臆病になっているのを見ると、少しだけ胸が満たされる。
欲しかったのは、たぶんその顔だったんだと思う。
自分を失いたくないって顔。
自分の前で止まる顔。
簡単に触れてこない顔。
それを見て安心する自分がいる。
それって、何なんだろう。
単に“ようやく同じ痛みを味わえ”っていう、意地の悪い気持ちなんだろうか。
それとも、自分が一人で傷ついていたわけじゃないと知って、やっと少しだけ救われてるんだろうか。
どっちも、ある気がした。
タイキはそこが一番嫌だった。
自分は優しくない。
少なくとも今のルイに対して、全然優しくない。
好きなくせに。
今でもルイに視線を向けられると心臓が鳴るくせに。
その一方で、困らせたいみたいな気持ちもある。
止まるか見たい。
自分を選ぶか見たい。
あんなに傷ついたんだから、それくらい当然だろ、と思う気持ちもある。
でも、その“当然”をそのまま信じきるには、自分ももうルイに対して無垢じゃない。
前は全部、ルイが握ってた。
自分は呼ばれて、流されて、終わる側だった。
今は違う。
自分が一言返すだけで、ルイは待つ。
自分が試せば、ルイは止まる。
自分が少しでも顔を曇らせれば、ルイは気づく。
その変化を、タイキはちゃんと使っている。
使ってしまっている。
それを“悪いこと”とまでは言いたくない。
だって、そうでもしなきゃ、自分の傷はまた置き去りになる気がするから。
でも、“自分は完全に正しい”とも思えない。
そこがしんどい。
許すって、なんだ。
またその言葉に戻る。
ルイを許すこと。
自分を許すこと。
あの時間を、全部抱えたまま、それでもこれから先へ進むこと。
たぶん、そのどれも今の自分にはまだ早い。
“許さない”の方がまだ簡単だ。
線を引いて、そこで終わらせるなら、それはそれで話が早い。
でも、本当に終わらせたいのかと聞かれたら、言葉に詰まる。
終わらせたくない。
ルイがまだ好きだから。
こんなに面倒でも。
今さらでも。
遅くても。
それがある限り、許すか許さないかの二択にはならない。
もっと曖昧で。
もっと泥くさくて。
傷も怒りも抱えたまま、それでも少しずつ相手を見るしかない。
タイキは天井を見たまま、小さく息を吐いた。
許すって、たぶん“無罪にする”ことじゃない。
全部を水に流して、笑って隣に戻ることでもない。
傷ついたことを、傷ついたまま認めること。
その上で、相手が変わろうとしてるのか、自分は何を望んでるのかを、ちゃんと見ていくこと。
そういうことなのかもしれない。
でも、まだそこまで綺麗に言い切るのは無理だった。
だって、今の自分はまだ普通に怒ってる。
普通にルイに意地悪したくなるし、困る顔を見ると少しだけ満たされる。
そのくせ、そんな自分をどこかで嫌だとも思っている。
中途半端だ。
でも、たぶん今はその中途半端さの中にいるしかない。
「……責めたいわけじゃないんだよな」
独り言みたいに、そう呟く。
責めている。
でも、それだけじゃない。
見てる。
試してる。
待ってる。
期待してる。
そこまで来てしまってる。
タイキは目を閉じた。
ルイばかり責めている自分を、肯定しきれない。
でも、責めたい自分まで否定したくもない。
傷ついてきた時間を、自分で薄めたくないから。
その両方を抱えたまま、少しずつしか進めないんだろうと思う。
許すってなんだ。
今夜はまだ、その答えは出ない。
でもひとつだけ、前よりわかっていることがある。
自分はもう、ただ傷ついた側のまま立ち尽くしているわけじゃない。
好きで。
怒っていて。
揺れていて。
それでも相手を見てしまう側へ、もう戻れないくらい足を踏み入れてる。
その事実を、今夜はちゃんと認めるしかなかった。
翌日。
大型ライブ用のダンスリハ。
床に響くスニーカーの音。
鏡の前で繰り返されるフォーメーション確認。
スタッフの「もう一回いきます!」という声。
いつも通りの、仕事の空気。
ルイはその中で、いつも通りに見えた。
振りは正確。
角度も、抜き差しも、視線の流れも綺麗だ。
音を拾うのがうまい。
一歩目で空気が変わる。
鏡の中のルイは、誰が見てもちゃんと“仕事のルイ”だった。
でも今日は、一本通しが終わったところで振付師が言った。
「次、そこ2人同時に合わせようか」
鏡の前に立つタイキとルイへ、軽く手を向ける。
「ここ、二人の距離感が大事だから」
「フォーメーション移動する時、ぶつならないように」
タイキの喉が、わずかに鳴る。
ルイは「はい」と短く返した。
声はいつも通りだ。
でも。
タイキは、その“いつも通り”が少しだけ薄いことに気づいていた。
位置につく。
フロアの中央。
他のメンバーは少し後ろへ下がって見ている。
アダムは静かに壁際へ寄り、カノンはタオルを首にかけたまま目だけを細め、ゴイチは腕を組んで何も言わずに立っていた。
音が入る。
低いカウント。
一歩、二歩。
タイキが前に出る。
ルイがそれを迎えるように近づく。
肩が触れそうな距離。
視線がぶつかる寸前で、ルイの呼吸が一瞬だけ乱れた。
ほんのわずかだ。
他のスタッフなら気づかないかもしれない。
でもタイキにはわかった。
(……落ち着け)
ルイは内心でそう繰り返していた。
近い。
仕事だ。
ただの振り確認。
今までもこういう距離はあった。
そう言い聞かせるのに、今日はうまくいかない。
タイキが目の前にいる。
近づくたび、呼吸の温度までわかる。
好きだと自覚したあとでこの距離は、前と同じでいられなかった。
(落ち着け)
ルイはもう一度、自分に言う。
でも次のカウントで、タイキの肩先がほんのかすかに自分の腕に触れた瞬間、胸の奥が強く鳴る。
どくん、と。
その鼓動のせいで、ワンテンポ遅れる。
「ストップ」
振付師の声。
「ルイ、その止まり位置ちょい後ろ」
「……すみません」
ルイが短く返す。
それだけ聞けば普段と変わらない。
でもタイキは、ルイが少しだけ苛立っているのがわかった。
自分に、だ。
ルイは仕事で崩れるのを嫌う。
完璧にやれるところは、きっちりやる。
そんなルイが、今、自分との距離ひとつでズレている。
タイキはその事実に、妙なざわつきを覚えた。
(何してんだよ)
思う。
仕事だろ。
ちゃんとやれよ。
そう思うのに。
同時に、そんなふうに崩れていくルイを見ていると、胸のどこかが熱くなる。
自分を好きなことで。
自分が近いことで。
ルイが落ち着かなくなってる。
それが、悔しいような、満たされるような、説明のつかない感情を引っ張り出す。
「もう一回」
「タイキ、もう少しだけ踏み込んでいい」
「ルイはそこで視線外さないで」
「はい」
タイキが返す。
ルイも頷く。
再開。
音が流れる。
今度はタイキの方が、少しだけルイを見た。
ちゃんと仕事の顔で。
でも、見てしまう。
ルイの目元。
少しだけ強く引き結ばれた口元。
平静を作ろうとしてる顔。
それが余計に、らしくなく見える。
一歩。
また近づく。
今度は肩が触れる。
ほんの一瞬。
ルイの身体が、ごくわずかに強張る。
タイキはそれを感じ取って、胸の奥がまた騒がしくなる。
(……ほんと、何してんだよ)
でもそれはもう、ルイだけに向けた言葉じゃなかった。
自分も同じだ。
触れた瞬間、ちゃんとドキッとしてる。
肩が触れる。
目が合う。
名前を呼ばれる。
それだけで、今までとは違う。
「タイキ」
ルイが低く名前を呼ぶ。
振りの中で。
位置確認のために。
本当なら何でもないはずの呼び方。
でも今日は、その一声だけでタイキの鼓動が跳ねた。
「……ん」
返す声が、思ったより少し低くなる。
ルイもたぶん、それに気づいた。
気づいて、一瞬だけ目が揺れる。
その揺れがまたタイキに伝染する。
今までのルイじゃない。
仕事中に、こんなふうに自分一人にだけ揺れるルイなんて知らない。
ずっと“何でもない顔”で、全部飲み込める男だったのに。
今は違う。
自分がルイを静かに崩している。
それが、タイキにも感染する。
振付師が近づいてきて、二人の間の角度を直す。
ルイの手が上がる。
タイキの肩先に、指が軽く触れる。
一瞬。
でも、熱い。
タイキの呼吸が止まる。
ルイも、たぶん同じだった。
そのまま視線が合う。
ほんの数秒。
でも妙に長い。
近いまま。
触れたままじゃない。
でもすぐ離れるほど遠くもない。
ルイは前を見たまま、内心で息を整える。
(落ち着け)
(仕事だろ)
そう思うのに、目の前のタイキの睫毛や、少し上がった呼吸や、首筋に落ちる汗まで見えてしまう。
前はこんなことなかった。
見えていても、こんなふうには拾わなかった。
好きだと知ってしまっただけで、世界の見え方が変わるなんて思わなかった。
タイキも同じように、落ち着かない。
目の前のルイの喉が上下する。
普段なら絶対に乱れないルイの呼吸が、自分の近さで少しだけ不安定になっている。
それを見ていると、胸がざわつく。
自分はあれだけ傷ついたはずなのに。
今さらルイが自分のことで崩れていくのを見て、こんなふうに心臓が鳴るなんて、ほんとに面倒だと思う。
「オッケー、今の感じ覚えておこう」
振付師の声で、ようやく二人は少しだけ距離を戻す。
離れた瞬間、逆に呼吸のしづらさが増した気がして、タイキは小さく眉を寄せた。
ルイは何も言わない。
でも、少しだけ目を伏せてからすぐに鏡の方へ視線を戻す。
仕事に戻るための顔。
それでも完全には戻りきれていない顔。
カノンが後ろで小さく息を漏らす。
「…やば」
誰に聞かせるでもない声。
ゴイチがそれを横で聞いて、口元だけで少し笑う。
アダムは何も言わない。
でも、静かな目で二人を見ていた。
空気が変わっている。
今は、二人とも同じくらい危うい。
「ラスト、通すよ!」
スタッフの声が飛ぶ。
また位置につく。
ルイは今度こそ、息を整えて前を向く。
タイキも、自分の鼓動をごまかすみたいに肩を一度落とした。
でももう、さっきまでの何でもないリハーサルには戻れない。
肩が触れるかもしれない。
目が合うかもしれない。
その全部に、今の二人はちゃんと反応してしまう。
音楽が流れる。
鏡の中では、ちゃんとした仕事の顔をした二人が踊っている。
でも、その内側では、相手の気配ひとつで心臓が鳴るのを、互いにもう隠しきれなくなり始めていた。
リハの空気が変わったことに、いち早く気づいていたのはカノンだった。
鏡越し。
ルイとタイキの間に流れる、あの妙な濃い空気。
肩が触れそうになるたびに、二人ともほんのわずかに呼吸が止まる感じ。
仕事中のはずなのに、仕事だけじゃ済まない熱が混ざっている感じ。
カノンはそれを見ながら、小さく目を細めた。
やっとルイはちゃんと崩れて。
タイキも、ちゃんと揺れてる。
前みたいな、一方通行じゃない。
ルイだけが押して、タイキだけが振り回される空気でもない。
今はもう、二人とも相手を意識している。
リハがひと区切りついて、メンバーがそれぞれタオルを取ったり、水を飲んだりしはじめた時だった。
タイキが壁際でペットボトルの水を開ける。
その横にカノンが自然に並ぶ。
「ん」
短く、ペットボトルのラベルを指でいじりながらカノンが声をかける。
タイキが少しだけ目を向ける。
「何」
カノンは口元だけで笑った。
それから本当に小さな声で、タイキにだけ聞こえるように言う。
「ちゃんと、恋してんじゃん」
タイキの手が、ぴたりと止まる。
「……は?」
すぐに否定したいのに、声が少し遅れる。
カノンは優しく笑ったままだ。
茶化してるわけじゃない。
面白がってるわけでもない。
ただ、本当にそう思ったからそのまま言った、みたいな顔。
「顔に出てるよ」
「出てねぇし」
「出てるって」
タイキは眉を寄せる。
でも、本気で怒る感じにはならない。
たぶん自分でも、完全には否定できないからだ。
カノンはそれ以上突っ込まなかった。
ただ、少しだけ肩をすくめる。
「ま、別にいいけど」
軽くそう言って、水を一口飲む。
タイキはペットボトルを持ったまま、小さく息を吐いた。
「……お前さ」
「んー?」
「たまに変なとこだけ鋭いよな」
その返しに、カノンはふっと笑う。
「たまにじゃないよ。結構前から鋭い」
タイキはそれを聞いて、少しだけ目を細めた。
でもその横顔には、さっきまでよりわずかに力の抜けた感じがあった。
少し離れたところでは、ゴイチがそんな二人と、そのさらに向こうのルイを遠目に見ていた。
ルイはルイで、タオルを首にかけたまま鏡の前に立ち、平静を取り戻そうとしているのが丸わかりだ。
仕事の顔に戻ってるつもりなんだろうけど、さっきまでの空気を見たあとだと、全然隠せていない。
ゴイチは思わず、ははっと笑ってしまう。
「何、あの空気」
独り言みたいに漏らす。
あまりに分かりやすい。
いや、本人たちは分かりやすくしてるつもりなんてないんだろうけど、見てる側からすると十分だった。
前より近い。
でも、まだ手探り。
その手探り自体が、今の二人にはやけに似合っていて、少しおかしかった。
ゴイチはそこで、ふと横目でカノンを見る。
カノンは今、タイキの横でいつも通りみたいな顔をしている。
でも、あの夜のことも、ルイへの気持ちも、ゴイチはちゃんと知っている。
(…ルイのこと、 少しは整理ついたか)
心の中で、そう思う。
完全に吹っ切れたわけじゃないだろう。
そんな簡単なもんでもない。
でも、今のカノンの顔は少なくとも“立ち止まってる顔”じゃなかった。
ちゃんと、見届ける側の顔をしてる。
それが少しだけ安心で。
少しだけ、やっぱりすげぇなとも思う。
カノンがそんなゴイチの視線に気づいて、少しだけ眉を上げる。
「何」
ゴイチは口元だけで笑った。
「別に」
「絶対別にじゃない顔」
「気のせい」
「うわ、出た」
そのやり取りのテンポも、いつも通りに戻りつつある。
アダムは、少し離れた場所からそんな全員を静かに見ていた。
ルイとタイキ。
その間に流れる新しい緊張。
カノンがそれを見て、少しだけやわらかく笑えること。
ゴイチがそのカノンごと見守っていること。
全部、ちゃんと見える。
アダムは小さく息を吐いた。
もう誰も、止まったままじゃないんだと思う。
ルイは遅すぎるくらい遅く、自分の気持ちを知った。
タイキは傷ついた自分を置いていかないまま、それでも前を見ることをやめていない。
(ちゃんと、前は向けてる)
アダムは心の中でそう思う。
それなら良い。
それで十分だ、とも思う。
誰かの恋が叶うとか、今すぐ全部が丸く収まるとか、そういうことじゃない。
でも少なくとも今、それぞれ自分の足で前を向いている。
それが見えるなら、アダムにはそれでよかった。
「次いきます!」
スタッフの声が響く。
メンバーたちがまた位置につく。
カノンはタイキの横を離れながら、すれ違いざまに小さく笑った。
タイキは「うるせぇ」と口の形だけで返す。
ゴイチはそのやり取りを見て、また小さく笑う。
ルイは何も知らない顔で前を向いているけど、たぶん少しも何も知らないわけじゃない。
アダムは静かに、自分の立ち位置へ戻る。
鏡の中に、五人が並ぶ。
空気は前よりずっと複雑だ。
でも、その複雑さごと前へ進んでいる。
音楽が流れ始める直前。
アダムはほんの一瞬だけ目を伏せた。
それなら良い。
今はただ、そう思っていた。
部屋に帰ってからも、ルイの身体にはまだスタジオの熱が残っていた。
シャワーを浴びても、全部は流れない。
首筋に残る疲労感。
太ももの奥の鈍い張り。
それより何より、今日のダンスリハの感触がずっと抜けなかった。
ソファに腰を下ろして、頭を背もたれに預ける。
部屋は静かだ。
なのに頭の中だけが、まだずっとあの鏡の前にいる。
肩が触れそうになった時。
視線がぶつかった時。
名前を呼んだ時。
全部、いちいち心臓が鳴っていた。
「……何してんだよ」
ぽつりと漏れる。
それはタイキに向けた言葉じゃない。
自分にだ。
仕事だろ。
ただのダンスリハだろ。
距離感を合わせる振りなんて今までいくらでもやってきた。
実際、もっと近い振りだってこなしてきた。
なのに、タイキ相手だと崩れる。
一拍遅れる。
呼吸が浅くなる。
目を見すぎる。
見たら見たで今度は逸らせなくなる。
今日の自分は、あまりにもわかりやすかった。
タイキも気づいていた。
あれは間違いない。
いつもなら完璧にやるルイが、自分との距離ひとつで落ち着かなくなっている。
それを、タイキはちゃんと見ていた。
ルイはそこで目を閉じる。
好きだと自覚したあとで、タイキとの仕事は本当に難しい。
近いだけで鼓動が鳴る。
名前を呼ぶだけで、相手の呼吸がどう変わったか気づいてしまう。
少しでも向こうが揺れると、自分まで引っ張られる。
仕事では崩れたくない。
崩れるのは嫌だ。
自分でもそう思っているのに。
その“嫌だ”より先に、タイキを意識してしまう。
タイキが自分を見て、わずかに息を止めたこと。
イヤホンを分けた時に、無意識に寄ってきたこと。
今日のリハで、触れた瞬間に少しだけ強張ったこと。
全部、ちゃんと見えてしまう。
そして見えてしまうたび、胸の奥が少しずつやわらかくなる。
前なら考えもしなかったことだ。
タイキに揺らされる自分なんて、認めるのが腹立たしいくらいだった。
でも今は、その揺れを隠しきれない自分ごと、どうしようもなく本物だと思ってしまう。
小さく笑う。
苦い笑いだった。
でもその苦さの中に、前ほどの拒絶はない。
今日のタイキは、前より少しだけ自分を見ていた。
逃げるだけじゃなかった。
揺れながらも、その場に立っていた。
それが嬉しい。
嬉しいなんて、ずるいと思う。
自分はあんなに傷つけてきたくせに。
少し視線を返してもらっただけで、救われたみたいになるなんて。
でも、実際そうだった。
タイキが離れなかった。
リハの最後までちゃんと立っていた。
こっちの崩れ方を、ちゃんと見た上で。
ルイは片手で額を押さえる。
欲を抑えた夜もそうだった。
今日のリハもそうだ。
今の自分は、前よりずっとタイキに“見られている”側にいる。
それが怖くて。
でも、少しだけ嬉しい。
ちゃんと見てほしかったんだろうな、と今さら思う。
欲しい時だけ呼ぶ男じゃなくて。
格好つけて余裕のある顔をしてるだけの男じゃなくて。
タイキの前で揺れる自分ごと。
そう思った瞬間、ルイは小さく息を吐いた。
「……恋って、面倒くせぇ」
でも、その面倒くささを今はもう手放したくなかった。
その夜、タイキはベッドに入ってから何度も寝返りを打った。
眠くないわけじゃない。
身体はちゃんと疲れている。
ダンスリハのあとだし、足も肩も重い。
でも、頭の中だけがずっと起きていた。
ちゃんと、恋してんじゃん。
カノンの声が、何度も響く。
あの時のカノンは、茶化しているようで、全然茶化していなかった。
優しく笑っていた。
見抜いた上で、そのまま置いてくるみたいな言い方だった。
恋。
その二文字が、妙に残る。
好きだとは思っていた。
思っていた、じゃない。
もう知っている。
アダムの肩口で、ちゃんと口にもした。
それでも、“恋”と言われると少し違う形で胸に落ちてくる。
恋してる。
呼び出されて。
振り回されて。
好き勝手されて。
そういう時間の中で、苦しくて、悔しくて、でも離れられなくて。
そんな自分に、“恋”なんて名前をつけるのは、どこか負けたみたいで嫌だった。
でも今日のリハで、ルイの崩れ方を見た時。
肩が触れた時。
名前を呼ばれた時。
ちゃんとドキッとした。
それをごまかす方が、もう難しい。
タイキは目を閉じる。
呼び出されて。
振り回されて。
好き勝手されて。
今まで心の中で何度も繰り返してきた言葉だ。
事実だと思う。
実際、その通りだった。
でも。
そのあとに続く言葉が、最近は少しずつ変わってきている。
ルイの元へ行ったのも。
振り回されても離れなかったのも。
好き勝手させてたのも。
全部、自分で選んだんだよな。
そこに、小さく向き合う瞬間がある。
タイキはそこでゆっくりと息を吐いた。
責めたい気持ちは本物だ。
あの時間を“でも自分も悪かったし”で薄めたくない。
傷ついた自分を、雑に片づけたくない。
でも同時に、自分が完全に“受け身の被害者”だけだったとも思えない。
嫌なら、本当に行かなければよかった。
行かない選択肢は、たぶんあった。
途中で止める選択肢だって、本当はゼロじゃなかったのかもしれない。
それでも、行った。
苦しいくせに。
終わったあとで毎回一人で傷つくくせに。
それでもルイのところへ行った。
離れなかった。
それはたぶん、怖かったからだけじゃない。
好きだったからだ。
好きだったから、離れられなかった。
好きだったから、呼ばれたら行ってしまった。
好きだったから、嫌いきれなかった。
その事実に、最近ようやく少しずつ向き合えるようになってきた。
「……最悪」
呟いた声は、小さかった。
でも、その“最悪”は前みたいな絶望だけじゃなかった。
ルイばかりを責めている自分を、肯定しきれない。
それは、ルイを庇いたいからじゃない。
自分の選んだことまで全部なかったことにはできないと、もうわかっているからだ。
もちろん、ルイが悪い。
そこは消えない。
でも、自分にも自分の意志があった。
好きという、面倒で、どうしようもない意志が。
そこまで認めた時、タイキの胸の奥は少しだけ静かになる。
恋してる。
その言葉を、今夜は前より少しだけ受け止められる気がした。
綺麗じゃない。
甘くもない。
傷も、怒りも、悔しさも混ざってる。
それでも、これはたぶん恋なんだろう。
ルイが崩れていくのを見て、何してんだよと思う。
でも同時に、自分のことで崩れてることに満たされる。
あれだけ傷ついてたはずなのに。
それでも、今はその揺れを見ていたいと思う。
それって、もうただ怒ってるだけじゃない。
タイキは布団を少しだけ引き上げる。
ルイの元へ行ったのも、自分。
離れなかったのも、自分。
好き勝手させてたのも、自分。
その事実は苦い。
でも、それを認めた方が、今の自分にはちゃんと立てる気がする。
全部、相手のせいにしていたら楽だったかもしれない。
でもそれじゃたぶん、今のこの気持ちには辿り着けない。
「……恋、か」
小さく口に出してみる。
不思議と、前ほどしっくりこないわけではなかった。
それでもまだ、素直に笑えるような言葉じゃない。
痛いし、遅いし、面倒だ。
でも、もう“違う”とは言えない。
タイキは目を閉じる。
明日またスタジオに行けば、ルイはいる。
たぶんまた視線が合って、呼吸が少しだけ乱れて、肩が触れればドキッとする。
その一つひとつに、少しずつ答えを出すしかない。
好きなのも。
傷ついたのも。
自分で選んだのも。
全部、そうだ。
その全部を抱えたまま、今夜はようやく少しだけ眠れそうな気がした。
今朝のスタジオは、人が多かった。
スタッフの出入りも多い。
ライブ用の映像打ち合わせが少し入っていて、ダンスリハの前に細かい確認が続いている。
床に置かれた資料。
モニターの前で話すスタッフ。
メンバーの出入り。
ルイは鏡の前で軽く肩を回しながら、その空気の中にいた。
いつも通りの顔。
仕事の顔。
そうしているつもりだった。
でも、今日は少しだけ落ち着かない。
昨日の夜、タイキはあのまま帰った。
何か進んだわけでも、はっきり答えが出たわけでもない。
それでも、あの夜のあとで迎える今日のスタジオは、いつもより空気が薄く感じた。
タイキが来る。
顔を合わせる。
それだけで、たぶんまた心臓が鳴る。
そう思っていた時、スタジオのドアが開く。
タイキだった。
いつものキャップ。
ラフなパーカー。
少し眠そうな顔。
でも目はちゃんと起きていて、スタジオに入ってきた瞬間、軽く「おはよう」と言う。
ルイも短く返す。
「おはよう」
一瞬だけ目が合う。
それだけ。
でも、それだけで胸の奥が少しうるさい。
タイキはそのまま奥へ入って、先に来ていたスタッフに声をかけられる。
今日の立ち位置確認の話らしい。
「タイキくん、この前の映像の件なんだけど」
「あ、はい」
若い男性スタッフが、タブレットを見せながらタイキの隣に立つ。
距離は仕事としては普通だ。
近すぎるわけじゃない。
肩が触れてるわけでもない。
でも。
ルイは、なぜかそこから目を離せなくなった。
タイキがタブレットを覗き込むために少しだけ身を寄せる。
スタッフが画面を見せながら、自然に近づく。
そのたびに、胸の奥にざらっとしたものが走る。
(……何だよ)
自分に言う。
別に、何でもない。
仕事だ。
普通の打ち合わせ。
ルイ自身、同じような距離でスタッフと確認をすることはいくらでもある。
わかってる。
わかってるのに、嫌だった。
タイキが他の人間と近い距離で何かを共有しているだけで、妙に落ち着かない。
画面を見てるだけ。
話してるだけ。
それだけなのに。
ルイはそこで、少しだけ目を伏せる。
またか、と思う。
モデルと並んでた時もそうだった。
アダムと並んでる時もそうだった。
ちゃんと理由がある近さでも、頭ではわかってても、胸の奥が勝手に反応する。
「ルイ?」
カノンの声が横からして、ルイは小さく肩を揺らした。
「ん」
「呼ばれてる」
「……あぁ」
スタッフが何か確認していたらしい。
ルイは短く返して、その話に乗る。
ちゃんと仕事の顔で。
そこに支障は出さない。
でも、その間も視界の端ではタイキが見える。
タイキが少し笑う。
スタッフがそれにつられて笑う。
それだけのことが、妙に気に障る。
(落ち着け)
心の中でそう思う。
でも今日は、そう言い聞かせてもあまり効かなかった。
ようやくその打ち合わせが終わって、タイキがタオルを首にかけながら一人で壁際へ移動する。
ルイはそこで、やっと少し呼吸が戻るのを感じた。
自分でも面倒だと思う。
でも、これはもう誤魔化しようがない。
見ていて、嫌だった。
その事実だけが、胸の奥に残る。
リハが始まって、一本目の通しが終わる。
全員が水を飲みに散ったタイミングで、ルイは自分でも意識しないうちにタイキの方へ足を向けていた。
タイキはウォーターサーバーの前で、ペットボトルの蓋を開けていた。
ルイが近づくと、少しだけ目を上げる。
「何」
短い声。
前より、少しだけやわらかい。
でもまだ簡単に近づける距離じゃない。
ルイはそこで、一度言葉を探した。
何て言えばいい。
別に、責めたいわけじゃない。
文句を言いたいわけでもない。
ただ、さっきからずっと引っかかっているものを、そのまま抱えたままにしておきたくなかった。
「さっき」
ルイが低く言う。
タイキが少しだけ首を傾ける。
「スタッフと、何話してた」
その聞き方に、自分でも少しだけ呆れる。
何だそれ、と思う。
雑だし、遠回りでもない。
かなりそのままだ。
タイキは一瞬だけ目を瞬かせた。
それから、少しだけ口元を動かす。
「……映像の話」
「そう」
「そう」
短い会話。
でも、タイキはそこで何かに気づいた顔をした。
ルイの顔を見て、少しだけ目を細める。
「ルイ」
「ん」
「お前さ」
少し間。
「嫉妬?」
その一言で、ルイの呼吸が止まる。
前なら。
前ならたぶん、鼻で笑って終わらせていた。
「何言ってんだよ」とか、「仕事だろ」とか、いくらでも逃げ方はあった。
でも今日は、すぐにそうできなかった。
嫉妬。
その二文字が、思ったより静かに胸へ落ちる。
ルイはそこで、しばらく黙った。
タイキも急かさない。
ただ、ペットボトルを持ったままこちらを見ている。
ルイは一度だけ目を伏せる。
考える、というより。
自分の中にあるものへ、ちゃんと名前をつけるための沈黙だった。
さっき嫌だった。
他の男と並んでるのを見て。
少し笑ってるのを見て。
近くにいるのを見て。
嫌だった。
それはたぶん、もう別の言い換えじゃ済まない。
ルイは小さく息を吐いた。
それから、タイキを見た。
「……した」
本当に小さな声だった。
でも、はっきり言った。
タイキの目が、少しだけ動く。
ルイはそこで視線を逸らさないまま、もう一度言う。
「嫉妬した」
その瞬間、ルイは自分でも少しだけ驚く。
その横でタイキも少しだけ目を開いて驚いていた。
口に出した。
ちゃんと。
逃げないで。
ルイはその言葉を飲み込んだあと、胸の奥にずっとあったつかえが、ほんの少しだけ軽くなるのを感じた。
ああ、と思う。
認めるって、こんな感じなのかと。
前はずっと、認めたら負けだと思ってた。
嫉妬なんて、格好悪くて。
余裕のない男みたいで。
口に出すもんじゃないと思ってた。
でも今は違う。
タイキの前でだけは、そういう変な体裁を守る方がしんどい。
「……そう」
タイキが小さく言う。
責めるでもなく、笑うでもない声。
ルイは少しだけ目を細めた。
「悪いかよ」
少し遅れて、いつもの調子を取り戻すみたいに言う。
タイキはそこで、ほんの少しだけ笑った。
「悪いとは言ってねぇよ」
その笑い方が、やけにやわらかくて、ルイの胸の奥がまた鳴る。
でも今度はさっきみたいな苦しさじゃない。
もっと静かな熱だった。
⸻
その日の帰り道、ルイはひとりで歩きながら何度も思い返していた。
嫉妬した。
ちゃんと、そう言った。
自分でも驚くくらい自然に口から出た。
いや、自然ではなかったかもしれない。
実際にはかなり考えた。
一瞬止まって、ちゃんと胸の奥を見た。
でも、出したあとは少しだけ楽だった。
素直に嫉妬したと口に出してみて、ほんの少しだけ胸のつかえが取れたことに、ルイは歩きながら気づく。
今までは、全部飲み込んでいた。
見ていて嫌でも。
腹が立っても。
胸の奥がざらついても。
それを“仕事だから”とか、“気のせいだ”とか、“面倒だ”とか、別の言葉にすり替えてごまかしていた。
でも今日は違った。
タイキに“嫉妬?”と聞かれて、考えて、それで「した」と言った。
たったそれだけのことなのに、自分の中では大きかった。
(…前より、…楽だな)
小さくそう思う。
全部が楽になったわけじゃない。
タイキを前にしたら相変わらず心臓は鳴るし、仕事中に平然としていられなくなるのも面倒だ。
それでも、“嫉妬した”と認めたことで、少なくとも自分の中で変に格好つける必要はなくなった気がした。
好きだと認めて。
嫉妬も認めて。
今さら、本当に今さらだけど。
それでも、その今さらの方がたぶん、前の自分よりまともなんだろうと思う。
ルイは少しだけ笑う。
嫉妬したと素直に言っただけで、タイキの目が少し揺れた。
あの反応が、やけに胸に残っていた。
ちゃんと刺さった気がした。
嫌な意味じゃなく。
自分が飾らずに出した言葉が、タイキに届いた。
その感触が、今夜のルイには妙にあたたかかった。
⸻
タイキはその夜、布団に入ってからもルイの声を思い出していた。
……した。
嫉妬した。
小さかった。
でも、はっきりしていた。
あれが妙に胸に残っている。
前のルイなら、絶対に認めなかった。
はぐらかしたと思う。
仕事だろ、とか。
何言ってんだ、とか。
そういう顔で逃げたと思う。
でも今日は違った。
ちゃんと考えて。
少し黙って。
それで、認めた。
嫉妬した、って。
タイキは枕に顔を少しだけ押しつける。
ずるい、と思う。
あんなふうに素直になられたら、ちゃんと刺さるに決まってる。
嫉妬してるルイなんて、前の自分なら見たくもなかったはずだ。
面倒で。
厄介で。
そのくせ自分は傷つけられてるばっかりで。
でも今は違う。
自分が他の男と話してるだけで、ルイが少し落ち着かなくなって。
聞かれて、隠さずに“嫉妬した”と言う。
それが、ちゃんと嬉しかった。
嬉しかったことに、タイキは少しだけ困る。
「……ほんと、何なんだよ」
小さく呟く。
自分はあれだけ傷ついてたはずなのに。
今さらルイがこんなにわかりやすく揺れるのを見て、胸のどこかが満たされる。
でもその満たされ方は、前より少しだけ穏やかだった。
困らせてやりたいとか、苦しませたいとか、そういう棘だけじゃない。
もっと単純に、“あ、自分のこと好きなんだな”って見えてしまって、それがそのまま響く感じ。
恋って、たぶんこういうのなんだろうなと、タイキはぼんやり思う。
面倒で。
遅くて。
でも、相手がたった一言素直になるだけで、こんなに心臓が鳴る。
「嫉妬した」
そのたった一言が、今夜のタイキには思っていた以上に効いていた。
前より、ほんの少しだけ。
ルイを信じたいと思ってしまうくらいには。
部屋の明かりはもう落としてあった。
ベッドに入って、スマホを枕元に置いて、目を閉じても。
頭の中にはまだ、スタジオでのルイの顔が残っていた。
タイキは布団の中で、スマホに手を伸ばした。
画面をつける。
まだルイとのトーク画面は開いていない。
でも、開こうとしてる時点で、自分が何をしたいのかはなんとなく分かっていた。
「……いや」
小さく呟く。
まだ早いかもしれない。
そもそも自分から誘うとか、何してんだって気もする。
でも。
今日、ルイが素直になった。
だったら、こっちも少しだけ何か返したいと思ってしまった。
それが“許した”とか、そういうことじゃないのは自分でもわかっている。
ただ。
見極めるなら。
見ているだけじゃなく、少しだけ自分から動いた時に、ルイがどうするのかも知りたかった。
タイキはゆっくり息を吐いて、ルイとのLINEを開く。
前のやり取りが目に入る。
短い言葉。
必要最低限の文。
それでも前より少しだけ、ちゃんと会話になってきた履歴。
タイキの親指が、返信欄の上で少し止まる。
何て送る。
普通に。
できるだけ普通に。
なのに、こういう時に限って言葉がまとまらない。
一度打って、消す。
また打って、少し変える。
“次のオフ”
そこで止まる。
急すぎるか。
でも変に遠回しにする方が余計だ。
続ける。
“時間ある?”
それも消す。
なんか、それだとルイっぽい。
しかも前の“今日、時間ある?”が頭をよぎって、余計に落ち着かない。
「……無理」
タイキは片手で顔を覆った。
何をこんなに緊張してるんだ、と自分で思う。
ただ誘うだけだ。
レコード店。
昔から知ってる場所。
変な空気になりすぎない場所。
さっきから頭に浮かんでいるのは、あの店だった。
今日のリハで崩れたルイ。
素直に嫉妬を認めたルイ。
その顔を思い出したあとで、自分が誘うならそこしかなかった。
タイキはもう一度、打ち直す。
“次のオフ”
“またあのレコード店、行かない?”
そこまで打って、止まる。
“また”が妙にくすぐったい。
でも、たぶん今言いたいのはそれだ。
今日だけじゃなくて。
一回きりじゃなくて。
もう一度、っていう意味。
タイキは視線を落として、少しだけ唇を噛んだ。
それから、最後にもう一文だけ足す。
“この前の続きみたいに”
打った瞬間、心臓が一段強く鳴った。
「……うわ」
思わず声が出る。
消すか、一瞬迷う。
でも、消したくない気もした。
この前の続き。
それはたぶん、自分が思ってるよりずっと正直な言葉だった。
レコード店で、少しだけ昔みたいに並べたこと。
飯を食いながら、ちゃんと話せたこと。
その時間が嫌じゃなかったこと。
その全部を含んだ一文。
タイキは小さく息を吸う。
送る。
小さな送信音が、やけに部屋に響いた。
送った瞬間、急に落ち着かなくなる。
スマホを伏せようとして、でもすぐに画面を見てしまう。
既読は、まだつかない。
「……いや、そりゃそうだろ」
こんな時間だ。
シャワー浴びてるかもしれないし、もう寝る前かもしれない。
それでも、胸の奥だけがやたらと待っていた。
数分。
たぶん数分しか経っていない。
でも体感ではもっと長い。
その間、タイキはスマホを置いてはまた取り、画面を見ては伏せて、完全に落ち着かなかった。
やがて。
画面が光る。
既読
喉が小さく鳴る。
そのあと、少しだけ間があって、返信が来た。
タイキは呼吸を止めたまま、開く。
“行く”
それだけ。
短い。
でも、その沈黙のあとに来るには十分すぎる言葉だった。
タイキの胸の奥が、どくんと鳴る。
“行く”。
たった二文字。
でもその短さの奥に、ルイの動揺が透けて見える気がして、タイキは少しだけ口元を押さえた。
数秒遅れて、もう一通届く。
“続き、行きたい”
タイキはそこで、完全に黙った。
ずるい、と思う。
こんな返し、前のルイなら絶対しなかった。
もっと格好つけたか、もっと軽く流したか、あるいは簡単に余裕の顔を作ったはずだ。
なのに今は違う。
短くて。
不器用で。
でも妙にまっすぐだ。
続き、行きたい。
その言葉が、じわっと胸に残る。
タイキはしばらく返信できなかった。
嬉しいのか。
照れてるのか。
自分でもよくわからない。
ただ、明らかに心臓がうるさい。
「……ほんと、何なんだよ」
呟いてから、親指を動かす。
“じゃあ決まり”
送る。
すぐに既読がつく。
ルイからは、少しして短く返ってくる。
“楽しみにしてる”
その文面を見た瞬間、タイキは思わず枕に顔を埋めた。
「無理だろ……」
小さく漏れる。
デートだ、と思う。
口には出さない。
たぶんルイも、そこまではまだ言わない。
でもこれはもう、少なくとも“来い”の夜でも、“仕事終わりに何となく飯”でもない。
自分から誘った。
ルイが来ると言った。
続きに行きたいと言った。
そこまで揃ったら、さすがにわかる。
タイキはスマホを胸の上に置いたまま、目を閉じる。
嬉しい。
でも、それだけで浮かれていい段階じゃない。
見極めるって決めたのも本当だ。
それでも今夜くらいは、少しだけ認めてもいい気がした。
自分から誘いたくなった。
ルイと、もう一度会いたいと思った。
それもまた、今の自分の本音なんだろう。
画面には、まださっきのやり取りが残っている。
“行く”
“続き、行きたい”
その二行を見ているだけで、胸の奥が静かに熱かった。
同じ夜のどこかで、ルイもたぶん同じように落ち着かないのかもしれないと思って。
それが少しだけ、タイキを笑わせた。
シャワーを浴びて、髪を半分だけ乾かしたところで、スマホが震えた。
ルイは洗面台の前で手を止める。
タオルを首にかけたまま、画面を見る。
タイキ
その名前を見た瞬間、喉が小さく動いた。
さっきまで、今日のリハのことを考えていた。
肩が触れそうになった時のこと。
嫉妬したって、自分の口で認めた時のこと。
あのあとタイキが少しだけ笑ったこと。
そこへ、タイキからのLINE。
ルイは数秒だけ、その画面を見たまま動けなかった。
何だ。
何かあったのか。
いや、そんな深刻な感じの文面でもなさそうだ。
それでも、名前ひとつで胸の奥がやけにうるさい。
ルイはゆっくり画面を開く。
“次のオフ”
“またあのレコード店、行かない?”
“この前の続きみたいに”
その文面を読み終えた瞬間、ルイの呼吸が止まった。
「……は?」
本当に小さく、声が漏れる。
また。
レコード店。
この前の続き。
その一つひとつが、まっすぐ胸に入ってくる。
タイキが、自分から。
自分の方から。
次のオフに。
また行かないか、と。
ルイはそこで、洗面台に片手をついた。
心臓が、少しじゃなくちゃんとうるさい。
好きなやつに誘われる、ってこういう感じなのかと、今さら思う。
いや、正確には、好きなやつが自分との時間を“続き”って呼んでくれることが、こんなに効くのかと思う。
この前の続き。
たったそれだけの言葉なのに。
一回限りじゃなかった。
ただ付き合ってやった、でもなかった。
嫌じゃなかった、のさらに先へ、タイキの方から少しだけ手を伸ばしてきた感じがする。
ルイはスマホを持ったまま、しばらく動けなかった。
嬉しい。
それはもう、どうしようもなく。
でも同時に、信じていいのか一瞬だけ怖くもなる。
タイキはまだ全部許してない。
傷ついたことだって消えてない。
見極めるみたいに、少しずつこっちを見ている最中だ。
それなのに今、こうして“また行かない?”と送ってくる。
それがどれだけ大きいか、ルイにはわかる。
わかるからこそ、簡単に浮かれた顔をして返したくなかった。
でも、たぶん今の自分は、もう顔には出ていた。
ルイは片手で額を押さえる。
「……やば」
笑いそうになる。
いや、実際少し笑っていた。
こんなふうに、ただ一通のLINEでどうにかなるなんて、自分でも思っていなかった。
前の自分なら、もっと余裕のあるふりをしたかもしれない。
少し待たせてから返したり、軽く流したり、平気な顔を作ったかもしれない。
でも今は無理だ。
行きたい。
その“また”の中に、ちゃんと入りたい。
続き、と呼ばれた時間を、もう一度ちゃんと持ちたい。
その気持ちだけが、先にある。
ルイは何度か呼吸を整えてから、返信欄を開く。
何て返す。
ここで格好つけるのは違う。
でも、嬉しさをそのまま全部ぶつけるのも違う気がする。
重くしたくない。
でも軽くもしすぎたくない。
親指が少しだけ止まる。
最終的に出てきたのは、すごく短い言葉だった。
「……行く」
送る前に、一度だけ見直す。
短すぎるか。
でも、今の自分にはこれ以上が少し難しい。
送る。
すぐに、胸の奥がまた鳴る。
ルイはそのまま、もう一文だけ打った。
“続き、行きたい”
打った瞬間、自分で少しだけ目を閉じる。
恥ずかしい。
でも、嘘じゃない。
本当にそう思った。
この前の時間の続きがほしい。
レコード店の続き。
昼の光の続き。
タイキが“嫌じゃなかった”と言った、その先。
それを、ちゃんと欲しいと思っている。
送信。
画面を見つめる。
数秒。
やがて既読がつく。
そのあと来た返事。
“じゃあ決まり”
“今度は俺が店選ぶ”
ルイはそこで、とうとう小さく笑ってしまった。
「……マジかよ」
声に出る。
タイキが店を選ぶ。
その事実が、また静かに胸へ落ちる。
こっちに任せるんじゃなくて。
流されるんでもなくて。
今度は自分が選ぶ、と言う。
その言葉の中に、今のタイキが少しずつ主導権を持ち始めていることが見える。
そしてルイは、それを嫌だと思わなかった。
むしろ少しだけ、安心した。
選んでくれる。
こっちとの時間を、自分で選ぶ側に立ってくれている。
それが嬉しい。
ルイは少し考えてから返す。
「楽しみにしてる」
送信。
その四文字に、どれだけの気持ちが乗っているかなんて、タイキはたぶん全部は知らない。
でも今はそれでいい。
全部を一気に渡すより、ちゃんと今の温度で返したかった。
スマホを持ったまま、ルイはベッドに腰を下ろす。
静かな部屋。
さっきまでの一人の夜が、今は少しだけ違って見える。
タイキから誘われた。
また行かないか、と。
この前の続きみたいに、と。
その事実を、頭の中で何度もなぞる。
嬉しい。
本当に、ちゃんと。
しかもそれは、“許されたかもしれない”みたいな軽い期待とは少し違う。
タイキが自分の意思で、また会う時間を選んだ。
そのことそのものが、もう十分すぎるくらい大きかった。
ルイはスマホを胸の上に置いて、ゆっくり天井を見上げた。
「……続き、か」
小さく呟く。
その言葉が、やけにやわらかい。
今までの二人にはなかった言葉だ。
“来い”でも、“行く”でもなく、続き。
それはたぶん、過去の続きをやり直すって意味じゃない。
今の二人で、新しく続けていくための言葉なんだろうと、ルイはなんとなく思った。
昔みたいには戻れない。
傷も、遅さも、消えない。
それでも、続きはあるかもしれない。
タイキがそう思ってくれたことが、ただありがたかった。
ルイはそこで、ふと今日のスタジオを思い出す。
タイキが「嫉妬?」と聞いた時。
自分が黙ってから「した」と言った時。
あの小さな素直さが、ちゃんと届いたのかもしれない。
だったら、前より少しだけ信じてもいいのかもしれない。
少なくとも、期待しすぎないまま前を向くくらいは。
ルイは目を閉じた。
次のオフ。
タイキが選ぶ店。
また二人で出かける昼。
それを想像するだけで、まだ少し落ち着かない。
でも、その落ち着かなさまで今はちゃんと嬉しかった。
恋って、ほんとに面倒だ。
遅いし、不器用だし、やっと同じ方向を向けたと思ったら、今度は一通のLINEで眠れなくなる。
それでも。
今夜のこの眠れなさは、前みたいな苦しさだけじゃなかった。
期待している。
ちゃんと。
そのことを、ルイはようやく否定しなかった。
「……楽しみ、か」
さっき自分で送った言葉を、もう一度小さく口にする。
その響きが、思ったより自然だった。
そしてそのまま、ルイは胸の上のスマホを握りしめたまま、しばらく静かな夜の中でひとり笑っていた。