テラーノベル
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かり、と窓が引っ掻かれる音がして、仁は顔を上げた。
「おっ、テリーじゃん!
依頼か〜?」
心なしかうきうきしている瑠衣の頭をはたいて、チップを取り出す。
「いてっ! 何すんだよ、仁!」
「浮かれすぎだろ。仕事だ」
「分かってるって!」
いつも通りの、何気ないやり取り。
しかし、チップを読み込んだ瞬間、その空気が一変した。
テリーの目からすっと光が消える。
【事件依頼です】
【推定項目・人身売買】
【被害・孤児への誘拐、暴行】
【依頼要件・海外逃亡の阻止】
「孤児を誘拐して人身売買しようとしてるってことか…!?」
【肯定】
【ネストの権力が及ばない海外に行く前に制圧せよ】
「……胸糞悪ぃな」
仁が小さく吐き捨てる。
瑠衣も、先ほどまでの軽い表情を消していた。
「子どもを売り飛ばすってことだろ? 絶対許せねぇ」
「ああ。行くぞ、瑠衣」
「おう!」
二人はすぐさま現場へ向かった。
現場は、町外れにある古びた建物だった。
建物の奥から、微かに子どもの泣き声が聞こえる。
仁は周囲を確認し、瑠衣に目配せした。
「……いるな」
「ああ。何人かいるみたいだぜ」
「慎重に行くぞ」
二人が踏み込んだ瞬間、複数の男たちが姿を現した。
「来たか、名探偵」
「子どもたちはどこだ」
「さあな?」
男が笑う。
その態度に、仁の目が鋭くなる。
「答える気はない、か」
次の瞬間、男が動いた。
「仁!」
「分かってる!」
瑠衣が別方向の男を抑える。
仁も応戦しながら、建物の奥へと視線を走らせた。
いた。
小さな子どもたちが、部屋の隅に身を寄せている。
「大丈夫だ。もう少し待ってろ」
仁が声をかける。
その瞬間だった。
銃の流れ弾が子どもたちに向かうのが視える。
「危ない…っ…!」
辛うじて滑り込ませる。
次の瞬間。
耐え難い痛みが腹部を襲った。
「ぐ…ッ、!」
青いはずのスカジャンが紅に染まる。
内臓を傷つけたのか、口元にも血が滲んだ。
鉄の味が口内に広がって、気持ちが悪い。
「か、は…っ、」
咳き込むと、口元から血が滴り落ちる。
ぐい、と袖で拭い、自分を叱咤する。
まだだ。
まだ、倒れるわけにはいかない。
背中から、か細い声が聴こえた。
後ろを向かなくても、泣きそうな顔が目に浮かぶ。
「お兄ちゃん…!」
「しなないで…っ」
震える小さな手。
瞳が、小さく揺れていた。
守らなければ。
戦わなければ。
この子たちには、手を出させない。
絶対に。
斜目町に住んでいる以上、仁の仲間だ。
立て。守れ。
「……大丈夫だ」
小さく呟く。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
「おや…限界のようですね、名探偵さん?」
「ちっ……」
目の前の男が、愉快そうに口元を歪める。
「誰が、限界、だ…っ!」
最小限の動きで、傷が開かぬよう。
返り血で染まった拳を振るう。
脇腹の感覚は、もうとっくのとうに機能を失っていた。
「う’’、ぁ…ッ」
しくじった。
腹に走った衝撃。
傷に響く痛みに、呻き声が漏れる。
視界が揺れた。
足元が覚束ない。
それでも仁は、倒れなかった。
背後に子どもたちがいる。
自分が倒れれば、次はあの子たちが狙われる。
「は、…ッ…」
「どうしますか?
その子たちを渡すか…、ああ!」
男が何かを思いついたように、ぱちんと指を鳴らした。
「―――貴方が、私たちに着いてくれば子どもたちは解放すると約束しましょう」
仁の動きが止まった。
「どうですか?司波仁さん」
男の言葉を吟味する余裕などなかった。
子どもたちを逃がせる。
それだけで十分だった。
「わかっ、た…」
その返事を聞いた男は、満足そうに笑った。
仁の意識が、ゆっくりと遠のいていく。
目の前が暗くなる。
最後に見えたのは、泣きながらこちらに手を伸ばす小さな子どもたちだった。
次に目を覚ましたのは、暗い部屋だった。
冷たい床。
薄暗い照明。
身体を動かそうとすると、全身に鈍い痛みが走った。
「…拷問、か?」
掠れた声が、静かな部屋に響く。
「御名答…と言いたいところですが少し違います」
目の前に、あの男が立っていた。
「人間が壊れる様を見てみたいのです…!」
「はっ、狂ってるな…」
仁は男を睨みつける。
しかし、身体は思うように動かない。
男はそんな仁を、まるで珍しい標本でも眺めるように見下ろしていた。
「あなたは興味深い。どれほど追い詰められても、決して折れない名探偵」
「……」
「そのあなたが、どこまで耐えられるのか。実に興味があります」
仁は答えなかった。
答える気もなかった。
ただ、子どもたちのことを考えていた。
無事に帰れただろうか。
怖い思いをしていないだろうか。
……それだけが気がかりだった。
その後、男の異常な興味は、仁の身体と心を少しずつ追い詰めていった。
「やめ…っ」
ばき、と骨が折れる音がした。
ああ、もう何も感じない。
どれくらい時間が経ったのかも分からない。
何度呼吸を整えようとしても、うまくいかなかった。
「おや…壊れてしまいましたか…」
男が仁の顔を覗き込む。
「名探偵司波仁も、人間なのですね、興味深い」
実験対象のように。
首を傾げてから微かに頷く。
仁の瞳からは、先ほどまでの鋭さが消えていた。
「仁…!」
聞き覚えのある声。
遠くから、誰かが自分を呼んでいる。
「お兄ちゃん…?」
続いて、小さな声が聞こえた。
男が振り返る。
そこに立っていたのは、瑠衣と杖道だった。
「残念ですねぇ…司波仁さんは壊れてしまいましたよ」
「…っ、てめぇ…!」
瑠衣の表情が変わる。
普段の軽薄さなど、微塵も残っていなかった。
「おや、怖い怖い」
「ふざけんなよ……!」
瑠衣が一歩踏み出す。
その肩を、杖道が押さえた。
「瑠衣。今は仁が先だ」
「……っ!」
「相手は我々が対処する。瑠衣は仁のところへ」
「分かった……!」
瑠衣は男から視線を外し、仁のもとへ駆け寄った。
「仁!」
返事はない。
「おい、仁。聞こえてんだろ?」
肩に触れる。
いつもなら、鬱陶しそうに振り払うか、せめて何か一言くらい返してくるはずだった。
「……仁?」
俯いた顔。
焦点の合わない瞳。
瑠衣の表情から、血の気が引いていく。
「おい……冗談だろ?」
そっと身体を支える。
その瞬間、仁の身体が小さく揺れた。
「っ、仁!」
「……」
「なあ、返事しろよ……!」
返ってくる言葉はない。
瑠衣は震える手で仁の状態を確認する。
「……おっさん!!」
「分かっている!」
杖道はすぐに二人のもとへ向かった。
仁の様子を確認した瞬間、眉間に深い皺が寄る。
「仁…!」
いつもの落ち着いた声が、僅かに揺れた。
「救急車を呼ぶ!
今すぐ…!」
端末を取り出す杖道。
「おっさん、仁は……!」
「詳しいことは医師たちに任せる。今は一刻も早く運び出すぞ」
「……っ、分かった」
瑠衣は仁の身体を支え直した。
「仁、帰るぞ」
返事はない。
「おい、仁。聞こえてんだろ」
いつもの呼び方。
いつもの声。
それなのに。
「……頼むから、返事しろよ」
瑠衣の声が震えた。
杖道はその様子を見つめ、静かに仁の肩へ手を添える。
「仁。もう大丈夫だ」
届いているかは分からない。
それでも、杖道は続けた。
「よく頑張ったな。……あとは我々に任せなさい」
その言葉に、仁の指先がほんの僅かに動いた。
「……っ!」
瑠衣が息を呑む。
「仁?」
しかし、瞳が開くことはなかった。
「……帰るぞ、仁」
瑠衣は仁を支えたまま、俯いた。
「帰ったら、文句いっぱい言ってやるからな」
杖道が立ち上がる。
「瑠衣、行くぞ」
「ああ……」
暗い部屋を後にする。
今度こそ、絶対に離さない。
二人の間に、そんな無言の決意があった。
守るために戦った名探偵は、今度は仲間に守られて帰る。
「ストレッチャー、急げ!」
医師たちの声が飛び交う。
建物から運び出された仁は、そのまま救急車へと乗せられた。
瑠衣は仁の手を握ったまま、離れようとしない。
「瑠衣、乗りなさい」
「分かってる…!」
「……仁の手を握っていてやれ」
その言葉に、瑠衣は一瞬だけ顔を上げた。
「……ああ」
救急車の扉が閉まる。
サイレンが鳴り響いた。
「仁、聞こえるか?」
返事はない。
「なあ、仁。もうあいつはいねぇからな」
瑠衣は努めて普段通りの声を出した。
「子どもたちも無事だって。ちゃんと助かったんだぜ」
少しでも安心してほしかった。
仁があれほど必死に守った子どもたち。
その子たちは無事に保護された。
だから、もう戦わなくていい。
もう頑張らなくていい。
「……だからさ」
握った手に、少しだけ力を込める。
「もう大丈夫なんだよ」
けれど、仁は何も答えなかった。
医療班が処置を続ける。
「出血が多い。急いで!」
「血圧が低下しています!」
「意識レベルの確認を!」
瑠衣は唇を噛んだ。
「……仁」
その名前だけが、何度も口から零れた。
病院に到着すると、仁はすぐに処置室へ運ばれた。
「ご家族、または関係者の方はこちらでお待ちください」
「俺も行く!」
「瑠衣」
杖道が肩を掴む。
「今は医師に任せなさい」
「でも……!」
「仁を助けるためだ」
その言葉に、瑠衣は足を止めた。
処置室の扉が閉まる。
赤いランプが点灯した。
「…………」
静かになった廊下。
瑠衣は壁に背中を預け、その場にしゃがみ込んだ。
「……なんでだよ」
誰に向けた言葉でもなかった。
「なんで、あいつばっかり……」
杖道は何も言わず、隣に立っていた。
やがて、瑠衣が口を開く。
「おっさん」
「何だ」
「仁、帰ってくるよな」
杖道はすぐには答えなかった。
そして、瑠衣の隣に腰を下ろす。
「帰ってきてもらわなければ困るだろう?」
「……そうだよな」
「だから、今は信じて待とう」
瑠衣は俯いた。
どれほど時間が経っただろう。
処置室の扉が開いた。
二人は同時に立ち上がる。
「先生、仁は!?」
医師は二人を見て、静かに説明を始めた。
「腹部の傷を含め、複数の負傷が確認されています。出血も多く、かなり危険な状態でした」
瑠衣の顔が強張る。
「現在は必要な処置を終えました。ただ、まだ予断を許さない状態です」
「……意識は?」
杖道が尋ねる。
「今は眠っています。しばらく慎重に経過を見る必要があります」
「そうですか……」
杖道が小さく息を吐いた。
「面会は可能でしょうか」
「短時間なら。ただし、刺激を与えないようにお願いします」
病室。
白いシーツの上に、仁が横たわっていた。
いつも着ているスカジャンはない。
腕には点滴。
身体には複数の処置の跡。
そして、目を閉じたまま、静かに呼吸をしている。
「……仁」
瑠衣がベッドの傍らに立つ。
「おい。寝すぎだろ」
返事はない。
「そろそろ起きろよ。仕事溜まってんぞ」
もちろん、返事はない。
「……なあ」
瑠衣は椅子を引き寄せた。
「俺、まだお前に言いたいこといっぱいあんだけど」
そっと、仁の手に触れる。
「勝手に一人で行くなよ」
声が小さくなる。
「俺だって……一緒に戦えるだろ」
隣で杖道が静かに見守っていた。
「瑠衣」
「……何だよ」
「今日はもう休みなさい」
「嫌だ」
即答だった。
「ここにいる」
杖道は小さく息を吐いた。
「……そうか」
そして、仁の反対側に椅子を置いた。
「なら、私もここにいよう」
「おっさんも?」
「当たり前だろう。仲間を一人置いて帰るわけにはいかない」
瑠衣は何も言わなかった。
ただ、仁の手を握り続けていた。
その夜。
病室は静かだった。
機器の音だけが規則正しく響いている。
ふと。
仁の指先が、僅かに動いた。
「……ん」
瑠衣が顔を上げる。
「仁?」
瞼が微かに震える。
ゆっくりと、目が開いた。
「……っ、仁!」
瑠衣が身を乗り出す。
「おい、分かるか? 俺だぞ!」
仁の瞳が、ゆっくりと瑠衣を捉えた。
しかし。
「……」
その表情に、安堵はなかった。
むしろ、怯えたように目が揺れた。
「……っ」
仁の身体が強張る。
「仁?」
瑠衣が手を伸ばした、その瞬間。
「……やめ、ろ」
掠れた声。
瑠衣の動きが止まった。
「……え?」
仁は瑠衣を見ている。
けれど、その瞳は目の前の瑠衣を見ているようには思えなかった。
「もう……やめ、……」
「仁……?」
杖道がすぐに近づく。
「仁。私だ」
その声にも、仁は反応しなかった。
「……っ、来るな……」
瑠衣の手が、ゆっくりと下がる。
「……仁」
いつもなら、どんな状況でも冷静に判断する男。
そんな仁が、今は目の前の仲間に怯えている。
瑠衣は、何も言えなかった。
やがて、仁の瞼が再び閉じていく。
「……おっさん」
「……ああ」
杖道は仁の様子を確認しながら、静かに答えた。
「しばらく、時間が必要だろうな」
瑠衣は俯いた。
「俺のことも、分かんなかったのかな……」
「今は無理に理解させようとしなくていい」
杖道は、仁の布団を整えた。
「仁が安心できるまで、そばにいてやろう」
瑠衣はもう一度、仁の手を見た。
今度は触れなかった。
ただ、すぐ隣の椅子に座り直す。
「……おやすみ、仁」
その声は、いつもよりずっと小さかった。
午前四時。
病室には、薄い朝の光が差し込んでいた。
瑠衣は椅子に座ったまま、眠っていた。
昨夜から一度も病室を出ていない。
杖道も、壁際の椅子で目を閉じている。
静かな時間だった。
「…………」
ベッドの上で、仁の瞼が微かに動く。
ゆっくりと目を開けた。
白い天井。
消毒液の匂い。
聞き慣れない機械音。
「……っ」
身体を起こそうとした瞬間、腹部に痛みが走った。
「う……」
思わず息を呑む。
「仁?」
すぐに声がした。
瑠衣だった。
「おい、起きたのか?」
仁の瞳が、瑠衣を捉える。
しかし、次の瞬間。
びくり、と肩が跳ねた。
「……っ!」
「仁?」
「来るな……」
瑠衣の表情が固まる。
「……え?」
「やめろ……もう、やめ…っ…」
仁は布団を握り締めていた。
指先が震えている。
「おい、仁。俺だよ」
「……っ」
「瑠衣だって」
それでも、仁の呼吸は落ち着かない。
瑠衣は一歩近づこうとして、思いとどまった。
「……ごめん。近づかねぇから」
少し離れた場所で、しゃがみ込む。
「大丈夫だ。誰もお前に何もしねぇよ」
その声に、仁の視線が僅かに揺れた。
「……る、い……?」
「……っ!」
瑠衣の目が見開かれる。
「そう。俺だよ」
「……ここ、は」
「病院。お前、ちゃんと助かったんだぜ」
仁は何かを考えるように目を伏せた。
「……子ども、たちは」
第一声が、それだった。
瑠衣は一瞬、言葉に詰まる。
「無事だよ」
「……本当、か」
「ああ。全員保護された。怪我した子も治療を受けてる」
「……そう、か」
それだけ言うと、仁は目を閉じた。
瑠衣は俯く。
「……お前さ」
声が僅かに震えた。
「自分の心配もしろよ」
返事はなかった。
午前六時。
杖道が目を覚ました頃には、仁は再び眠っていた。
「仁は?」
「さっき起きた」
「そうか」
「……でもさ、おっさん」
瑠衣は窓の外を見つめたまま言った。
「俺の顔見て、怖がったんだ」
杖道は何も言わず、続きを待った。
「俺だって分かってんのに、身体が勝手にびくってなって……」
「……」
「どうすりゃいいんだよ」
杖道は瑠衣の隣に立った。
「焦らなくていい」
「でも……」
「仁は、今まで経験したことのないほどの恐怖を味わったのだろう。
身体の傷が治るのと同じように、心にも時間が必要だ」
「……そっか」
「瑠衣がそばにいる。それだけで十分だ」
瑠衣は小さく頷いた。
昼過ぎ。
医師の診察が終わり、仁は少しだけ身体を起こせるようになった。
もっとも、自分で起き上がることはまだ難しい。
「仁、調子はどうだ?」
杖道が尋ねる。
「……別に」
掠れた声。
いつもの仁なら、もう少し刺々しい返事をするところだ。
しかし、今はそれすら力がない。
「痛みはあるか」
「……ある」
「そうか。無理はするな」
「分かってる」
瑠衣はベッドの反対側から様子を窺っていた。
「仁、なんか飲むか?」
「……いらない」
「そっか」
短い会話。
それだけだった。
瑠衣は少し寂しそうに笑う。
「じゃあ、ここ置いとくな」
サイドテーブルに飲み物を置いた。
そのとき。
「……瑠衣」
「ん?」
「……そこに、いろ」
瑠衣の動きが止まった。
「……え?」
仁は視線を逸らしたまま、もう一度言う。
「……そこに、いろ」
瑠衣は一瞬だけ目を伏せた。
そして、いつもの調子で答えた。
「おう。いるよ」
椅子を引き寄せる。
「どこにも行かねぇって」
「……そうか」
仁は静かに目を閉じた。
その手が、布団の上で僅かに動く。
瑠衣は気づいた。
けれど、無理に握ったりはしなかった。
ただ、自分の手をそのすぐ隣に置いた。
いつでも届く距離に。
夕方。
杖道が医師から今後の治療方針について説明を受けて戻ると、瑠衣が小さな声で話していた。
「なあ、仁」
「……何だ」
「お前が守った子どもたち、会いたいって言ってたぜ」
仁の瞳が僅かに動く。
「……会ったのか」
「ああ。みんな無事だった。お前にありがとうって」
「……そうか」
「だから、元気になったら会いに行こうぜ」
少しの沈黙。
「……ああ」
瑠衣は笑った。
今度は、少しだけ自然に。
その様子を見ていた杖道が、静かに口を開く。
「仁」
「……何だ、おっさん」
「帰ったら、しばらく仕事は禁止だ」
「……は?」
「医師からも安静にするよう言われている」
「俺はもう動ける」
「動けることと、仕事をしていいことは別だろう?」
「……」
「瑠衣もそう思うだろう?」
「もちろん!」
「おい、瑠衣」
「いやいや、今回はおっさんに賛成だわ。仁はしばらく休んどけ!」
「……お前らな」
ほんの少しだけ。
いつもの仁らしい声が戻った。
瑠衣は思わず杖道と顔を見合わせる。
まだ完全ではない。
きっと、これからも時間はかかる。
それでも。
確かに、ここには仁がいる。
帰ってきてくれた。
それだけで、今は十分だった。
事件から一週間。
仁の容態は、少しずつ安定していた。
腹部の傷はまだ治療が必要で、身体を動かすにも制限がある。
それでも、短い会話ならできるようになった。
「仁、これ食べる?」
「いらない」
「えー、また?」
「食欲がない」
「昨日もそう言ってたじゃん」
「うるさい」
「はいはい」
瑠衣は苦笑しながら、テーブルに食事を置いた。
以前なら、こんなやり取りは日常茶飯事だった。
けれど、瑠衣は気づいていた。
仁が食事をほとんど口にしないこと。
夜中に何度も目を覚ましていること。
そして、誰かが急に近づくと、ほんの僅かに身体を強張らせること。
「……仁」
「何だ」
「無理してない?」
「してない」
即答。
「そっか」
瑠衣はそれ以上聞かなかった。
その日の夜。
杖道が病室を訪れた。
「仁、具合はどうだ?」
「問題ない」
「そうか。ならば一つ報告がある」
「……何だ」
「例の事件の被害者たちだが、全員無事に保護された」
仁の目が、僅かに動いた。
「そうか」
「仁が守った子どもたちだ。今は安全な施設で生活しているそうだ」
「……よかった」
その声には、確かな安堵があった。
杖道はベッド脇の椅子に腰掛ける。
「仁」
「何だ、おっさん」
「仁は、よくやった」
「……」
「もう、自分を責める必要はない」
仁は答えなかった。
ただ、シーツを握る手に力が入る。
「俺は……」
「うん?」
「……もっと早く、終わらせられた」
「仁」
「俺が、あそこでしくじらなければ……」
「それ以上は言わなくていい」
杖道の声は穏やかだった。
「仁一人で、すべてを背負う必要はない」
「……」
「仲間がいるだろう?」
仁は視線を落とした。
深夜。
瑠衣は病室の簡易ベッドで眠っていた。
杖道は一度事務所に戻っている。
静かな病室。
しかし。
「……っ!」
仁が目を覚ました。
呼吸が乱れる。
身体が強張り、視線が定まらない。
また、あの暗い部屋が頭をよぎった。
「……は、っ……」
大丈夫だ。
ここは病院だ。
分かっている。
分かっているのに。
「……来るな」
小さな声が漏れた。
「……仁?」
瑠衣が目を覚ます。
「おい、どうした?」
仁は返事をしない。
瑠衣はすぐには近づかなかった。
「仁。俺だよ」
「……」
「瑠衣。分かる?」
少し間を置いて、仁の瞳が動く。
「……るい」
「うん」
「……ここは」
「病院。俺たちのいる病院だよ」
瑠衣はゆっくりと声をかけた。
「もう大丈夫。あいつらはいない」
仁の呼吸は、まだ落ち着かない。
「……っ、悪い」
「何が?」
「起こした」
瑠衣は一瞬、目を見開いた。
それから、困ったように笑う。
「そんなこと気にすんなって」
「……」
「俺なんか、お前が寝てる間ずっと起きてたんだぜ?」
「……馬鹿か」
「ひっでぇ!」
久しぶりに聞いた、仁らしい言葉。
瑠衣は少しだけ嬉しくなった。
「なあ、仁」
「何だ」
「眠れるまで、ここにいていい?」
仁は目を伏せた。
そして、小さく頷く。
「……好きにしろ」
「おう!」
瑠衣は椅子に座り直した。
翌朝。
杖道が病室に入ると、そこには珍しい光景があった。
仁は眠っていた。
そして、その隣では瑠衣も椅子に座ったまま眠っている。
「……やれやれ」
杖道は小さく息を吐いた。
瑠衣の肩には、ずり落ちかけた毛布。
仁の手は、ベッドの端から少しだけ出ていた。
その指先が、瑠衣の袖を掴んでいる。
杖道は二人を起こさないよう、そっと毛布を掛け直した。
「……おかえり、仁」
静かな声だった。
今度こそ。
本当に帰ってきたのだ。
まだ傷は残っている。
まだ、乗り越えなければならないこともある。
それでも、帰る場所はここにある。
そして、そこにはいつだって仲間がいる。
昼過ぎ。
「仁、聞いてくれよ!」
瑠衣が勢いよく病室に入ってきた。
「うるさい」
「まだ何も言ってねぇだろ!」
「入ってくる音がうるさい」
「細けぇなぁ!」
杖道が後ろから入ってくる。
「瑠衣、病院では静かにしなさい」
「おっさんまで!?」
仁が小さく息を吐いた。
その様子を見て、杖道が微かに目を細める。
「仁、今日は顔色がいいな」
「そうか?」
「ああ」
瑠衣がベッドの横に立った。
「なあ、仁」
「何だ」
「退院したらさ、三人で飯食いに行こうぜ」
「……仕事は?」
「仕事じゃねぇよ!」
「そうか」
「そうそう。普通に飯!」
仁は少し考えるように目を伏せた。
そして。
「……ああ」
短い返事。
それでも瑠衣には十分だった。
「約束な!」
「分かった」
「おっさんも来るよな?」
「もちろんだ」
三人の間に、穏やかな時間が流れる。
瑠衣が笑う。
杖道が呆れたように肩をすくめる。
仁は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その笑顔は、まだ小さくて。
以前のように戻るには、時間がかかるだろう。
それでも。
確かにそこには、いつもの名探偵がいた。
「……約束、だからな」
仁がそう呟いた。
瑠衣は満面の笑みで答える。
「おう。絶対だからな!」
今度は、三人で帰ろう。
仁が守った、いつもの日常へ。
#八重桜純
Nami🩵🎤🎧🩶
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コメント
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**みぅ🤍🥀:** 読んだよ……「守り守られ」、胸がギュッてなった。 仁が子ども守るために、自分の身体を犠牲にしてまで戦って、しかも「壊れて」いく描写、すごく丁寧だった。瑠衣が明るく振る舞いながら震える声で「帰るぞ」って言うところ、本当にもう……。 仁が最後に「約束だからな」って笑うシーン、やっと戻ってきたって思えて泣きそうになった。 守る人も、守られる人も、どっちも大切なんだって伝わる、あったかいお話でした🖤