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結局、仁人はあの夜から十日も経たないうちに、また店の扉を押していた。
突き放したことへの気まずさはあったが、勇斗はそれを一切責めることなく、いつもの調子で迎え入れた。
「お、来た来た。待ってたよ」
「別に、待たれる筋合いないです」
「はいはい、そういうことにしといてあげる」
軽くいなされ、仁人は毒気を抜かれたようにカウンターの席に座った。この数日、担当作家との話し合いは、ようやく落ち着きを見せ始めていた。だが、その分の疲労が、今になって一気に押し寄せてきている。
「今日は、静かに飲みたい気分なんで」
「了解。放っておくモードね」
そう言って、勇斗は仁人の前に静かにグラスを置き、それ以上話しかけることはなかった。
仁人はその配慮に、内心で少しだけ意外に驚いた。構われることを煩わしく思っていたはずなのに、こうして距離を取られると、それはそれで物足りなさを覚える自分自身に。
──我ながら、身勝手だな。
そう自嘲しながら、仁人はグラスを傾けた。
連日の疲労と、久しぶりの酒の心地よさが相まって、瞼が次第に重くなっていく。
「──仁人くん?」
勇斗が気付いた時には、カウンターに肘をついたまま、仁人はいつのまにか、静かな寝息を立てていた。
呼びかけに、返事はなかった。
勇斗はしばらくその寝顔を見つめ、それから、そっと近づいた。仕事の疲れが色濃く滲む顔は、起きている時の張り詰めた雰囲気とは違い、驚くほど無防備だった。眉間に寄っていた皺も、今はすっかり緩んでいる。
──こんな顔もするんだ。
その発見に、勇斗の胸の奥が、じんわりと温かくなった。
誰かをこれほど愛おしく思う感覚は、勇斗にとっても久しぶりのものだった。長く生きてきた中で、人間との関わりは数え切れないほどあった。だが、こんな風に、ただ眠っている顔を見つめているだけで満たされる、そんな感覚は稀だった。
勇斗は手を伸ばし、仁人の額にかかった前髪を、そっとかき上げた。指先が触れても、仁人は目を覚まさない。よほど疲れているのだろう。その事実に、勇斗の中で、庇護欲にも似た感情が静かに膨らんでいく。
──もっと、楽にしてあげたいな。
仕事のことも、人付き合いの疲れも、この人が抱えている全部を、少しでも軽くしてあげられたらいい。もっとこうやって無防備な姿を晒してほしい。そんな柄にもない願いが、勇斗の胸に自然と湧き上がった。
同時に、別の感情も確かにあった。この無防備な寝顔を、他の誰にも見せたくない。安心して眠れるのは、この店の中だけ、自分のそばだけにしてほしい。それは庇護欲というよりも、もっと生々しい、独占欲に近いものだった。
──囲ってしまいたい。
これまでの人間関係では、決して抱いたことのない感情だった。
名残惜しそうに前髪から手を離し、勇斗はしばらくの間、ただ静かにその寝顔を見守り続けた。カウンターの向こうから聞こえる、規則正しい呼吸の音。それだけが、この深夜の店を満たす、唯一の音だった。
三十分ほどして、仁人はふと目を覚ました。しばらく寝ぼけた様子で目元を指先で擦れば瞬きを繰り返し、状況を把握するまでに、しばらく時間がかかった。
「俺、寝てました?」
「うん、めっちゃ気持ちよさそうに」
「……すみません、みっともないところ」
慌てて居住まいを正す仁人に、勇斗は柔らかく笑いかけた。
「みっともなくなんかないよ。むしろ、なんか、嬉しかったな」
「嬉しい、って」
「ここでなら、気を抜いて眠れるってことでしょ。それって、結構、光栄なことだと思うけど」
その言葉に、仁人は一瞬、言葉を失った。からかわれているのか、本気で言っているのか、判断がつかない。だが、勇斗の目に浮かんでいるのは、いつもの軽薄な笑みとは違う、静かで、確かな熱を帯びた色だった。
「あ、そうですか」
寝てしまった気恥ずかしさもあって、そっけなく切り返しながらも、仁人の頬には、隠しきれない熱が浮かんでいた。自分がどれほど無防備な姿を晒していたのか、正確には分からない。だが、それを見られたことへの羞恥よりも、なぜか、安堵に似た感覚の方が強く残っていた。
──ここでなら、気を抜いてもいいのかもしれない。
そんな考えが、仁人の中に、初めて芽生えた瞬間だった。