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第2部 デューデリジェンス
第9章 名刺
パリの朝は、東京より暗かった。
授賞式は、夕方から始まる。会場はセーヌ川沿いの古い建物で、天井の高い控室に、柔太朗は舜太と二人でいた。
鏡の前に立つ。黒のジャケットに、襟の高い白いシャツ。飾りは、右手の中指の指輪だけ。何を着せても様になる男には、今日は何も足さない、というのがスタイリストの出した答えだった。
「動かんといて」
舜太が、後ろから袖口に手を伸ばした。カフスの留め具が、少し曲がっているらしい。
「舜、緊張してる?」
「俺が? 舞台に立つんは柔やん」
舜太は笑って、留め具を直した。直し終わっても、指は手首から離れなかった。柔太朗の袖口を、必要以上に長く触っていた。
鏡の中の舜太は、いつもの優しい顔をしていた。ただ、目が、柔太朗の手首を見ていた。
「舜、もう直ってるよ」
「……ああ」
手が、離れた。離れる瞬間、指先が、名残るように遅れた。
「柔」
「うん」
「めっちゃ似合っとる」
「知ってる」
舜太が、声を出して笑った。柔太朗も、少し笑った。
授賞式は、静かに始まった。
壇上に呼ばれ、柔太朗は白い光の中に立った。客席は暗く、顔は見えない。トロフィーを受け取ると、思っていたより重かった。
通訳が隣に立った。
「一言、お願いします」
柔太朗は、日本語で話した。通訳が、一拍遅れて、英語にする。
「小さなものを、作っています。手のひらに、収まるものを。それが、自分より遠くまで行くとは、思っていませんでした」
拍手が、起きた。
「ここまで連れてきてくれた、二人の友人に。ありがとう」
二人、と言った。ここにいない一人と、客席にいる一人。柔太朗は、客席の最前列を見た。暗がりの中で、舜太の顔だけがはっきり見えた。
拍手はしていた。けれど、口元だけが動いていなかった。誇らしい顔、というより、何かを必死に堪えている顔だった。
柔太朗は、壇上でそれを見た。見て、見なかったことにして、頭を下げた。
授賞式のあとのレセプションは、光と声で満ちていた。
シャンパンのグラスを持つ間もなく、柔太朗は囲まれた。
「Your work is extraordinary.」
「Could we talk about a collaboration?」
「One photo, please.」
バイヤー、記者、他のデザイナー。名刺が次々に差し出される。受け取るたびに、片手が塞がっていく。柔太朗は、口数の多いほうではない。頷いて、礼を言って笑う。それしか、できなかった。
「Excuse me. May I?」
横から、舜太の手が伸びた。
「I’m his partner. All contact goes through me.」
舜太は、柔太朗の手から名刺を一枚ずつ受け取り、自分のジャケットの内ポケットに入れていく。流れるような動きだった。慣れた手つきだった。
「あとで共有する」
舜太が、小声で言った。
「今は、顔を売る時間や。名刺は、俺が持っとく」
「うん」
まぁ、確かに、と柔太朗は思った。名刺を管理するのは、舜太の仕事だ。外の人だから。それは、正しい。
けれど、名刺が舜太のポケットに消えるたびに、自分の手のひらが少しずつ空になっていくのを、柔太朗は見ていた。
近くにいた記者が、柔太朗の右手を見た。
「That ring. Is it part of the collection?(その指輪はコレクションのものですか?)」
「いえ。ただの、僕のです」
柔太朗が答え終わるより先に、舜太が言った。
「It’s the very first prototype. You could say it’s the face of the brand.(最初の試作品です。いわば、ブランドの顔です)」
ブランドの顔。撮影の日のスタジオで聞いたのと、同じ言葉だった。
柔太朗は、何も言わなかった。彼が人に囲まれていて、ただ遠く感じる。「ただの、僕の」と言った自分の声だけが、宙に残っていた。
少し離れたところで、不意に柔らかく聞こえた声は、日本語ではなかった。柔らかいフランス語訛りの英語で、年配の女性が、目の前に立っていた。銀髪を短く切り、飾りのない黒いドレス。胸元に、古くて細い指輪をつけている。通訳を連れていた。
「I’ve been looking forward to meeting you.」
差し出された名刺には、ヴェルディエ傘下のメゾンの名前と、クリエイティブ・ディレクター、という肩書きがあった。
柔太朗は、名刺から目を上げた。あの書面の別紙。傘下のメゾンの、兼任の話。
彼女は、ゆっくりと英語で言った。
「You are someone who paints the empty space. It is the void that speaks the loudest. That is what took me thirty years to finally understand.(あなたは、余白を描く人ね。何もない場所が、いちばん雄弁。私が三十年かけて、やっと分かったことよ)」
胸の奥が、小さく鳴った。他の誰の褒め言葉とも違った。線を引く人間が、線を引く人間に言う言葉だった。
「Thank you so much.」と、柔太朗は答えた。
「That’s a beautiful ring, too. Is it a vintage piece?」
「It’s the first piece from forty years ago.」
彼女は笑った。
「Look, listen to me. Company matters are for company people to discuss. I have nothing to do with any of that. But let me just say,there is absolutely no need for an acquisition. We can create something together completely separate from all of that. Whether it’s a collection or an exhibition. With your lines, and in my atelier.(ねえ、聞いて。会社のことは、会社の人間が話している。私は、それには関与しないわ。ただ、これだけは言わせて。買収なんて、しなくてもいいの。一緒に何かを作ることは、それとは別にできる。コレクションでも、展示でも。あなたの線と、私のアトリエで)」
一緒に、何かを作る。
提携という言葉の、もうひとつの顔かもしれない、と柔太朗は思った。会社ごと組むのではなく、作るものだけを一緒に作る。その言葉が耳に残った。意識が、ふっと、そちらに傾いた。
「それは——」
「失礼します」
横から、舜太の声が入った。
舜太は、いつの間にか、柔太朗と彼女の間に立っていた。肩が、柔太朗の視界を半分遮っている。笑顔だった。完璧な、営業の笑顔。
「We are currently in the middle of formal procedures. Could you please submit your proposal through the proper channels? I will personally take responsibility for handling it.(今は、正式な手続きの最中です。ご提案は、窓口を通していただけますか。私が、責任を持って承ります)」
彼女は、慌てなかった。穏やかに舜太を見て、それから、柔太朗を見た。
「My offer stands.(オファーは、変わらないわ)」
そう言って、人混みに消えた。
舜太の顎が、固くなっていた。笑顔は、まだ顔に貼りついている。けれど、顎の筋肉だけが、噛みしめるように動いていた。
「柔、あっち行こ。仁ちゃんに送る写真、撮らんと」
舜太が、柔太朗の肩に手を置いた。押されるように歩き出す。
柔太朗は、一度だけ振り返った。あの女性はもういなかった。
帰りの便は、夜だった。
機内で、二人はほとんど喋らなかった。舜太は、窓側の席で目を閉じていた。眠っているのか、眠ったふりなのかは、分からなかった。
柔太朗は、膝の上のトロフィーを見ていた。重かった。この重さは、自分一人では持てなかった。
東京に着いたのは、翌日の夕方だった。
空港からのタクシーでも、二人とも黙っていた。窓の外の東京は、冬の色をしていた。
柔太朗の家の前で、タクシーが止まる。
舜太は、荷物を降ろした。柔太朗の分を、玄関の前まで運ぶ。それから、立ち止まった。
「じゃあ、また明日」
「舜」
柔太朗は、呼び止めた。
舜太が、振り返る。街灯の下で、その顔はいつもの優しい顔をしていた。
「何考えてるの?」
短い沈黙があった。
「何も」と、舜太は言った。「疲れただけや」
「ほんとに?」
「ほんまや」
笑った。優しく。完璧に。
そのとき、柔太朗は気づいた。舜太のジャケットの内側が、膨らんでいた。名刺だ。預けたままの。
「名刺」
「あとで共有するて言うたやん。整理してからな」
「……うん」
柔太朗は、それ以上言わなかった。舜太が、軽く手を上げて去っていく。その背中が、街灯の外に消えるまで、見ていた。
部屋に入り、扉を閉めた。
扉にもたれる。暗い玄関で、指輪に触れた。
あの人は、何を守ろうとしているんだろう。何から、僕を守っているんだろう。
答えは、出なかった。ただ、今夜、自分は聞いた、ということだけが残った。聞いて、答えをもらえなかった、ということも。
次は、逃げずにもう一度聞く。柔太朗は、そう決めた。腹が決まったら、やりきる。それが、彼の性分だった。
コメント
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うわああパリ編キターーー!!✨✨ 授賞式のシーン、柔太朗が壇上から舜太を見たときの“誇らしい顔じゃなくて何かを堪えてる顔”って描写がもうエモすぎる😭💕 そして名刺をどんどん舜太が預かる流れ、一見“正しい”けど手のひらが空になっていく感覚が切なかった……。“余白を描く人”って褒め言葉、マジで心に刺さったよ! 最後の「次は逃げずに聞く」って決意、柔太朗らしくて好き。次話が待ち遠しい〜!!🌸