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第2部 デューデリジェンス
第10章 見られた
十二月中旬の火曜、午後一時。会議室の扉の前で、舜太は腕時計を見た。
「本人だけで、お願いします」
勇斗は、穏やかに、しかしはっきり言った。
経営陣インタビュー。買い手が、経営陣一人ひとりに、事業のことや将来のことを個別に聞き取る調査のことだ。書類には書かれていない本音を、確かめるために行う。舜太も仁人も、すでに受けていた。残るのは、柔太朗だけだった。
「同席は、できませんか」
「本人の言葉を、そのまま聞きたいので」
「契約上、必要な手続きだ」
仁人が、横から言った。
「舜太。俺たちのときも、一人ずつだっただろう」
「……そうだったな」
分かっていた。分かっていることを、確かめただけだ。舜太は笑って頷いた。
柔太朗が、会議室に入っていく。扉が閉まった。
「顔、怖いぞ」
隣で、仁人が言った。
「そうか?」
「柔太朗が出てきたとき、その顔で迎えるなよ」
舜太は、笑って頬を軽く叩いた。仁人は、何も言わずに、自分のデスクへ戻っていった。
舜太は、廊下の壁に背を預けて、スマートフォンを開いた。売上の画面。再購入率。数字は、いつも通りだった。目が数字を追っていない。
三十分。四十分。
中の声は、聞こえなかった。ただ、一度だけ、勇斗の笑い声が扉越しに漏れた。柔太朗が、何か言ったのだろう。柔太朗の言葉で、あの男が笑った。
そのことが、舜太の胸のどこかを、小さく削った。理由は分からなかった。分からないから、無視した。
一時間ほどで、扉が開いた。
「お疲れさまでした」
勇斗は、いつもの笑顔で柔太朗を送り出し、資料を抱えて別の部屋に向かっていった。
「柔」
舜太は、壁から背を離した。
「何、聞かれた?」
「作品のこと。それから、この先も作り続けたいか、って」
「何て答えた?」
「作りたいって。それだけ」
柔太朗は、少し疲れた顔で笑った。
「勇斗さん、いい人だった。話しやすくて」
「……そうか」
そうか、としか言えなかった。
「ええ答えや」と、舜太は言い直した。
アトリエの前まで、並んで歩いた。廊下の突き当たりに、ガラスの間仕切りがある。夕方の光が、斜めに差していた。
舜太は、足を止めた。
「柔、襟」
「ん」
柔太朗が、顎を少し上げる。舜太は、襟を直した。シャツの折り返しが、少し捻れていた。指先が、首筋に触れる。温かかった。
直し終わったあとも、指は離れなかった。
「舜」
「……ん」
「近いよ」
柔太朗が、小さく笑った。舜太の指は、いつの間にか頬に触れていた。親指が、目尻の少し下をなぞる。疲れている、と思った。この一時間、勇斗と何を話したのか。何を聞かれたのか。全部、知りたい。全部。
そのとき、視界の端で、ガラスが、廊下の奥を映した。
勇斗が、立っていた。
書類を抱えて、廊下の角に。こちらを見ていた。
いつから、と思った。ガラスに映った顔は、驚いてはいなかった。ただ、何かを理解した人間の、静かな顔をしていた。
舜太は、顔を変えなかった。変えなかった、はずだった。指を、ゆっくり離す。
「柔、先に帰ってて。俺、ちょっと残るわ」
「うん。……舜、大丈夫?」
「大丈夫」
柔太朗は、何か言いかけて、やめた。頷いてアトリエへ入っていく。
廊下の角に、もう勇斗の姿はなかった。
非常階段の踊り場は、冷たかった。
勇斗は、そこにいた。窓の外の夕焼けを見ていて、舜太を待っていたかのように、振り返った。
「来ると思いました」
「見ましたか」
舜太は、前置きなしに聞いた。
「はい」
勇斗は、隠さなかった。
「ただ、仕事には関係のないことです」
「関係があるかどうかは、買い手が決めることです」
舜太の声は、静かだった。静かすぎた。
「売り手には、表明保証があります。売り手が、重要な事実はすべて開示した、と買い手に約束することです。隠していたことが、あとで分かれば、責任を問われる。私的なことが重要な事実に当たるかどうかは、私が決められることじゃない」
「おっしゃる通りです」
勇斗は頷いた。
「だから、私が決めます。お二人の関係は、事業に影響しません。よって、報告書には一行も書きません」
「……条件は」
「ありません」
「無条件の約束は、信じない主義なんです」
舜太は笑った。冗談めかして、けれど、本気だった。取引には必ず何かが付く。何も付かない約束は、あとで、もっと高い値段で返ってくる。
勇斗は、少し考えてから言った。
「条件をつけたら、それは取引じゃなくて脅迫になります。見たものを値段に変えるのは、俺の仕事じゃない」
「……それも、そうですね」
舜太は、認めるしかなかった。そして、そのまっすぐさが、少しだけ癪に障った。
勇斗は、声を出して笑った。
「だから、あなたは俺に似てるんですよ」
「似てますか」
「似てます。だから、やりにくい」
「それは、こっちの台詞です」
短い沈黙があった。階段の下から、誰かが降りていく足音が、遠く聞こえた。
「舜太さん」
勇斗が、声の調子を変えた。
「この会社の非公開は、徹底されていました。取材の日程も、撮影の場所も、社員の口の堅さも、全部。誰かが、ものすごく丁寧に守ってきたんでしょう」
舜太は、少し間を置いてから答えた。
「仁人が」
「ええ」
勇斗は、その名前を繰り返した。
「仁人さんが」
声が、半音だけ、柔らかくなった。
舜太は、それを聞き逃さなかった。この男は、人の言わなかったことを見る。ならば、と思った。自分も、この男が言わなかったことを、見ることができる。
勇斗が、仁人の名前を呼ぶ声は柔らかかった。
「いい人ですよ、仁人は」
「はい。そう思います」
勇斗は、それ以上何も言わなかった。二人は、しばらく、夕焼けの窓を見ていた。
「舜太さん。条件じゃなくお願いを一つ」
「はい」
「柔太朗さんの意思を、最後まで聞いてあげてください」
「……当然です」
舜太は、即座に答えた。答えたあとで、喉の奥に、何かが引っかかるのを感じた。
それが何か考える前に、勇斗の靴音が、階段を降りていった。舜太は、しばらく、一人で夕焼けを見ていた。
夜十時。スマートフォンに、柔太朗から通知が一件、届いていた。
『さっき、廊下で。何かあった?』
舜太は、『何も。疲れただけ』と返した。嘘ではなかった。全部でも、なかった。
デスクで、あのファイルを開いた。
「柔_契約案_仮」。
契約期間、十年。専属。ここまでは、すでにある。
カーソルを、最後の条項の下に置く。
第八条、と打った。競業避止。
競業避止義務。契約が終わったあとも、一定期間、競合する仕事をしない約束のことだ。辞めた人間が、すぐに競合他社で同じ仕事を始めることを防ぐ。買い手が、ほぼ必ず求める条項でもある。
期間は二年、と打った。
勇斗の声が、頭に戻ってくる。才能は、契約書では、繋ぎ止められない。
正しい、と思った。正しいと思うのに、指は、次の行に進んでいた。
守るためだ。会社の価値を守る。買い手にも示せる。柔太朗が、途中で、他の誰かに奪われないように。奪われる、という言葉が、頭に浮かんだ。浮かんだことに、気づかなかったふりをした。
保存する。
保存先に、フォルダの一覧が出た。「契約」「財務」「人事」。どれも、共有のフォルダだ。
新しいフォルダを作る。名前の欄に、少し迷って、こう打った。
「非公開」
ファイルを、そこへ移す。
画面から、ファイルの名前が消えた。誰の目にも触れない場所に、収まった。
舜太は、椅子の背にもたれて、天井を見た。
隠していることは、一つ増えた。数えなかった。
コメント
1件
うわ……この回、めっちゃ好き……。勇斗さん、見たのに「書きません」って言い切るところ、こういう誠実な強さって逆に怖いくらいかっこいい。でも舜太が『無条件の約束は信じない』って返すのも、彼の生きてきた世界が見えるようで胸が苦しい。そして最後の競業避止と「非公開」フォルダ……「奪われる」って言葉に気づかないふりしてるのがもう、重くて甘くて、読んでて息が詰まりそうになった。静かで、美しくて、すごく怖い話だよ……